ジェフリーバワ設計・三井建設施工のスリランカの国会議事堂
ジェフリーバワさんが手掛けた建築の中で、特に大規模なものとなったのが、三井建設が施工したスリランカの国会議事堂です。
国会議事堂の内部は撮影禁止のため、本記事では掲載している写真は外観のみですが、以下の2つの本を参考に日本とのつながりがあるバワ設計の国会議事堂について紹介します。
目次
幻の国会議事堂計画
スリランカの最初の国会議事堂は、1930年1月に公開されたコロンボ・フォートの南端にある現在の旧国会議事堂です。
旧国会議事堂が手狭になったことから、旧国会議事堂の南のベイラ湖対岸に新国会議事堂を建設する計画を立ち上がります。
現在、防衛省とシャングリホテルがある辺りのことでしょう。
その際、バワさんも計画案を提出するよう求められ、設計図を提出しています。
デイヴィッド・ロブソン 著、高橋正明 翻訳『ジェフリーバワ全仕事』には、以下のように記述されています。
バワの提案した建物は以前の国会議事堂と平行して、その明解な水平ラインと抑制的な垂直リズムを真似たものであった。討議室は英国式議院内閣制モデルに基づく左右対称の矩形で計画されており、国会議事堂員用の横の回廊と一般人用の上の回廊があり、以前の建物の眺望とゴール・フェイス越しの海の眺望があった。
バワと日本との出会いは、1970年大阪万博。セイロン館の建設のため日本を訪れた彼は、京都や奈良を散策するのを好んだという。日本建築と自然のあり方に共鳴するところがあったのだろうか。それから9年後1979年新国会議事堂の建設パートナーとしてバワは日本のコントラクターを推したと言われている。
この計画は中止となります。
コッテ王国の沼地に人造湖を建設
1978年に大統領に就任したジャヤワルダナさんは、1979年の初頭にバワさんに国会議事堂の設計を依頼します。
バワさんはカンダラマホテルの設計地をヘリに乗って上空から見て決めたことで知られていますが、この国会議事堂の建設地も、バワさんが地上と空中から眺めて決定したそうです。
遷都先をコッテに決めたのは大統領と直属の顧問のようですが、沼地だった場所に人口の湖を作り、沼地にある高台の小山に国会議事堂を建てることを提案したのはバワさんのようです。
コッテ王国は、上の地図の「エトゥルコッテ」に都がありました。
コッテ王国を建国したのは、スリランカ全土を統治した最後の王パラークラマバーフ6世です。
コッテ王国の都は、西と東に流れる2本の小川が三角形に囲む防衛に優れた土地に、要塞を築いたのが始まりでした。
国家議事堂が建設されたのは、その東側の小川があった部分で、計画時点では小川ではなく沼地でした。
そして、1979年に作られたのが現在の湖「ディヤワンナー」です。
ディヤは水という意味で、ワンナーはおそらく、森林を意味するワナヤからきている言葉でしょう。
コッテのライオンと呼ばれた独立の英雄
沼地にあった高台の小山は、コッテのライオンと呼ばれたスリランカ独立運動の中心人物の一人、エドワード・ウォルター・ペレラさんが所有する土地でした。
ペレラさんはコッテ王国のあったエトゥルコッテに住んでいて、ペレラさんの邸宅は現在、コッテ博物館になっています。
ペレラさんは、D・R・ウィジェワルダナさん(前首相のラニル・ウィクラマシンハさんの祖父)の協力を得て、イギリスに降伏したキャンディ王国最後の王スリ・ヴィクラマ・ラジャシンハの旗の所在を突き止め、ロンドンのロイヤル・ホスピタル・チェルシーに見つけます。
その旗が現在のスリランカの国旗の元になっています。
このライオンの旗を見つけたことで、「コッテのライオン」の愛称がつけられたのでしょう。
つまり、国会議事堂の建設地は由緒ある場所に建てられたと言えそうです。
バワさんの設計思想
バワさんは、建設会社の選定に当たって、1970年の大阪万博でセイロンパヴィリオンを建設した三井建設を強く推したそうです。
設計コンセプトには、ばんせい総合研究所 著『錫蘭島 スリランカ The Bridge of Culture Vol.01 セレンディピティに出会う』の記述が参考になりますので、以下に引用します。
自然を活かすこと、可能な限り地域の素材を使うこと、スリランカの伝統様式を重んじること。ベントータホテルのデザインにも見られるこれらの思想は、新国会議事堂の建設においても貫かれている。
本書では、建設当時に三井建設の社員としてプロジェクトに関わった二人の話が引用されています。
