詳細な文献調査と長年の実地調査から茶園の姿が見えてくる!『スリランカ紅茶のふる里』
1986年にNGOを創設して、スリランカ中部州の農園の女性と子どもたちの協力事業を20年間実施されてきた鈴木睦子さんによる著書『スリランカ紅茶のふる里』を紹介します。
本記事では冒頭に本書の概要を紹介し、それ以降は本書の中から気になった内容を箇条書き(あるいは要約して)引用したものを、記述内で分類して掲載しています。
目次
本書の概要
特徴
本書は二部構成になっています。
第1部「スリランカ・ティーの誕生」には、スリランカでのプランテーションの歴史が丁寧に記されていて、とても参考になりました。
鈴木さんは2008年に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科(国際関係学)を修了されていますが、早稲田大学の図書館で見つけたイギリス人が残した文献を読まれたと本文に出てきますが、本書はその文献をはじめ、多くの英文の文献からデータやイギリス人の記述が引用されいるため、当時のスリランカのプランテーションを取り巻く状況について理解を深めることができます。
鈴木さんは <おわりに>で、ハワイとキューバが日本人が砂糖キビ畑で働くために移住し、過酷な環境で働いたことに触れていますが、第1部では飢饉が起きた南インドから新天地を求めてスリランカに渡っていた労働者の人たちについて説明されています。
「イギリス人によって強制的に連れてこられた人たち」というよくあるイメージとは実は違うということが述べられています。
第2部2010年頃より大きく変わり始めた「紅茶のふる里」には、鈴木さんが20年間サポートされてきた中部州の農園の変化について書かれています。
鈴木さんは <おわりに>で、以下のように書かれています。
- 私が本書で書きたかったのは、「紅茶のふる里」の農園で働いている人々は可哀そうな境遇に置かれていたということを探り出すことではない。辛苦の時代を耐えてきたからこそ、今、人々はしなやかに、しっかりと、自分たちの道を前に向かって歩き出していることを記したいと思ったのだ。
- 本書の副題の「希望に向かって一歩を踏み出し始めた人々」は、農園ワーカーのコミュニティの人々だけではなく、紅茶農園の管理槽の人々やスタッフ、地域社会や教育関係の人々など、紅茶のふる里の暮らしている様々の分野の人々を含んでいる。皆、それぞれの立場で、古い社会規範や価値観、旧態のシステムなどを見直して、試練を超えて新しい希望に向かって前進しようとしている。
鈴木さんが長年支援を続けられてきたのは、目にした女性たちや子どもたちの環境があまりに過酷だったからでしょうが、近年になって改善の取り組みが見られるようになったということを記述されているのも、本書の特徴です。
著者・鈴木睦子さん
本書の奥付に記載れている著者プロフィールを以下に記します。
鈴木 睦子(すずき むつこ)
横浜市生れ。青山学院大学卒業。アジア生産性機構国際事務局(APO)、など勤務。
1986年NGOを創設し、20年間スリランカ中部州の紅茶農園と農村部の女性と子どものための協力事業を実施。
2008年早稲田大学大学院アジア太平洋研究科(国際関係学)修了。学術博士。
現在、茶道教室「碧水会」主催(裏千家助教授)。「日本スリランカ友の会」会員。
検索して出てきたのは、NGOではなくNPOでした。
現地でNGOを創設した後に、日本でNPOを創設されたのかもしれません。
参考)
アクティボ:特定非営利活動法人 シギリヤ・レディ・ネットワーク
NPOシギリヤ・レディ・ネットワーク・オフィシャルブログ
アジア生産性機構(APO)
イギリスによる植民地支配
東西の三角貿易
- 1772年にリバプール=マンチェスター で初めてキャラコが製造されたことから産業革命が始まった。(中略)その後イギリスは「資本輸出」によって海外に進出するようになった。資本投資の対象となったのは熱帯諸国で換金を目的とする単一作物を栽培するプランテーション農園や鉱山の開発だった。また、ヨーロッパと周辺諸国の鉄道建設事業なども対象となった。
