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スリランカにおける中国人社会の歴史(前編)

2020年6月07日

スリランカで徐々に注目を集めることになった中国人たち。
今回はスリランカ在住の中国人たちについて見ていきます。

故郷を離れた中国人

横浜の中華街、サンフランシスコのチャイナタウン、シンガポールのチャイナタウン(牛車水)など皆様ご存じのように世界中に中国人社会は広がっています。

私も中国在住は5年になりますが、何度となくこのことわざを耳にしました。

「日の当たるところ、大地の広がるところ、水のあるところあれば、中国人あり」と。

中国本土の人口は今14億人を数えておりますが、中国国外には華僑や華人と呼ばれる、在外中国人コミュニテイが広がっています。

インドネシアには在住の中国人が約800万人、日本では約81万人(第2位の在日外国人である韓国人約45万人を大幅に上回る、在日の外国人最大のコミュニティー)と言われています。

また、国によって中国人社会の存在感も大きく変わります。
タイ王国ですと一説によると総人口の3分の1が中国系との混血であり、首相や国王陛下の一族も中国との深い縁があると言われています。

日本では飲食産業や日中貿易、さらには一般企業など幅広く業種に中国人が関わっています。

その一方でインドのように中国との外交関係上の問題で、華人社会が消滅した国もございます。
在外中国人人口調査レポートによれば、おおよそ14億人の人口の内、8%が中国本土外に住んでいると予想されています。
ざっとですが1億人くらいですね!

一方、日本人の海外在住数は約140万人(2018年)で、総人口の約1.1%です。

スリランカを訪れた歴史上の人物

仏教の学究をしていた僧「法顕(Faxian)」(337年〜422年)

法顕は仏教の戒律を調べに長安からインドに行きました。
西遊記の三蔵法師のモデルである玄奘三蔵がインドに旅をした200年以上前のことです。

その際、スリランカに「五分律(律とは出家修行者が守らなければならない規則の事)」と「長阿含経(初期仏教の経典)」を求めてやってきています。

法顕が滞在していた場所と言い伝えられ、法顕の名前からファヒエン・レナ洞窟(Fa Hien Cave)と呼ばれる洞窟がカルタラ県に今も残っています。
この洞窟は「パヒヤンガラ洞窟(Pahiyangala Cave)」とも呼ばれており、法顕が実際に滞在したかどうかの伝説を裏づける考古学的、歴史的な証拠はないそうです。

ところが、2020年にこの洞窟で4万8000年前の武器が発見され、人類最古の弓矢の可能性があるとニュースになっていて、いずれにしろ、注目に値する洞窟です。

スリランカの洞窟で4万5000年前の武器が発見される。世界最古の弓矢の可能性(旧石器時代
48,000-Year-Old Arrowheads Unearthed in Sri Lanka
Far Beneath Fa-Hien Cave
Prehistoric dwellers in Sri Lanka used the bow and arrow before Europeans – Study

大航海を行った明時代の武将「鄭和」(1371年〜1434年)

大航海時代が始める80〜90年前に明王朝の外交使節として、中国からアフリカまでの大航海を7度にも渡って行った鄭和はスリランカにも訪れています。

彼はいわゆる海のシルクロードを旅して、中国の福建省からアフリカ東海岸まで明王朝の外交官として大艦隊を率いていきました。

第二次航海の際にゴールに漢文、タミル語、ペルシャ語の碑文を建てています。
この碑文は現在、ゴールの海洋考古学博物館で見ることができます。

鄭和は雲南省出身のイスラム教徒でしたので、シンハラ語ではなく、スリランカのイスラム教徒が使うタミル語で碑文を残したのかもしれません。

この碑文が見つかった場所はチャイナ・ガーデンで呼ばれるゴールの新市街です。
そこにかつてチャイナタウンがあったと言われています。

鄭和の艦隊はスリランカにできた最初のイスラム教徒の町「ベールワラ」にも立ち寄っています。

第三次航海の際、ガンポラ王国の王アラガッコナラ(Alagakkonara)が鄭和の艦隊を攻撃したため、武力衝突に発展しています。
鄭和はアラガッコナラ王を拘束して明に連れ帰り、第三代皇帝の永楽帝に差し出しています。

ライガマ公国の王Parakramabahu VIは永楽帝と同盟関係にあり、永楽帝から王国の王であると認められ、コッテ王国の初代王になります。

鄭和はスリランカの歴史の転換点の一つに関係していたとも言えます。

オランダ領東インド、イギリス領マラヤからの中国人移民

スリランカで中国人コミュニテイが本格的に形成され始めたのは、オランダやイギリスの植民地支配がきっかけでした。

当時オランダは、インドネシアを植民地支配していましたが、インドネシアの華人社会と緊張関係がありました。

その際にインドネシアの中国人失業者を、オランダ領セイロンで雇用しはじめたのがスリランカでの華人社会の起源といわれています。

オランダを排除したイギリスによる植民地時代になると、イギリス人たちは中国人労働者が勤勉であることに注目します。
そして、イギリス領マラヤの中国人コミュニテイから、中国人労働者を募り、スリランカへ連れてきたそうです。

陈占杰博士の「スリランカ社会の中国人たちの奮闘」によれば、19世紀の末に中国人コミュニテイは約500人程度と推測されています。

いずれにせよ大半の中国人は東南アジアに住んでいた中国人たちが中心でした。

中国本土からの移民

20世紀にはいると、中国本土から直接やってきた中国人がスリランカで華人社会を形成し始めました。

湖北省や山東省からイギリスの海峡植民地シンガポールやイギリス領インド帝国で働くことを目指した人たちの一部が、イギリス領セイロンを選び始めたのです。

一時期は賑わいを見せていたコミュニテイですが、中国国内の内戦の開始、60年代からスリランカから欧州やアメリカへの移民の波が起こり、とうとうスリランカの中国人コミュニテイは減少を始めました。

1945年頃には1000人を数えていた華人社会も、60年代末には500人足らずまで人数を減少させてしまったようです。
後編に続きます。

参照)

在日中国人(ウィキペディア)
在日外国人(ウィキペディア)
海外在留邦人数調査統計(外務省)
斯里兰卡华人多吗?
危险到处都有 斯里兰卡战乱华侨华人难逃一劫
法顕(ウィキペディア)
鄭和(ウィキペディア)

Ming–Kotte War(Wikipedia)
Vira Alakesvara of Gampola
Parakramabahu VI of Kotte

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