スリランカの少数民族「スリランカン・マレー」の町、コロンボ2「スレイブ・アイランド」 | スリランカ観光情報サイト Spice Up(スパイスアップ)
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スリランカの少数民族「スリランカン・マレー」の町、コロンボ2「スレイブ・アイランド」

2020年6月27日

「コロンボ・マレー・クリケット・クラブ」、「スリランカ・マレー・アソシエーション」、「マレー・ストリート」、「マレー・ミリタリー・モスク」、「ジャワ・レーン」、「ジャラン・パダン」とインドネシアのジャワ島、マレーに関連する名前を多く目にする場所がコロンボにあります。

それは、スレイブ・アイランド(Slave Island)です。

コロンボは1〜15の区画に分けられますが、コロンボ2がスレイブ・アイランドと呼ばれています。

おどろおどろしい名前ですが、この地区は実際に奴隷を収容していた歴史があります。

本記事はスレイブ・アイランドに多く住む、スリランカン・マレーの歴史を見ていきます。

ポルトガルによる島(スレイブ・アイランド)の形成

コロンボの町は大航海時代にポルトガルが要塞(フォート)を構築したことに始まります。

コロンボ1をコロンボ・フォートと呼ぶのは、これに由来しています。

コロンボ・フォートはポルトガルによって作られた運河によって、東側はペター (コロンボ11)と切り分けられています。

ペター はタミル語でフォートの外を意味し、インドのティルバナンタプーラムにも、アフマドナガルにも城砦の外にペターと呼ばれる地区があります。

コロンボ・フォートの南側はゴール・フェイスと運河で切り分けられており、これは南部の町「ゴール」向きの城壁があったため、ゴール・フェイスと呼ばれるようになった地区です。

そして、コロンボ・フォートの南東、2つのベイラ湖に囲まれた半島のような、舌の形をした地域がスレイブ・アイランドと呼ばれます。

ベイラ湖(Beira Lake)もポルトガルがコロンボ・フォートを防衛及び奴隷の収容のために作った人造湖です。

名前はポルトガルがモザンビーク(当時のポルトガル領東アフリカ)に築いた港湾都市「ベイラ(Beira)」に由来すると思われます。

ポルトガル領東アフリカから奴隷を連れてきて、現在のスレイブ・アイランド地区に住まわせていたと言われいます。
現在もスリランカにはアフリカ系の末裔がいて、スリランカン・カッフィアーズ(Sri Lanka Kaffirs)と呼ばれる少数民族を形成しています(現在はプッタムラに多く住む)。

オランダ統治時代、イギリス統治時代にマレー人の町となる

ジャスティス・アクバー通り

スレイブ・アイランドには別名があります。

カンポン・ケーテル(Kampong Kertel)、カンパンパナ・ヴェーディヤ(Kompanna Veediya)の2つが知られています。

カンポン(Kampong)はマレー語で村を意味し、ケーテル(Kertel)はポルトガル語の兵舎に由来する言葉と言われています。

カンパンナ(Kompanna )はカンポンに由来するシンハラ語でカンパニーにあたる言葉で、ヴェーディヤ(Veediya)はシンハラ語で軍隊に相当する言葉です。

それを物語る建物が、鉄道駅のコンパンナヴィディヤ駅(Kompannavidiya駅:別名スレイブ・アイランド駅)にあります。

ジャスティス・アクバー通り(Justice Akbar Mawatha)にある2階建てのカラフルな建物の列です。

ここには、ライフル・バラック(Rifle Barracks )、セイロン・セイフル連隊(Ceylon fire Regiment)があったと言われています。

それを担ったのがイギリス領マラヤから連れてこられたマレー人部隊です。

ポルトガルをスリランカから駆逐したオランダ東インド会社は、オランダ領東インド(インドネシア、主にジャワ島)から労働者、兵士を連れてきて、スレイブ・アイランド地区に住まわせます。

その後、オランダ東インド会社に代わり、イギリスがスリランカを統治するようになると、イギリス領マラヤのマレー半島からマレー人の兵士をスレイブ・アイランドに住まわせます。

こうして、この地区にマレー人のコミュニティーが形成されていきます。

コロンボにあるマレー人の足跡

プラナカン風の建物

ジャスティス・アクバー通り

ジャスティス・アクバー通り(Justice Akbar Mawatha)にある2階建てのカラフルな建物の列は、マラッカやシンガポールで見られるプラナカンの建物を想起させます。

マレー・ストリート

ジャスティス・アクバー通りの東端と交わる「マレー・ストリート(Malay Street)はまさにマレー人に由来します。

ジャワ・レーンとマレー・ミリタリー・モスク

マレー・ストリートを北上すると左手に、ジャワ・レーン(Java Lane)が見えてきます。

この通りにはマレー人が建設し、スリランカン・マレーが礼拝に訪れる「マレー・ミリタリー・モスク(Malay Military Mosque)があります。

ジャワ・レーン・サッカー・クラブ

ジャワ・レーンから東に行くと、ジャワ・レーン・サッカー・クラブ(Java Lane SC)があります。
ジャワ・レーン・サッカー・クラブはシティー・リーグ・フットボール。コンプレックス(City League Football Complex)とも呼ばれいます。

