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ポロンナルワ建国の王ウィジャヤバーフ

2024年2月07日

アヌラーダプラは1000年以上ランカの都でした。
この時代の終わりには、アヌラーダプラは南インドのパーティヤ朝やチョーラ朝の侵略者たちから度々侵略されました。

チョーラ朝の王マハラージャラージャはアヌラーダプラを侵略しました。
息子のラージャシンハ・チョーラは1017年にアヌラーダプラを支配し、アヌラーダプラの最後の王ミヒンドゥ5世とその王妃を捕らえてインドに送りました。
史上初めてランカは外国に住む王によって支配されるようになりました。

チョーラ朝の王は都を現在のポロンナルワに移し、町を「ジャナナタプラム」と名付けました。チョーラ朝の侵略者たちはスリランカを50年以上に渡って支配しました。

この期間、シンハラの王たちはランカ南部のルフナに逃れました。

キッティ王子(またはキールティ王子)は1039年にルフナに生まれました。
彼はランカ南部に隠れ住んでいたシンハラ王のマハ・モッガラーナとロキタ王女との間に生まれた4人の子どもの長男でした。

キッティ王子はとても若い頃から、ランカをチョーラ朝の侵略者たちから自由にすることを決意していました。

この意志のため、彼はマラヤ・ラタ(スリランカの中央高地)のジャングルに移り、チョーラ朝と戦うための陸軍を集めました。

彼の最初のゴールはランカ南部でのリーダーシップを確かなものにすることでした。

多くの王位継承者がいたため、キッティはランカ南部のシンハラのリーダーたちと対抗しないといけませんでした。

1055年、キッティがわずか16歳のとき、カタラガマでのルフナ族長との戦いに勝利し、王になりました。

彼はウィジャヤバーフ1世と呼ばれ、ランカの王として認められました。

チョーラ朝の支配者たちは、ウィジャヤバーフ王の勝利を知ると、王を攻撃しようと、直ちに陸軍の大軍を送りました。

ウィジャヤバーフ王はそのような大きな攻撃に対する備えをしていなかったことから、王は賢明にもマラヤ・ラタに逃れました。

チョーラ朝の支配者たちは、繰り返し王を捕まえるために軍を派遣しましたが、彼らの試みは失敗に終わりました。

ウィジャヤバーフ王はルフナを奪還するために、ビルマの王に支援を要請しました。

ビルマ王は軍を送ることはできませんでしたが、価値の高いサンダルウッド、樟脳、衣服を贈りました。

ウィジャヤバーフ王はそれらを兵士たちへの報酬として与えました。

ウィジャヤバーフ王はハンバントータエリアに移り、もう一度強い陸軍を作り、ルフナをチョーラ朝のリーダーたちから奪還しました。

王はポロンナルワを攻略することを決めました。

1066年に彼は最初のポロンナルワに対する攻撃を行いました。
攻撃は成功したものの、長い期間都市全体を維持することはできませんでした。
南インドからの増援部隊の攻撃によって、ウィジャヤバーフは退却を強いられました。

ウィジャヤバーフ王はカタラガマを彼の都にし、再び陸軍を強化し始めました。

入念に計画を立てて、ウィジャヤバーフは3つの陸軍をポロンナルワに送りました。

第一軍は西海岸をマハーティッタまで北上し、南インドからの増援部隊の到着を阻止しました。この軍の一部はポロンナルワを北西から攻撃するために移動しました。

第二軍は東から進軍し、王自ら率いる第三軍はマヒヤンガナを渡り、ポロンナルワに進軍しました。

これらの3つの軍はポロンナルワを何カ月も包囲しました。

1070年に激しい戦いの後、ウィジャヤバーフ王と彼の軍はポロンナルワを攻略しました。
ウィジャヤバーフ王はポロンナルワの支配者となりました。

17年間続いた戦いの後、ポロンナルワは都に選ばれ、ウィジャヤラージャプラ、あるいはプラッティ・ナガーと名付けられ、ウィジャヤバーフ1世はポロンナルワ王国の最初のシンハラ王になりました。

王の即位式は1073年頃に以前の首都、アヌラーダプラで行われました。

ウィジャヤバーフはリラーワティを彼の王妃として迎え、彼らはヤショーダラという名の娘をもうけました。

王は弟のウィーラバーフをウパ・ラジャ(副王)に任命し、ランカ南部の支配者としました。

末っ子の弟であるジャヤバーフはアディパダ(次期後継者)としてロハナの支配者に任命されました。

外国の侵略者たちから国を自由にした後、王は国を発展させることに注力しました。

彼は長年困難な状況にあった仏教を高揚させたかったのです。

仏教をランカで再設立するため、叙階された新しい僧侶が必要でした。しかし、王はウパサンパダ(高位の叙階式)を行える5人の叙階した僧侶を見つけることができませんでした。

ウィジャヤバーフ王はもう一度、ビルマ王に助けを求めました。

ビルマ王はすぐに高位の叙階式ができる僧侶をスリランカに派遣しました。この僧侶たちの助けによって、王は仏教を再建することができたのです。

ウィジャヤバーフ王は破壊された多くの仏教寺院を再建しました。再建された寺院で代表的なものはアヌラーダプラのマハー・ウィハーラ、アバヤギリ、ジェタワナーラマ、そしてシュリ・マハー・ボディなどです。

彼はアヌラーダプラの南にあるティッサマハーラーマとマヒヤンガナの仏塔も再建しました。

ポロンナルワに仏歯寺として新しい3階建ての寺院を建てました。これは現在アタダーゲと呼ばれています。

王は仏足石があると言われるシュリパーダの参道を作りました。

彼はアンバラマスと呼ばれる巡礼者たちのための休憩場をアダムスピークまでの道に建てました。

彼はこれらの聖地がそれぞれで収入を上げて維持ができるように土地を与えました。

ウィジャヤバーフ王は戦争の間に破壊されてしまったラジャラタの貯水池の多くを再建しました。

彼はまた、ミンネリヤ、カウドゥッラ池、カンタレ池をつなぐ用水路を修復し、これによって農地に水が運ばれ、国の経済を発展させました。

1804年頃、チョーラ朝からの再度の攻撃がありました。
王は戦争を仕掛けましたが、彼の陸軍の一部が彼に反逆しました。
そのため、何人かの将軍は彼の陸軍によって殺されました。

これらの攻撃の間、王宮は焼け落ちました。

王は攻撃を避けてケーガッラに近いワーキリガラに逃げましたが、彼はポロンナルワに戻り、奪還しました。

反乱軍のリーダーたちは捕らえられ、処刑されました。

将来に渡る南インドからの侵略者たちの攻撃を防ぐために、王は南インドのリーダーたちと良好な関係を築きました。

彼はカーリンガの姫であるティローカスンダリと二度目の結婚をし、5人の娘とウィクラマバーフという息子をもうけました。

彼は自分の妹ミッタをパーンディヤ王に嫁がせました。

スリランカを45年間統治して、ウィジャヤバーフ王は1110年に亡くなりました。

彼はマハ・ウィジャヤバーフ(ウィジャヤバーフ大王)とも呼ばれます。

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