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ヌワラエリヤとライオンビールの生みの親とされるイギリス人サミュエルベイカーとは?

2021年6月06日

ヌワラエリヤは標高1,868 mとスリランカで最も標高が高い町です。

町の北にはスリランカの最高峰ピドゥルタラーガラ(පිදුරුතලාගල / Pidurutalagala)2,524 m が見えます。

ヌワラエリヤはスリランカ人は住んでいなかった土地で、イギリス人の土木技師・探検家・ハンター・作家のサミュエルベイカーが建設したと言われています。

サミュエルベイカーはスリランカのビール業界で最大シェアを持つライオンブルワリー(ライオンビールを製造)を創業した人物としても知られています。

また、ヌワラエリヤ郊外にある世界遺産にも登録されているホートンプレインズ国立公園内の滝「ベイカー滝(Baker’s Fall)」はサミュエルベイカーの名から取られています。

一部が伝説なのか、記録が明確に残っていないのか、情報が明確ではありません。

本記事ではサミュエルベイカーがどんな人物だったのか見ていきます。

サミュエルベイカーの略歴

この略歴はウィキペディア英語版のサミュエル・ベイカーのページを参照して記載しています。

サミュエルベイカーはイギリス人の土木技師・探検家・ハンター・作家で、オスマントルコ帝国のパシャにもなった人物です。

1821年、サミュエルはロンドンの裕福な貿易商の家に生まれます。
父は砂糖商人・銀行家・船主でした。

1941年、フランクフルトで土木工学の修士号を取得し、ルーマニアで鉄道と橋の設計に携わります。

1843年、サミュエルは結婚して、家族の農園を監督するためにモーリシャスに行きます。

1846年、モーリシャスで2年間過ごした後に、セイロンに渡ります。
そして、農園入植地・高原リゾート地としてヌワラエリヤを建設します。

サミュエルはその後、探検家・ハンターとして知られたため、私はサミュエルが探検をして、農地・高原リゾート地として最適なヌワラエリヤを発見したのだと思っていました。
ところが、ウィキペディアのグランドホテルのページを見ると、1828年に建てられたセイロン総督エドワード・バーンズ休日の邸宅が前身と記述されています。
それぞれの記事が正しいとすると、サミュエルベイカーが発見者ではなく、また、総督の邸宅が建てられていることから、サミュエルベイカーが町を建設したと言えるのかは、微妙に思えます。

ウィキペディアのサミュエルベイカーの記事に戻り、略歴を進めます。

1849年、サミュエルは紅茶農園向けのケータリングを行うコテージを設立します。
ラバーズ・リープ(Lover’s Leap)の湧き水からビールも作り、これが現在のライオンブルワリーの前身とされます。

サミュエルベイカーはハンター・猟師としても知られ、ハンティングを通してみたスリランカの野生動物についてまとめた本を出版します。
1853年、『The Rifle and the Hound in Ceylon』を出版。
1855年、『Eight Years’ Wanderings in Ceylon』を出版。

1855年、腸チフスによって妻・息子二人・娘一人を亡くします。
残った4人の娘を未婚の妹(あるいは姉)に託して、イスタンブール、クリミアに向かいます。

ここまでがセイロンでの略歴です。

以降の活躍を見ると、君主や公爵とも繋がりがあり、探検家として知られた人物であることが分かります。
ヌワラエリヤの町の建設、ライオンブルワリーの創業はサミュエルベイカーのその後の活躍にあやかって語られたものではないかとも思えます。
※ライオンブルワリーについては、後述します。

その後、ルーマニアに行き、鉄道・橋の建設を完成させます。

スコットランドのアソル公爵の狩猟場でシク王国最後の君主「ドゥリープ・シング」と知り合います。
1858〜1859年、ドゥリープ・シングと中央ヨーロッパとバルカン半島を巡る狩猟の旅に出掛けます。

