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第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞した『スリランカ学の冒険』

2022年3月29日

1997年に第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞し、2013年に新版が発行された庄野護さんの『スリランカ学の冒険』について紹介します。

庄野さんは、1989年〜1996年とODA・NGOボランティアとしてスリランカの都市開発事業に関わっていた方で、当時のスリランカの様子や町がどのように形成されていったのかが分かり、とても面白い本です。

27のテーマで書かれ、それぞれが独立していて、数ページにまとまっていて読みやすいです。
しかも、歴史や他国との比較を踏まえて書かれているため、データや歴史的経緯も分かり、現在のスリランカを理解するのに、とても役立ちます。

27の章、それぞれに私は線を引いて参考になる内容がありましたが、その中からいくつかピックアップして紹介します。まずは、著者の庄野さんについて。

著者・庄野護さんとは?

アマゾンに掲載されている著者説明を以下に記載します。

1950年徳島生まれ。中央大学中退。学生時代よりアジア各地への放浪と定住を繰り返す。
1980年代前半よりバングラデシュやネパールでNGO活動に従事。
1989年から96年までODA、NGOボランティアとしてスリランカの都市開発事業に関わる。
帰国後、四国学院大学の非常勤講師を経て、日本福祉大学大学院博士課程単位取得。
パプアニューギニア、ケニアでのJICA専門家を経て、ラオス国立大学教授として現地に2年間赴任。
本書(初版)で第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞。
『国際協力のフィールドワーク』(南船北馬舎)所収の論文「住民参加のスラム開発スリランカのケーススタディ」で財団法人国際協力推進協会の第19回国際協力学術奨励論文一席に入選。ほか著作として『パプアニューギニア断章』(南船北馬舎)、共著に『学び・未来・NGO NGOに携わるとは何か』(新評論)など。

参考)
ウィキペディア:ヨゼフ・ロゲンドルフ賞

言語に関する話

スリランカの高い英語力

私がスリランカで会社を登記したのは、英語が通じて公的書類も英語だったのが大きな理由の一つです。

スリランカで英語を学びたいと問い合わせをいただくこともありますが、スリランカの英語についての記述を以下に引用しました。

  • 地方へ行ってもバスの車掌や運転手たちと英語で最低限のやりとりはできる。彼らは話し方が流暢でなくても、聞き取る能力はある。英語のテレビ番組や映画を字幕なしで見ているから、聴解力が自然とついている。
  • 支配階級の人びとは英語家庭の出身者が多い。
  • スリランカの国会では、主に英語によって法案が審議され、議事録は真っ先に英語が作られ、その後にシンハラ語とタミル語の翻訳文が用意される。
  • 行政機関の中枢の会議も英語。技術的な知識を英語の本から直接学んでいる彼らにとって、複雑な議論をするときには英語の方が楽なのだ。
  • アジアの国の中でスリランカ人の英語は各能力に特に秀でている。その能力を買われて外国の企業にスカウトされる人も多い。(中略)また、スリランカ人の英語教師は世界中の学校で英語を教えている。モルジブで教える英語教師のほとんどはスリランカ人である。
  • 日本テレビ『ズームイン!朝』の「ワンポイント英会話」を13年間続けたスリランカ人のタレント「アントン・ウィキーさん」の話術は高く評価されている。
  • 「スリランカ人の英語は、アジアで一番」代々のイギリス人外交官にそう誉められてきた。それを新聞が繰り返し報道してきたものだから、スリランカ国民は英語には絶対の自信を持っている。

「ありがとう」「ごめんなさい」がない言語

シンハラの庶民社会には感謝の言葉がなく、感謝の気持ちは全身で表現されると書かれ、インドネシアでは謝罪するときは言葉を発する行為は図々しいとされ、全身で悪かったと表現するとも書かれています。

本書で引用されている言語学者・文化人類学者の西江雅之さんの発言が興味深いです。

「言葉がお互いに通じない人同士と、言葉が通じてコミュニケーションがとれる人同士では、どっちが衝突が多いかというと、後者の方がはるかに多い。国家の間でも、協定を結んだ国同士の方が、戦争勃発の確率は高くなります。

