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アーユルヴェーダとスリランカ伝承医療について理解が深まる『沈黙の医療 スリランカ伝承医療における言葉と診療』

2022年3月28日

アーユルヴェーダについて理解する上で、西洋医学との違いよりも、スリランカ伝承医療との違いを知るのが近道かもしれません。

今回紹介するのは、スリランカ伝承医療について、調査・研究された書籍『沈黙の医療 スリランカ伝承医療における言葉と診療』です。

著書の梅村絢美さんは、2008年にスリランカを初めて訪れ、ケラニヤ大学シンハラ語学部シンハラ語学科の語学留学生として在籍して、西洋医療の女性医師の診療室がある建物に下宿しながら、パーランパリカ・ウェダカマの治療家51名への調査を、ケラニヤ大学のアーユルヴェーダ学部に在籍する男女各一名による解説を受けながら行っています。

アーユルヴェーダの歴史、スリランカにおける医療の歴史、国立大学の伝統医療学部やアーユルヴェーダの関連法などの紹介、パーランパリカ・ウェダカマの治療家へのインタビューや治療の様子、実際に受けた治療などについて報告されていて、非常に興味深い内容です。

本書の概要と目次

本書は2012年に首都大学東京(現:東京都立大学)に梅村さんが提出した博士論文「スリランカ土着の伝統医療パーランパリカ・ウェダカマにおける『言語発話の忌避』に関する社会人類学的研究」が基盤になっています。

各章の冒頭に「はじめに」、各章の最後に「考察」があり、重要な点がまとめられていて大変読みやすい内容になっています。

序論は言語に関することが考察されていますが、ここは少し難解です。
第七〜九章などの後半に関係してきますが、序論を飛ばして第一章から読み、最後まで読んだ上で、全体の理解を深めるために第一章を読むとスムーズに読めると思います。

私はそのように読みました。

本書の構成は3部構成全9章で、それに加えて「はじめに・序論・結論・おわりに」があります。

目次

はじめに–セレンディピティ

序論
一 はじめに–沈黙からみえる世界
二 言語表象と単独生
三 「身分け言葉」とアクチュアルな言語活動
四 「病いの語り」の孤独
五 オーディット・カルチャーと<あなた>不在の物語
六 本書の構成と調査の背景

第I部 パーランパリカ・ウェダカマという対象

第一章 受け継がれる医療実践(パーランパリカ・ウェダカマ)
一 「個」の医療
二 「薬の家」と伝承=パランパラーワ
三 治療の分野
四 治療家たちの姿

第二章 パーランパリカ・ウェダカマの位置付け
一 はじめに
二 スリランカの概況
三 スリランカにおける医療の歴史
四 伝統医療のアーユルヴェーダ化
五 伝統医療保護政策におけるパーランパリカ・ウェダカマ
六 パーランパリカ・ウェダカマの二極化と生存戦略としてのアーユルヴェーダ
七 町の「検査屋」と複数の医療を医療する患者たち

第三章 治療家たちの「顔」
一 はじめに
二 棚田の村のウェダ・マハットゥヤー-労働交換に埋め込まれた治療(スムドゥさん)
三 村の救命救急士-ヘビの毒抜きウェダ・マハットゥヤー(ニルマルさん)
四 生業と結びついた診療-ワッタの村ウェダ・マハットゥヤー(カヴィットさん)
五 祈りとともにある診療-信仰熱心なウェダ・ハーミネー(クスマさん)
六 薬ビジネスを展開するウェダ・マハットゥヤー(タミンダさん)
七 キャドゥム・ビンドゥム(接骨治療)を受けてみた

第II部 治療効果の由来

第四章 アトゥ・グナヤ(手の効力)の由来
一 はじめに
二 アトゥ・グナヤ(手の効力)
三 「手」の診療と処方薬づくり
四 月の満ち欠けと薬草のグナヤの所在
五 マントラの朗誦とヤカー
六 考察-媒介者としての治療家

第五章 布施(ダーナ)としての診療
一 はじめに
二 「功徳を積む行為」としての診療
三 上座仏教における看護と医療
四 シンハラ仏教社会における布施とピンカマ
五 出家者に対する診療ダーナ
六 福田としての患者
七 ブッダと先祖に見守られた診療
八 考察-「布施としての診療」を支える患者たち

