スリランカでの日本語教育に情熱を捧げるディルルクシ先生と、広がる日本語の熱
スリランカの日本語教育を牽引するケラニア大学のディルルクシ・ラトナーヤカ教授。 先生は2023年10月、日本とスリランカの友好親善、そして日本語普及への多大な貢献が認められ、日本の「外務大臣表彰」を受賞されました。
この受賞が示すように、ディルルクシ先生が現地の教育界に与えてきた影響は計り知れません。
では、そんなスリランカ日本語教育の第一人者である先生の歩みとはどのようなものだったのか。そして、先生が長年向き合ってきた日本語教育の現場は、いまどのような活気に満ちているのか。 先生ご本人と、ケラニア大学に派遣されている国際交流基金の南谷由紀先生に、お話を聞きました。
目次
日本語との出会いは中学生の頃

ディルルクシ先生が日本語に出会ったのは、中学生の時でした。
通っていた国立学校で選べる第二外国語は日本語かフランス語の二つだけ。そこに日本人の先生が来て、その姿に強く憧れたといいます。「本当に日本語を勉強したい」と思った、最初の瞬間でした。
本格的に日本語を学び始めたのは高校に入ってからでした。高校では日本語のほかにフランス語を、大学では中国語も学びましたが、最終的に専門に選んだのは日本語。きっかけは、国際交流基金の専門家として大学に来ていた井上亜子先生に、発音や日本語の使い方をいつも褒められたことだったといいます。褒められたことで自信がつき、「もっとたくさん勉強したい」という気持ちが強くなり、いつしか自分の中で日本語が一番の存在になっていきました。
学校が終わるとスリランカ日本語教育協会に通い、判定テストを経て上のクラスに進んだものの、もう一度入門クラスから文法を徹底的に学び直しました。19〜20歳の頃、スリランカ日本語教育協会で教師の募集があり、井上先生から応募を勧められます。
ディルルクシ先生が日本語を学び始めた頃、スリランカで日本語を授業として教えていた学校は3つしかありませんでした。先生の母校であるデヴィ・バーリカ・ヴィダーヤラヤ(Devi Balika Vidyalaya/女子校)、ビシャカ女子校(Visakha Vidyalaya/女子校)、そしてロイヤルカレッジ(Royal College/男子校)の3校です。
当然、日本語を学ぶ生徒の数も今とは比べものにならないほど少なく、「本気で日本語に取り組もう」という人はほとんどいない時代でした。今でこそスリランカ全土で300ほどの機関で日本語が教えられていますが、当時の日本語はまだ、ごく一部の人だけが知っている「珍しい言語」だったのです。
そんな時代に一緒に学んだ仲間たちの中には、ディルルクシ先生と同じように日本語教師の道を選び、今も現場で教え続けている人が何人かいます。少ない仲間で日本語を学び続けた、いわば「同志」たちです。
ケラニア大学への入学、そして「帰ってこない」教師たち
ディルルクシ先生が入学した当時、ケラニア大学にはすでに日本語コースが存在していました。しかし以前は、日本語の学習経験があるなし関係なく、全員が同じクラスでゼロから学ぶ形だったといいます。ディルルクシ先生たちの代から、高校で日本語を学んだ人だけが日本語専攻に進めるという仕組みが初めて導入されました。つまりビシャカやデヴィバーリカなどの高校で日本語を学んできた学生たちが「中級レベル」からスタートできるようになった最初のグループ、それがディルルクシ先生たちの世代だったのです。
しかし、当時のケラニア大学の日本語学科は深刻な問題を抱えていました。常勤教師になる予定だった人たちが、日本の文部科学省の奨学金を得て日本に留学すると、そのまま帰ってこないというケースが何度も続いたのです。先生が把握している限りでも3人の教師候補が同様の経緯で日本に残り、学科の体制が安定しない時期が長く続きました。そのため、ディルルクシ先生が日本に留学する際には「必ず帰国しなければ学費を全額返金する」という厳しい条件と、許可期間も短く限定されました。
留学先での時間、そして恩返しという思い
