『イスル・ソヤ―スリランカの海外出稼ぎ事情』
1985年から2年間、スリランカ労働省・海外雇用公社で働いた内藤俊雄さん。
その経験を元に1990年に発行された『イスル・ソヤ―スリランカの海外出稼ぎ事情』について紹介します。
本書は当時のスリランカの様子が描かれており、現在のスリランカに至る背景が想像できて、非常に面白い内容でした。
本記事では、本書の概要を紹介した後に、本書から気になった内容をピックアップして紹介します。
目次
本書の概要
本書に登場するエピソードは内藤さんがスリランカに暮らしている時に、青年海外協力隊スリランカ隊員誌『インド洋』に数回に分けて寄稿したものだそうです。
著者・内藤俊雄さん
本書に記載されている著者紹介を以下に記します。
1959年、島根県松江市生まれ。
1983年、東京大学文学部卒。
会社勤めを経て、1985年7月より2年間、スリランカ労働省・海外雇用公社で海外出稼ぎについての情報システムづくりに携わる。
現在、筑波大学大学院経営政策科学研究科に在籍中(アジア経済・国際労働力移動を主たるテーマとする)。
スリランカ海外雇用公社とは?
プロローグで、スリランカ海外雇用公社の説明が記載されています。
スリランカ海外雇用公社-海外出稼ぎを国策として進めるために、せんだって親切されたばかりの組織だ。独立した建物への移転を年末に控えてはいるものの、親組織である労働省の本庁舎に、今のところ間借りしている。職員もわずかに5人。全て労働省からの出向組で、彼らは公社の管理職につく。これから職員を公募して30人以上にまで増やし、海外出稼ぎの促進、周旋業者の監督、出稼ぎにまつわる苦情の処理、帰国した労働者の最適応対策など、幅広い活動をしてくことになっている。
本書には当時のコロンボの地図が掲載されていますが、現在の陸軍病院のあたりに労働省本庁舎が、現在のイタリア大使館のあたりにスリランカ海外雇用公社があったようです。
タイトル「イスル・ソヤ」とは?
1990年の1月、「イスル・ソヤ(意味:幸せを探して)」というタイトルの連続ドラマが、国営テレビで始まった。このテレビドラマは、海外雇用公社の広報活動の一環として作られたものだ。(中略)金曜日の8時半から30分という、ゴールデンアワーに放映される。
と本書のエピローグに記載されています。
本書の発行は1990年10月で、原稿は放送開始前に書かれたもののようです。
ドラマの概要がエピローグに以下のように書かれています。
飲んだくれの父親の稼ぎは少なく、大家族の一家はお腹をすかしている。主人公の女子高校生はそんな暮らしをなんとかしたいと思い悩んでいる。一方、隣の家はかなり裕福だ。というのも、その家の母親が海外に出稼ぎに行ってひと財産作ってきたのである。こうした「古典的」ともいえる状況から物語は始まる。やがて、主人公の母もツテを頼って出稼ぎに行き、お金を稼いで帰ってくる。ところが、母はすっかり変わってしまっていた。随分と垢抜けした母の持ち帰ったお金で立派な家を買うことができ、彼女の始めた新しい商売で一家が経済的に潤うようになったのだが、主人公の女の子はちっとも嬉しくない。というのも、父と母が一言も口をきかないのだ。おまけに、「マテリアル・ガール」となってしまった母は、長い間大切にしてきたミシンをこともなげに捨ててしまおうとする。その古ぼけたミシンには、お金はなかったけれど幸せだった一家の思い出が詰まっていた。
出稼ぎ事情
- 1970年代前半まで、スリランカを離れて海外で働くというのは特権階級に限られた話だった。旧宗主国であるイギリスを筆頭に、アメリカやオーストラリアといった英語圏の先進国に家族ごと移住してしまう医者や弁護士、学者たちがいた。
- 1970年代の石油ブームで中東産油国に巨大な労働市場が生まれた。
- 1977年には、社会主義路線を歩んでいたスリランカ自由党(SLFP)が総選挙に敗れ、開放経済政策をとる統一国民党(UNP)が政権についた。外国資本を呼び入れて工業化を進めようとすれば、都市へと人が流れる。しかし、都会での働き口もそう簡単には手に入らない。
- 一方、メイド・イン・ジャパンをはじめとする輸入品が、農村部にもあっという間に入り込んでいく。モノの力は現金収入を得る仕事へと村びとをさらに駆り立てる。
- 国内で喰い詰めた人たちが海外に出かけていくのではない。人口過密ではあるが、熱帯モンスーンの吹く豊穣の島に、寒さと飢えはとりあえずない。お金を掴んでモノの豊かさを手にしたいという夢にかられて、人が動く。
- 行き先は、当然のことながらサウジアラビアをはじめとする湾岸産油国が全体の九割以上を独占、残りがブルネイ、シンガポールといった都市国家に向かう。
- 建設ブームの冷めた中東から、たくさんの出稼ぎ労働者が引き揚げた。しかし、砂漠に造られた人工都市を維持するためには人手がいる。やすい労働力に対する需要は底堅い。そして、この数年の家政婦出稼ぎの急増である。
