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「スリランカは世界一位のコーヒー生産国だった」は本当か?

2022年4月15日

「スリランカはかつて世界一位のコーヒー生産国だった」、「幻のセイロンコーヒー」と言われることもありますが、これは本当でしょうか?

本記事では、書籍3冊とネット上の情報を元に考察を行いますが、結論としては以下の2点だと思います。
・世界3位のコーヒー生産国(大英帝国領土内で1位)にスリランカはなったことがある。
・イギリス人経営のコーヒープランテーションは消え、スリランカ人農園で生産し続けられてきた。

イギリスの代表する農産物としてのセイロンコーヒーは幻と言えそうですが、スリランカ人農家が続けてきたセイロンコーヒーは脈々と続いてきたようです。

世界1位や世界3位は「量」の話で、今後求められるのは「質」だと私は思っていますが、本記事では生産「量」について囁かれるコーヒーの噂について、考察していきます。

「かつて世界3位を記録したセイロン」と記述した清田さん

最初に参考にするのは、清田和之さんが書かれた『セイロンコーヒーを消滅させた大英帝国の野望―貴族趣味の紅茶の陰にタミル人と現地人の奴隷労働』です。

「スリランカはかつて世界一位のコーヒー生産国だった」と掲げるのは、スリランカのコーヒー産業の人たちですが、清田さんはスリランカでコーヒー工場とコーヒー豆の卸販売をするKiyota Coffee Company、熊本で各国からのコーヒー前の輸入と販売・カフェの経営しているナチュラルコーヒーを立ち上げた方で、まさに”スリランカのコーヒー産業の人”です。

そんな清田さんは、19世紀のコーヒー生産量・輸出量のデータを調べ、引用してこちらの本には「ピーク時にスリランカは世界3位の生産量・輸出量」に達したと書かれています。

また、この本には、1868年のコーヒーさび病の後もコーヒー生産が続けられていたことを生産量の表を掲載して、説明されています。

出版社の意向なのか、清田さんの意向なのか分かりかねますが、本書のタイトルは刺激的な内容です。
ただ、本書ではセイロンコーヒーは消滅していないことが書かれています。

コーヒー生産から茶生産に切り替えたのはイギリスの戦略転換ですが、イギリスがプランテーションを展開したのは主に高地でしたが、低中地の地元民の農園では引き続きコーヒーが生産されたのでしょう。

参考)

『珈琲の世界史』に登場するスリランカ

コーヒーの歴史をまとめた『珈琲の世界史』には、時代ごとに世界一位と世界二位の生産国が記述されています。

細かに年を追ってその変遷を紹介されていますが、以下のように記述されています。(少し要約しています)

  • 18世紀初頭の最大のコーヒー生産地は、オランダ領東インド(ジャワ島)、次いでフランス領ブルボン島(現:レユニオン島)。
  • 18世紀中頃にはヨーロッパへの輸送費の安さから低価格化を実現した西インド航路の産地が追い上げて、生産量1位がフランス領サン=ドマング(現ハイチ)、2位がオランダ領スリナム。

また、ウィキペディア「ブラジルにおけるコーヒー生産」には以下のように記載されています。

ブラジルでコーヒーの栽培が本格化するのは19世紀のことであるが、19世紀半ば以降には今日まで世界最大のコーヒー生産国・世界最大のコーヒー輸出国の地位にある

また、本書ではイエメンからコーヒーを持ち出して栽培された最初の地としてスリランカが紹介され、また、高い評価を受けたスリランカのコーヒーはさび病によって大きなダメージを受けたことも紹介していますが、スリランカが世界一位になったとは書かれていません。

