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スリランカと南インド”知の旅行案内書”『世界歴史の旅 南インド』

2022年4月30日

スリランカ、そしてスリランカと関係の深い南インドの「歴史」と「旅」についてまとめられた『世界歴史の旅 南インド』を紹介します。

スリランカの世界遺産を見に行く際に、南インドの歴史の流れを知っていると、より楽しめることと思います。

南インドの歴史と主要都市を知り、改めてスリランカの歴史と主要都市を知ることで、スリランカについて理解を深めることができます。

本書の概要

本書については、「まえがき」の説明が適切でしたので、以下の抜粋します。

この本は、インドの「旅」と「歴史」のガイドである。第I部では歴史が、第II部では旅が語られる。(中略)本書の狙いは、そのように「歴史」と「旅」の往復運動をすることによって、読者にインドを分かってもらうというところにある。それこそが、本書のオビにいう「知の旅行案内」の意味である。日本史、世界史の教科書、数々の歴史シリーズの出版で定評のある山川出版社ならではの企画で、第II部の執筆者は、現地での生活体験にとんだ気鋭の研究者である。自分達が住んだ町、訪れた遺跡での感動を、読者に伝えてくれるだろう。そして本書の最大の特色は、インドの歴史と旅を、「北」と「南」の二つに分けたところにある。

目次

本書はまえがきにあるように、II部構成になっていて、それぞれ後半にスリランカが取り上げられています。
第I部はカラー写真が掲載され、第II部はモノクロで印刷されています。

はじめに
第I部
南インドの歴史
-ドラヴィダ民族の南インドへの来住
-巨石文化の謎
-シャンガム文学の世界
-サータヴァーハナ朝とデカン
-三王朝の抗争と新しい信仰の展開
-チョーラ朝による新しい統治の試み
-ヴィジャヤナガル王国の発展
-ヨーロッパ人の進出と地方政権
-18世紀・戦争の世紀
-イギリスの統治
-独立運動と社会改革
-独立後の民族主義

スリランカの歴史
-ヴィジャヤ伝説とアヌラーダプラ時代
-ポロンナルワからの中央政権の南下
-植民地支配チオ独立後の民族紛争

第II部
南インドの史跡を訪ねて
-タミル・ナードゥ州(34都市)
-ケーララ州(13都市)
-カルナータカ州 (22都市)
-アーンドラ・プラデーシュ州(21都市)
-ゴア(6地区)
-スリランカ(16都市)

コラム(14本)

南インドの歴史年表

本書には時代ごとに年表が記載されています。

スリランカの歴史と対比させるには、区切りとして参考になりましたので、私が追記、編集していますが、以下に年表をまとめました。

サータヴァーハナ朝、タミル三王朝(パーンディヤ朝、チョーラ朝、チェーラ朝)

紀元前7世紀~紀元後2世紀:巨石文化が栄える
紀元前1世紀:デカンにサータヴァーハナ朝が興る
1世紀:ポンディシェリ郊外のアリカメードゥがローマ貿易で栄える
1世紀〜3世紀:チョーラ、チェーラ、パーンディヤが繁栄、シャンガム文学が栄える
2世紀前半:サータヴァーハナ朝シャータカルニがシャカ族を破り西デカンを回復する
3世紀中葉:サータヴァーハナ朝滅ぶ

パッラヴァ朝、イクシュヴァーク朝、ヴァーカータカ朝、カダンバ朝、グプタ朝

3世紀後半:イクシュヴァーク朝の都ヴィジャヤプリ(ナーガールジュナコンダ)の仏教美術が栄える
3世紀後半:デカンにヴァーカータカ朝が興る
3世紀〜4世紀:パッラヴァ朝が興る
3世紀〜4世紀:ヴァーカータカ朝の支配がデカンの大半におよぶ
4世紀前半:カダンバ朝が興る
4世紀中葉:グプタ朝が南インドに遠征
6世紀前半:ヴァーカータカ朝が滅ぶ

パッラヴァ朝、パーンディヤ朝、前期チャールキヤ朝

6世紀後半:パーンディヤ朝が再興
6世紀後半:パッラヴァ朝が再興
624年:東チャールキヤ朝が興る
641年:玄奘がバーダーミを訪問
642年:パッラヴァ朝がバーダーミを占領
673年:チャールキヤ朝がパッラヴァ朝の都カーンチープラムを包囲
740年:チャールキヤ朝がカーンチープラムを占領