- いっとき、大量の家政婦を”輸出”していたインドやパキスタンでは、留守を預かる亭主の間に寂しさと育児疲れのための酒乱、精神錯乱、浮気が多発、さらに女房が帰ってきた後はお金を巡って夫婦の関係が軋み出す。
- 主婦の海外出稼ぎがもたらす深刻な社会問題に頭を痛めた両国政府は、苦肉の策を打ち出した。45歳以上なら出かけてもよろしい、という年齢制限である。
- 雇う側にしてみれば、若くてよく働く娘が欲しい。
- スリランカの労働者たちは”商品”である。コロンボークウェート間の航空運賃が値上げされれば、たちまちスリランカ家政婦の需要は落ち、かわりにフィリピンやインドネシアからの出稼ぎが増える。雇用主にとって、出稼ぎの家政婦を雇うのは、航空運賃プラス給料で総額いくらになるか、という買物感覚なのだ。
- 給料についての証言は、あまり当てになりませんよ。たくさんもらって儲かったってことになりゃあ、親族がよってたかってぶらさがりくるからね、ああやって牽制しあうんです。それに中東で儲けると、政府の食糧配給を削られてしまうんですね。だから、多額の支度金を払って出かけたのに少ない給料しかもらえなかったことを、みんなに力説するわけです。
- コロンボの周旋業者に占めるムスリムの比率はかなり高い。
出稼ぎにまつわる詐欺事件
- ボンベイは、スリランカ人の出稼ぎをめぐる詐欺事件の舞台となりやすい。ビジネスの上での結びつきは、ニューデリーとコロンボの間柄よりも強いだろう。コロンボ-ボンベイ間には直行便が飛んでいる。何よりも、ボンベイはアラブ世界への玄関口なのである。
- パキスタンといっても、南アジア・クリケット界のスーパースター、美貌の青年カーンの国というイメージくらいしかあるまい。そしてカラチはボンベイと並ぶ中東への玄関口だ。カラチに行けば、中東での仕事も簡単に見つかる、と甘い言葉に騙された女もいた。
- いかにたくさんの詐欺事件を耳にしても「自分だけは大丈夫だ」と思ってしまうのは、日本でも同じことだろう。一発当てて金をつかもうという気持ちは、誰の心にもある。それを釣り上げるのが詐欺師のテクニックだ。そして、詐欺に引っかかった人たちの多くは科目にある。
- 「この手の話で騙されるケースは、コロンボで耳にタコができるくらい聞かれていたんですよ。ムスリムの口コミ情報網は、しっかりしてますからね。でもね、この男は信用できるって思いました。それに、自分だけは騙されることはないと、なぜか確信しちゃったんですよね。
当時のホテル事情
ホテル・オベロイ(現:シナモン・グランド)
- ホテル・オベロイは、数ある外国人向けホテルの中でもとりわけ格式が高い。オベロイはインド資本のホテルチェーンだが、このランカ・オベロイはスリランカ政府の肝入りで設立された。
ホテル・ラマダ・ルネッサンス(現:シナモン・レイクサイド)
- アメリカ資本の高級ホテル、ラマダ・ルネッサンス。
- 空軍総司令部の向かいに最近完成したこの五ッ星ホテルには別館がある。そこには、デューティーフリー・コンプレックスと呼ばれ、免税店が軒を連ねている。入場料を払って中に入れるのは外国人か、外国帰りのスリランカ人だけ。
- ラマダの「租界」を訪れる客のほとんどは、出稼ぎ帰りの労働者たちなのだから。免税店街ではデューティーフリー三種の神器、酒・煙草・香水はなりをひそめ、まるで秋葉原のように電気屋がひしめいている。
- 例えば、バーレーンで2年間、ホテルのボーイとして働いた男がいるとしよう。(中略)もちろんこれは、彼が当世まれにみる紳士的な周旋業者に出会い、いっさい「袖の下」を要求されなかったという前提があっての話である。(中略)彼は虎の子の2000ドルを懐に、入場料25ルピーを払ってラマダ免税店街に足を踏み入れる。(中略)さて、そこで。彼の稼ぎ出した6000ドルのうち、いったいいくらがスリランカを潤した事になるか。ずいぶん甘く見積もっても1000ドルを超えることはあるまい。コロンボ”秋葉原”の商人の儲けと流通経費、テナント料、そして2回に渡って支払われた入場料だけが、彼の2000ドルのお買物の結果として、スリランカに残る。さらに、仕送りを受けていた家族の支出のうち、国産の商品に支払われた額も加えられてよい。しかし、それだけである。もっと厳密に検証すれば、テナント料はアメリカに還流していくだろうし、家族が国産の建材を買っていたとはいえ、その建材を作る工場の機械は西ドイツ製だったりする。商人は儲けた金でさらに電気製品を輸入する。電気製品の売上は、もちろん日本に吸い上げられていく。
ヒルトン・コロンボ
- 一番新しいヒルトンは、1987年に竣工した。三井が全面的にかかわっている。テナントとして銀座の料亭が入り、眼の玉が飛び出るような値段で懐石料理を出す。そこは、あからさまな日本租界である。
Juliana Hotelのこと?
