毎年11月1日は「紅茶の日」
毎年11月1日は「紅茶の日」です。
本記事では、紅茶の日、日本紅茶協会、日本での紅茶消費量、江戸時代のロシアへの漂着民、スリランカの紅茶輸出先、ロシアの紅茶、と紅茶の日に関連したことを以下に紹介します。
目次
日本紅茶協会が定めた「紅茶の日」
毎年11月1日を「紅茶の日」と定めたのは日本紅茶協会です。
例年、11月1日に日本紅茶協会は明治記念館で「記念ティーセミナー」を開催しています
そこで、まずは日本紅茶協会について見ていきましょう。
日本紅茶協会は1936年に設立されています。
興味深いのは、2022年6月10日時点の役員にはキーコーヒーやUCC上島珈琲、伊藤園や天保7年に宇治で創業した共栄製茶と、紅茶がメインではない会社の社長も名を連ねている点です。
会長:佐伯 光則(三井農林株式会社 代表取締役社長)
副会長:片岡 謙治(片岡物産株式会社 代表取締役社長)
副会長:柴田 裕(キーコーヒー株式会社 代表取締役社長)
専務理事:米川 榮(日本紅茶協会)
常務理事:秋庭 浩平(日本紅茶協会)
理事:本庄 大介(株式会社伊藤園 代表取締役社長)
理事:朝田文彦(UCC上島珈琲株式会社 代表取締役社長)
理事:光宗 晃子(エカテラ・ジャパン・サービス株式会社 代表取締役 ゼネラル・マネジャー)
理事:山田 詩子(株式会社カレルチャペック 代表取締役社長)
監事:森下 康弘(共栄製茶株式会社 代表)
参与:池田 和義(日本紅茶協会)
名誉顧問:稲田 信一、田中 哲
トワイニングの日本総代理店である片岡物産
日本初の国産ブランド紅茶「三井紅茶(現:日東紅茶)」を発売した三井農林
リプトンを傘下に持つエカテラ・ジャパン・サービス株式会社
紅茶専門店のカレルチャペック
と、日本を代表する紅茶会社の社長さんも名を連ねています。
紅茶が少ない日本の飲料消費
総務省統計局の家計調査(2018〜2020年の平均)を見ると、日本では紅茶はあまり飲まれていないことが分かります。
カテゴリーを形成している中で紅茶は最も消費金額が少ない結果が示されています。
■金額ベースの飲料消費
果実・野菜ジュース:7,741円
コーヒー :6,495円
炭酸飲料 :5,938円
乳酸飲料 :4,049円
緑茶 :3,825円
乳飲料 :2,244円
スポーツドリンク :1,436円
紅茶 : 765円
その他飲料 :7,253円
一般社団法人 全国清涼飲料連合会が発表している清涼飲料水の品目別販売金額シェア(2020年)でも紅茶が最も少ない結果となっています。
■清涼飲料水の販売金額シェア
コーヒー飲料等 21.5%
茶系飲料 19.6%
炭酸飲料 18.8%
ミネラルウォーター類 8.1%
スポーツ飲料 7.6%
果実飲料 7.5%
紅茶飲料 5.3%
その他飲料(野菜飲料、豆乳飲料等)11.6%
この2つのデータを見ると、日本紅茶協会にコーヒーや緑茶を強みとする企業の社長さんが名を連ねていることにも納得します。
「紅茶の日」前後に行われるキャンペーン
日本紅茶協会の「豪華紅茶セットプレゼント」キャンペーン
A賞(日本紅茶協会オリジナルティーコージー+紅茶セットA)が50名
B賞(紅茶セットB)が100名
に当たるキャンペーンを2022年は実施中。
応募は11月30日まで。
Afternoon Tea TEAROOM(アフタヌーンティーティールーム)
2022年は10月6日から【ティーフェス2022】が始まっています。
11月1日に始まる第5弾まで順次スタートしています。
第5弾はアフタヌーンティー・ティールームがおすすめするお茶7種類(28個)とティーチケット(7回券)がセットになった「Tea for Peace BOX」の販売です。
また、11月1日と2日は店内メニューのTEA(単品)が¥111で楽しめる企画を実施中(チケットをすでに持っている人のみが対象)。
参照)
【ティーフェス2022】10.6~紅茶を楽しむ企画が順次スタート
カルディ(KALDI)
2022年は11月10日に紅茶バッグを数量限定で販売します。
ネパール紅茶とセイロン紅茶にスパイスをブレンドしたエベレストチャイをはじめ、ビスケットやリーフシュガー、磁器などがトートバッグにセットになっています。
参照)
11/1は紅茶の日!2種類の紅茶やお菓子などが入った「紅茶バッグ」を11/10(木)に発売!