- 三角貿易というのは二つの国の間で行われる貿易のアンバランスを、三つの国の間で行われる貿易にすることによってバランスを取る形態と説明されている。つまり、イギリスーインドー中国の三つの国を、イギリスの綿織物・中国の茶・インド産アヘンという三大商品で結んだのがアジアの「東の三角貿易」だ。
- 他方、「西の三角貿易」はイギリスー西アフリカー南アメリカ・カリブ海諸国を結んで、砂糖を生産することを目的に形成された。
- イギリスにおいて、東方の三角貿易の中心であった「茶」は、西方の三角貿易の中心であった「砂糖」と出会ったことによって、砂糖入り紅茶として国民的飲み物となった。
- 1870年代からはインド産の紅茶がイギリスに輸出されるようになり、(中略)1888年にインド茶が中国茶を追い抜いたのだった。
イギリスによるインフラ整備
- 1803年にイギリス大使の一行は、コロンボからキャンディまで、往路に1ヶ月、帰路はボートを使って15日もかかったそうだ。
- スリランカ政庁の第五代総督バーンズ卿により、1820年に軍用道路の建設が着工され、コロンボとキャンディの間、および山陵地帯に囲まれたキャンディ地域内部の軍用道路が建設された。さらに、島の東側にある海岸の町トリンコマリーの港を繋ぐ軍用道路や、島の海岸沿いの道路網は次々に拡張されていった。このように道路網が整備されていったことによってイギリスの全島統治は完全になった。
- 道路開発はコーヒープランテーションが発展するために偶然に役に立った。そして、プランテーションによって経済が発展していくにつれて、今度はプランテーションを開発することを第一の目的として道路が建設されていったと言われている。
- 1841年にはコロンボとキャンディの間の道路には石が敷かれて、石の道に修繕された。道路や橋が整備されたことで、荷物を運搬するのに往復30日から40日かかっていたのが、6日から8日おあ大幅に短縮されたと言われている。
- 1863年から1867年にかけてコロンボとキャンディを結ぶ75マイルの鉄道が完成した。
シンハラ社会のラージャカーリヤ
- シンハラ人社会には古来より「ラージャカーリヤ」という、王に対する賦役制度があった。これは労働奉仕によって身分が保障されるという制度だ。植民地統治の初期の頃、道路建設にこのラージャカーリヤ制度が使われたと言われている。
- この制度は決して権力者による強制的な労働ではなかった。しかし、イギリス帝国内の奴隷制廃止の動きの中でイギリスは人道主義の見地から、この制度を受け入れがたい封建主義的遺産であるとした。1833年にイギリスはスリランカの近代化改革を行い、その中でラージャカーリヤ制度を廃止した。
- ジャングルには自然の恵みがあり、人々はそれらを手に入れることができるため、農村での生活は飢えることはなかった。それに比べて農園の賃金は非常に低く、生活条件は悲惨であった。
バドゥッラの開発
- ビリエールスは農園地域の一つであるバドゥッラで、ヨーロッパ人の好みに合わせて町並みが作られたことを記している。
プランテーションの歴史と特徴
イギリスによる土地の取得
- 「プランテーション」は広大な面積の土地で、換金用の単一作物の栽培を行う農業の経営様式、または経済で、このような農業経営が行われている場所も意味する。
- この経営様式は大勢の非熟練労働者が単純作業をい繰り返す労働集約による。必要な労働力は、例えば、大規模な農園ではココナッツの場合は10エーカー当たりおよそ一人だが、紅茶の場合は1エーカー当たり一人程度と言われている。
- スリランカではイギリス植民地時代に紅茶、ゴム、ココナッツ、香料の四つの農産物の本格的なプランテーション経営が開始された。世界ではその他のプランテーションとして、砂糖キビ、コーヒー、パームオイル、パイナップル、バナナ、タバコなどのプランテーションがある。
- 一方、スリランカでは紅茶やココナッツなどのプランテーション経営の農園は、「エステート」(estate)と称されている。今日では、それぞれのエステートには紅茶会社の名前などが疲れている。しかし、元々の所有者であるヨーロッパ人の名前などがそのままつけられているケースもある。