  • 当時、イエメンではコーヒー栽培を独占しようと、種子や苗木の持ち出しを禁じていたと言われています。
  • 最初にイエメンからコーヒーを持ち出したのは、オランダでもフランスでもなく、イスラーム教徒だと言われています。
  • 1658年、オランダがポルトガルに代わってセイロン島(スリランカ)を植民化したときには、すでにイスラーム教徒が移入していたコーヒーノキが生えていたといいます。だからそれを栽培したというのが、イエメン以外でコーヒーが栽培された最初の記録です。このコーヒーノキは、一説にはインドやインドネシアにも伝わったとも言われていますが、その真偽は不明です。
  • 18世紀末、南インドのマイソール地方とスリランカを植民地化したイギリスは、そこでもコーヒー栽培を始めました。
  • 特にスリランカはパルパーによる水洗式精製を取り入れ、1868年のアンリ・ヴェルテール『コーヒーの歴史に関するエッセイ』でも高品質で将来有望だと、期待が寄せられていました。
  • ところが皮肉なことに、この本が出版された直後、スリランカは最大の脅威に見舞われます。それまで全く知られていなかった「コーヒーさび病」という新しい病害が蔓延したのです。
  • 数年後にはスリランカ全土に蔓延しました。翌年にはインドにも伝わりますが、こちらはスリランカよりもさらに激しく、発生後まもなくインド中のコーヒーが壊滅的被害を受けました。
  • 1880年にイギリスからスリランカに招聘された植物病理学者のマーシャル・ウォードは、この病気が「コーヒーさび病菌」という新種のカビによる伝染病だと突き止めました。そしてコーヒーのモノカルチャーをやめて、他の作物と混植して蔓延を防ぐべきだと進言しました。
  • ところが農園主たちの多くは、別の学者が唱えた「遺伝病の一種で、新しい樹に植え替えるだけで収まるはず」という、自分たちに都合のいい説を信じ込んでしまい、彼の提言に応じませんでした。
  • 結局ウォードは周囲の理解を得られないまま、イギリスに帰国してしまい、スリランカはさび病に蹂躙されて、コーヒー栽培を断念することになりました。

参考)
ウィキペディア:ブラジルにおけるコーヒー生産

コーヒーの年表で見るスリランカ

UCC上島珈琲と全日本コーヒー協会がコーヒー年表は掲載していますが、全日本コーヒー協会にはスリランカが3回、UCC上島珈琲には2回登場します。

1505年:アラブ人によって、イエメンからセイロンへコーヒーノキが伝えられる
1658年:オランダ人がセイロンでコーヒーの栽培を試みる
1869年:スリランカでさび病が発生

上記の二つの年表には生産量一位の国などの記載はありません。

そこで、先ほど紹介した『珈琲の世界史』に書かれている内容と、ネット上の情報を追記して、以下に生産国の流れについてまとめました。

1505年、アラブ人によってイエメンからセイロンへコーヒーノキが伝えられます。

1658年、オランダ東インド会社がセイロンでコーヒーの栽培を開始。

1690年、オランダ東インド会社がイエメンのアデンからジャワ島にコーヒーの苗木を送るも、洪水によって壊滅。

1699年、オランダ東インド会社が南インドのマラバル海岸から、コーヒーの苗木をジャワ島に送り、ジャワ島西部のプリアンガン高地でコーヒー・綿花・胡椒・インディゴなどを栽培し、その中でコーヒーが最も成功します。

1714年、アムステルダム市長がブルボン朝のルイ14世にコーヒーの苗を送ります。

1715年、フランスはブルボン島(現レユニオン島)でコーヒーの栽培を開始します。

1718年、オランダ領スリナムでコーヒー生産を開始します。

1723年、フランスはマルティニーク島でのコーヒー生産を開始し、その後、フランス領サン=ドマング(現ハイチ)でもコーヒー栽培を始めます。

1727年、オランダ領ギアナ(現スリナム)とフランス領ギアナの調停をポルトガル領ブラジルが行った際に、ポルトガル領ブラジルはオランダ領ギアナからこっそりコーヒーの苗木を手に入れたというエピソードがあります。

1728年、イギリス人軍人のニコラス・ローズによって、ジャマイカでコーヒー生産が始まります。
コーヒー市場をリードしていたオランダとフランスの後を追うイギリスでは、コーヒーハウスが一大流行し、コーヒーは重要な貿易品でした。

1748年、スペイン人のドン・ホセ・ヘラルドがフランス領サン=ドマング(現ハイチ)のコーヒー 農園から豆を持ち帰り、栽培を開始します。

1750年、フランス領サン=ドマング(現ハイチ)がコーヒー生産高世界一位となり、1788年には世界生産の半数を担います。
ハイチは砂糖でも世界生産の40%を担い、農業大国になっていました。

1761年、ブラジルでコーヒー生産が本格的に始まります。

1779年、フランス革命が始まります。

1791年、フランス革命の影響を受けて、フランス領サン=ドマング(現ハイチ)でハイチ革命が起こります。

1804年、フランスから独立を果たしてハイチが誕生し、世界一位だったフランス領サン=ドマングの砂糖とコーヒーのプランテーションが破綻し、プランテーションの人々の一部がスペイン領キューバに逃れ、スペイン領キューバの砂糖とコーヒーのプランテーションを育てます。