ラーシュトラクータ朝、チョーラ朝、パーンディヤ朝、パラマーラ朝

753年:前期チャールキヤ朝が倒れて、ラーシュトラクータ朝が興る
9世紀中葉:チョーラ朝が再興
9世紀中葉:ラーシュトラクータ朝が新都マーニヤケータを建設
880年:チョーラ朝がパーンディヤ朝を破る
893年:パッラヴァ朝が滅ぶ
920年:チョーラ朝がパーンディヤ朝を破り、パーンディヤ朝がスリランカに逃亡
949年:ラーシュトラクータ朝がチョーラ朝を破る
963年:ラーシュトラクータ朝がパラマーラ朝を破る
972年:パラマーラ朝がラーシュトラクータ朝の都を占領

チョーラ朝、後期チャールキヤ朝

973年:ラーシュトラクータ朝が倒れて、後期チャールキヤ朝が興る
10世紀後半:チョーラ朝がスリランカのアヌラーダプラを占領
1004年:チョーラ朝がガンガ朝の都タラカードゥを占領
1021年:チョーラ朝が後期チャールキヤ朝を破る
1026年:チョーラ朝がシュリーヴィジャヤ朝と戦い、マレー半島の一部を一時占領
1190年:後期チャールキヤ朝が滅ぶ

パーンディヤ朝、カーカティーヤ朝、ホイサラ朝、マドゥライ・スルタン朝

1216年:パーンディヤ朝が再興
1250年:カーカティーヤ朝がカーンチープラムを攻略
1262年:パーンディヤ朝がホイサラ朝を破る
1279年:パーンディヤ朝がホイサラ朝・チョーラ朝連合軍を破り、チョーラ朝が滅亡
1317年:シャーンブヴァラーヤ朝が興る
1323年:トゥグルク朝の遠征軍がカーカティーヤ朝とパーンディヤ朝を滅ぼす
1334年:トゥグルク朝から独立してマドゥライ・スルタン朝が興る

ヴィジャヤナガル王国

1336年:ヴィジャヤナガル王国第一王朝サンガマ朝が成立
1346年:ヴィジャヤナガル王国がホイサラ朝を滅ぼす
1347年:バフマニー朝が興る
1360年:ヴィジャヤナガル王国がタミル地方を支配
1370年:ヴィジャヤナガル王国がマドゥライ・スルタン朝を併合
1398年:ヴィジャヤナガル王国がバフマニー朝に侵攻
1417年:バフマニー朝がヴィジャヤナガル領ハーナガッルの城砦を包囲
1424年:ブフマニー朝がグルバルガからビーダルに遷都
1486年:ヴィジャヤナガル王国第二王朝サールヴァ朝が成立

ポルトガルの来航、ヴィジャヤナガル王国

1490年:アフマドナガル王国、ビジャープル王国、ベラール王国が興る
1498年:ヴァスコ・ダ・ガマがコーリコードゥ(カリカット)に到着
1503年:ザモリンと衝突したポルトガルはコーリコードゥからコチに拠点を移す
1505年:ヴィジャヤナガル王国第三王朝トゥルヴァ朝が成立
1510年:ポルトガル第2代インド総督アルブケルケが、ビージャブル王国からゴアを奪って占領
1512年:バフマニー朝から独立してゴールコンダ王国が成立
1565年:ヴィジャヤナガル王国がヴィジャヤナガルからペヌコンダに遷都
1568年:ヴィジャヤナガル王国第四王朝アーラヴィードゥ朝が成立
1604年:ヴィジャヤナガル王国がヴェールールに遷都

東インド会社、ムガル朝

1605年:オランダ東インド会社がマスリパタムなどに商館を開設
1611年:イギリス東インド会社がマスリパタムに商館を開設
1614年:ヴィジャヤナガル王国の王位継承戦争
1639年:イギリス東インド会社がマドラスに要塞型商館建設の許可を取得
1647年:ヴィジャヤナガル王国が実質的に滅亡
1648年:ビージャブル王国が、シェンジ・ナーヤカを滅ぼす
1673年:フランス東インド会社がポンティシェリーを取得
1675年:ヴィヤンカージがタンジャーヴール・ナーヤカを滅ぼす
1686年:ムガル朝がビージャブル王国を滅ぼす
1687年:ムガル朝がゴールコンダ王国を滅ぼす
1689年:ムガル朝がシェンジを包囲

カーナティック戦争、アングロ・マイソール戦争

1724年:ニザーム・ムルクがデカンに進軍し、ハイダラーバード藩王国の基礎を築く
1736年:アルコット・ナワーブ軍がマドゥライ・ナーヤカを滅ぼす
1744年:第一次カーナティック戦争
1750年:第二次カーナティック戦争
1754年:英仏休戦協定、デュプレックスが本国送還
1758年:第三次カーナティック戦争
1761年:ハイダル・アリーがマイソール王国の実権を握る
1767年:第一次アングロ・マイソール戦争
1780年:第二次アングロ・マイソール戦争
1790年:第三次アングロ・マイソール戦争
1799年:第四次アングロ・マイソール戦争
1800年:タミル地方南部で反英戦争が起こる