目標は常に高く、達成率は概ね低い

言語ではありませんが、スリランカらしさを物語る一文がありました。

スリランカの政策目標は常に高く、そして政策達成率は概ね低い。三割に満たない達成率でも「成功」と評価を受ける政策もある。

コロンボの歴史

コロンボ最大の町だったコタヘナ

当時、コロンボ市の人口は約12万人。そのうち最多の24%がコタヘナ地区に居住していた。1883年4月、武装した僧がセントルシア教会を襲った。そこが狙われたのは、多数派教団ローマ・カソリックのスリランカにおける中心だったからだ。

キリスト教徒が多数派でタミル語話者が半数を超えていた

かつてキリスト教徒は行政や教育の中枢に多数派を形成していた。元々キリスト教徒の大半は、低カーストの仏教徒やヒンズー教徒であった。植民地時代の布教で改宗し、教育の力を得て社会的上昇に成功した。(中略)キリスト教徒は19世紀の首都人口の35%を占め、宗教集団として首都では最大グループを形成していた。続いて仏教徒26%、ムスリム25%、ヒンズー教徒14%。言語別に見れば、タミル語使用者が50%を超え、シンハラ語使用者を上回っている。

仏教寺院がなかったコロンボ

1883年当時のコロンボ市では、仏教徒は少数派であった。市内には仏教寺院は一つもなく、仏教徒は行事のたびに約7キロ離れたケラニヤ寺院に出かけていた。コロンボ市に寺院を欲した仏教徒たちは中央部や南部のシンハラ社会に支援されて首都で運動を起こした。これがダルマパーラ(1864-1923年)に代表される仏教再興運動である。ダルマパーラ自身はキリスト教学校で英語教育を受けている。そのせいか、仏教再興運動はキリスト教青年会(YMCA)に似た仏教青年会(YMBA)を組織するなどプロテスタンティズムの影響が見られる。

ゴールロード沿いの都市開発

コロンボのゴールロード沿いの記述が興味深いです。

コロンボ市内を南北に走るゴール・ロードの海側が住宅地として本格的に開発され始めたのは、1960年代に入ってからのことだ。コロンボ第三地区にあるシーヴューホテルは、かつては名前の示すとおり海が見渡せたという。(中略)当時、海側一帯にはココヤシ畑が広がっていた。そこが住宅地に開発され売り出されたとき、新興商人や政府役人などセカンド・クラスの金持ちたちが移り住んできた。独立後の社会で経済的に上昇してきたムスリム商人、タミル人が多かった。やがていつの間にかゴール・ロードの海側は、タミル語を母語とする人たちのコミュニティとして発展してきた。そのような経緯からシンハラ語を母語とする仏教徒シンンハラ人は海側にはあまり住んでいない。

私が最初に住み始めたのはコロンボ4で、その後にコロンボ3に引っ越しましたが、コロンボ4の南側にはヒンドゥー寺院が多く、コロンボ6はムスリムが多くて大きなモスクがありますので、その経緯が想像できて、非常に面白いです。

ゴールロードについて、別の章では以下のように書いてあります。

1992年にようやく完成したモラトゥワ=カルタラ間の片側二車線の新道を除けば、舗装はされているが穴だらけの凸凹道。

ナッツ売りのいるチャタム・ストリート

ナッツ売りのほとんどがムスリム。少数だがムスリムの商人に雇われたシンハラ人もいる。いずれにしろ、このあたりのカシューナッツの流通は他の多くの物流と同様、ムスリム商人の手の内にある。

チャタム・ストリートにはモスクがあり、ムスリムが経営する宝石店もありますが、ムスリムの人たちの縄張りなのだなと思いました。

ヌワラエリヤ・カジュガマ・キリンダの歴史

ヒルクラブの歴史

ヒルクラブになる前のヌワラエリヤクラブのこと、以前の建物についても書かれています。ヌワラエリヤに行ったらヒルクラブを訪れるのはお薦めですが、その歴史を知っているとより滞在・訪問を楽しめると思います。

  • クラブの創立は1876年で、設立当時はヌワラエリヤクラブで、当時の建物がセント・エドワード・スクールの校舎として使われている。
  • 現在の建物は、1929年に建てられたもの。
  • コーヒープランテーション拡大していた当時に、休息と娯楽のためにクラブハウスが作られ、酒の殻瓶回収が創設の理由の一つだったという。
  • 当時はコロンボ〜ヌワラエリヤ間は馬車で1週間かかった。
  • コーヒーさび病によって余裕がなくなり、ヌワラエリヤクラブは一時消滅。
    コーヒーに代わって栽培したキニーネは世界市場で価格が暴落。
    茶の栽培で活路が見えて、余裕ができて1894年にヒルクラブとして再建。
  • 最盛期は1950年代前半で、スリランカの一人当たりの国民所得は日本よりも多く、豊かだった。
  • イギリス人男性に限っていたヒルクラブは経営に行き詰まり、1968年に旅行者も臨時会員として利用できるようになった。

