日本での経験を架け橋に、教員養成大学へ。スリランカの学びの場に新しい風を吹き込む、森田靖子さん
インド洋の海に面したスリランカ南部沿岸の街、ゴール(Galle)。世界遺産に登録されている旧市街の要塞や歴史的街並みが広がるこの近郊で、将来の教育界を背負って立つ若い「先生の卵」たちとともに日々汗を流す一人の日本人がいます。独立行政法人国際協力機構(JICA)の小学校教育の隊員として、現地の教員養成現場で活動を続けている森田靖子さんです。
森田さんは日本国内の小学校で教諭として長いキャリアを積み、通算24年間にわたり教育の最前線で多くの子どもたちと向き合ってきました。長年の現場経験で培った知識や指導力を活かしながら、勤務先の自治体に籍を残したままJICA海外協力隊に参加できる「現職参加制度」(休職扱いで海外協力隊に参加し、帰国後は元の職場に復帰できる制度)を活用してスリランカへと渡りました。
現在配属されているのは、スリランカ南部州に位置する「ルフナ教員養成大学(Ruhuna National College of Education)」。スリランカはいま、国全体として教育の質を向上させるための大規模な制度改訂やカリキュラム改革を進めている最中にあります。しかし、どれほど制度や教科書が整ったとしても、実際の教室で行われる授業のスタイルそのものを変えることには大きな難しさが伴います。従来の教育現場では「教師が黒板の前に立ち、児童は整然と座ってひたすらノートを取る」という指導スタイルが長年定着してきました。
このような現状に対し、国としては子どもたちの主体性や創造性、感受性を育むための「体験型・アクティビティ型」の学びへ移行しようと模索しています。教育のパラダイムシフトが求められる中、その未来を担う教師を育てる教員養成課程の現場に、日本での豊富な授業実践と児童理解のノウハウを持つ森田さんの存在が求められています。
ルフナ教員養成大学をめぐる日々

森田さんの朝は、7時30分の登校から始まります。配属先であるルフナ教員養成大学は、周囲を緑に囲まれた静かな環境に位置しており、スリランカ全土から教師になることを夢見る若者たちが集まっています。学生は全寮制で、寝食を分かち合いながら切磋琢磨しています。
学生の内訳を見ると、新しく入学した1年生(グレード1)が約280名、より高度な理論や現場実習に向かう2年生(グレード2)が100数名在籍しています。専攻コースの中でも最も多くの学生が所属しているのが「小学校教育コース」です。そのほかにも家庭科、社会科、体育科、英語などの専門コースが設置されており、将来の教育現場のあらゆる分野に対応できるカリキュラムが組まれています。なお、学生全体の約9割を女性が占めている点も、スリランカの教員養成課程における大きな特徴の一つです。
日中、森田さんの活動は多岐にわたります。学校内での講義や模擬授業のサポートはもちろんのこと、2年生の教育実習生たちが赴いている周辺の提携小学校へも精力的に足を運んでいます。
現場へ出向いた際、森田さんが最も大切にしているのは「一方的な指導を行わない」ということです。現地の教育文化や文脈、そして慣れない実習に奮闘する学生たちが置かれた状況を丁寧に見極めながら、一人ひとりの悩みや葛藤に寄り添う日々を積み重ねています。
スリランカの教員養成現場と「学校」のあり方
今回、活動現場であるルフナ教員養成大学を訪問し、現地での具体的な取り組みや背景にある想いについて詳しくお話を伺いました。
比較してみると、スリランカの教員養成システムは日本と比べて、実践力を段階的に高めていく手厚い構造になっていることが分かります。制度は以下の3段階に分かれています。
- 1年生(グレード1):
基礎的な教育理論の講義や、キャンパス内での模擬授業を中心とした学びの期間。 - 2年生(グレード2):
年間で4回に分けて行われる、計8週間の教育実習期間。大規模校や小規模校、男子校や女子校など、条件の異なる多様な学校現場を巡りながら実践力を養う。 - 3年生(グレード3):
1年間にわたる長期インターンシップ型の教育実習期間。手当が支給され、実際の教員に近い責任ある立場で勤務しながら、自らの指導に関する研究レポートを執筆・提出する。
日本の教員養成課程では、大学在学中の小学校への教育実習期間は一般的に1ヶ月程度であり、採用後は即戦力としていきなり学級担任を任されるケースがほとんどです。これに対してスリランカでは、実に2〜3年という歳月をかけて段階的に学校現場での適応力を培っていく仕組みが整えられています。
一方で、スリランカの学校教育を取り巻く環境には、特有の構造的課題も存在します。現地の小学校の授業は通常13時30分に終了するため、放課後になると多くの子どもたちが塾へと向かいます。
幼少期から全国統一試験(Oレベル・Aレベル:日本の高校入試・大学入試に相当する、進学を左右する重要な試験)に向けた知識の詰め込み学習が過度に重視される中で、子どもたちにとって学校という場所の魅力や存在意義が薄れてしまうのではないかという懸念が生じています。テスト対策や知識の暗記を塾が全面的に担うようになってしまうと、学校が単に「決められた時間を無難に過ごすだけの場所」に形骸化してしまう恐れがあるのです。だからこそ、学校という場所を単なる知識伝達の場にするのではなく、「友達と一緒に学ぶのが楽しい」「毎日新しい発見がある」と子どもたちが心から思える空間にしたい。そんな願いを抱きながら森田さんは日々、未来の先生である学生たちと向き合い続けています。