1806年、ナポレオンによって大陸封鎖令が出されます。

1808年、大陸封鎖令に従わないポルトガルをナポレオンが攻め(半島戦争)、ポルトガル王室はブラジルに亡命します。

1822年、ブラジル帝国が誕生します。

年は不明ですが、フランス領レユニオン島はサイクロン被害でコーヒーが減産となる一方で、オランダ領東インド(インドネシア)がコーヒー生産量首位に返り咲きます。

1824年、ウェールズ出身のジョージ・バードがイギリス領セイロン(現スリランカ)のガンポラでセイロン初のコーヒー農園を始めます。

1820年にシンハラ人初の総合商社を創業したジェロニス・デ・ソイサは、海岸地域とシンハラ王朝の都キャンディの貿易に投資していましたが、イギリス人たちのコーヒー栽培を見て、コーヒー栽培に投資を行います。

1840年、インドのカルナータカ州ババ・ビュータン・ギリでインド人経営のコーヒープランテーションが設立されます。
その後、イギリス人経営のプランテーションもインド内で増加します。

1843年、コーヒー生産量を増やしていたスペイン領キューバが、1位オランダ領東インド(現インドネシア)、2位ブラジル帝国につぐ、世界3位の生産国となります。

1850年、ブラジル帝国が、オランダ領東インド(現インドネシア)を抜き、コーヒー生産高で世界一位となります。

世界順位は1位ブラジル帝国、2位オランダ領東インド(現インドネシア)、スペイン領キューバとなります。

1868年、世界3位のコーヒー生産国キューバで第一次キューバ独立戦争が勃発し、キューバからのコーヒー輸出量が激減します。

代わって浮上したのが、イギリス領セイロン(現スリランカ)です。

この年、1位ブラジル帝国、2位オランダ領東インド(現インドネシア)、3位イギリス領セイロン(現スリランカ)となります。

参考)
UCC:コーヒーはどんな歴史を歩んできたのでしょうか?
全日本コーヒー協会:コーヒー歴史年表
Wikipedia:Coffee production in Brazil
Wikipedia:Coffee production in Indonesia
Wikipedia:Coffee production in Sri Lanka
Wikipedia:Coffee production in India

細々と輸出が続けられていた スリランカ産コーヒー

1970年代のスリランカにおけるコーヒー生産・輸出に関するデータや記述が掲載されている『南アジアの国土と経済 第4巻 スリランカ』は、スリランカのコーヒー生産について知る上で参考になります。

以下のように書かれています。

  • コーヒーの60%はキャンディ県、マータレー県、キャーガッラ県で栽培されている。
  • 現在、アラビカ種とロブスタ種の両方ともゴムやココヤシの下で間作され、好結果を生んでいる。
  • コーヒーは1875年には最大の輸出量4万3,514トン(農地は10万1200ヘクタール)を記録。
  • 細菌性の病害によって、1886年には9,144トンまで減少。

本書は茶の輸出において、1946年から1970年代にかけて、スリランカが世界シェアを落としてきたことが書かれていますが、コーヒーのページでは世界シェアに関する記載はありません。

珈琲の世界史』に書かれている植物病理学者のマーシャル・ウォード氏の助言に沿う内容が上記にある「現在、アラビカ種とロブスタ種の両方ともゴムやココヤシの下で間作され、好結果を生んでいる。」と記述です。

好結果を生んでいて、輸出もされていますので、「幻のセイロンコーヒー」とは言えなそうに思います。

ちなみに、スリランカにおける1976年のコーヒーの栽培面積は、カルダモンやシトロネラよりも多い6,438haと記録されています。

スリランカからのコーヒーの輸出量は1976年は1,709トン、1977年は986トン、輸出金額は3300万ルピーと記載されています。

1976年と1977年で輸出量にかなり違いがあることに加えて、1974年、1975年、1978年の輸出量は「不明」となっています。

小輸出作物のうちで、他にデータに「不明」があるのは、量が少ないシナモン葉油、シナモン皮油、シトロネラ油、レオングラス油、ナツメグ油、しょうが油と油類です。

安定的な生産及び輸出はされていなかったのかもしれません。

まとめ

スリランカのコーヒー産業の復活にはスリランカ人、日本人、オーストラリア人、アメリカ人などが関わり、その生産量は増えているようです。

スリランカは、2019年のコーヒー生産国の上位51カ国には入っていませんでしたが、2020年のデータでは43位になっています。

ベトナムは近年になってコーヒーの栽培に力を入れ、世界2位の生産国になりました。

スリランカが追いかけるのは、量で拡大したベトナムではないように思っています。

スリランカのコーヒー農園は巨大なプランテーションではなく、小規模農家が栽培・収穫したコーヒー豆です。

コーヒー栽培に適した気候でありながら、主要な産業でなくなったスリランカは、質で勝負する条件が整っているのではないか?と門外漢の私は勝手に妄想しています。

参考)
世界のコーヒー豆 生産量 国別ランキング・推移

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