韓国人オーナーのコッルピティヤにあるジュリアナホテルには、入口の脇に韓国カフェ「e-cafe」があり、一階には韓国料理屋がありましたが、このホテルのことだと思われる記述が本書にあります。
- ソウルに家族を残し、異国で孤軍奮闘する彼は、すでに50歳を超えている。コロンボに初めてやってきたのは1980年台の初頭。韓国の建設会社によるプロジェクト落札、華やかなりしころだった。キムチなしには生きられない韓国人技師、建設労働者にふるさとの味を提供する韓国料理屋を開いたのである。彼らのほとんどが単身赴任だから、料理屋は繁盛した。
- 高級ホテルやショッピングセンターの建設プロジェクトが終わり、コロンボに在住する韓国人の数もめっきり少なくなってくると、料理屋で儲けた金をカジノの営業に投資した。
- ギャンブルは原則的に禁止されていたはずなのだが、コロンボには政府公認のカジノが数軒ある。観光客に少しでも外貨を落としていってほしい政府にしてみれば、背に腹は変えられない。客のほとんどはタイ華僑である。
- 賭博に対する規制が厳しいタイでは、カジノの営業は認められない。タイ華僑の多くは、マカオに飛んで、ギャンブルを楽しんできた。しかし、狭いマカオだ。すぐに退屈してしまう。どこか別の手近なところに、新しいカジノは作れないものか。(中略)バンコクに親指を置き、そこから飛行機で3時間を見当に、人差指をぐるりと回した。(中略)コロンボだ。
- やくざな稼業からはそろそろ足を洗いたいと、そろそろ疲れの見えてきたペク(仮名)は、売りに出ていたコロンボ市内の中級ホテルを買取り、その経営に専念することを決意する。(中略)買い取ったホテルの一階に、もういちど韓国料理屋を開く。二階には、バーも作った。
南西海岸のホテル
- 大きなホテルは、政府の観光開発政策に従い、外貨を導入して建設されたもので、コロンボの親会社が経営の実権を握っている。
- 中規模のものには、観光に訪れてこのビーチを有望と見込んだヨーロッパの実業家が資金をだし、地元の地主が土地を提供、ホテルの運営もその地主に任される、というケースが多い。
- ゲストハウスの大半は、海岸沿いに昔から建っていた地主の家を改造したものだ。
町
- イギリス統治時代の後半にたくさんの豪邸が建てられた。独立後その多くは政府に接収され、各国大使館、役所や国営企業の事務所となって生き延びている。
- 英語でドゥービーと呼ばれるカーストの洗濯屋が市内のお金持ちの家をまわるコロンボで、洗濯機はさほど普及していない。
- 街の食堂は大きく3つに分類される。一つは、外国人観光客やスリランカのお金持ちを顧客とした高級レストラン。次に、庶民の贅沢として、昔ながらのおいしい食堂がいくつかある。もう一つは、大衆相手の食堂だが、食事は家庭でするのが一番とされているスリランカで、こうした大衆食堂はどちらかというとコロンボに出稼ぎにきている、よるべなき肉た労働者向けだ。
日本との関係
- 日本との貿易額は現政権になって急増した。1978年以来一貫して、輸入相手国の第一位は日本である。
- スリランカを訪れる旅行者国別ランキングのトップを独走しているのが西ドイツ。名うての旅行狂ドイツ民族は健在のようだ。”がんばれニッポン”はどうなっているかというと、1985年に第4位。だが、「滞在日数の短さ」においては”名誉ある”金メダルに輝き続けている。どれくらい短いかというと、最も長い西ドイツの平均13.6日に対して、日本はたったの4.1日(いずれも1985年)。
- 日本人はやっぱり働きすぎだ。せめて、毎年1ヶ月はまとめて休めるような社会を作ろう。1ヶ月も動き回っていたらお金がいくらあっても足りないから、必然的に旅先の一ヶ所でのんびりするという旅行スタイルに変わる。ブランドもののお土産を買い漁ることも減るだろう。毎年出かけられるのなら、無理して今年買うこともないからだ。
- ただたんに、限られた予算でどれだけ怠惰に過ごすか、ということに血道をあげているだけなのである。
政治
- 「国民服」は、政治的な色合いの濃い服装だ。けっして伝統的な民族衣装ではない。
