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スリランカとインドの関係を学ぶ! 辛島昇 編『南アジア史』

2022年4月08日

インダス文明、カースト制度、アーユルヴェーダ・仏教・ヒンドゥー教の伝来、南インドの王朝による侵略、インドからの移民など、スリランカはインド(特に南インド)から大きな影響を受けています。

バラモン教やアーユルヴェーダ、仏教、ヒンドゥー教がいつ、どんな背景で誕生し、なぜ衰退したのか?
なぜ、南インドの王朝がスリランカに攻め込んできたのか?

これまでスリランカについて調べる際に、合わせてインドについても調べてはいましたが、ネットで断片的に知っているだけでした。

ただ、流れを知ることで、スッと理解できることが多くあります。

そこで、今回紹介する本は、南アジアの歴史が本編500ページ、付録120ページ、合計620ページにまとめられている『南アジア史』です。

南アジアと言っても9割はインドの歴史です。
ただ、スリランカは南インドの歴史に触れる際、度々、ちらっと登場します。
全く出てこないモルディブとは対照的です。

また、スリランカは、ネパール、ブータン、シッキムよりも本書に取り上げられています。

スリランカでの歴史の動きは、インドでの歴史的な動きを受けていることが多く、インドを知ると、よりスリランカが見えてきます。

本記事では、本書の中からスリランカに関係する部分をいくつかピックアップしました。

インド亜大陸の地形と語族

地形と文明

インド亜大陸の主な地域は以下の4つ。
・インダス川中流域の五河地方(パンジャーブ)
・ガンジス川とヤムナー川が並行している両河地帯(ドアーブ)
・ガンジス川とヤムナー川が合流したガンジス中下流
・ヴィディンヤ山脈、西ガーツ山脈、東ガーツ山脈に囲まれたデカン高原

ドラヴィダ人のインダス文明、アーリア人の侵入が最初にあったのがパンジャーブ。
続いて、アーリアが進出したのがドアーブ。
その後、さらにガンジス中下流に進出して仏教やジャイナ教が生まれた。

語族

ガンガー(川)、リンガなどは先住のオーストロ・アジア語族の言葉。

紀元前3500年前にドラヴィダ語族がインド亜大陸に侵入。

紀元前1500年前にインド・アーリヤ語族がインド亜大陸に侵入。

インド・アーリヤ語族はヒンディー語、ベンガル語、マラーティー語など蛾あり、北インドに多い。

ドラヴィダ語族はタミル語、テルグ語、カンナダ語、
タミル語から分かれて成立したマラヤーラム語などがあり、南インドに多い。

広義の南インド:ヴンディヤ山脈以南の半島部(マハーラーシュトラ州を含む)
狭義の南インド:ドラヴィダ語族の南4州(タミルナードゥ、ケララ、アーンドラプラデーシュ、カルナータカ)

ヴェーダ時代(バラモン教の誕生)

紀元前1500年前:前期ヴェーダ時代、アーリア人のパンジャーブ地方への侵入

中央アジアからやってきた遊牧民のアーリヤ人は、インダス川上流域のパンジャーブ地方で、先住の農耕民を征服し、牧畜を主として農耕を副とする半定着の生活を開始。

牧畜を主たる生活手段とするアーリヤ人にとって、最も重要な財産は牛であった。

聖典「リグ・ヴェーダ」を成立。
リグは讃歌、ヴェーダは聖なる知識(聖典)を意味し、讃歌1028を集めたもの。

リグヴェーダの中で讃歌を最も多く捧げられている神は、雷神・軍神のインドラ。
次に火神アグニ。
他には太陽神スーリヤ、風神ヴァーユ、天空神・司法神ヴァルナ、雨神パルジャニヤ、酒神ソーマ、暴風神ルドラなど。