一人は、現在は株式会社 エーエーアンドサン 代表取締役社長である近藤秀次さんです。
もう一人は、現在は三井住友建設の専務取締役の細野晟史さんです。
現在も活躍されている人が当時、プロジェクトに関わっていたことが分かります。
まず、近藤さんのお話を本書から引用します。
図面を見ると、いちばん奥の建物が軸線から1グリッドずれて配置されています。そこにはマンゴスチンの大木が生えていました。現地でロープを張り、調査をすると建物の屋根に枝がかかることがわかったので切ることを伝えたら、普段は温厚なバワさんがとても怒られ、木を切らないように設計しなさいと厳命されました。
そして、細野さんのお話の引用です。
現地の素材を手に入れるため苦労したのは基壇部分のグラナイト(花崗岩)でした。バワさんはスリランカでも花崗岩が採れるというので調べると、コロンボ郊外に花崗岩の岩山がみつかりました。しかし、設備は何もなく、掘り出し、削り出す工場をつくることからはじめました。
設計思想が具体的に現場でどのように形にされていったのかが分かるエピソードです。
そして、本書には日本との関わりを示すことも書かれています。
京都でのお花見や先斗町の町並み、和食をこよなく愛した。新国会議事堂の屋根を銅板でふくことが決まったとき、竣工段階から「京都の寺院のように緑青がふくように」と指示したと言われている。
バワは竣工の記念として、私にぜひ贈ってほしいものがあるとリクエストしたという。それはジャパニーズゴング、釣鐘だった。(中略)日本古来の鐘のデザインに手を加え、新国会議事堂の回廊にかけた。富山県富岡で造られたその鐘には日本とスリランカの友好のために、という文字が刻まれている。
デイヴィッド・ロブソン 著、高橋正明 翻訳『ジェフリーバワ全仕事』には、国会議事堂に関して、バワさんの発言が3つ引用されています。3つの中の1つは、国家議事堂の外観の大きな要素である屋根に関する発言です。その発言の一部を以下に紹介します。
いかなる時代、いかなる場所においても、屋根は美観を左右する。建物は大概、屋根、柱、床からなる。その中で屋根は支配力を持ち、隠蔽し、住まいに充足感をもたらす。
チームジェフリーバワの面々
バワさんのキャリアは、一緒に働いたパートナーによって分けられますが、国会議事堂のプロジェクトはジャフナタミル人のポーロサンドラムさんとの建築設計事務所「エドワード・レイド・アンド・ベッグ」を経営していた時代です。
1979年の後半にバワさんとポーロサンドラムさんは日本に1ヶ月滞在して、契約を詰めます。
そして、三井建設は駐コロンボ事務所を開設し、バワさんはイナ・ダ・シルワー邸にプロジェクトの事務所を設置します。
デイヴィッド・ロブソン 著、高橋正明 翻訳『ジェフリーバワ全仕事』によれば、バワさんはボンベイ(ムンバイ)で募集した建築家数名の特別チームを編成したそうです。
国会議事堂は、コロンボ7のウィハーラマハーデーウィ公園から始まる8キロのプロムナードの終点に当たり、公園や湖を有する田園都市に囲まれた公共施設として計画されたそうです。
シナモンベントタホテルの入口の階段には、「エドワード・レイド・アンド・ベッグ」の碑銘がありますが、国会議事堂のメインエントランスにも「エドワード・レイド・アンド・ベッグ」と事務所の名前とともに、以下の3名の名前が記載されているそうです。(私は見学時、見落としてしまいました。。)
バーガー系ムーア人のバワ
ジャフナタミルのポーロガサンドラム
シンハラ人仏教徒のヴァサンタ・ヤコブセン
ヴァサンタ・ヤコブセンさんは、当時アシスタントを務めていた建築家です。
ばんせい総合研究所 著『錫蘭島 スリランカ The Bridge of Culture Vol.01 セレンディピティに出会う』には、1979年5月にゴールフェイスホテルで行われた第1回目のミーティングの写真が掲載されていますが、そこにはバワさんの隣に、アシスタントデザイナーを務めたヤコブセンさんの奥さんが映っています。
私はこの国会議事堂を見学した時に、一番印象に残っているのは中央パヴィリオンの3階にある議場です。
見学時は傍聴席の5階から見下ろしますが、荘厳でありながら落ち着いた気品のある雰囲気が素晴らしかったです。
天井からはラキ・セナナヤケさんが制作したヤシの葉の形をした銀のシャンデリアが吊り下がっています。
ラキ・セナナヤケさんは施設内の柱に宗教画も描かれています。