- こうした大衆とエリートの間の亀裂を縫うように頂点にのぼりつめたのがプレマダーサ首相である。(中略)資産家や教育を受けた中産階級の利益を代弁していながらも、選挙においては大衆の支持をとりつけなくてはならない統一国民党の、苦しい内情があったことは確かだろう。ことあるごとに、プレマダーサがゴイガマの生まれでなく、よるべき都市大衆の中から立身出世してきたことが喧伝された。対外的には、カーストや地主制度という「旧弊」を乗り越えた民主国家の代表選手として。国内では、能力と努力次第で誰にでも道は開かれることを証明した希望の星として。
スリランカの教育
カレッジ
- イギリスから持ち込まれたパブリックスクールに由来するカレッジの制度は、スリランカの社会選抜の仕組みとして、今も強力に作用している。
- カレッジとは、初等・中等の一貫教育を行う教育機関。
- 数ある男子校の中でも最も格が高いのがロイヤルカレッジ。
セントピーターズは、キリスト教系の有名私立カレッジ。
アーナンダ・カレッジは仏教系の名門。
大学
- スリランカには国立の総合大学が8校あり、さらに法科大学、私立の医科大学もあるが、毎年誕生する学士の数はわずか数千人。日本のおよそ1/8という人口を考えても、かなり狭き門だ。しかし、就職に困らないのは定員の限られた医学部・工学部の出身者だけ。文化系の学部、とりわけ人文科学専攻者は悲惨を極める。
英語
- かつてイギリスは、英語教育を植民地に普及させ、自らの手で西欧的価値観を身につけた独立運動家を育てる、という皮肉を経験した。現代においては、スリランカ政府がシンハラ農民層に大学教育を広め、自らの手で反政府活動に飛び込まざるをえない若者を生み出す、という皮肉を味わっている。
- シンハラ民族主義によって英語教育が抑えられたことで、英語の価値はかえって高くなった。
- 英語で育ち、英語で仕事をし、家族の間でも英語しか使わないエリート階層を頂点に、仕事では英語を使うが自宅ではシンハラ語で話す中産階級、そして仕事でも家庭でもシンハラ語しか使わない大衆層。
- ラダラ(シンハラ貴族カースト)の家柄で(中略)、彼らの母語は英語である。シンハラ語、使用人に何かを命じるときの言葉であり、寺院で僧侶に話しかけるときの言葉である。高尚な議論も、微妙な感情表現も英語でしかできない。
学生運動とJVP
- スリランカにある8つの国立総合大学は、このところ閉鎖されたままだ。大学が反政府活動の温床になっているという理由で、学生はキャンパスから締め出されている。授業再開のめどは立っていない。
- 分離独立を求めるイーラム勢力に譲歩を続ける現政権に対しての抗議行動が、あいついで組織された。急先鋒は農村出身のシンハラ学生たちだった。弱腰な大統領を猛烈にこき下ろすビラが、キャンバスを舞った。
- 今の財政赤字ではいかんともしがたいだろうね。IMF勧告に従わないことには、融資も受けられないし。それよりも気がかりなのは、現政権の工業化路線で地方の家内的な工業(コテージ・インダストリー)が大きなダメージを被ったことだ。
- JVPのよりどころはシンハラの農村だ。農村青年のいらだちを極端な形で体現しているのがたまたまJVPである、ということだけだよ。
- 南部ハンバントタ県に生まれ育ったロハナは、1982年の大統領選挙でも27万票を獲得(得票率4.19%)し、現職大統領、野党自由候補に次いで第3位となった。とりわけ出身地のハンバントタでは14.6%という高い得票率を叩き出している。
交通事情
- マイクロバスは「プライベート・コウチ」と呼ばれている。私営の乗合自動車というわけだが、国営バスの路線を補完すべく、1980年代に入って急増した。言わずと知れた日本中古車の独壇場である。
- エリート層のバスに対する抵抗感は強い。もし自家用車やカンパニーカーが不意に故障して、それでも会社に行かなければならない場合、彼はどうするか。まず、会社に連絡し、迎えの車を頼む。それが来ない場合、その日は会社を休みにする。
- 普通、マネジャー以上は全てカンパニーカーに乗る。通勤にかかる燃料代および修理費用は、会社が負担してくれる。原則として他人に又貸ししてはならないが、仕事以外に乗り回すのも自由。これはイギリスをまねた制度だ。