アーリヤ人の部族の族長がラージャン(ラージャ)。

紀元前1000年前:後期ヴェーダ時代、アーリア人のガンジス川上流域(ドアーブ)への進出

パンジャーブ地方で先住民との融合を深め、牧畜中心から農耕に生活の主を移行しつつあったアーリヤ人は、より肥沃なガンジス川流域へ移住し、農耕社会を完成させる。

歌詠と旋律を集めた「サーマ・ヴェーダ」
祭詞を集めた「ヤジュル・ヴェーダ」
呪詞を集めた「アタルヴェ・ヴェーダ」が成立。

リグ・ヴェーダと合わせて、4つのヴェーダをサンヒター(本集)と呼ぶ。

アタルヴェ・ヴェーダは、先住民に起源する呪法など含まれているため、他の3ヴェーダよりも低く見られた。

アタルヴェ・ヴェーダのうちの医療・治療の部分をまとめたものがアーユル・ヴェーダだと言われますので、そうするとアーユルーヴェーダは先住民(ドラヴィダ語族もしくはオーストロアジア語族)を起源とするようです。

部族の族長を支える「権力(クチャトラ)を持つ者」を意味するクシャトリヤが登場。

農耕社会が完成し、自然の恵みにたいする人々の願望が高まり、司祭者たちは祭祀を複雑に発展させ、長期の学習と訓練が必要となる。その結果、司祭職は世襲され、集団外のものとの結婚を拒み、排他的な集団となり、祭祀を独占してバラモンが成立。

祭祀に必要な「呪術的な力(ブラフマン)を持つ者」を意味するバラモンが登場。

バラモンを司祭としてヴェーダ聖典を奉じる宗教「バラモン教」が成立。

政治と軍事をクシャトリが担い、バラモンとクシャトリが支配階層となる。

アーリア人の一般成員(農業・牧地に従事)はヴァイシャで、後に商人もヴァイシャに加わる。

上位3ヴァルナ(アーリア人のバラモン、クシャトリ、ヴァイシャ)に隷属する先住民(陶器製造や木材加工などに従事)がシュードラ。

狩猟採集民を不可触民のチャンダーラとした。

こうしてヴァルナが成立。
ヴァルナとはもともと「(肌の)色」を意味した。

マハーバーラタ、ラーマーヤナで描かれいるのはこの時代。

ガンジス川上流域に国が成立。
北:クル国
南:パンチャーラ国
東:コーサラ国(ラーマーヤナの主人ラーマの国、首都はアヨーディヤー)

仏教とジャイナ教の誕生

紀元前600年前:十六大国時代、ガンジス中下流域に進出

以下の4つが強い国だった。
・コーサラ国(首都アヨーディヤー)
・マガタ国(首都ラージャグリハ)
・ヴァツァ国(首都カウシャーンビー)
・アヴァンティ国(首都ウッジャイン)

他にカーシー国(首都ワーラーナシー)、アンガ国(首都チャンパー)、マッラ国(西の中心がクシナガラ)、ガンダーラ国、カンボージャ国など。

ガンジス川中・下流域に都市(プラ、ナガラ)が誕生。

ヴァルダマーナが裸の行者として激しい修行を積み、42歳で悟りを得て、ジナ(勝者)、マハーヴィーラ(大勇)などの尊称で呼ばれ、ジャイナ教の開祖となる。
ジャナイ教徒は不殺生戒を守るため農業や牧畜を避けて、都市で商業に従事する。

コーサラ国の属国となっていたシャーキヤ族の部族共和国にガウタマ・シッダールタが誕生。
マガタ国で修行に励み、ブッタガヤーで悟りに達し、ブッダ(悟った者)と尊称で呼ばれる。
マガタ国の都ラージャグリハに竹林精舎が、
コーサラ国の都シュラーヴァスティーに祇園精舎が、ブッダに寄進される。

仏教に帰依したマガタ国のビンビサーラ王が国を拡大。

80歳でブッダが亡くなると、ラージャグリハに500人の弟子が集まり、師の教説(経蔵)と教団の規則(律蔵)をまとめる、第一回仏典結集が行われた。
没後百年にヴァイシャーリで第二回仏典結集が行われた頃に上座部と大衆部に分裂。
第二回仏典結集前を初期仏教、
第二回仏典結集後を部派仏教と呼ぶ。