第六章 供物としての「診察料」
一 はじめに
二 額づく患者と贈り物
三 供物をささげる患者たち
四 供物のゆくえ
五 考察-「値段がない」診療

第Ⅲ部 沈黙と秘匿性

第七章 布施(ダーナ)としての診療
一 はじめに
二 ナーディの診断
三 嘘をつく患者、患者の話を聞いていない治療家
四 記録されない診断結果と「身分け言葉」による伝承
五 「何も言わない」という敬意と信頼
六 考察-沈黙がつなぎとめる<いま・ここ・私>

第八章 名のなき草とその薬効
一 はじめに
二 知的財産という枠組みと代替可能性
三 薬草の暗号化と「明らかにしないこと」としての秘密
四 その名を呼んではならない薬草
五 名のなき草
六 考察-「名無しの名づけ」とアクチュアリティ

第九章 発話がまねく禍、沈黙がもたらす効力
一 はじめに
二 発話をともなわない知の継承と診療
三 発話がまねく禍
四 沈黙が変容させる空間
五 考察-「口の毒」と比較の拒絶

結論 沈黙と物象化-矛盾の先にみえるもの

おわりに

「個の医療」と「体系化された医療」

スリランカでは、アーユルヴェーダといった場合に、それを指すものが複数あり、混同してしまいますが、本書ではそれらの場合分けして説明されています。

個の医療=スリランカ伝承医療

本書では、「パーランパリカ・ウェダカマ(受け継がれる医療)」あるいは「スリランカ伝承医療」と言われている医療は、他にも以下のように様々な呼称があります。

ヘラ・ウェダカマ(我らの医術)
ゴダ・ウェダカマ(田舎者の医術)
デーシィーヤ・ウェダカマ(国内の医術)
シンハラ・ウェダカマ(シンハラ人の医療実践)

パーランパリカ・ウェダカマの特徴として挙げられているのは、ベヘット・ゲダラ(薬の家)あるいはウェダ・ゲダラ(医療の家)と、その医療が代々受け継がれて、その家独自のもの「個」の医療であることが指摘されています。

また、その医療は親族であれば誰でも受け継げるのではなく、ヘキアーワ(才能)があると先代に認められたものだけが、習得することができるものとされています。

それと対極にあるのがアーユルヴェーダです。

体系化された医療=アーユルヴェーダ

スリランカの独立に前後して、ナショナリズムの運動家たちが、西洋医療に対抗できる合理的な医療として、当時のインドで近代化・合理化されたアーユルヴェーダをスリランカに導入したと言います。

アーユルヴェーダの再編成は(中略)呪文やまじないは排除され、長期間の修行や実習により習得された知識は、テキスト中心の近代学校教育へと変換され、天体や自然環境との相補的な関係性の中に位置づけられた身体は、環境から切り離された孤立的身体へと再定位された。そしてテキスト中心の近代学校教育をおこなうアーユルヴェーダ教育機関が各地に設置された。

現在、アーユルヴェーダ医師になるには、医学部を卒業する必要がありますが、それがテキスト中心の近代学校教育のことでしょう。

このように、今日のスリランカの教育研究機関でみられるアーユルヴェーダは、仏教伝来とともに断続的にインド亜大陸から伝えられ、仏教王国で研究が勧められてきた医療が直接の起源であるというより、20世紀初頭のナショナリズムの流れのなかでインドから持ち込まれ、再編成されたアーユルヴェーダと理解すべきである。

とも書かれています。

アーユルヴェーダが意味する医療

スリランカで実践された医療

ポロンナルワ時代には、南インドから多くの治療家がスリランカに渡り、シッダ医学を行い、タミル語の医療文献をシンハラ語に翻訳し、タミル医療の普及に務めたそうです。

キャンディ王朝では、インドのゴアからスリランカに渡ったゴパラ・ムーア(治療家)が、代々の王の専属医を勤めたそうです。

ムーアと言えばイスラム教徒のことですので、スリランカの伝統医療として扱われるタミル医療「シッダ」、イスラム医療「ユナーニー」も実践されていたようです。

また、1929年に設立されたスリランカ初のアーユルヴェーダ大学の名前は「シッダ・アーユルヴェーダ(後にケラニヤ大学に統合)」であり、設立者はインドの「カルカッタ・アシュタンガ・アーユルヴェーダ大学」で学んだ仏僧出身のウィックラマーラチだそうです。