なぜ、11月1日が「紅茶の日」なのか?
日本紅茶協会が11月1日を紅茶の日と定めたのは1983年です。
全日本コーヒー協会が10月1日をコーヒーの日と定めたのも1983年です。
おそらく、コーヒーの日が定められたことを受けて、紅茶の日を定めることにしたのではないかと思います。
コーヒーの日が10月1日なのは、最大のコーヒー生産国ブラジルのコーヒー収穫期が終わった新年度が始まる10月1日に合わせたものです。
国際コーヒー機関は、いくつか協定を定めていますが、その多くが10月1日に発効されていますので、コーヒーの日は自然と10月1日になったのでしょう。
2015年からは国際コーヒー機関が10月1日を「International Coffee Day」と定めています。
一方、11月1日の「紅茶の日」は日本のみで、国連食糧農業機関が2019年に「International Tea Day」を5月21日と定めています。
これはインドの労働組合が主導し、スリランカの労働組合も加わって2005年1月にブラジルで開催された「世界社会フォーラム」で、12月15日を「International Tea Day」と定めると発表したことに端を発します。
2005年12月15日に第1回目のInternational Tea Dayがニューデリーで開催され、2006年12月15日にはスリランカでも開催されています。
12月15日に開催されるInternational Tea Dayは、インド、スリランカ、ネパール、バングラディシュ、ベトナム、インドネシア、マレーシア、ケニヤ、ウガンダ、タンザニア、マラウイと南アジア・東南アジア・東アフリカの茶の生産国で祝われるようになります。
そこでインド政府は2015年、国連食糧農業機関(FAO:Food and Agriculture Organization of the United Nations)にInternational Tea Dayをもっと広められるよう働きかけます。
国連食糧農業機関は、多くの茶の生産国で5月から茶の製造が始まることから12月15日ではなく、5月21日と定めています。
つまり、紅茶関連の日は以下の3つの日があります。
1983年11月1日開始:日本の「紅茶の日」
2005年12月15日開始:南アジア・東南アジア・東アフリカの「国際お茶の日」
2019年5月21日開始:国連の「国際お茶の日」
日本での紅茶の消費量は冬に増えます。(コーヒーの消費量も冬に増えます。)
10月31日のハロウィンの起源は冬の始まりのお祭りですので、日本での紅茶消費量を盛り上げる上で、11月1日が紅茶の日なのは良いタイミングだと思います。
ロシアで紅茶を飲んだ大黒屋 光太夫
紅茶の日は、1791年(寛政3年)11月に大黒屋光太夫らがロシア帝国の帝都サンクトペテルブルクで女帝・エカチェリーナ2世に謁見し、日本人として初めて外国での正式な茶会で本格的な紅茶を飲んだことを記念した日とされています。
大黒屋光太夫とは誰で、なぜ鎖国中の江戸時代にサンクトペテルブルクでエカチェリーナ2世に謁見したのか?その背景を紹介します。
大黒屋 光太夫とは?