カシューナッツが採れないカシューナッツの町

中国のプーアールはお茶の栽培地ではなく出荷前の集積地であったことからプーアール茶の名がついたと言われますが、それに似た町がコロンボとキャンディを結ぶ国道1号線沿いにあるカジュガマ(カシューナッツ村)ですが、その経緯が書かれていました。

クルネガラ、ワラカポラなどで生産されたカシューナッツが交通の便の良さもあってバタリーヤ村に集荷されるようになったのは1940年代から。カシューナッツで名前が知られるようになって、バタリーヤ村はカジュガマと村の名を変えた。だからこの村は集荷地であって生産地ではない。

キリンダと漂海民バジャウ

キリンダにはムスリムのマレー人漁民とシンハラ仏教徒の漁民がそれぞれ100軒余り、混住せずに別々の集落を成している。元々この村は、インドネシアから流れ着いたマレー人が定着して拓いた漁村だったらしい。漂海民バジャウだろうか。

キリンダやハンバントータにマレー人が多いことは知っていましたが、バジャウについて私は知りませんでした。
バジャウに関する映画もあるようです。

また、キリンダ港は日本が支援したそうです。

キリンダ港が築かれたのは1985年。日本からの無償援助14億円余りが投入された。が、完成後、半年もしないうちに港は砂に埋没し、使えなくなった。(中略)さらに5億円余りを拠出して、砂の浚渫と新堤防の建設を行った。結果は無駄だった。(中略)その後、大規模な改修工事が実施され、キリンだ漁港は再び使用可能となった。

参考)
ASIAN DOCUMENTARIES:海の遊牧民 バジャウ族
Business insider:海の遊牧民「バジャウ族」、今の世代で最後になる恐れも
ニューズウィーク日本語版:進化する人類──素潜り漁のバジャウ族、「脾臓が大きく」進化していた
Wikipedia:Sama-Bajau

文化の起源

サリーの起源

サリーの起源が非常に分かりやすく書かれています。

このインド式サリー、あくまでインドの標準的着方ということ。元々はマッディア・プラデッシュ地方のゴルサリという着方に起源を持つ。流行の発信地は国際都市ムンバイ(ボンベイ)である。(中略)コロンボでインド式サリーが大衆化したのは1910年以降のことらしい。エリート女性たちがムンバイから持ち帰ったのが始まりとされる。1910年、ジョージ5世の戴冠式がムンバイであり、それに出席した彼女たちが、サリーに手袋、ストッキング、帽子を身につけて帰国した。(中略)それ以前のスリランカ女性の服装は腰巻きとブラウス姿だった。

トゥクトゥクの起源

インドでオートリキシャーと言われるものが、スリランカではスリーウィーラーと言われていますが、最近はタイと同じようにトゥクトゥクとも呼ばれ、配車アプリでもTukTukと表記されていますが、そんなスリランカのトゥクトゥクについて書かれています。

  • 人力車は、1875年日本で生まれた。その人力車が中国大陸沿岸を南進して、またたく間にインドへと伝わった。一方、オートリキシャに用いられるバジャジという名の三輪自動車はイタリアのヴェスパの生まれで、現在はインドのムンバイに近い工業都市プーネで生産されている。
  • いつも満員状態で走るバスに、大きな荷物のために乗車拒否にあう市民や、急ぎの用事のビジネスマンにオートリキシャは支持され広がっていった。その後、中東の産油国から帰った出稼ぎ者たちの間で、自分でやれる事業としてオートリキシャを経営することが流行した。

ウィキペディアには、人力車の誕生は1870年と書いてありました。インドにいると、オートリキシャーの起源は日本だとよく聞きますが、ウィキペディアに掲載されているコルカタの人力車の写真は注目です。

参考)
ウィキペディア:人力車

高級紅茶がなかったスリランカ

この記述に大変驚きました。

1993年6月、スリランカ政府プランテーション工業省はこれまで輸出用に限定していた高級紅茶の国内での販売を許可した。ただし、生産量の3%に限られている。(中略)最高級品は国内市場には全く出回っていなかった。そのため、スリランカの生産物であるにもかかわらず、最高級紅茶はイギリス旅行の土産物としてスリランカに持ち込まれていた。

スリランカ産の紅茶が外国企業によって世界に販売されていることに対して、1983年にムレスナが創業し、1988年にディルマがスタートしていますが、その時点ではスリランカ国内で高級紅茶が販売されていなかったわけです。

良い茶葉はスリランカ国外にいくと言われる所以もここにあるのだなと思いました。

ポーヤデーは理にかなっている?