ドナウ川を船で移動中に船が壊れ、ブルガリアのドナウ川の港町「ヴィディン」に立ち寄った際にフローレンスと出会い結婚します。

ナイル川の源流探索に参加し、
1864年、アフリカを探検してアルバート湖を発見します。

ナイル川の探検の経験を元に
1866年、『The Albert N’yanza, Great Basin of the Nile and Explorations of the Nile Sources』を出版
1867年、『The Nile Tributaries of Abyssinia』を出版
1868年、『Cast up by the Sea』を出版

1869年、イギリス王になる前のエドワード7世とエジプトへ旅行。
同年、オスマントルコ帝国エジプト総督のイスマイールから南スーダンの探検を依頼され、パシャの称号を得て、赤道州を建設。

1874年、『Ismailia』を出版
1879年、『Cyprus as I saw it』を出版
1890年、エジプト・インド・日本を旅して『Wild Beasts and their Ways』を出版
1893年、心臓発作で死去

ライオンブルワリー(ライオンビール)の略歴

ウィキペディアのサミュエルベイカーの記事とライオンブルワリーの記事を読むに、

1849年、サミュエルベイカーが始めた紅茶農園向けのケータリング・コテージビジネスがライオンビールの源流になっているようです。

ウィキペディアのサミュエルベイカーのページによれば、サミュエルベイカーがセイロンに滞在したのは1846〜1855年です。

しかし、サミュエルベイカーが創業であると記載しているライオンブルワリーの公式ページには1860年が創業、商業ベースになったのは1881年とあります。

サミュエルがケータリング事業の中でビールも醸造していたのかもしれませんが、明確には記載がありません。

1881年に商業ベースのビール製造を始めた際に、ヌワラエリヤ郊外の滝「ラバーズリープ(Lover’s Leap)」近くに工場を設立したようです。

ウィキペディアの記事によれば、創業3年後の1884年にインドのモハンミーキンブルワリー(Mohan Meakin Brewery)に買収されています。
モハンミーキンブルワリーは、1820年代にイギリス人エドワード・アブラハム・ダイアーが北インドのカサウリ(Kasauli)に創業したビール醸造会社です。
1855年にダイヤーブルワリーとなっています。
面白いのが当時のブランド名は「ライオン」だったようです。

モハンミーキンの社名は、H. G. メーキンが1887年にダイヤーブルワリーを買収したからのようです。
H. G. メーキンによって、ヌワラエリヤにあったセイロンブルワリーは買収されたようです。

そうすると、ウィキペディアのライオンブルワリーの記事と買収された年は一致しませんが、おそらくインドの会社に買収されたのは確かそうです。

1993年、セイロンブルワリーはスリランカのコングロマリット「カールソン・カンバーバッチ(Carson Cumberbatch)」の子会社になり、現在もその状態です。

1996年にカールスバーググループがセイロンブルワリーの株式25%を取得し、その後、社名がライオンブルワリーに変更されています。

1998年、現在の本社と工場があるビヤガマに新工場を設立。
2001年、ヌワラエリヤの工場が操業を停止しています。

参照)

Wikipedia:Nuwara Eliya
Wikipedia:Grand Hotel(Nuwara Eliya)

Wikipedia:Samuel Baker

Wikipedia:Lion Brewery (Sri Lanka)
Wikipedia:Beer in Sri Lanka
池光エンタープライズ
ウィキペディア:アソル公爵
ウィキペディア:ドゥリープ・シング
ウィキペディア:ヴィディン
ウィキペディア:アルバート湖
ウィキペディア:ナイル川
ウィキペディア:エドワード7世 (イギリス王)
Weblio:Khediveとは
ウィキペディア:赤道州 (スーダン)
Lion Brewery公式ページ
Michael Jackson Lion Stout
Wikipedia:Mohan Meakin
Mohan Meakin公式ページ
Wikipedia:Carson Cumberbatch
Carson Cumberbatch公式ページ

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