ジェフリーバワが活躍した建築事務所「エドワード・レイド&ベッグ」とは?
ジェフリーバワは1957年〜1988年と建築家として活動した41年間のうちの31年間は、エドワード・レイド&ベッグ建築設計事務所のパートナーとして活動しています。
2019年にリニューアルオープンしたシナモンベントタビーチや、新国会議事堂には「エドワード・レイド&ベッグ」の名が刻まれたプレートが残されています。
ジェフリーバワの事務所として活動するのは、コロンボの自宅(現:ナンバー11)で働くようになった1989年〜1998年の9年間であり、バワがエドワード・レイド&ベッグ建築設計事務所を閉じたのは、3回目の脳卒中による転倒で引退する1年前の1997年でした。
バワは弁護士時代にレイドの元で無給でアシスタントとして働くことで、建築の世界に入り、その後、建築の名門であるロンドンのAAスクールに留学し、帰国した年にエドワード・レイド&ベッグ建築設計事務所に入社し、そのパートナーとして31年間活躍したのです。
バワはセイロンが独立した建築業界とホテル業界の黎明期から活躍した建築家ですが、イギリス領セイロン時代の代表的な建築地事務所の一つであるエドワード・レイド&ベッグ建築設計事務所について知ると、バワが活躍したその時代背景がより分かるようになります。
そこで本記事では、エドワード・レイド&ベッグ建築設計事務所について、紹介します。
目次
コロンボ市役所を設計したS. J. エドワード
エドワード・レイド&ベッグ建築事務所を設立した一人がコロンボ市役所を設計したS. J. エドワードです。
エドワードが設立した事務所はジェフリーバワの活躍によって、国家プロジェクトであるベントタリゾート開発、新国会議事堂の建設、ルフナ大学の建設などの実績を残します。
エドワードの名を冠する建築事務所はマレーシアにもあり、現在も様々な建築を手掛ける会社「BEP Akitek Sdn Bhd」として存続しています。
エドワードを有名にしたのが、コロンボ市役所の設計でした。
1921年、スコットランド人で後にイスラエルの都市開発を行ったパトリック・ゲデスがコロンボ議会に市役所、レセプションホール、図書館、市長オフィスの建設を提言します。
これによって建設されたのが、1925年に完成したコロンボ市長邸(1990年までは図書館)と、1928年に完成したコロンボ市役所です。
1922年11月、コロンボ議会は国際建築デザインコンペティションを開催します。
32案が提出され、選ばれたのはシンガポールの建築事務所「Ralph Booty & Co.」の建築家エドワードの案でした。
エドワードはアメリカ合衆国議会議事堂に代表される大きなドームを持つ新古典主義建築の設計案を作りました。
1924年5月24日、コロンボ市長のトーマス・レイグ(Thomas Reid)によって市役所の礎石が設置され、
1928年8月9日、セイロン総督ハーバート・スタンレー(Herbert Stanley)によって、コロンボ市役所はオープンします。
マレーシアの建築事務所「BEP Akitek Sdn Bhd」
エドワード・レイド&ベッグ建築事務所の前に、エドワードが所属していた建築事務所「Ralph Booty & Co.」について見ていきます。
1910年、ラルフ・ブーティー(Ralph Booty)とシドニー・ジェームス(Sidney James)がシンガポールに建築事務所Ralph Booty & Co.を設立しています。
1922年、エドワードがコロンボ市役所のコンペティションに採択されます。
これがRalph Booty & Co.が最初に取り組んだ大きなプロジェクトとなります。
1923年、コロンボ市役所の仕事が重要だったからか、事務所名を「Booty Edwards & Partners」に改称します。
そして、オフィスをコロンボに開設します。(後にペナン、クアラルンプールにも開設)
1930年、イギリス人建築家でマレーシアを拠点としたアーサー・オークレイ・コルトマン(Arthur Oakley Coltman)が事務所を買収します。
1935年、Kuala Lumpur & Selangor Chinese Assembly Hallを完成させます。
写真を見ると、コロンボ市役所と似たデザインの建物です。
1969年、会社名を「BEP Akitek Sdn Bhd」に変更し、今に至ります。
建築事務所エドワード・レイド&ベッグとは?