イギリス統治

1801年:イギリス東インド会社がアルコット・ナワーブ領を獲得
1801年:マドラスに最高法院設置
1820年:ライーヤットワーリー地税査定を組織的に導入
1857年:マドラス大学が創設

独立運動

1878年:『ヒンドゥー』紙がマドラスで創刊
1882年:神智学協会がマドラス南郊に本部を設置
1906年:トゥートゥクディとコロンボを結ぶスワデーシ蒸気海運が設立
1908年:国民会議がマドラスで開催
1910年:オーロビンドがポンディシェリーに拠点を移す
1914年:国民会議がマドラスで開催
1916年:反バラモン運動組織「南インド自由連合」が設立
1919年:ハイダラーバードにオスマニア大学が創設され、ウルドゥー語による大学教育が始まる
1923年:国民会議がカーキナダで開催
1924年:国民会議がベルガウムで開催
1944年:ドラヴィダ連盟が結成

独立後

1947年:インドが独立
1949年:ドラヴィダ進歩連盟が結成
1953年:アーンドラ・プラデーシュ州が成立
1965年:ヒンディー語の国語化問題
1968年:タミル・ナードゥ州が成立
1968年:第2回国際タミル学会
1988年:映画女優ジャヤラリターがタミルナードゥ州首相に就任
1991年:ラージーヴ・ガンディーがLTTEによって暗殺
1995年:第8回国際タミル学会

スリランカの年表についても本書には記載されていましたが、スリランカの年表については、当サイトの以下のページをご覧ください。

スリランカの歴史年表:建国から現在まで

南インドの歴史

南インドの歴史の部分からは、スリランカに関係する記述をいくつかピックアップして紹介します。

東南アジアに残るインド商人の足跡

スリランカの北東部には古い遺跡があり、インド商人の逸話が残されているものもありますが、インド商人がスリランカ、さらにマレー半島やインドシナ半島にまで交易を広げいたことが分かる記述がありました。

後代の物語には、金を求めて海に乗り出すインド商人の姿が描かれているが、マレー半島のクロントムやヴェトナム南部のオケオからは、ローマの貨幣や商品とともに、西インドのブラフミー文字が記された護符やアリカメードゥで大量に発見されるビーズの首飾りなどが発見されている。

参考)
【クラビ】ジャングルの中には天然温泉!自然が作り出した傑作!

 

カンナギの物語とスリランカ王ガジャバーフ

キャンディのペラヘラ祭りでも登場するパッティニ神は、スリランカの王ガジャバーフがパーンディヤ朝から持ち帰ったものだと言われていますが、パーンディヤ朝とパッティニ神について以下のように書かれていました。

最も有名な叙事詩『シラパディガーラム』は、豪商の息子で好き者のコーヴァランと貞節な妻カンナギの物語で、無実の夫を処刑したパーンディヤ国王を、貞女としての偉大な力を持つカンナギが呪うという筋書きを持つ。災いの続くパーンディヤ王国を救おうと、チョーラ、チェーラ、さらにスリランカの王も加わって、カンナギの霊をなだめる祭りが執り行われた。そのスリランカ王ガジャバーフは2世紀後半に統治したことが知られており、それがシャンガム文学を1〜3世紀に推定する一つの根拠とされている。カンナギはその後、貞女パッティニとして神格化され、その信仰はスリランカに広まった。

参考)
Wikipedia:Gajabahu I of Anuradhapura

 

イクシュヴァーク朝とスリランカ

以下のように書かれています。

イクシュヴァーク朝がスリランカと密接な関係を持ったことは、おそらくはシンハラ人僧侶の滞在のための、シーハラ・ヴィハーラ僧院が建設されていることによって伺うことができる。

ウィキペディア「龍樹」のページには、イクシュヴァーク朝の前に栄えたサータヴァーハナ朝の保護の下、ナーガールジュナコンダにセイロンの僧院があったと記載されています。

参考)
ウィキペディア:龍樹

スリランカと関係するザモリン、マドゥライのナーヤカ

スリランカのシーターワカ王国はザモリンと同盟してポルトガル軍と戦っています。
ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマは、最初にコーリコードゥに到着しますが、コーリコードゥの領主ザモリンと対立したことからコーチンに拠点を移し、さらにその後にゴアに拠点を移しています。