先生はまず名古屋大学文学研究科に留学し、スリランカに戻って働き、また日本へ渡るという往復を繰り返しながら、博士号の取得までにおよそ6年を費やしました。その優秀な成績が認められ、2年分の学費全額免除という幸運にも恵まれたといいます。こうした往復の積み重ねで、日本に滞在した期間は合計およそ10年にのぼります。日本人の学生と同じ基準で論文や発表が求められる厳しい環境でありながら、人間関係にも恵まれた10年間。日本に住むスリランカ人の友人、日本人の友人ともに深い絆を築き、「忘れられない」と振り返るほど充実した時間だったそうです。
そしてディルルクシ先生にとって、奨学金は国民の税金によって支えられたものという意識がとても強く、「無駄にしない生活をしたい」という思いを胸に、誠実に学業へ向き合ったといいます。
国を背負って学び、国に還元する
日本に留学するということは、いわば国を背負って学びに行くということです。
本来であれば、学んだ知識や経験をスリランカに持ち帰り、社会に還元することが期待されています。しかし実際には、奨学金を得て留学しても日本に残ったり、さらに別の国へ移ったりする人も少なくないといいます。スリランカから文部科学省の奨学金を得て留学する学生は毎年7名ほど、在スリランカ日本国大使館の管理のもと、複数の大学が一斉に同じ試験を受け、上位者が選ばれて面接に進む仕組みです。優秀な人材が選ばれているにもかかわらず、帰国して国に尽くそうという人は年々減っているという声も聞かれます。
そうした状況の中で、ディルルクシ先生は学んだことをきちんとスリランカへ持ち帰り、教育の現場で還元することを自ら実践してきた一人です。スリランカでは公立学校の学費は無料で、お金がなくても学校に通い、言語を学ぶ機会が誰にでも開かれています。中等教育の学校では「学校の日」と呼ばれる催しがあり、生徒たちが劇や歌、スピーチで日頃の学習成果を発表します。そうした場でディルルクシ先生が必ず伝えているのが、「この国では言語を学ぶことは無料でできる。だからこそ一生懸命学び、習得すれば次の道が開ける。そのうえで国に恩返ししてほしい」というメッセージです。
そしてそのメッセージは、言葉だけではありません。いつもきちんとした身なりで人前に立つディルルクシ先生の姿そのものが、学生たちの意識を高めています。日本語教育の分野で博士号を取得した先生は、「真剣に学べばこういう道もある」と将来の可能性を示すロールモデルです。地方では日本人はおろか外国人を見る機会すら少なく、何のために日本語を学んでいるのか見えにくくなりがちな環境だからこそ、先生の存在は学生たちにとって特に大きな意味を持っています。
言葉を超えて、文化と相互理解を伝える
ディルルクシ先生が教えているのは、日本語という言語だけではありません。日本の文化そのものを伝え、スリランカと日本がお互いを理解し合えるようにすることも、先生が長年大切にしてきた役割です。
その思いは、執筆活動にも表れています。現在、ディルルクシ先生は南谷先生と共同で本を執筆しています。スリランカ人と日本人がそれぞれの視点から、ビジネスの現場で起きがちな文化的な誤解を、事例をもとに読み解くという内容です。たとえば「遅刻」という行動一つをとっても、スリランカでは状況に応じて柔軟に計画を調整する文化がある一方、日本では決めた計画に沿って進めることが重視されます。こうした違いを双方の立場から理解することで、日本で働くスリランカ人と、受け入れる日本側の両方がより気持ちよく働けるようにしたい、というのがこの本の目的です。
本を作ることは大変で、「今年で最後にしよう」と毎年思いながらも、翌年にはまた新しい本を書くことを繰り返し、約10年間に渡って本を執筆してきたと言います。大変なことも多いけれど、「日本語教育は本当に楽しい」と先生は語ります。子どもの頃は母親の希望もあって医師を目指した時期もあったそうですが、日本語との出会いが人生を大きく変えました。今振り返れば、日本語を選んだことは間違いなかったと、先生は心から感じているといいます。
ケラニア大学に日本語学科を