3人の建築家(S. J. エドワード、ハーバート・ヘンリー・レイド、ケネス・アンドリュー・ベッグ)がパートナーを務めていた建築事務所がエドワード・レイド&ベッグです。
イギリス領セイロン時代
1925年、スコットランド人建築家のハーバート・ヘンリー・レイド(Herbert Henry Reid)がセイロンに移住します。
レイドは、コロンボ市役所を建築していたエドワード(S. J. Edward)、ブース(R. G. Booth)とともに、建築事務所エドワード・レイド&ブース(Edwards Reid & Booth)を設立します。
コロンボとマドラスにオフィスを開設します。
コロンボのオフィスは、ペターのプリンス・ストリート(Prince Street)にありました。
1930年前半、ゴールフェイスコート2(Galle Face Court II)を建設します。
ゴールフェイスコート1(Galle Face Court I)は、1923年にゴール出身のマカン・マーカー(Macan Markar)家によって建設されたスリランカ初のアパートメント。
ゴールフェイスグリーンに面した北側の土地に増築されたのがゴールフェイスコート2です。
後に、留学から帰国したバワがコロンボの自宅として部屋を借りたのがゴールフェイスコートでした。
1936年、スコットランド人建築家のケネス・アンドリュー・ベッグ(Kenneth Andrew Begg)がエドワード・レイド&ブースのマドラス事務所のパートナーになり、エドワード・レイド&ベッグ(Edwards Reid & Begg)建築事務所に改称します。
エドワードは第一次世界大戦が始まる前に引退します。
1939年、ベッグが退職し、後に(1945年)ウガンダ政府にプロジェクトに建築家として参画します。
ジェフリーバワの建築見習い時代
1951年、弁護士のジェフリーバワが、レイドの無給アシスタントとして働き始めます。
1952年、レイドが亡くなります。
1954年9月〜1957年5月、バワはロンドンのAAスクールで建築を学びます。
ジェフリーバワのジュニアパートナー時代
1957年後半、エドワード・レイド&ベッグのメインパートナーは、ボンベイで建築を学んだパールシーのジミー・ニルギリア(Jimmy Nilgiria)でした。
ニルギリアが帰国したバワ、バワと同時期にAAスクールで学んでいたヴァレンタイン・グナセケラ(Valentine Gunasekera)を誘い、それぞれがジュニアパートナーとなります。
バワとグナセケラはそりが合わず、AAスクールでも特に交流することなく、エドワード・レイド&ベッグでもそれぞれがサブオフィスとして自立して活動していきます。
建築技師のスタンレー・ペレラ(Stanley Perera)
建築アシスタントのニハール・アマラシンハ(Nihal Amerasinghe)
建築家のターナー・ウィクラマシンハ(Turner Wickramasinghe)が入社します。
1958年末、バワはキャンディでミネッテ・ダ・シルワの元で働いていたデンマーク人建築家のウルリク・プレスナーを紹介されます。
1959年、バワの誘いに応じてプレスナーがアソシエイトとして入社し、バワと協働で仕事に取り組みます。
プレスナーは、バワの11歳年下ですが、デンマークとイギリスの建築事務所、そしてダ・シルワの事務所で働き、経験が未熟なバワを大いに助けたと言われています。
ウィクラマシンハの誘いで、ラキ・セナナヤケが建築技師として、イスメス・ラヒームが製図作成者として入社します。
セナナヤケは当初、グネセケラの元で働きますが、後に、バワとプレスナーの元で働きます。
1960年、ポーロガスンドラムが入社し、バワのストラクチャー・エンジニアになります。
1963年、オフィスをペターのプリンス・ストリートから、アルフレッド・ハウス・ロード(現在のパラダイスロードザギャラリーカフェ)に移転します。
https://spiceup.lk/thegallerycafe/
1964年、セナナヤケが退職し、イナ・ダ・シルワのアトリエで働くようになります。
ジェフリーバワ&ポーロガスンドラムのパートナー時代
1966年、ニルギリアが退職し、ポーロガスンドラムがパートナー及びオフィスマネージャーとなります。
プレスナーがデンマークに政府に働きかけた奨学金によって、ラヒームがコペンハーゲンに留学します。
1967年、ウルリク・プレスナーが退職し、イスラエルに渡ります。
1968年、グナセケラが退職します。
1969年、ラヒームとともにデンマーク留学していたフェローズ・チョクシー、ラヒームが入社します。
1976年、チョクシーとラヒームは退職して、建築設計事務所「チョクシー&ラヒーム 住宅とオフィス(Choksy and Raheem Residence and Office)」を立ち上げます。
活動停止時代
1989年、バワはコロンボの自宅(現在のナンバー11)に設計室を作り、エドワード・レイド&ベック建築事務所での名義で仕事をしなくなります。
1997年、バワは2回目の脳卒中による転倒を機に、エドワード・レイド&ベック建築事務所を閉じることにし、ポーロガスドラムと正式に関係を解消しました。
参照)
Wikipedia:Town Hall, Colombo
Sunday Times:The imposing Town Hall
ウィキペディア:パトリック・ゲデス
Wikipedia:Sirinivasa
Wikipedia:Colombo Public Library
Booty Edwards & Partners
BEP Akitek Sdn Bhd公式ページ
Scottish Architects.org:Edwards Reid & Begg
Wikipedia:Herbert Stanley
ウィキペディア:新古典主義建築
ウィキペディア:アメリカ合衆国議会議事堂
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「旅と町歩き」を仕事にするためスリランカへ。
地図・語源・歴史・建築・旅が好き。
1982年7月、東京都世田谷区生まれ。
2005年3月、法政大学社会学部社会学科を卒業。
2005年4月、就活支援会社に入社。
2015年6月、新卒採用支援事業部長、国際事業開発部長などを経験して就職支援会社を退社。
2015年7月、公益財団法人にて東南アジア研修を担当。
2016年7月、初めてスリランカに渡航し、会社の登記を開始。
2016年12月、スリランカでの研修受け入れを開始。
2017年2月、スリランカ情報誌「スパイスアップ・スリランカ」創刊。
2018年1月、スリランカ情報サイト「スパイスアップ」開設。
2019年11月、日本人宿「スパイスアップ・ゲストハウス」開始。
2020年8月、不定期配信の「スパイスアップ・ニュースレター」創刊。
2023年11月、サービスアパートメント「スパイスアップ・レジデンス」開始。
2024年7月、スリランカ商品のネットショップ「スパイスアップ・ランカ」開設。
渡航国:台湾、韓国、中国、ベトナム、フィリピン、ブルネイ、インドネシア、シンガポール、マレーシア、カンボジア、タイ、ミャンマー、インド、スリランカ、モルディブ、アラブ首長国連邦、エジプト、ケニア、タンザニア、ウガンダ、フランス、イギリス、アメリカ
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