大黒屋光太夫は、伊勢国白子の港を拠点とした回船の船頭です。
回船「神昌丸」で紀州藩の囲米を積み、白子の浦から江戸へ向かい出航する途中の駿河沖付近で暴風に遭遇して漂流。
アリューシャン列島のアムチトカ島へ漂着します。
アリューシャン列島からカムチャッカ半島、オホーツク、ヤクーツク、イルクーツクを経由して、サンクトペテルブルクで女帝エカチェリーナ2世に謁見し帰国が許され、遭難から9年半後にようやく日本に帰国しています。
光太夫は帰国後に11代将軍・徳川家斉の前で聞き取りを受け、医者・蘭学者の桂川甫周がその記録を『漂民御覧之記』としてまとめ、後に地誌『北槎聞略』として編纂されています。
1968年に井上靖によって長編小説『おろしや国酔夢譚』の主人公として描かれ、1992年に映画化されています。
1979年に始まったみなもと太郎の漫画『風雲児たち』の田沼時代編でも描かれ、2018年1月1日に三谷幸喜脚本でテレビドラマ化され、2019年には三谷幸喜脚本で歌舞伎化されて『月光露針路日本 風雲児たち』と題されて上演されています。
また、光太夫の出身地である三重県鈴鹿市には大黒屋光太夫記念館があります。
伊勢商人の拠点だった白子
光太夫が拠点としていた白子は古来より港として栄え、平安時代には伊勢平氏の水軍「古市の白児党」の根拠地となっていたようです。
白児党の名は白布を身に付けて訓練に励んだことに由来するそうですが、この白児が白子の由来という説があります。
江戸時代には紀州藩の代官所や紀州侯別邸、目付役所、物頭役所が白子に置かれています。
また、伊勢商人は伊勢国・尾張国・三河国の木綿輸送を確保・統制するため江戸で大伝馬町組と白子組を結成し、白子の積荷問屋や廻船問屋を支配したといいます。
9年半に及ぶロシア滞在
光太夫はなぜ9年半という長い間ロシアにいたのでしょうか。
その9年半を見ると、かなり壮絶な遭難生活だったようです。
以下に期間を分けて紹介します。
1)船で7ヶ月間の漂流
1783年1月(天明2年12月)、光太夫は船員15名と紀州藩から立会いとして派遣された農民1名とともに神昌丸で紀州藩の囲米を積み、伊勢国白子の浦から江戸へ向かい出航します。
ところが、駿河沖付近で暴風に遭い漂流してしまいます。
7か月あまりの漂流の後、アリューシャン列島に属するラット諸島のアムチトカ島へ漂着します。
この漂流中に1名が船内で亡くなっています。
2)アムチトカ島で4年過ごす
光太夫たちは先住民のアリュート人に助けられ、毛皮収穫のために滞在していたロシア人とともに暮らす中で光太夫らはロシア語を習得します。
ちなみに、アリューシャン列島は「アリュートの島々」という意味です。
ラット諸島はネズミが多かったことから命名されたそうです。
アムチトカ島は現在はアメリカのアラスカ州に属しますが、当時はロシア領でした。
アメリカ領になるのは1867年3月のアラスカ購入からです。
3)アリューシャン列島を西へ移動
4年後(1787年)、生き残った漂流民の9人は、ありあわせの材料で造った船によりロシア人らとともにアムチトカ島を脱出します。
アムチトカ島が属するラット諸島の西にあるニア諸島へ移動します。
ニア諸島の名は、アリューシャン列島で最もロシアに近いことに由来しています。
さらに、アリューシャン列島の西端の諸島で唯一現在もロシア領のコマンドルスキー諸島へ移動します。
コマンドルスキー諸島の名は、ロシアの司令官が発見したことに由来します。
4)カムチャツカ半島を横断
カムチャツカ半島の東にあるカムチャツカ川の河口の町ウスチカムチャツクに到着。
9人はロシア人の家に下宿し、食糧は現地の守備隊から配給を受けます。
ところが冬になり、オホーツクからの船舶輸送が滞るようになり、深刻な食糧不足で、1788年5月までに3名が病死しています。
1788年6月15日、6人はチギリ川がカムチャツカ半島の西から太平洋に注ぐ河口の町チギリに移動します。
5)オホーツク、ヤクーツクを経由してイルクーツクへ
チギリから船に乗って8月30日、ユーラシア大陸のオホータ川の河口の港町オホーツクに到着。
オホータとは狩猟の意味だそうです。
12月13日にオホーツクを出発し、レナ川沿いの町ヤクーツクへ。
レナ川はバイカル湖の西20kmのバイカル山脈から流れている川です。
ヤクーツクを出発して、1789年2月9日にイルクーツクに到着しています。
イルクーツクはバイカル湖に西側から流れ込むアンガラ川沿いの町です。