- 1840年にイギリスのスリランカ政庁は土地法を定めた。新しい土地法によって、土地の権利書などが無いため政府に所有権を明らかに出来ない土地は全て未登録地としてイギリス直轄領地とされた。旧キャンディ王国では農民はチェナと呼ばれる焼畑による移動農耕を行なっていた。チェナのために村人が共同で利用する土地は所有者のいない無登録地であったため、イギリス直轄領地とされた。そして、これらの土地はプランテーション農園を経営しようとする人々に安価で販売された。(中略)そして、これらの土地の取得者は全てイギリス人行政官と軍関係者であったことが記されているそうだ。
- シナモンはオランダ統治時代を通じてスリランカが世界で唯一の供給源だった。
- オランダはジャングルに自生していたシナモンを採集していたのだが、1769年にシナモンをプランテーションで栽培するという実験を初めて行い、そして成功させた。
- コーヒーはスリランカで従来から栽培されいて、オランダ時代には地元の農民が自分の家の庭先で栽培したものをムスレム商人が輸出していた。
- 1823年にバーンズ総督は、ペーラーデニヤ植物園の隣接地の200エーカーの土地に政府の農園を開き、そこでコーヒーを栽培する実験をして成功させた。彼の友人のG・バードは1824年に初めてヨーロッパ人のコーヒー農園を開拓したと言われている。
- 一方、小規模な土地を所有している地元農民にもコーヒー栽培が促され、コーヒーのピーク時には輸出量の1/4は農民による生産であった。
- タイラーは1851年に17歳の時にロンドンからスリランカに渡ってきた。彼はルーレコンデラ農園で1852年から1892年まで経営者ではなくて、農園の管理責任者(superintendent)として働いた。
茶栽培の特徴
- 紅茶の生産には、詰んだ生葉はすぐに発酵・乾燥・包装という一連の加工作業が必要なため、農園内に設備の整った大規模な工場を設置することが不可欠である。さらに、茶は一年を通じて採取するため、農園にいて、茶樹と大勢の労働者を管理して農園を運営する監督者がいることが重要である。
- 植林してから茶葉を摘採できるまでには三年から六年かかる。加えて、茶は一年を通じての栽培のため、市場に出荷できる程度の質を保つためには、地元農民が自分の田畑の仕事と併用しながら行うという家庭労働の規模の栽培では困難であった。
- 伝統的な牛車による輸送では、輸送業者と労働者の両者ともシンハラ人が独占していた。
- 地元の伝統的な上層部集団、または新しく成長した商業資本家を含むスリランカの中間層は、自らもプランテーション農園を経営するようになった。ゴム農園の経営はヨーロッパ人よりも地元民が大部分を占めるようになった。さらに、その後に発展したココナッツ農園は地元民によって独占された経済になったと言われている。
- 紅茶農園を経営するには、初めの頃は大規模な設備を必要とするため地元の人の参加は少なかったが、1930年代になると、シンハラ人やタミル人、特に主に北部に住んでいるジャフナタミル人も小規模な紅茶農園を始めるようになった。彼らはスモールホールダーと呼ばれている。スリランカ人が経営する紅茶農園は増加してゆき、スリランカ全体で紅茶が栽培されている土地の総面積の約半分を占めるまでになった。
- 1970年代に土地改革が行われて、外国人の農園経営者や管理者は撤退させられた。土地改革以前には農園管理責任者や工場長はヨーロッパ人、多くはイギリス人だったので、彼らの下で働いた農園タミル人監督者などは英語を話す。
南インドからの労働者の移動
- 19世紀初頭頃から、主に南インドから商人、自由移民、そして農園の労働者などがスリランカに移動してきた。
- 農園労働者であった人の中で、特にヘッドカンガーニや上位カーストに属する人は徐々に経済力をつけて農園の外に出て、都市や農園地域の町で商売や交易などで成功して、生活基盤を確立した人も少なくない。また、それらの商店の事務員や店員などとして働く人も増加している。つまり、紅茶農園で働いている通称「農園タミル人」は、インドタミル人の下部グループの一つである。