ディルルクシ先生が長年温めてきた夢の一つが、ケラニア大学で日本語を独立した学科にすることでした。これまで日本語は現代言語学科の一部という位置づけでしたが、学科長を務める中で「独立した組織でなければカリキュラムの開発に限界がある」と強く感じ、独立を申請しました。しかし諸事情により、認められませんでした。
それでも先生はあきらめません。学科としての独立が認められないなら、まず学内に足場を作ろうと、「日本語科」というユニットの設立を実現させたのです。小さな一歩かもしれませんが、先生の粘り強い思いが形になった瞬間でした。
先生が目指しているのは、日本語を学ぶことが卒業後のキャリアに直接つながる教育です。IT、人事(HR)、観光など、就職につながる分野と日本語を組み合わせたプログラムの開発に取り組んでいます。卒業生の多くがマネージャー職や人事関連の仕事に就いている実態を踏まえ、HRと日本語を組み合わせたプログラムには手応えを感じているそうです。他の分野でも日本語と組み合わせた新たなプログラムの構想は尽きないといいます。
広がる日本語人気、追いつかない教える側
スリランカでは特定技能(SSW)制度が始まった2019年頃から、日本語を学びたいという人が大きく増えました。ディルルクシ先生が学生を動員して行った直近の国際交流基金の調査では、スリランカ国内の日本語学習者数はおよそ3万3千人、学べる機関は学校以外の私塾も含めて約300カ所にのぼるとされています。先生自身は、調査が行き届かなかった地域もあることから、実際にはこの数字よりさらに多く、4万〜5万人規模に近いのではないかとみています。
Oレベルテスト(中学校卒業資格試験)で日本語を選択する生徒は5,000人を超え、これはアラビア語(約2,500人)や韓国語(1,200〜1,400人程度)、中国語(数百人規模)を大きく上回り、スリランカで最も選ばれる第二外国語になっています。Aレベルテスト(高校卒業資格試験)でも日本語は5,000人近くが選択する、最も人気の第二外国語です。
国際交流基金は1978年からスリランカに日本語専門家を派遣していますが、これまでは専門家1名が常駐する形が続いてきました。しかし現在は期間限定ではあるものの、南谷先生を含めて3名の専門家がスリランカに派遣されています。そのうち2名は特定技能関連の教師研修を中心に活動しており、派遣人数の増加はそれだけスリランカでの日本語学習熱が高まっている表れといえます。
一方で、学習者の増加に教える側の育成が追いついていないという課題もあります。資格がなくても教えられてしまう環境のため、教授法を十分に学ばないまま教えている人も少なくないのが実情です。ケラニア大学では、現在中等教育の日本語教師向けに週末に短期コースを開講し、教師育成を強化しています。また、大学卒業者を対象とした Post Graduate Diploma(PGD)コース では、受講者自身の日本語能力向上を目指したカリキュラムを提供しています。
さいごに
ことし5月末には、国際交流基金ニューデリー事務所のスタッフ6名がケラニア大学とコロンボ市内の中等教育校(DSセナナヤケカレッジ)を訪れ、2日間にわたる日本語学習奨励イベントを実施しました。インドの他地域で同様のイベントを行ってきたスタッフたちも、スリランカの生徒たちの日本語レベルの高さに驚いていたといいます。
スリランカで日本語を学ぶ人がほとんどいなかった時代に、その道を選び、切り拓いてきたのがディルルクシ先生でした。外務大臣表彰という形でその功績が認められた今も、先生にとってそれはゴールではなく通過点に過ぎないのかもしれません。学びたい人のために道を作り、学んだ人が国に恩返しできる仕組みを整える。そんな挑戦を、先生は今日も続けています。その歩みそのものが、スリランカの日本語教育の歴史であり、これからの未来でもあります。


世界中を旅して、スリランカにたどり着きました。食べることと、手仕事が好きです。
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