2つのアーユルヴェーダ

狭義のアーユルヴェーダは、上記の王朝時代からの医療ではなく、近代になってインドから導入された近代化されたアーユルヴェーダのことです。

もう一つのアーユルヴェーダが、広義のアーユルヴェーダです。

1961年に施工されたアーユルヴェーダ法においてアーユルヴェーダは、「シッダ、ユーナーニ、デーシィーヤ・チキッサを含む医療体系」と定義されている。

とあり、つまりタミル医療「シッダ」、イスラム医療「ユーナーニ」、シンハラ医療「デーシィーヤ・チキッサ(パーランパリカ・ウェダカマ)」も含めてアーユルヴェーダとなっています。

これは独立前後(1940年代半)は西洋医療に対抗してアーユルヴェーダを近代化する際は他の伝統医療と区別した一方で、1960年代は伝統医療全体を保護する目的でアーユルヴェーダを広く使ったためなのでしょう。

1980年には土着医療省が国立アーユルヴェーダ研究所を吸収し、先住民ウェッダーたちの文化や薬草栽培の保護も行っていることが本書で指摘されています。

一方で民族や宗教による伝統医療の棲み分けがされていて、以下にように本書にあります。

文献にもとづくアーユルヴェーダ教育では、アーユルヴェーダの科目としてシッダやユナーニーが排除されているのに対し、このアーユルヴェーダでは、複数の伝統医療を包摂する傾向がある。

また、梅村さんはコロンボ大学の土着医療学部の在籍者についても記述されています。

たとえばコロンボ大学の土着医療学部では、アーユルヴェーダ学部の圧倒的多数はシンハラ人(在籍者約300人のうちタミル人2名、ムスリム0名)であり、シッダ学部はタミル人のみ、ユナーニー学部はムスリムのみであった。

本書では、主にシンハラ人が行うパーランパリカ・ウェダカマを中心に、対比としてアーユルヴェーダが出てきますが、シッダ医学やユーナーニ医学については具体的な記述はありませんが、それも調査対象がシンハラ社会の医療がメインだからでしょう。

一方で、タミル人が暮らす南インドにもアーユルヴェーダ施設はあり、南インドでのアーユルーヴェーダとシッダ医学の関係は、スリランカでのアーユルヴェーダとパーランパリカ・ウェダカマとの関係性と似ているのかもしれません。

ヘキアーワ(才能)とアトゥグナヤ(手の効力)

上述したように、パーランパリカ・ウェダカマは、ヘキアーワ(才能)があると認められないと習得することができないとされていますが、アーユルヴェーダとパーランパリカ・ウェダカマの違いを物語る興味深い患者の言葉が引用されていました。

アーユルヴェーダは伝統医療だといっても、結局はバタヒラ・ウェダカマ(西洋医療)といっしょで弁護士や会計士みたいに専門のことを人よりよく知っている職業というだけのことです。アーユルヴェーダや西洋医療は、Aレベルの試験(大学統一試験)でいい点数をとって大学に通って、それからたくさん難しい勉強をしなくてはならないから、すごく難しいことだけれど、それでも僕(インフォーマントの患者)でも君(筆者)にだってなれないことはない。だけど、このウェダ・マハットゥヤーがやっているウェダカマは、この人にしかできないのです。

これは、「個」の医療を物語る発言だと思います。

パーランパリカ・ウェダカマでは、不妊治療の名医、糖尿病治療の名医、高コレステロール血症の名医などと言われ、スリランカ各地から患者がやってくるような治療家もいるそうです。

ヘキアーワとともに、英語でハンドパワーと言われるアトゥ・グナヤ(手の効力)も重要であり、そのことを料理を例に梅村んさんが説明しています。

料理が上手な人物に対して「彼・彼女はアトゥ・グナヤがある」と言った場合、その人物以外の人間が、その人物が料理するのとまったく同じ分量や手順で料理したとしても、その人物がつくる料理と質的に同一のものをつくることが不可能とされることからも明らかである。つまりアトゥ・グナヤは、料理のレシピのように分量や手順というかたちで数値化したり他人に伝えたりすることができない代替不可能な力なのである。

梅村さんは、『スリランカを知るための58章』ではスリランカの家庭では、電化製品に頼らずに手で調理や洗濯することが重視され、粗悪品(既製品)を使わずに手間暇を惜しまないことが大切にされていることを書かれていますが、「手」を使うことが大切なようです。