スリランカでは満月の日はお休みで、かつての仏教徒は日曜日ではなく、新月・上弦・下弦・満月が休みだったそうですが、庄野さんの文章を読むと、月に合わせて休日を設定するのは理にかなっているように思いました。

  • アメリカ合衆国で起きる殺人事件は満月の日により多く発生している。交通事故は上弦・下弦時に「ウッカリ型」の事故が起きやすく、新月・満月時には「暴走型」の事故が起きやすい。(中略)人間は新月や満月の日に精神のバランスを崩しやすく、病気になりやすい。(中略)「狂人」を意味する英語、lunaticは、ラテン語の「月」を語源とする。直訳すれば「月がかり」となる。
  • スリランカだけでなく世界中の古代人たちは太陽時間と共に月の運行周期にも従って生きていた。そこでは、大潮の日に浜に出て貝を拾うなどの労働行為が広く存在していた。また、古代の社会では農作業など多くの共同作業が月の周期とともに運営されていた。
  • 自然界に生きる動物は満ち潮の時に生まれ、引き潮の時に死んでゆく。動物としての人間もかつては同じであった。(中略)口内炎、歯槽膿漏、歯肉腫瘍、痔疾、脳溢血、血栓症、てんかんの発作なども新月と満月の日に起きやすい。

乞食とロマ

コロンボでは乞食を見ますが、庄野さんの文章を読むと、乞食の輪郭が見えてきます。

  • 毎日一人の乞食に50セントと決めている商店主は、1ルピーコインを渡した時、乞食からお釣りをもらったりする。
  • 商店の軒下で夜を過ごす乞食は借りた場所を綺麗にすることを忘れない。マナーが良くないと寝場所を貸してもらえないからだ。おおらかな商店主は、商売に支障がなければ軒下で夜を過ごす乞食を黙認する。そのような乞食と商店主の関係が生まれると、乞食は商店の夜警の役目を果たすようになる。

ウィキペディアには、ロマの起源は5世紀にインドからペルシャに連れて行かれ、その後、ヨーロッパに拡散したと書かれていますが、スリランカのロマについて、庄野さんは以下のように書かれています。

スリランカのロマは2000年前にインドから渡ってきた集団の子孫と考えられている。かつては蛇使い、猿回し、刺青師などがロマの専業であった

参考)
ウィキペディア:ロマ
IMADR:先住民族・ロマ

社会運動と政治

コロンボ女性銀行・サルボダヤ運動

バングラデシュのグラミン銀行に学んで1989年に創設されたコロンボ女性銀行、2001年に国際居住記念安田火災賞を受賞したコロンボの関連NGOセワナタについて紹介されています。

マイクロファイナンスの説明として、冒頭に日本と韓国の話について紹介されていて、これがとても分かりやすい説明だと思いました。

頼母子講は無尽とも呼ばれ、沖縄では模合と呼ばれる。江戸時代から発展してきた相互扶助の金融システムである。日本版マイクロ・ファイナンスともいえる。。日本や韓国では100年以上の歴史がある。韓国では都市部の裕福な婦人たちの間でも「講」が盛んだ。おしゃれな社交を兼ねているからだ。(中略)一番簡単な仕組みは、週一回もしくは月一回メンバーが一定額のおカネを持ち寄り、必要とする人が全額持ち帰る、という仲間内のおカネの貸し借り。

庄野さんは「サルボダヤ運動の開発学」の章の後半に以下のように書かれています。

世界的には1970年代、日本では少し遅れて80年代にサルボダヤ運動は村落開発の最良モデルとされた。やがて、サルボダヤ運動の実態が批判的に扱われるようになると、次にはバングラデシュのグラミン銀行が理想モデルにとって変わった。おそらく次にもてはやされるのは、外部に援助を求めない南インド・ケララ州のNGOとなるだろう。

参考)