- 庶民が三輪タクシーを人の移動のみに使うことは、さほど多くない。たいてい荷物も運ぶ。人が動くのなら、バスかコウチに乗った方がずっと安上がりだからだ。
- スリランカでは、持ってる人からはそれなりに多くいただく。持たないものには財布の許す範囲で支払ってもらう。そうしたスリランカの良俗がある。
少数派の人々
タミル
- 大学合格者総数に占めるタミル人の比率は、民族別の人口比に照らし合わせるとたしかに高い。就職に有利な医学部、工学部などの理工系学部でそれは際立っている。少数民族であるゆえ、教育に投資して専門職を目指さざるをえなかった、ということもあるだろう。
- アーリア系の多い北インドに対する南部ドラヴィダ系民族の反発は強い。タミル・ナードゥはその急先鋒でもある。ニューデリーの中央政府も、スリランカからの難民保護に進んで協力し、タミル・ナードゥがイーラム勢力の後背基地化することを黙認し、かつ調停活動に積極的にならないと、タミル・ナードゥの不満がいつ爆発するともしれない。
- シンハラ人が悪しざまにケナすマドラスのタミル人社会について、研究を深めてみたい気がする。
ムスリム
- 僕たちムスリムはね、この国では少数派だ。役人になっても会社で働いても、結局のところトップには立てない。こうした社会でどうやって生き残っていくか。それには独立するしかないんだ。実力で勝負する。それは、僕たちスリランカに生きるムスリムの、長い伝統なんだよ。
まとめ
財政赤字とIMF勧告に関する当時の会話を見て、今も変わってないことが多いスリランカが見えてくるように思いました。
ホテル・ラマダ・ルネッサンス(現:シナモン・レイクサイド)の描写は、現在のスリランカの空港の免税店のようでもあります。
海外出稼ぎ労働者は”商品”と書かれていましたが、たしかに出稼ぎはアパレルや紅茶の輸出に頼ったモノカルチャー経済が形を変えただけと言えそうです。
そして、ホテル・ラマダ・ルネッサンスの免税店で例えられている、結局、いくらのお金がスリランカにもたらされるのか?といえば、わずかであり、その多くが先進国に吸い上げられるという指摘は、問題の根深さを感じさせます。
本記事では、箇条書きで本書に書かれていることが取り上げましたが、本書はいくつものエピソードが綴られています。
実際の体験を元に書かれた内容は、本人たちに迷惑がかからないように仮名にして書いたそうですが、つまり、そこにリアルな話が書かれているわけです。
気になった方は、ぜひ、本書を手に取ってみてください。
「旅と町歩き」を仕事にするためスリランカへ。
地図・語源・歴史・建築・旅が好き。
1982年7月、東京都世田谷区生まれ。
2005年3月、法政大学社会学部社会学科を卒業。
2005年4月、就活支援会社に入社。
2015年6月、新卒採用支援事業部長、国際事業開発部長などを経験して就職支援会社を退社。
2015年7月、公益財団法人にて東南アジア研修を担当。
2016年7月、初めてスリランカに渡航し、会社の登記を開始。
2016年12月、スリランカでの研修受け入れを開始。
2017年2月、スリランカ情報誌「スパイスアップ・スリランカ」創刊。
2018年1月、スリランカ情報サイト「スパイスアップ」開設。
2019年11月、日本人宿「スパイスアップ・ゲストハウス」開始。
2020年8月、不定期配信の「スパイスアップ・ニュースレター」創刊。
2023年11月、サービスアパートメント「スパイスアップ・レジデンス」開始。
2024年7月、スリランカ商品のネットショップ「スパイスアップ・ランカ」開設。
渡航国:台湾、韓国、中国、ベトナム、フィリピン、ブルネイ、インドネシア、シンガポール、マレーシア、カンボジア、タイ、ミャンマー、インド、スリランカ、モルディブ、アラブ首長国連邦、エジプト、ケニア、タンザニア、ウガンダ、フランス、イギリス、アメリカ
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