『スリランカを知るための58章』(エリアスタディーズ117)杉本良男・…

スリランカで料理を作る際には、ココナツ・ミルクを絞ったり、和え物をしたりするときなど、調理のあらゆるプロセスにおいて、できるかぎり「手」をつかうことが重視される。(中略)実際、アトゥ・グナヤは、上手に籠を編んだり、竈に火を起こしたりすることなど、「手」を直接使った作業に対して用いられるが、本を書いたり、商売で成功したりすることに対しては用いられない。

日本ではゴットハンドと呼ばれたりしますが、日本で東洋医学に求めるのは治療家の腕だと思いますが、アーユルヴェーダリゾートに行くと、ドクターは診察をしてくれますが、施術をするのはセラピストですので、イメージする治療はパーランパリカ・ウェダカマのアトゥグナヤの方が近いかもしれません。

自家製の治療薬

アトゥ・グナヤ(手の効力)に関連するのが、手作りされる治療薬です。

調査を行ったパーランパリカ・ウェダカマの治療家は全て、患者に処方する薬の一部あるいは全てを自家製造しており、処方箋を発行して他人が作った薬を処方することを避けるようにしていた。

とありました。

また、薬ごとにそれぞれ製造すべき日和と時間帯が決められていて、原料となる薬草が生える方角やそれを採取する日時によっても、薬効が異なると治療家が考えていることが報告されています。

アトゥ・グナヤがある彼女自身の手で、適切なタイミングやマントラの朗誦を伴う適切な方法で作られなければ効き目がないので、レシピが外に漏れることは問題ではない。

とも書かれています。

スリランカは満月の日がお休みですが、以下のようにも書かれていました。

満月の日には薬草の力が急激に高まり非常に不安定な状態になることから、満月の日に作った薬は身体のバランスを崩しやすくしてしまう

満月の日には人間の身体の組織も柔らかく不安定になるため、満月の日に負った傷は、非常に治りづらい。

スリランカ学の冒険』では、「理性のゆらぐ伝承医学」という章で、月が人体に及ぼす影響について書かれ、満月の日を休みにしたことは注目に値すると指摘されていますが、それを思い出す内容でした。

第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞した『スリランカ学の冒険』

お金をもらわない診療

診療は「ピン(功徳の意)」のためにやっている」のであり、診療で「金儲け」をすると「サクティ(治療をもたらす力)」が少なくなる」

という治療家もいるパーランパリカ・ウェダカマの特徴は、診療費に関する考え方にその特徴が垣間見えます。

無料の国立医療機関

スリランカには、西洋医療・アーユルヴェーダ・土着医療とそれぞれに国立病院・国立診療所があり、それぞれ国が医師にお金を払うため、治療費は無料となっています。

パーランパリカ・ウェダカマの国立診療所は「ウェダ・ゲダラ(医療の家)」と言います。

これは理解しやすいでしょう。

お金を取らない農村の治療家

農村では、村の中で労働交換が行われており、治療家は診察や治療に対してお金を取らない代わりに、患者が農作業を手伝ったり、家の修繕などをおこなっていることが本書の農村での調査で記されています。

農村の治療家は農業などの兼業である場合も多く、患者が来れば治療するが、患者が来なければ他の仕事をしているようです。

無償治療を別途行う都市の治療家

農村部の治療家は、農業などとの兼業であり、診療に対する謝礼は労働奉仕という形で差し出され、井戸水や薪など薬の製造に必要なもののコストもあまりかからず、患者の数も少ないことから、診療によって収入を得る必要があまりありません。

一方で、都市部の治療家は、薬の製造に必要な水道・ガス・薬草には料金がかかり、患者も多く訪れるため、治療を継続するには治療から収入を得る必要があります。

そのため、患者から診療費を受け取る診療とは別に、僧院や村落に行って無償で治療を行う治療家も多くいます。

私はアーユルヴェーダリゾートに勤める医師から、「村に行って無償で治療を行なっている」と聞いたことが何度かあります。

また、本書にはアーユルヴェーダ治療薬を製造する工場を経営し、収入は工場経営から得て、治療は無償で行なっている治療会についても紹介されています。

「徳を積む」治療行為

本書には、「上座部仏教」と「シンハラ仏教」の違いについても紹介されていますが、その後に仏教と治療行為の関係について、ブッタの話が引用されています。

上座仏教においては、病人の看護は最も奨励されるピンカマの一つと位置付けられている。(中略)バラモン=司祭階級の秩序において、病者は不浄の存在とされており、病者に対し治療を行うことは異端と位置づけられていた。ところがブッタは(中略)医療の重要性を説き、医学研究を奨励したのである。