各部派が自派の主張の正しいことを主張する議論を展開し、それが論蔵としてまとめられる。
経蔵・律蔵・論蔵を合わせて三蔵という。

紀元前322-185年:マウリヤ朝

ガンジス川中流域の有力部族出身のチャンドラグプタがマウリヤ朝を創始。
シリア王セレウコス・ニカトールの軍に勝利。

3代目のアショーカがカリンガ国を征服。
南インドのドラヴィダ系民族の四勢力(チョーラ、パーンディヤ、サティヤプトラ、ケーララプトラ)と友好関係を結ぶ。

アショーカは不戦主義のダルマの政治を行う。
「ダルマ」とはインド思想の根本概念の一つで、理法、義務、正義、法律、規範など多様な意味に用いられる。
仏教の教理は、ブッダのダルマ。

ダルマは特定の宗教の教理を意味するものではない。
アショーカは仏教をバラモン教、ジャイナ教などの有力諸宗教と並記しており、またいずれの宗教をも差別なく保護すると宣言している。

マウリヤ朝の発展は、ガンジス川中・下流域の農業生産に支えられ、農民が最大の人口をもつカーストを形成。
アーリア人の生業であった牧畜の地位が低下し、村落の周囲の牧草地に牧地民が、森林地帯に狩猟民が活動するようになる。

都市の発展により、都市に住む商人・職人という新しいカースト的集団が誕生。

紀元前2世紀〜紀元前1世紀頃:カリンガのカーラヴェーラ王

マウリヤ朝が滅亡すると、カリンガ国は独立。

カーラヴェーラ王はジャイナ教を保護した。

紀元前1世紀頃:大乗仏教の成立

ガンジス川上流域でバラモン教と競って伝道していた部派から、経典をサンスクリット語で編む傾向が生まれる。
それまで、経典や論書は俗語(プラークリット語)で書かれていた。

悟り(ボーディ)を求めて努力する存在(サットヴァ)、ボーディ・サットヴァ(菩薩)が大乗仏教を推進。

厳しい自己犠牲が必要で、実行が難しい菩薩行をする代わりに、人々を救済する大菩薩(弥勒菩薩、観音菩薩)が出現。

極楽浄土に住む阿弥陀仏
空の理論を説いた『般若経』
諸仏・諸菩薩の救済の力の大きさを説いた『法華経』『阿弥陀経』
菩薩の修行の段階を説いた『華厳経』などが生まれた。

1世紀〜3世紀:クシャーナ朝と仏像の誕生、南インドのサンガム文学

クシャーナ朝でカニシカ王が君臨。

インド文化とギリシア文化が融合したガンダーラ美術が栄え、仏像が作られる。

南インドのサンガム文学では、2世紀末にチョーラ朝を支配したカリカーラ王が、スリランカから捕虜を連れてきてカーヴェーリの堤防を築かせたという。

参考)
世界史の窓:クシャーナ朝
ウィキペディア:チョーラ朝
ウィキペディア:サンガム文学

ヒンドゥー教と密教の誕生

3世紀:グプタ朝、パッラヴァ朝、パーンディヤ朝

グプタ朝の首都はパータリプトラ
パッラヴァ朝の首都はカーンチープラム
パーンディヤ朝の首都はマドゥライ

法顕がグプタ朝を訪れる。
グプタ朝4代目のクマーラ・グプタ1世がラージャグリハ近くにナーランダー僧院を建てた。(7世紀に玄奘や義浄が訪問する)

二大叙事詩マハーバーラタ、ラーマーヤナが現在の形に整う。

儀礼中心のバラモン教が徐々に変化し、バクティ信仰が南インドで起きる。
南インドの固有の伝統文化と癒合して、シヴァ信仰、ヴィシュヌ信仰が展開する。

シヴァはアーリア人の暴風神ルドラが、インダス文明の神と融合して誕生。
ヴィシュヌはアーリア人の目立たない太陽神であったが、信仰を集めるようになる。

参考)
ウィキペディア:グプタ朝

6世紀:南インド三王国(チャールキヤ朝、パッラヴァ朝、パーンディヤ朝)抗争

パッラヴァ朝のナラシンハヴァルマン(在位630-668年)は、チャールキヤ朝の都バーダミーを攻めて、チャールキヤノプラケーシン2世は死亡。
ナラシンハヴァルマンはスリランカの王位継承戦にも加わっている。
バーダミー陥落前に玄奘が南インドを旅している。