「否定」ではなく、「別の選択肢」を示すこと
スリランカ教育省が「体験型授業」や「児童主体の学び」を推進しようとしているものの、実際の学校現場には長年にわたって受け継がれてきた伝統的な指導スタイルが強く根付いています。年長者や前例を尊重する文化に加え、新しい教材を用意する予算や時間の不足といった制約もあり、何世代も前に作成された古い指導案のコピーをそのまま使い回すといったケースも少なくありません。しかし、そうした現場に入り込む際に森田さんは、まずはスリランカの教育文化や先生方の方針を尊重した上で、自分自身の「行動」と「実践」を通じて「こういう教え方もある」という新しい選択肢を示していくアプローチを選んでいます。
例えば、日本文化の紹介も兼ねて、森田さんは正方形に裁断した用紙を用意し、切り紙や簡単な折り紙の授業を実際に現地の小学校で実践しました。「全員が同じ指示通りに、同じ形を作らなければならない」という固定観念が強かった現場に対して、森田さんは「色も違っていいし、形や貼り方も一人ひとり違って素晴らしいんだよ」と伝えました。決められた正解を求めるのではなく、子どもや学生たち一人ひとりの表現を受け入れる関わりを重ねていったのです。
さらに、学生の模擬授業が終わった後のフィードバック方法にも工夫を凝らしました。指導している姿を撮影し、「この説明のタイミングがとても分かりやすかった」「子どもたちが生き生きとした表情をしていた」といった具体的に良かった点を文章と写真で構成した「写真付きフィードバックレポート」を作成する活動を始めたのです。
こうした教室での実践指導に加え、森田さんは日常のコミュニケーションを通じても現地スタッフや学生との信頼関係を深めています。全校朝会で自身のスピーチ担当順が巡ってきた際には、現地語であるシンハラ語でのスピーチに挑戦。日本の新紙幣の顔となった津田梅子の生涯や功績に触れながら、「女性の教育と自立の歴史」について語るなど、一人の教育者としてのメッセージを自らの言葉で届けました。
シンハラ語での会話はできても、細やかなニュアンスや文化的背景まで理解しきれない場面は少なくありません。だからこそ、視覚的なフィードバックや現地語での語りかけといった誠実な工夫の積み重ねが、現地の先生や学生たちの緊張を解きほぐし、確かな信頼関係を築く土台となっています。

通りかかった先生方が思わず声に出して読むなど、日本文化に触れるひとつのきっかけになっています。
今後の展望と「学びの架け橋」として
現在、森田さんは大学全体を巻き込んだ「ジャパン・デー(日本文化紹介日)」の開催に向けた企画を考えています。日本の伝統的な遊びや書道、歌などを体験できるプログラムを通じ、学生たちが楽しみながら体験型指導の具体的なアイデアを学べる場を構築しようとしています。切り紙の授業や写真付きフィードバックといった森田さんのこれまでの実践は、いわば個々の学生や教室に向けた種まきでしたが、ジャパン・デーはそれを大学全体に広げる試みだと言えます。
豊かな経験を持つからこそ、現地で生じる葛藤や課題に対して真摯に向き合う森田さん。
「自分が長年培ってきた経験が、こうして異国の地で『先生を目指す学生たち』の役に立っていると実感できることは、大きなやりがいと自信になっています。そして何より、このスリランカで得られた多様な視点や人々の温かさは、私自身にとってもかけがえのない財産です」

取材を行った当日、大学の講堂では新入生たちが先輩学生や教職員の前で日頃の成果を披露する「新入生発表会」が開催されていました。色鮮やかな衣装を纏った学生たちが歌やダンス、劇を演じるステージを、森田さんは温かい視線で見守っていました。新入生の中には日本語が話せる学生もおり、その学生は日本の童謡「にじ」を練習し、丁寧に歌い上げていました。発表が終わった後、学生にシンハラ語で声をかけると、学生たちは表情を華やがせ、笑顔で応えます。「現地の言葉で語りかけると、みんな本当に嬉しそうな顔をしてくれるんですよね。やっぱり、心を通わせる会話が何より大切だと実感します」と語る森田さんの言葉が印象に残りました。

おわりに
現場の教員の意識や、長年積み重ねられてきた教育システム全体を急激に変えることは決して容易ではありません。制度の改変や行政からの指示といった「上からの改革」だけでは、教室の日常を根本から変えるには限界があります。
だからこそ森田さんのように、目の前にいる学生や子どもたち一人ひとりと丁寧に向き合い、自らの行動と実践によって「新しい学びのあり方」を示し続ける地道なアプローチが求められています。その積み重ねこそが、現地の教員養成の現場に確実に新しい風を吹き込み始めています。
日本での豊富な経験を架け橋とし、スリランカの未来の先生たちとともに歩みを進める森田さん。現場で示し続けた実践と、現地の言葉や文化に対する敬意は、ルフナ教員養成大学の学生たちを支え、次の世代の教室を静かに変え始めています。




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