イルクーツクはイルクーツクの州都で光太夫は「中国、朝鮮・満州などの人が交易におとずれ繁華な土地である」と述べたそうです。
6)イルクーツクでキリル・ラクスマンに出会う
イルクーツクへの途中で一行の一人「庄蔵」が凍傷にかかり片足を切断。
不自由な身体となった庄蔵はこのことが原因で、いち早く正教の洗礼を受け、ロシアに帰化しています。
1789年、イルクーツクで南部藩の多賀丸の漂流民の遺児たちと出会い交流しています。
一行の一人「新蔵」はチフス性の熱病にかかり、医師からは回復の見込みがないとの診断が下されたため、正教の洗礼を受けることを決意し、ロシアに帰化しています。
1791年1月、光太夫はイルクーツクでスウェーデン系のフィンランド出身の博物学者「キリル・ラクスマン」に出会い、ラクスマンが帰国を支援してくれることになります。
入院中の新蔵、片足のない庄蔵はイルクーツクに残り、光太夫・磯吉・小市の3人はキリル・ラクスマンとともにサンクトペテルブルグに向かいます。
7)サンクトペテルブルグでエカチェリーナ2世に謁見
キリル・ラクスマンの尽力により、ツァールスコエ・セローにてエカチェリーナ2世に謁見し、光太夫・磯吉・小市の3名は帰国を許されます。
ロシアに帰化した新蔵と庄蔵には金貨50枚が下賜されます。
3名はイルクーツクに戻ることにしますが、戻る前にエカチェリーナ2世から茶会に招かれます。
これが紅茶の日の元になる1791年(寛政3年)の11月1日です。
8)根室に到着
日本に対して漂流民を返還する目的で遣日使節アダム・ラクスマン(キリルの次男)に伴われ、光太夫、磯吉、小市の3名が1792年9月に根室に到着。
帰国を果たしたものの、小市は根室で亡くなります。
光太夫と磯吉の2名は江戸へ送られます。
9)江戸城で徳川家斉に謁見
1793年9月18日、吹上御殿(当時は徳川御三家の大名屋敷)で11代将軍 徳川家斉に謁見します。
徳川家斉の前で聞き取りを受け、その記録は桂川甫周が『漂民御覧之記』としてまとめています。
桂川甫周は、光太夫の口述と『ゼオガラヒ』という地理学書をもとにして『北槎聞略』を編纂しています。
その後、光太夫と磯吉は江戸・小石川の薬草園に居宅をもらって生涯を暮らし、光太夫は新たに妻も迎えています。
1795年(寛政7年)には大槻玄沢が実施したオランダ正月を祝う会に招待されており、桂川甫周を始めとして多くの知識人たちとも交際を持っています。
大槻玄沢は解体新書の著者である前野良沢(翻訳係)と杉田玄白(清書係)の弟子で、この二人の名を譲り受けた人物です。
江戸時代にロシアに漂着した日本人たち
光太夫たちはイルクーツクで南部藩の多賀丸の漂流民たちと交流していますが、江戸時代にアリューシャン列島やカムチャツカ半島に漂着した日本人の記録がいくつかあります。
1696年、最初にロシアを訪れた日本人で、日本人初の正教徒である伝兵衛が、海路で大阪から江戸に向かう途中嵐に遭い、漂流の後カムチャツカ半島に漂着しています。
1729年、薩摩の若潮丸乗組員である権佐・宗蔵らは、大阪に向かう途中に遭難し、カムチャッカ半島に漂着しています。
1744年、南部藩の多賀丸がカムチャッカ半島に近い、千島列島の温禰古丹島に漂着しています。
1793年12月2日、日本人初の世界一周をした善六、津太夫、儀兵衛、太十郎が乗った若宮丸は石巻から江戸に向かう途上の福島県いわき市沖で遭難しています。
7ヶ月の漂流の末に、1794年5月10日の朝にアリューシャン列島のフォックス諸島のウナラスカ島に漂着しています。
1803年、箱館を出港し江戸に向かう途中の九十九里浜沖で難破した継右衛門たちは、カムチャッカ半島に近い千島列島の幌筵島に漂着しています。
1810年11月、ロシアから広島に種痘(天然痘の予防接種)をもたらした久蔵は、摂津国船籍の歓喜丸が江戸へ航行中、紀州の三崎沖で遭難し、1811年2月7日他の乗組員と共にカムチャツカ半島に漂着しています。
興味深いのは、これらのロシアに漂着した日本人たちはお互いに助け合ったり、つながりがあることです。
最初にロシアを訪れた日本人・伝兵衛の話を聞いたピョートル1世は、伝兵衛を教師として日本語学校をモスクワに設立し(後にサンクトペテルブルクに移転)、その日本学校長ボグダノフと薩摩の権左は世界初の露日辞典を作成しています。
南部藩の多賀丸の漂流民はイルクーツクに送られ、ロシア政府はイルクーツクに日本語学校を新設しています。
1789年、大黒屋光太夫ら5名がイルクーツクに到着した際、ロシア政府は光太夫一行に対し、ロシアに帰化して日本語教師になることを勧めています。