パーンディヤ朝のシュリーヴァッラヴァ(在位815-862年)はアヌラーダプラを落とす。
後にスリランカのセーナ2世とパッラヴァ朝が挟撃し、マドゥライを落とし、シュリーヴァッラヴァは死去。
その後継者たちは、パッラヴァ朝あるいはスリランカの勢力に従属し、10世紀初頭にチョーラ朝のために滅ぼされた。

参考)
ウィキペディア:前期チャールキヤ朝

8世紀:パーラ朝、東ガンガ朝、パッラヴァ朝、パーンディヤ朝

密教がベンガルで栄え、大日如来が登場する。

パーラ朝の2代目の王ダルマパーラがヴィクラマシラー僧院を創建し、密教教学の中心となる。

参考)
ウィキペディア:パーラ朝
ウィキペディア:東ガンガ朝

9世紀:タミル三王国(チョーラ朝、パーンディヤ朝、チェーラ朝)

パッラヴァ朝の封臣ヴィジャヤーラヤが、パッラヴァ朝の封臣でありながらチョーラ朝についたムッタライヤル家からタンジャーヴールを奪い、地歩を固める。

息子のアーディティヤ1世はパッラヴァ朝の内紛に乗じて勢力を拡大し、c九百三年に主君のアパラージタを殺害。

次のパラーンタカ1世はパーンディヤ朝に侵入し、パーンディヤ王はスリランカに逃亡。
その後、チョーラ朝とスリランカは敵対関係となる。

スンダラチョーラ(在位957-973年)はパーンディヤ朝と結ぶスリランカに遠征し、ラーシュトラクータ朝に奪われていたトンダイ・マンダラムを奪還。

ラージャラージャ1世は、南方でパーンディヤ・ケーララ・スリランカの連合軍を破り、ケーララ、半島南部、スリランカ北部を占領し、モルディブも攻略。
首都タンジャヴールに壮大なシヴァ寺院を建立。

ラージェーンドラ1世(在位1012-1044年)はガンジス川流域にまで軍を進め、ガンガ・インコダ・チョーラ(ガンジス川を手に入れたチョーラ王)の称号をもち、新首都ガンガ・インコダ・チョーラ・プラムを建設。
シュリーヴィジャヤ王国に遠征し、マレー半島中部の中心都市カダーラムを落とす。
スリランカの都をあぬらーだぷらからポロンナルワに遷都。

クロートゥンガ1世(在位1070-1122年)の治世に、スリランカ、パーンディヤ、ケーララ、東ガンガで反乱が起こり、それぞれの地を失う。

クロートゥンガ3世(在位1178-1217年)は、スリランカとパーンディヤ朝の宗主権を巡って争う。

参考)
Wikipedia:Chera dynasty

仏教の衰退

1203年、東インドのヴィクラマシラー僧院やナーランダー僧院が、アフガニスタンに本拠をおくゴール朝の軍によって破壊され、僧たちはチベットや東南アジアへ逃避。

大航海時代

海のシルクロードと商人ギルド

マニ(ヴァニ)グラーマム(商人の村)及びアイニューットゥルヴァル(五百人組)と呼ばれる二つの商人ギルド。

彼らの海外での刻文は、スリランカ、ミャンマー、マレー半島(タイ)、スマトラ島で発見されている。

ケーララ、そして、タミル・ナードゥ州のプドゥコーッタイ地区のコドゥンバルールが拠点として顕著。

タイ領マレー半島中部タクアパで発見された9世紀のタミル語刻文によると、南インド出身のある人物がそこに貯水池を作り、それがマニグラーマムの保護下に置かれたことが判明する。シュリー・アヴァニナーラナムという貯水池の名称はパッラヴァ王の称号に由来するとも考えられる。

