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オランダ司令官村「フルフツドープ」と司法の丘「アルトゥカデー」

2023年5月14日

最高裁判所、コロンボ高等裁判所、コロンボ県裁判所、アルトゥカデー裁判所、コロンボ治安判事裁判所・弁護士協会、司法省の法律扶助委員会、スリランカ法律学校などが立ち並ぶ司法の丘がコロンボにあります。

この丘は、ポルトガル軍を包囲したオランダ東インド会社軍が布陣した丘でもあります。

本記事では、オランダ司令官村ことフルフトドープと、司法の丘であるアルトゥカデーについて紹介します。

ポルトガル軍を包囲したオランダ軍の拠点「フルフト村」

1594年にポルトガル軍がキャンディ王国を侵攻した「ダントゥレーの戦い」でキャンディ王国はポルトガル軍を撃退するも、ポルトガルは翌年1595年にゴールに要塞を築き、1597年にコーッテー王国を滅ぼし、セイロン島における支配を拡大していきます。

1602年にオランダ東インド会社はバッティカロアに停泊して、キャンディ王国とポルトガル排除に関して交渉を始めます。

1603年の「バラナの戦い」、1630年の「ランデニウェラの戦い」、1638年3月28日の「ガンノルワの戦い」と、ポルトガルによる侵攻をキャンディ王国は撃退します。

1638年5月23日にキャンディ王国はオランダ東インド会社とキャンディ王国と軍事協定を結び、それ以降はオランダ東インド会社とポルトガルによる戦いに以降していきます。

1639年5月にオランダ東インド会社はポルトガルのバッティカロア要塞を占領し、続いて北上してポルトガルのトリンコマリー要塞を占領します。

1640年にオランダはポルトガルのニゴンボ要塞を占領し、続いてゴール要塞を占領し、ゴール要塞を本拠地に定めます。

ポルトガルのコロンボ要塞・ジャフナ要塞・マンナール要塞・カルタラ要塞、オランダのゴール要塞・ニゴンボ要塞・トリンコマリー要塞・バッティカロア要塞が15年間に渡って併存する状態が続きます。

この状況を打開し、ポルトガルをセイロン島から排除するきっかけを作ったのが、オランダ東インド会社の司令官フルフトです。

ジェラルド・ピータースズ・フルフト(Gerard Pietersz Hulft)は、アムステルダムの醸造家の末っ子として生まれています。

1654年4月、フルフトはオランダ東インド会社の幹部として働いていた兄ジョアン・フルフトが暮らすオランダ領東インドの首都バタヴィア(現在のジャカルタ)に向けてアムステルダムを出発し、1654年10月にバタヴィアに到着します。

1655年8月、オランダ領東インド総督のジョアン・マエツイッカーハルフトの命令の元、フルフトは11隻の船と1120人の兵士を引き連れてバタヴィアを出発し、9月中旬にオランダが占領するネゴンボ要塞に到着します。

フルフト軍は10月に、キャンディ王国のパタバンダ副王が支配するマッゴナから上陸して、ポルトガルのカルタラ要塞を侵攻して占領します。

11月にコロンボまで北上し、ポルトガルのコロンボ要塞のメインゲートである東門を見下ろす丘の上に陣地を構えます。

1655年11月から1656年5月までの7か月間に渡って、フルフト軍はコロンボ要塞を包囲したことから、フルフト軍が拠点を置いた丘は後にフルフト村(Hulftsdorp)と呼ばれるようになり、現在もHulftsdorp Streetとしてその名が道の名前に残されています。dorpとはオランダ語で村を意味します。

コロンボ要塞に籠城したポルトガル軍は、ポルトガル人兵500名、シンハラ人傭兵1,300名、ポルトガル人とシンハラ人の市民兵800名と、オランダ軍の倍以上の兵士数で守りを固めていました。

1655年11月12日のオランダによる最初の攻撃で、フルフト軍は300人の兵士が死亡し、350人が重症を負います。

1656年4月10日、フルフトはポルトガル軍の銃弾に倒れ、絶命します。

5月22日に最後まで抵抗したポルトガル軍73人が降伏し、ジャフナ要塞とマンナール要塞に撤退。オランダ東インド会社がコロンボ要塞を占領します。

1658年にオランダ東インド会社は本拠地をゴール要塞からコロンボ要塞に移し、ジャフナ要塞とマンナール要塞を占領。ポルトガル軍をセイロン島から完全に排除します。

上の写真はフルフトツドープの丘からコロンボ要塞の入口につながるダムストリートを見下ろしたものです。

上の写真はダムストリートからフルフツドープの丘を見上げたものです。

ダムストリートの名は、ダンバの木が生えていたことから「ダンバ・ストリート」と呼ばれるようになり、その後にダム・ストリートとなったそうです。

司法の丘「アルトゥカデー」

フルフツドープ・ストリートはアルトゥカデー・ウエストという地域を走っています。

アルトゥカデー・ウエストには最高裁判所があります。

さらに、コロンボ高等裁判所(High Court of Colombo)、コロンボ県裁判所(Colombo District Court Complex)、アルトゥカデー裁判所(Aluthkade Court Complex)、司法省の法律扶助委員会(Legal Aid Commission of Sri Lanka)が並び建っています。

フルフツドープ・ストリートを挟んだ反対側には、スリランカ法律学校(Sri Lanka Law College)、コロンボ治安判事裁判所・弁護士協会(Colombo Magistrate’s Court Lawyers’ Association)、コロンボ最高行政官裁判所(Chief Magistrate Court)が並んでいます。

プレマダーサ大統領像とポルトガルのフラッグポール

フルフツドープ・ラウンドアバウトには、プレマダーサ大統領像とポルトガルのフラッグポールがあります。

ポルトガルのフラッグポールはコロンボフォート内にあったそうですが、スリランカの独立時に現在地に移されたそうです。

プレマダーサ大統領の像があるのは、プレマダーサ大統領の生家に近いからでしょう。

プレマダーサ大統領の生家

フルフツドープの丘の下に、プレマダーサ大統領の生家が残されています。

集合住宅・商業施設のグーネシンハプラ

ジャヤワルダナ大統領・プレマダーサ首相政権時代に建設された集合住宅&商業施設のグーネシンハプラ(Goonesinhapura)があります。

コロンボ市議会議員、コロンボ市長を歴任し、労働党の設立をリードしたグーネシンハの名が由来です。

プレマダーサ氏はグーネシンハ氏をリスペクトしていたと言われています。

グーネシンハプラは重厚感のある建築で見応えがあります。

 

グーネシンハプラの周囲には、他にも集合住宅があり、とても興味深いです。

参考)
Wikipedia:Gerard Pietersz Hulft
geni:Joan Hulft
Wikipedia:Joan Maetsuycker
TALES OF CEYLON:The intriguing past of Colombo neighbourhoods
Daily News:Romance of Colombo’s place names
Biodiversity for Food and Nutrition:Damba
roarmedia:Ten Places In Colombo And The Origins Of Their Names
Wikipedia:Sinhalese–Portuguese conflicts
Wikipedia:Kandyan Treaty of 1638
Daily Mirror:Goonesinha was a national leader

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