また、スリランカのキャンディ王国は王の血統が途絶えた際にマドゥライのナーヤカから王を受け入れ、キャンディ王国ナーヤッカル朝が始まっています。

コーリコードゥの領主ザモリン、マドゥライのナーヤカについて、南インドの歴史の中で、以下のように書かれています。

ラークシャシ・タンガディの戦いに敗れてのち、ヴィジャヤナガルではナーヤカーの力が強くなり、イッケーリ、シェンジ、タンジャーヴール、マドゥライなどのナーヤカは半ば独立の地方勢力として成長した。ウマットゥール(マイソール)では、ナーヤカではないがウォデヤ家が台頭し、ケーララではザモリンと呼ばれたコーリコードゥ(カリカット)の領主ほかの勢力が増大した。

マドラス、チェンナイの由来

マドラスとチェンナイの由来が分かる一文がありました。

マドラサパトナムをナーヤカが父チェンナッパに因んで、チェンナッパトナムと名付ける。

スリランカの歴史

世界遺産の遺跡について

  • トゥーパーラマ・ダーガバはデーワーナンピヤティッサ王が建てたもので、仏陀の鎖骨が安置されている。
  • ミヒンタレーのマハーセナ大塔は仏陀の一本の髪を祀っている。
  • ポロンナルワのクワドラングルはニッサンカ・マッラ王時代のものが多い。
  • ワタターゲはポロンナルワが都になる前の7世紀頃のもの
  • 東南アジアの影響が見られるサトマハルプラサーダもニッサンカ・マッラ王よりも前の時代もの

ガンポラ王国のアラハコーナール家

コーッテーに要塞ジャヤワルダナプラを建設したガンポラ王国の王ヴィクラマバーフ3世の大臣アラケスヴァラと、ガンポラ王になったヴィラ・アラケスヴァラ王のアラハコーナール家がケーララから移住したと書かれていました。

ガンポラの政権は弱体化し、ついにはケーララから移住したアラハコーナール家に実権を握られた。

また、この時代にケーララから移住した人たちがサラーガマやカラーワにもなったと書かれています。

この時代にはインド洋における商業活動が発展し、象、アリカナッツのほか、シナモンも注目を浴びるようになった。アラブ商人も進出し、また、南インドからカーストぐるみの移住も行われ、サーラガマ、カラーワなどのスリランカの新しいカーストが出現した。

ガンポラのランカティラカ寺院とエンベッケ寺院の写真が掲載され、以下のように書かれています。

  • また、仏教サンガ(教団)の堕落が激しく、それとも関連して、ガンポラ朝の寺院に見られるように、スカンダ、サマンなど、ヒンドゥー教や土着信仰の神が多く仏教の中に取り入れられるようになってきた。
  • 主神はブッダ。内殿の回りに侍神として元来はヒンドゥー教の神(ムルガン神など)が祀られている。ブッダ像の上部壁面にもシヴァ神やヴィシュヌ神の姿が見られる。

社会主義的経済政策の行き詰まり

シリマーボー政権からジャヤワルダナ政権への移行の説明が分かりやすいと思いました。

  • シリマーボーの社会主義的経済政策が行き詰まり、1977年に経済自由化を推進するジャヤワルダナ政権に変わる。
  • 経済自由化でインフレが進行し、シンハラ農村の青年層の不満が裕福なタミル人への不満に向かう。

サンガと国家

「サンガと国家」というコラムに、非常に興味深いことが書かれていたので、以下に引用します。

出家仏教である以上、国家を運営する王権が在家を代表して僧侶の組織であるサンガを庇護し、サンガは修行と学問に励んでダンマ(正法)を嗣続して内部の清浄さを保ち、サンガによって正法の保持者としてのラージャ(王)がその正当性を保証されるとき、最もよく機能を発揮する。サンガ・ダンマ・ラージャの三位一体の体制が維持されれば、上座部仏教圏の社会は安定した国家秩序を保つことができる。現代における典型はタイの王権である。スリランカの場合、王権がイギリスによって1815年に崩壊して、サンガを保護する最大のパトロンが消滅し、仏教の支えが弛緩しているが、現代でも憲法によって仏教には国教に近い地位が与えられ、原理は姿を変えた存続していると見られる。

まとめ

本記事では、主に南インドの歴史の部分から引用しました。

本書の半分は南インドの町とスリランカの町について取り上げられています。

南インドはとても広く、タミル・ナードゥ州だけでスリランカの2倍の面積があります。

そのため、様々な王朝が群雄割拠し、都が築かれた町には世界遺産に登録されている遺跡や建築物が残されています。

そして、世界遺産を造成した南インドの王朝の多くが、スリランカと関係を持っていました。

本書を読んで、南インドにも興味を持ち、よりスリランカを深く知るきっかけにしていただけたらと思います。

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