スリランカの港町マンタイからは、9〜10世紀のものも含めて大量の中国陶磁器片が発見されている。

ヴィジャヤナガル王国

ヴィジャヤナガル王国の3/4は長官(ナーヤカ)に知行地として割り当てられてた。
マドゥライ、タンジャーヴール、シェンジなど後に独立する大ナーヤカもいた。

1640年、イギリス東インド会社はマドラスに要塞を建設。

1649年、300年以上に渡ったヴィジャヤナガル王国は、ビージャプル王国に破られて終わりを告げた。

タミル・ナードゥの地方勢力として残ったのは、マドゥライのナーヤカだけとなった。

参考)
ウィキペディア:ヴィジャヤナガル王国

オランダ東インド会社

オランダ東インド会社の狙いは東南アジア産の香料と胡椒であった。胡椒はインドなど他の地域でも産したが、香料(スパイス)は東南アジア、それも特定の地域に限られていた。

クローブはモルッカ諸島、ナツメグはその南のバンダ諸島でのみ産したのである。それで、香料の値段は胡椒のほぼ10倍という高値であった。これら二つの諸島のちょうど中間に位置していたのがアンボン島であった。

この地域にはポルトガルが1522年から進出し、要塞を建設していた。1605年、オランダ東インド会社はアンボンのポルトガル(スペイン)要塞を占領し、香料貿易を手中に収めた。

英領インド

スリランカで大きな移民といえば、イギリスの茶プランテーションで働くために南インドから渡ってきたタミル人です。

また、南インドからチェッティヤールが、西インドからはメーモンやパールシーなど、商人も移民しています。

それらが分かる記述を以下に引用しました。

移民

「移民の世紀」と言われる19世紀だが、その国際労働力移動には二つの流れがあった。一つはヨーロッパから北米を中心とする温帯地域への白人移民の流れだが、もう一つは19世紀半ばの交通革命(蒸気船の就航)以後、アジアから主に熱帯地域に向かったアジア系移民の流れであった。

19世紀前半に奴隷貿易が廃止されて以来、黒人奴隷より機能的な代替労働力として求められたインド人労働者は、中国人労働者とともに、年季契約労働者(インデンチャード・レイバラー)として、この時代に発展した砂糖、茶、ゴムなど熱帯地域のプランテーションや、錫、金などの鉱山で第一次産品を生産するために移動していった。

その背景には困窮し、飢饉が頻発するインド農村があった。彼らの行く先は、当初はカリブ海諸島や南米、東南アフリカ、モーリシャス、セイロン、マラヤなどであったが、19世紀の終わりから20世紀にかけてはセイロン、ビルマ、マラヤへの移民が急増した。彼らの動きは中国人移民と異なり、大英帝国(パックス・ブリタニカ)の平和の中の通商網に乗って加速されていった。

カッチ出身のメーモンや、綿繰り工場を所有しつつ、ボンベイに原綿を打ったパティダール商人、タミル・ナードゥを基盤とするチャッティヤールと呼ばれる社会集団も、インドに本店を持ち、ビルマの米作農民に金を貸すなど、セイロン、マラヤ、インドシナなどで高利の金貸業を中心に成功した商人集団であった。

農業

19世紀後半の1870年代と90年代に頻発した飢饉(68-69年、76-78年、96-1900年)であり、インド西部に発生した疫病だった。1876〜1877年のマドラス飢饉では500万人、99〜1900年の飢饉だけで100万人以上の死者が出たと言われる。

工業

インドの工業が、(1)ボンベイ、アフマダーバードを中心としたインド西部、(2)カルカッタに代表されるインド東部、(3)マドラスに代表されるインド南部、すなわち港市から起こったのは、そこが交通の中心であり、またそこにはインド洋交易などに従事してきた商人が多く住むから出会った。

1854年にはボンベイのパールシーであるダヴァールがインドで最初の近代的紡績工場を設立した。

独立後

地域主義の台頭

1976年選挙でタミル・ナードゥにおいて会議派に勝利したのは、ドラヴィダ進歩連盟(DMK)であった。これは、反ヒンディー語、反北インド、反バラモンのサブ・ナショアリズム的感情に根ざしており、言語・文化の独自性を主張し、ある程度の自治を要求する地域文化型政権である。

まとめ

本記事では、スリランカに関係するところを一部ピックアップしましたが、この本は通読することでインドの歴史が理解できる本です。

インドには世界遺産も多くありますが、それぞれの遺跡がいつ、どんな人たちが作ったものなのかも、本書を読むことで把握できます。

インドの歴史を知りたい方は是非一度、通読してみてください!

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