- デイビスによる記録を見ると、19世紀半ばから20世紀半ば頃までに、インド人が移動した先の国はビルマ(1852-1937年)が最大で、259.5万人と記されている。(中略)その次に多かった国はスリランカ(1834-1938年)で、152.9万人。3番目がイギリス領マラヤ(1880-1938年)で、118.9万人であった。
- 海外移動労働者に関して注目すべき点があった。それは、スリランカ、イギリス領
- モーリシャスはフィジーなどの砂糖プランテーションへの海外移動で、年季契約制度(主に五年)インド北部の山岳民族がカルカッタから出航。
- 仕事を求めたいた人の困窮や無知につけこんで騙したりする組織的な勧誘制度で、実態は強制労働であった。
- 働きに出た労働者の死亡率は高く、帰国できた人は少なかったそうだ。イギリス人のティンカーはこの制度は「新しい奴隷制度」とするしている。
- ティンカーは「南インド人が自分たちの社会の外で仕事を求めようとする自由な移動から始まったのであり、イギリス本国の植民地省はこの動きをアイルランド人がイギリスへ移動する流れに類似していると捉えていた」と記している。
- 主に南インドのタミル人はマドラスから出航して、季節労働者として移動。
- スリランカとイギリス領マラヤではカンガーニ制度と呼ばれる制度で、スリランカに発祥した独自のものと言われている。ビルマは米を耕作するための労働者で、徴募方法は同じ形態だがメイストリ制度と呼ばれていた。
- カンガーニ制度の「カンガーニ」とは、タミル語で「見張る者」「監督者」を意味する。(中略)初期の頃、インドからの出稼ぎ者は20〜30人の集団になって、自分達でスリランカの農園地域にやってきた。(中略)労働者集団は親族、知り合い、近隣者からなり、その中の年長者の一人がカンガーニになったと推察されている。
- 今日、茶畑ではおよそ20名のプラッカーと1名の男性の監督者(カンガーニ)がグループになって茶摘の仕事をする
- インドで発生した1876年の飢饉は19世紀最大の飢饉の一つで、(中略)飢饉による死亡者の1/3はマドラス地区であった。
- ティンカーは「(中略)マドラスから出航した南インドの移動者はアンタッチャブルが多かったことが特徴であった」と記している
ゴムのプランテーション
- 1877年、ゴム栽培がスリランカに導入された。
- 1880年代に、イギリス人農園主と地元民によって商業ベースでの生産が開始。
- 紅茶農園に比べるとゴム農園は維持管理が簡単で、仕事量が少ないため、必要なワーカーの人数も少な炒め、小規模な土地があればゴムの生産は可能。
- そのため、ゴム栽培はヨーロッパ人ではなく、地元民の農園経営者が大きな割合を占め、1910年頃には地元民の農地面積が全体の1/5を占めた。
- ティンカーによれば、「スリランカは1900年にプランテーションゴムの輸出国として世界第一位になった」という。
低地シンハラ人
- 低地シンハラ人はポルトガル、オランダ、イギリスなどの植民地勢力が進出するに伴って、早い時期から力をつけて台頭した人が少なくない。
- ココナッツやゴムの小規模なプランテーション農園、ヤシ酒製造、または地方の運送業などに携わるようになった。
- そして時代が下がるにつれて、彼らの中から多くの富裕層が出てくるようになった。子弟の英語教育に熱心で、キリスト教徒になった人も多いと言われている。
プランテーションによる繁栄
- ミルズは、「プランテーション経済により、スリランカはそれまで経験したことのない繁栄の時代に入っていった」と記している。一方、デ・シルバは、「20世紀に入る頃には、スリランカの総輸出額9080万ポンドのうち、紅茶は5370万ポンドで、約60%を占めるに至った。プランテーション経済の発展により、20世紀初頭にはスリランカの人々の生活水準は、シンガポールと連邦マラヤを除くと、多くの南アジアと東南アジア諸国よりも向上した」と記している。