コトバンク:頼母子講
ウィキペディア:無尽

暴動・テロが起きる4月〜7月

スリランカでの暴動やテロは決まって4月から7月にかけて起こる

と書かれています。

本書で取り上げられている事件に加えて、最近の事件をピックアップして並べてみると、たしかに4月〜7月に多いように思えます。

外貨不足で物価が上昇し、停電が続くスリランカですが、事件が起きないことを願います。

1883年4月:セントルシア教会を仏僧が襲撃
1971年4月:JVP(人民解放戦線)が蜂起
1983年7月:第1次イーラム戦争の開始(暗黒の7月)
1987年4月:コロンボのバスターミナル爆破事件
1989年7月:JVPの鎮圧開始
1990年6月:第2次イーラム戦争の開始
1991年5月:インド元首相ラジーブ・ガンディーをLTTEが暗殺
1993年4月:民主統一国民戦線の議長ラリット・アトラトムダリが演説中に暗殺
1993年5月:プレマダーサ大統領をLTTEが暗殺
1995年4月:第3次イーラム戦争の開始
2006年7月:第4次イーラム戦争の開始
2009年5月:LTTEの殲滅、イーラム戦争の終結
2016年5月:ケラニア川沿い、ケーガッラなどで豪雨による洪水・地滑り
2017年4月:コロンボ郊外のゴミ山が崩落
2017年5月:マータラでの豪雨による洪水・土砂崩れ
2019年4月:連続爆破テロ事件

スリランカ内戦の始まり

内戦の始まりの描写が非常に分かりやすいと思いましたので、以下に引用します。

1983年7月22日の深夜、ジャフナでゲリラの仕掛けた地雷が爆発。13人の政府軍兵士が即死する。24日、戦死した兵士たちの葬儀がコロンボ第八地区のカナッタ墓地で行われた。(中略)群衆は暴徒と化し、近くのボレッラ地区の商店街になだれ込んだ。(中略)タミル人の商店が狙われた。バスが停められて、ポットゥ(額につける顔料)の女性が引きずり出された。(中略)暴徒たちは選挙人名簿を利用した。(中略)タミル人の住居番号が大声で読み上げられた。その声は家屋襲撃の合図となった。軍隊と警察が黙認したため、暴動は7月25日に全国に広がり1週間続いた。都市だけでなく、農村のタミル人農園主も襲われている。

一般的に生存競争が緩やかだと動物の体は小さくなる。カラスにとっては街の方が田舎よりも競争が厳しくないのかもしれない。

デング熱とマラリア

スリランカではマラリアは撲滅されていますが、マラリアは社会に大きく影響を与えていたことが分かる記述がありました。

  • 世界最高度の文明を築いていた古代スリランカを12世紀以降、徐々に滅ぼしていったのはマラリアである。
  • スリランカの南西部はデング熱地帯、北東部はマラリア地帯
  • マハウェリ開発計画が加速したのはDDTによるマラリア退治から。

西部州地方評議会の主席大臣

チャンドリカ・クマラナトゥンガに関する文章を読んで、私は「西部州地方評議会の主席大臣」というポストを知りました。

西部州地方評議会の主席大臣は、コロンボ首都圏とガンパハ県、カルタラ県を合わせた地方行政区の首長に当たる。自治体警察の最高指揮者に対する人事権など、コロンボ市においては大統領よりも実質的な権限を持つ。

世界初の女性首相であるシリマーボ・バンダーラナーヤカは、夫のソロモン・バンダーラナーヤカが暗殺されたことでそのポストを得ていますが、娘のチャンドリカ・クマラナトゥンガの夫ウィジャヤ・クマラトゥンガは、スリランカ映画界のスターであり、スリランカ・マハジャナ党を創設して政党を率いた人物ですが、1988年2月にJVPによって暗殺されています。

母娘がそれぞれ夫が暗殺されたことで、国家元首になったとも言えそうです。

チャンドリカ・クマラナトゥンガは大統領になった際に、母シリマーボ・バンダーラナーヤカを首相に指名したそうですが、現在のラージャクパクシャ政権のことを思い出してしまいます。

参考)
Wikipedia:Vijaya Kumaratunga

まとめ

断片的に本書に書かれていることをピックアップして、関連性のある内容を本書の構成は異なる形で紹介しました。

いくつか読んだスリランカ関連本の中でも、読みやすく早く読めたのがこの本でした。

スリランカの輪郭がよりはっきりと見えてくる良書だと思いますので、是非ご覧になってください。

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