凍傷で足を切断した庄蔵、熱病にかかった新蔵はロシアに帰化し、新蔵は日本語教師に就任しています。
仙台藩の若宮丸の、善六、辰蔵、儀兵衛はイルクーツクに到着した際に3人を世話したのは新蔵と日本語通訳のトゥゴルコフです。
新蔵は善力を熱心に説得し、ロシアへの帰化と日本語教師就任を了承させます。
そして、善六は辰蔵と儀兵衛を説得し、辰蔵がロシアに帰化しています。
これらのロシアに漂流した人たちは、江戸や大阪へ船で行く際に太平洋で遭難しています。
地図で見ると、こんな遠くまで流されたのか!と驚かされるとともに、生きて帰ってこれた人はわずかで、生き残った人たちも凍傷で足を切断するなどの大変な状況にあっています。
記録が残っていない遭難した日本人は他にもいたのかもしれません。
ロシア紅茶とヴァレニエ
以上、見てきたように日本の「紅茶の日」は、ロシアの紅茶に由来します。
日本ではロシアンティーというと、紅茶にジャムを入れるイメージがありますが、ロシアではジャムを紅茶には入れるのではなく、スプーンでジャムの一種「ヴァレニエ」を口に入れて飲むそうです。
ヴァレニエは果実の形がしっかり残っているロシア圏のジャム。
ヴァレニエはロシアの古い言葉で「煮た甘味」を意味するそうです。
別荘(ダーチャ)で夏の終わりから秋にかけて果物を収穫して、冬の保存食として作ります。
ダーチャは菜園付きのセカンドハウスで、主に夏に使われ、週末に利用したり、一定期間家族で滞在するなどの形で使われるようです。
ダーチャはロシア語の動詞「ダーチ(与える)」の名詞形「ダーチャ(与えられたもの)」の意味で、ピョートル大帝が庭園付き別荘を家臣の貴族たちに下賜したことに由来するとのこと。
ロシア人と結婚された日本人がブログでダーチャやヴァレニエについて投稿されています。
日本で旬の果物はりんごですので、今回はりんごでヴァレニエを作ってみました。
ロシアは中国から陸路で茶が伝わったため、「チャ」に由来して「チャイ」と呼ばれています。
海路で伝わったイギリスやフランスなどは閩南語「テ」に由来する「ティー」と呼びます。
ロシアはイギリスと並ぶヨーロッパで茶文化が豊かな国です。
セイロンティーの輸出先は中東・旧ソ連圏が多い
スリランカの紅茶の輸出先としてロシアは第3位です。
Tea Exporters Association Sri Lankaの2020年の統計データは以下の通りです。
1位:トルコ :38,866トン
2位:イラク :33,377トン
3位:ロシア :29,608トン
4位:イラン :15,127トン
5位:中国 :14,123トン
6位:アゼルバイジャン:10,303トン
7位:シリア : 9,536トン
8位:チリ : 9,419トン
9位:U. A. E. : 8,670トン
10位:リビヤ : 7,806トン
11位:サウジアラビア : 6,804トン
12位:ドイツ : 6,431トン
13位:U. S. A. : 5,707トン
14位:日本 : 5,611トン
15位:ヨルダン : 4,680トン
中東や旧ソ連圏が多いことが分かります。
陸路で茶が伝わった「チャイ」と呼ぶ国が多くなっています。
日本の紅茶輸入元はスリランカが圧倒的首位
スリランカにとって日本は14番目の輸出先ですが、紅茶消費が多くない日本においては、スリランカは輸入元1位の国です。
2021年1月〜8月の輸入量(3kg以下直接包装したもの)の輸入元国別順位は以下の通りです。
スリランカが圧倒的な1位です。
1位:スリランカ:690,489キロ
2位:インド :196,776キロ
3位:中国 : 99,525キロ
4位:イギリス : 80,880キロ
5位:U.A.E. : 62,216キロ
6位:スペイン : 53,608キロ
7位:台湾 : 40,376キロ
8位:ポーランド: 36,172キロ
9位:フランス : 32,355キロ
10位:ケニア : 28,526キロ
2000年と古いデータですが、バルクでの輸入量の国別でもスリランカが圧倒的に1位です。
1位:スリランカ :8,082,191
2位:インド :4,056,591
3位:シンガポール:1,089,000
4位:インドネシア: 971,349
5位:中国 : 552,724
6位:ケニア : 531,728
7位:イギリス : 270,655
ということで、11月1日は輸入元一位のセイロンティーをロシア式・イギリス式・スリランカ式・インド式など色んな楽しみ方で飲んでください!