- 独立後から1955年頃まで、プランテーション作物からの税収は政府経営収入の30.7%も占めていた。
- 1961年に国連は、「1960年現在で、セイロンは国民の20%に相当する初等教育就学者を有し、かつ実質的に初等教育の完全普及を成し遂げた、アジアでは日本以外の唯一の国である」
農園タミル人の政党「CWC」
- CWC(Ceylon Workers’ Congress)は農園タミル人の政党であり、労働組合でもある。CWC議長のS・トンダマンは1978年に、スリランカ生まれでないスリランカ人として初めて大臣になった人物だ。(中略)彼はノーウッドに最初のタミル語学校を建てた。
- トンダマンの父親は1879年頃に13歳で南インドのラムナドの村からスリランカに渡ってきた。コーヒー農園で日賃13セントのワーカーとして働いた後、紅茶農園のカンガーニになった。1909年にヌワラエリヤの農園を7万5千ルピーで、イギリス在住のオーウェン夫人から購入して、非白人の初めての農園所有者となった。標高4000フィート以上の地域は、ヨーロッパ人だけが支配していたプランテーション経済社会であった。
これまでの農園の労働・生活環境
イギリス統治下
- スリランカ政庁は農園労働力を確保するために様々な施策を行った。(中略)無料の住居や医療設備を整え、部分的ではあったが子供のために学校を建設するなど、最低レベルながらも基本的な福祉策を確立していった。1912年に医療関係が整備されるようになり、1927年には最低賃金法が制定された。農園主には農園労働者にある程度の量の米を補助的金額で与えることが義務付けられていた。
- イギリス植民地時代に形成された典型的なプランテーション農園は、その内部で確実に労働力を再生産するための一つの施設(an institution)として十分に自己完結的であった、と言われている。(中略)農園は外部の人間が許可なく入ることができない、ほぼ閉ざされた広大な敷地内に茶畑、製茶工場、マネージャーと副マネージャーの住居がある。労働者のほとんどは農園内で家族も一緒に暮らし、彼らの居住区域は茶畑の中に数箇所、点在している。さらに、診療所、ヒンドゥー教寺院、食料品や日用雑貨などを売る小さな店がある。
- 農園では階層的構造の頂点にいる農園マネージャーが全権をもち、また全責任を担っている。
- スリランカ社会には女性が親族以外の男性と直接に対話することや、行動することを制約する文化社会規範がある。
独立後
- 独立後、スリランカの政治家は農園タミル人労働者に対する責任は無いものと考えた。その結果の一つとして、他の全ての労働者を対象とする最低賃金規定から紅茶農園労働者は外された。
- 住まいに関しての問題は、与えられたラインルームは無料だが農園主の所有物であるため、オーナーシップのない住人は部屋や屋根が壊れたり、劣化しても、自分たちで修繕することも、または暮らし易いに改善することもできなかった。
- 1970年代に農園マネージャーは6歳未満の児童のために、農園内に保育所を設置することが規定されたため、全ての農園に保育所がある。多くの農園にはタミル語学校もある。
- 2010年頃からの労働・生活環境
変わり始めた農園
高齢化と労働力不足
- 農地の居住者のうち約25%は高齢者。
- 茶栽培面積はスモールホルダーが59%を占め、紅茶生産高では70%を占める。
- 農園タミル人コミュニティの人の多くは、元はヒンドゥー教徒であったが、キリスト教に改宗した人は少なくないという。
教育環境が徐々に改善され、段々と職業が自由に選択できるようになったことから、農園地域を出ていこうとする若者たちのことが報告されています。
一方で、高校以上の教育を続けることの難しさ、農園地域を出て働く機会を得ることの難しさについても書かれています。
女性の活躍
鈴木さんは、これまで男性カンガーニの下で女性プラッカーが働いていた茶園の様子の変化を驚きを持って記しています。
鈴木さんが出会った女性カンガーニ、さらにカンガーニよりも上位に当たる女性のスーパーバイザーにあった時の様子も書かれています。