これが治療家が診療をお金を稼ぐ手段ではなく、徳を積む行為だと考えている背景にあるようです。

村人から患者への寄進(ダーネ)

患者に対して「徳を積む」行為をするのは治療家のみに留まらず、一般の村人も行なっていることが本書で述べられています。

クルネーガラ県の治療家は、入院患者から治療費・滞在費・薬代をほとんどもらわず、毎日村人が代わる代わる患者の食事や日用品を持ち寄っていることが報告されています。

患者から治療家への贈り物

本書では、患者が診察料とは別に、治療家に対して贈り物をしていることが紹介されています。

贈り物は、病気が治る前にも治療家に渡されることもあり、さらに、病気が完治した際には、パソコン・テレビ・ソファ・テーブル・腕時計など高価なものが贈られることもあるようです。

その贈り物に対する治療家の態度について報告されています。

「患者が渡したいから(勝手に)渡してきた」と話し、少なくとも患者のいる前では、それに関心を示したり喜んだりもせず、謝意を示すこともなかった。

これは、病気治療を祈願して神々へ供物を捧げられるのに近く、患者は治療家から要求されたから贈り物をするわけではないと梅村さんは書かれています。

病名・薬名・病状を話さない診療

患者に診断結果を告げることや、患者自身に無理やり病状を説明させることをひどく嫌っている治療家がいることが本書に紹介されています。

インフォームドコンセプトとは真逆な態度ですが、以下の治療家の話を読むと納得する部分があります。

わざわざ患者さんの口から『痛い、辛い、我慢できない』などという言葉を話させることを、私はしたくないのです。そのようなことを口にしてしまったら、その病状がもっと悪くなってしまいます。ちょうど、カタハワ(口の毒)みたいなもので、よくない内容の言葉を声に出して言うと、悪いことが起こります。(中略)患者さんが(中略)悪いことを思うだけでもダメです。以前に、ヒテー・バラペーマ(思ったことが見えるようになる)のことを教えましたでしょう?患者さんが、少しでも不安なことや悪いことを心に抱いてしまうと、本当に悪いことが起こってしまいます。(中略)患者さんには『心配要らないですよ。よくなってきています。このまま治療を続けましょう』と言います。

一方で、治療家が診断結果を告げないことに不安はないのかと梅村さんは患者に聞いた際の回答も非常に興味深いです。

「ウェダ・ハーミネーはナーディを診れば何でも分かってくれるし、彼女が出してくれる薬はよく効くから、自分がどんな病気かだなんて知る必要はありません」

また、病状を伝えることは治療家に失礼であるという発言あります。

「ウェダ・ハーミネーには、私たちが知り得ないようなラハス(素人には知る由もない治療能力)があって、私たちはそれを信じて尊敬しているから長年診療を受けに来ているのです。ラハスがあるから私たちがいちいち説明しなくても何でも分かってくれるし治してくれる。だから、私たちから説明する必要はないのです。むしろ、話しすぎるというのは、ウェダ・ハーミネーの診療を尊敬していないということ、失礼なことですよ。」

また、治療家は患者は嘘をつくと言います。

そしてごく稀ですが、私に対して嘘をつきます。(中略)「転んでひねってしまった」と話していたのですが、診察をしたら、ひねられているということはなく、明らかに強く打たれたものでした。おそらく、夫か誰かから暴力を受けたのでしょう。

もっと小さいな嘘も例として挙げられています。

「甘いものを控えてください」と再三注意したにも関わらず、我慢できなくてビスケットを食べてしまった患者さんなどは、私(クスマさん)に怒られるのが嫌だから、そのことを隠すために、「食べていない」と嘘をつくのですよ。でも、そんなことは、ナーディ(脈)を診ればすぐに分かってしまいます。

名前がない効用

パーランパリカ・ウェダカマの治療家が名前を言わないのは、病名だけではない。治療の要となる薬草や薬草から作った処方薬の名前を暗号化したり、決して声に出して言わなかったりするのである。さらには、薬草そのものの名前を「知らない」と話す治療家もいた。