参照)
日本紅茶協会:2021年11月1日インスタライブ「紅茶の日おめでとう!」
日本紅茶協会インスタグラムアカウント
日本紅茶協会Youtubeチャンネル
日本紅茶協会:2020年紅茶の日記念オンラインイベント
日本紅茶協会:紅茶の日
日本紅茶協会:日本紅茶協会について
片岡物産オフィシャルサイト
三井農林オフィシャルサイト
共栄製茶オフィシャルサイト
総務省統計局:家計調査(二人以上の世帯) 品目別都道府県庁所在市及び政令指定都市(※)ランキング(2018年(平成30年)~2020年(令和2年)平均)
一般社団法人 全国清涼飲料連合会
Wikipedia:International Tea Day
Food and Agriculture Organization of the United Nations:5月21日 国際お茶の日 (International Tea Day)
ウィキペディア:世界社会フォーラム
INDIA TODAY:International Tea Day 2020: Date, history and significance
NATIONAL DAY CALENDAR: INTERNATIONAL TEA DAY
ウィキペディア:大黒屋光太夫
ウィキペディア:新蔵
ウィキペディア:おろしや国酔夢譚
ウィキペディア:風雲児たち
ウィキペディア:月光露針路日本 風雲児たち
鈴鹿市文化財ガイド:大黒屋光太夫記念館
ウィキペディア:白子港
ウィキペディア:白子町 (鈴鹿市)
ウィキペディア:阿部吉郎次
ウィキペディア:継右衛門
コトバンク:権蔵
コトバンク:宗蔵
ウィキペディア:日本語学校
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ウィキペディア:キリル・ラクスマン
ウィキペディア:アダム・ラクスマン
ウィキペディア:北槎聞略
ウィキペディア:桂川甫周
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ウィキペディア:解体新書
ウィキペディア:オランダ正月
大井川茶園公式ブログ:西欧とは異なるルーツを持つ国・ロシアの茶文化とその歴史。
LHM:お茶の国、ロシア
ウィキペディア:ヴァレニエ
RUSSIA BEYOND:地方別の珍しいヴァレニエ7種
RUSSIA BEYOND:なぜソ連のダーチャは天国だったのか?(写真特集)
ウィキペディア:ダーチャ
Tea Exporters Association Sri Lanka:Statistics
日本紅茶協会:紅茶のデータ
「旅と町歩き」を仕事にするためスリランカへ。
地図・語源・歴史・建築・旅が好き。
1982年7月、東京都世田谷区生まれ。
2005年3月、法政大学社会学部社会学科を卒業。
2005年4月、就活支援会社に入社。
2015年6月、新卒採用支援事業部長、国際事業開発部長などを経験して就職支援会社を退社。
2015年7月、公益財団法人にて東南アジア研修を担当。
2016年7月、初めてスリランカに渡航し、会社の登記を開始。
2016年12月、スリランカでの研修受け入れを開始。
2017年2月、スリランカ情報誌「スパイスアップ・スリランカ」創刊。
2018年1月、スリランカ情報サイト「スパイスアップ」開設。
2019年11月、日本人宿「スパイスアップ・ゲストハウス」開始。
2020年8月、不定期配信の「スパイスアップ・ニュースレター」創刊。
2023年11月、サービスアパートメント「スパイスアップ・レジデンス」開始。
2024年7月、スリランカ商品のネットショップ「スパイスアップ・ランカ」開設。
渡航国:台湾、韓国、中国、ベトナム、フィリピン、ブルネイ、インドネシア、シンガポール、マレーシア、カンボジア、タイ、ミャンマー、インド、スリランカ、モルディブ、アラブ首長国連邦、エジプト、ケニア、タンザニア、ウガンダ、フランス、イギリス、アメリカ
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