改善され始めた茶摘みの装備
ほとんど変化がなかった茶摘み(プラッカー)の装備について、段々と改善が見られてきたことが書かれています。
リュックサック型の背負い袋、ゴム製シートの巻きスカートなどについて、農園ごとの工夫について報告されています。
以前はプラッカーの負担減に繋がっていない取り組みがあったことも紹介されています。
引用されていたアップコットのマネージャーの言葉が印象的です。
- 「将来は、子どもたちが憧れるような服装で作業するにします。例えば、靴を履いて、Tシャツか制服を着て、帽子を被る、などです。新しいバスケットも工夫します。福利厚生などを改善して農園の生活をより良い環境にします。このようなことを通じて、農園ワーカーは尊厳を持つことができるでしょう。」
労働者と話をするようになったマネージャーたち
これまでマネージャーと労働者が話すようなことはなかった状況が変わり、労働者とコミュニケーションを取ろうとするマネージャーたちが出てきたことが報告されています。
- 食事を共にすることは、人々は互いに同等の「地位」にあるということを表していることになるそうだ(杉本良夫 1978)
- 「近頃は、マネージャーは労働者のラインハウスを訪問して、一緒にお茶を飲みながら話をするようになりました。
住まいの改築
- まだ一部だが、農園ワーカーの一戸建ての家が建てられ始めた。
- 古いままのラインハウスもあるが、綺麗に修繕され、一家族の部屋が増えたラインハウスも見られるようになった。
マドゥルケレーのF農園の社会福祉
- 5年間働くと1ヶ月分の賃金の半分ほどの特別給が支払われ、5年後、15年後にも支払われる。
- 農園内には24時間無料で診療が受けられる診療所があり、健康クリニックや眼科がある。
- キャンディの町から専門医師が定期的に来園して手術も可能。
- タミル人が好むアーユルヴェーダの治療も受けられる。
- もしも病気が重い場合は、病人は政府の病院に輸送されるが全て無料。
- 誰かが亡くなった場合、埋葬費用も農園会社から支払われる。
アップコットのA農園の社会福祉
- 子供を支援するプログラムがあり、第一子と第二子には2万9千ルピーが、第三子には1万4500ルピーの手当が与えられる。
- 0~1歳までの間はミルクを、1歳か2歳までの幼児にはお米が供与される。
- アプコットのマネージャーの言葉「鍵となるヴィジョンは持続可能な産業であることです。現在は農園の仕事の90%は手作業です。将来的には農園の仕事をできるだけ機械化することと、農園で働く人が尊厳を持てるようにすることが重要です。例えば、機械化できれば農園ワーカーは労働者ではなく、オペレーターになります。
キャンディのシンハラ人の声
- 「シンハラ人は税金を払っているのに、税金を払わない農園タミル人の生活改善ばかりが進んでいます。ラインハウスは改築されて、米の配給もあります。農園内の小さな畑で作物を作ることもできます。土地や住まいも無料なので、収入は全て確保できます。年金生活者になってもラインハウスから出て行かなくてもいいのです。多くのシンハラ人は農園タミル人の待遇に対して一種の不公平感や不満を持っています。でも、農園の仕事はきつくて厳しくて汚いから、シンハラ人は自分たちが農園の労働市場に入っていくことを望んでいません。また、紅茶産業はスリランカにとって重要な産業であり、それを支えているのは農園タミル人労働者であることも分かっています。そのため、私たちは農園タミル人の問題については見て見ぬふりをしています。外国の人の目から隠してきました。政府も市民も彼らについては無視するという態度をとってきました。」
農園の労働者を支援しているNGOの例
ワールドビジョン(World Vision)
- イギリス人の若いカップルが新婚旅行で中央高地の農園地域に遊びにきて、農園の人々の実態を知り、どうしたら彼らを支援することができるかを考え、帰国後にイギリスのNGOであるWorld Visionに話をしに行ったそうだ。それがきっかけで、国際的に大きな活動をしているWorld Visionが中心になって、マスケリヤに[Tea Leaf Vision]Wolrd Vison Lanka Officeが設立され、教育が無料で行われるようになった。