キュー・ポイント・ロード、キュー・ロード、バラックス・レーン

ジャワ・レーン・サッカー・クラブの北には、キュー・ポイント・ロード(Kew Point Road)、キュー・ロード(Kew Road)があります。

キュー(Kew)の由来にはマレー語の軍隊を意味する言葉と、ロンドンのキュー植物園の二つの説があります。

現在、サッカー場及びクリケット場があり、イギリス統治時代は自然豊かな土地で植物園にも由来していた可能性がありますが、キュー・ロードに交わる道に、バラックス・レーン(Brracks Lane)という道があり、やはり、マレー人の兵舎がこの辺りにあったことを物語っています。

コロンボ・マレー・クリケット・クラブとジャラン・パダン

バラックス・レーンの南隣で、キュー・ロードを交わる道はグーグルマップ上は「ジャラン・パンダン(Jalan Pandan)」と表示されています。

ジャランとはマレー語で通りを意味し、パンダン通りという意味になります。

パンダン通りの先には1872年設立のコロンボ・マレー・クリケット・クラブと、1922年設立のスリランカ・マレー・アソシエーションがあります。

その建物の名前はパンダン・コンプレックス(Pandang Complex)と名付けられており、パンダン通りの由来と思われます。

フランス人アーティストの絵

パンダン通りの南のポリス・レーン(Police Lane)には、この地区の保全を意図したフランス人アーティストによる絵が描かれています。

マレー人が建設したモスク

ジャワ・レーンのマレー・ミリタリー・モスクに加えて、キュー・ロードの南端の交差点と交わるウェカンダ・ヴィンタナゲ通り(Wekanda Vinthanage Mawatha)にもマレー人が建てたモスク「ウェカンダ・ジャンマ・モスク(Wekanda Jumma Masjid)」がある。

さらに、ウェカンダ・ヴィンタナゲ通りとマレー・ストリートに挟まれたチャーチ・ストリート( Church Street)にも、「アル・クアディア・ハナフィ・ジュンマー・モスク(Al Qadir Hanafi Jummah Masjid)」があります。

また少し離れますが、コロンボ5の「ジャワッタ・ジャンマ・モスク(Jawatte Jumma Masjid)」のマレー人(ジャワ人)が建てたモスクと言われています。

イギリスが連れてきたタミル人

Sri Murugan Temple

イギリスは紅茶栽培のために、イギリス領インド帝国から南インドのタミル人を連れてきていますが、スレイブ・アイランドには、タミル人の文化も垣間見えます。

マレー・アソシエーションの向かいには小さなヒンドゥー寺院があり、キュー・ロードには大きな寺院「シュリ ・ムルガン寺院(Sri Murugan Temple)」があります。

アル・クアディア・ジュンマー・モスのあるチャーチ・ストリートには、タミル人のキリスト教会「ホーリー・ロサリー・タミル・ヴィヂャラヤム(Holy Rosary Tamil Vidyalayam)があります。

キューロードの交差点にはタミル系の「ホーリー・ロサリー・チャーチ(Holy Rosary Church)

プラナカン風の建物が並ぶジャスティス・アクバー通りの先には、キリスト・チャーチ – ガル・フェイス・タミル(Chirst Church – Galle Face Tamil)もあります。

があります。

イギリスがスレイプ・アイランド地区に連れてきたのはマレー人だけではなく、南インドからタミル人も連れてきたことが伺えます。

タミル人の多くはヒンドゥー教徒ですが、キリストの十二使徒の一人トマスはインドのチェンナイまで布教に来て亡くなったという伝説があり、チェンナイにはトマスの墓や亡くなった場所があります。
そのため、タミル人の中には一定数のキリスト教がいます。

イギリスが連れ来たタミル人の中には、ヒンドゥー教徒とキリスト教徒、それぞれがいたのではないかと思われます。

ホテル・ニッポン(Hotel Nippon)

スレイブ・アイランドのマレー人関連の場所に中に、日本人には気になる建物があります。

「ホテル・ニッポン(Hotel Nippon)」です。

考古学省の保護対象にもなっている歴史的な建物です。

スリランカに15年ほど居住し、ジャフナやコロンボのガイドブックを発行しているフランス人のインタビュー調査によると、このホテルの名前の由来は、オーナーのポーランド人が日本人女性と結婚したことにあると言います。

まとめ

スリランカン・マレーが集中していると思われる場所

上記のオレンジ色の部分が今回周ったスリランカン・マレーに関係する場所です。

スレイブ・アイランドが実際に島になっていたのか、今のように半島のような形だったのかは諸説ありますが、マレー人部隊がこの一帯にあったことを考えると、島だったにしろ、半島だったにしろ、スレイブ・アイランドの南側にマレーの人たちがいたことが分かります。

この地区は、スラムのような場所もあり、立ち寄る際は気をつけください。

見物しているとチップを要求されることもありました。

今回の記事では、町の名前、通りの名前から、スリランカの歴史の一端を紐解いて見ました。

スリランカの町歩きの参考になりましたら嬉しいです。

>参考

 

The Slave Island That We Have Forgotten(roar media)
The Changing Streets of Slave Island – In Pictures(roar media)
Don’t bulldoze our colonial shop houses into oblivion(The Sunday Times)
Slave Island (wikipedia)