また、イナ・ダ・シルワーさんが制作したバティックの旗も傑作だと知られています。
その他、マンジュシュリーさんがコッテの歴史を描いた壁画など、スリランカの芸術家たちが多くの作品を残しています。
見学の仕方
コロナ禍で見学のルールは変わっているかもしれませんが、コロナ禍前は平日の日中に見学が可能でした。
議事堂の対岸の広場の守衛に荷物を貴重品以外を預けて専用バスで島に渡ります。
料金は無料です。
以下のモニュメントの左手に守衛があります。
島に到着してバスを降りると、しばらく待たされます。
その後、団体で決められたルートを案内されながら見て回ります。
自由に見て回れる訳ではなく、見せてもらえる場所も限られていますが、大変素晴らしい建物ですので、一見の価値がありますので、建築好きの方は是非訪れてみてください。
自然豊かな周囲の環境と日本とのつながり
国会議事堂の周囲はとても自然豊かな環境が魅力的です。
また、日本とのつながりを感じられる場所でもあります。
国会議事堂の東側のジャパンスリランカフレンドシップロードには、自然公園「Diyasaru Park」や、昔のスリランカの村を再現した施設「Apege Gama」があります。
国会議事堂の西側のスリランカニッポンアベニューには、自然公園「Beddagana Wetland Park」、日本と関係が深い「SNECC」、コッテ王国の「城壁跡」があります。
私はSNECCに里親として関わっていますが、先月行われたSNECCの慰霊祭には、大統領、陸軍大将、日本大使がご出席され、日本との関係の深さと、その活動がしっかり評価されていることが分かりました。
自然公園の入場料は現地の人だと激安ですが、外国人だとそれなりにしますので、私は一瞬躊躇しそうになりましたが、Beddagana Wetland Parkで見られる沼地は見事で、行って良かったです。
Diyasaru Parkは工事中で入場できませんでしたので、改めて行ってみたいと思います。
国会議事堂の北側の公園「Diyatha Uyana」は無料で入れます。
レストランやホテルもあり、コッテでゆっくり食事をする場合はこちらがお勧めです。
>関連記事
参考)
Arch daily:Remembering Bawa
Wikipedia:Sri Lankan Parliament Building
Wikipedia:E. W. Perera
Wikipedia:Royal Hospital Chelsea
Chelsea Pensioners
Wikipedia:Kotte Museum
Attractions Sri Lanka:Diyawanna Lake
Wikipedia:Old Parliament Building, Colombo
Wikipedia:Sri Jayawardenepura Kotte
三井住友建設株式会社:役員の異動に関するお知らせ
株式会社 エーエーアンドサン.:建築ジャーナル2021年1月号
「旅と町歩き」を仕事にするためスリランカへ。
地図・語源・歴史・建築・旅が好き。
1982年7月、東京都世田谷区生まれ。
2005年3月、法政大学社会学部社会学科を卒業。
2005年4月、就活支援会社に入社。
2015年6月、新卒採用支援事業部長、国際事業開発部長などを経験して就職支援会社を退社。
2015年7月、公益財団法人にて東南アジア研修を担当。
2016年7月、初めてスリランカに渡航し、会社の登記を開始。
2016年12月、スリランカでの研修受け入れを開始。
2017年2月、スリランカ情報誌「スパイスアップ・スリランカ」創刊。
2018年1月、スリランカ情報サイト「スパイスアップ」開設。
2019年11月、日本人宿「スパイスアップ・ゲストハウス」開始。
2020年8月、不定期配信の「スパイスアップ・ニュースレター」創刊。
2023年11月、サービスアパートメント「スパイスアップ・レジデンス」開始。
2024年7月、スリランカ商品のネットショップ「スパイスアップ・ランカ」開設。
渡航国:台湾、韓国、中国、ベトナム、フィリピン、ブルネイ、インドネシア、シンガポール、マレーシア、カンボジア、タイ、ミャンマー、インド、スリランカ、モルディブ、アラブ首長国連邦、エジプト、ケニア、タンザニア、ウガンダ、フランス、イギリス、アメリカ
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