と本書にあります。

父親から治療薬を引き継ぐ際も、名前を伝えられなかった、あるいは発話することは避けられ文字で伝えられたなどの治療家の事例も紹介されています。

「薬草の名前を言うと薬効が少なくなる。」という治療家もいます。

面白い事例としては、接骨治療を行う治療家の話です。
骨折の治療の際に、特別な装置ではなくて、ただの竹かぁと思わないように竹の板に布を巻いているそうです。

名前を言うと薬効が少なることや、名前がないということは俄に信じ難いですが、梅村さんは柳田國男が紹介した日本各地のタブーについて書かれています。

日本にもそういう習慣があったと分かると、急に距離感が変わってきます。
以下のような別名や言われ方があるそうです。

名付けることは、『所有する』ことであったことから、神聖なものに名前をつけることを避けたとされているそうです。

沖ノ島=御言わず・不言島
佐渡の国仲での鳶=言わず
薩摩での雉=言わずの鳥
肥前でのものもらい=名言わず
奄美大島での薬指=名知らず
名護での薬指=名なし指
信州の名無しの木
伊勢の言わずの森
薩摩の名知らず地区
越後の名無しの木

呪文(マントラ・ピリット・ケマ)

本書は、注釈に書かれていることも大変勉強になりますが、以下のように書いてありました。

スリランカでは、午前5時過ぎと午後6時過ぎに寺院のスピーカーからピリットが大音量で流され、ラジオでもこの時間に放送される。

このピリットが治療院で大きなスピーカーで鳴らされ続けていることもあるそうです、以下の治療家の発言が興味深いです。

こうやってピリットの音を病室に充満させておくことで、ヤカー(悪霊)が寄り付けなくなるのです。(中略)ピリットは、音楽とは違ってあなた(筆者)や私など人間が聞くためのものではなく、ヤカーに向けられたものなのです。

治療を行う僧侶「ウェダ・ハームドゥルヲ」は身体的な不調を治療する行為に加えて、精神的な癒しも行うそうです。

また、治療家は薬を作る際、患者に薬を塗る時などにもマントラを唱えることもあるようです。

私は本書を読むまで、「ケマ」を知りませんでしたが、ケマの事例が書かれていました。

■ケマの例
・夜中に蛇や蠍が家にはっていこないよう呪文を唱える
・吹き出物を治すために黙って手で顔を擦る
・苦瓜の味が苦くなりすぎないように無言で刻む
・喉に刺さった魚の骨を取り除くために、一杯の水に向かって呪文を108回続けて唱えてその水を一気に飲み干す
・目にモノモライができたら、起床後すぐに誰とも会話を交わさず家の外に行き、木の葉に落ちた朝露を無言のまま塗布する
・足を挫いたら、ココナッツオイルを手に取り、誰とも口を訊かずに患部を足先へ向かって7回さする
・怪我をして軟膏を塗る時に誰かと話すことを避ける
※このケマをする際には、決して話てはならないし、誰かに見られてもならない。

まとめ

アーユルヴェーダ医師について、大学の医学部を卒業した人のみを本物という人もいれば、先代からヘキアーワ(才能)があると認められた市販品を使わずに自ら治療薬を作って治療を行う人を本物という人もいて、アーユルヴェーダが何なのか私は分かりかねていました。

そんな中、アーユルヴェーダ史・スリランカの医療史・国立大学医学部・治療家や患者について書かれた本書を読んで、全体像がようやく見えたように思います。

スリランカには、尿検査、血液検査、大規模な店舗であれば心電図やレントゲン撮影をおこなう「検査屋」があり、手軽に検査が受けられることも本書で知りました。

日本でアーユルヴェーダサロンを運営する、あるいは働く場合に、医学部を卒業してスリランカのアーユルヴェーダ病院やアーユルヴェーダリゾートのように診察だけを行なう方は少ないかと思います。

施術を自ら行うセラピストをされる人の場合は、治療を自ら行うパーランパリカ・ウェダカマの治療家の方が近い存在のように思います。

異文化の伝承医療を知るには、まとまった事例や違う角度からの説明を読むことで段々と分かってくるものですので、アーユルヴェーダや伝統医療に興味がある方は、是非、本書『沈黙の医療 スリランカ伝承医療における言葉と診療』を読んでみてください。