参考)
World Vision公式サイト:Sri Lanka
ウィキペディア:ワールド・ビジョン
ケア(Care)
- 1973年に政府はケア・スリランカを通じて、トリポーシャを児童に配給するという大規模な栄養補助プログラムを始めた。(中略)ケアは1945年に戦後のヨーロッパを支援するためにアメリカで設立されたNGOで、その後、アジア、南米、アフリカなど、支援を必要としている地域で活動を広げている。(中略)ケアのウェブサイトによると、1948年より8年間に当時の金額290万ドル、千万人の日本人が支援を受けたそうだ。
- 「農業部門で2001年8月からアジア開発銀行の事業として社会開発プログラムを行なっています。(以下、略)」
参考)
ケア・インターナショナル・ジャパン公式ページ
ウィキペディア:国際ケア機構
WUSC
- カナダのNGO(World University Service of Canda)が農園タミル人が出生証明書またはIDカードを所有することを支援。
日本とスリランカの関係
- 日本は1954年からスリランカへの支援を開始し、1969年からは継続してトップドナー
- スリランカの車両輸入は2012年にインドが日本を抜いて第一位になった。だが、「一方、スリランカからのインドへ輸出できる優良品目は未だに定まっていない。〜(中略)
- スリランカで人気が高い『おしん』は、イランでは最高視聴率90%。エジプトではおしんの放送時間中に停電が発生、放送を観られないことに怒った視聴者が電力会社やテレビ局に大挙押し掛け、投石や放火等の暴動を起こすという事件があった。その後、政府が該当話の再放送を約束する声明を出し、事態はようやく収束した。
まとめ
本書を読むと、農園(プランテーション)の成立の背景や過程、そこから生まれる課題や問題が説明されていて、現在に至る流れが見えてきます。
また、長い間そのままになっていた労働者の置かれた過酷な労働環境・生活環境に改善が見られていることも報告されています。
イメージだけで判断せずに、農園について考えることができる良書だと思います。
スリランカの紅茶産業やフェアトレードについて学びにくる日本の高校生の課題図書の一つにしようかと思っています。
スリランカの紅茶産業やフェアトレード、労働問題などに興味がある方は、是非本書『スリランカ紅茶のふる里』をご覧ください。
「旅と町歩き」を仕事にするためスリランカへ。
地図・語源・歴史・建築・旅が好き。
1982年7月、東京都世田谷区生まれ。
2005年3月、法政大学社会学部社会学科を卒業。
2005年4月、就活支援会社に入社。
2015年6月、新卒採用支援事業部長、国際事業開発部長などを経験して就職支援会社を退社。
2015年7月、公益財団法人にて東南アジア研修を担当。
2016年7月、初めてスリランカに渡航し、会社の登記を開始。
2016年12月、スリランカでの研修受け入れを開始。
2017年2月、スリランカ情報誌「スパイスアップ・スリランカ」創刊。
2018年1月、スリランカ情報サイト「スパイスアップ」開設。
2019年11月、日本人宿「スパイスアップ・ゲストハウス」開始。
2020年8月、不定期配信の「スパイスアップ・ニュースレター」創刊。
2023年11月、サービスアパートメント「スパイスアップ・レジデンス」開始。
2024年7月、スリランカ商品のネットショップ「スパイスアップ・ランカ」開設。
渡航国:台湾、韓国、中国、ベトナム、フィリピン、ブルネイ、インドネシア、シンガポール、マレーシア、カンボジア、タイ、ミャンマー、インド、スリランカ、モルディブ、アラブ首長国連邦、エジプト、ケニア、タンザニア、ウガンダ、フランス、イギリス、アメリカ
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