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カラー貯水池、ヨーダ運河、アウカナブッタを建設し、息子に殺されたダーツセーナ王

2023年8月10日

マハーセーナ王の死後、シリ・メーガ・ワンナ王、ブッダダーサ王、ウパティッサ王、マハーナーマ王が古代のスリランカを統治しました。

マハーナーマ王の統治期間に、南インドのパーンディヤからきた6人のリーダーたちによって、シンハラ王は倒され、ラジャラタは侵略されました。

その結果、シンハラのリーダーたちはルフナに逃亡し、シンハラ王朝はルフナを拠点に20年続きました。

ダーツセーナはルフナで、マハーナーマ王の娘のサンガーの子として生まれました。

パーンディヤのリーダーたちは、ダーツセーナが王の後継者であることを知っていたため、若い王子を探しました。

サンガーは息子を守るため、同じくマハーナーマという名前の仏教僧である伯父に自分の息子を育ててくれるように頼みました。

マハーナーマ僧はダーツセーナを守るために、仏教僧に任命し、変装させました。

王子が大人になったとき、彼の王国を取り戻したいと熱望しました。

そして、彼は袈裟を脱ぎ、陸軍を創設し始めました。

じっくりと計画を練った後に、彼はアヌラーダプラへ進軍して、パーンディヤの最後の王チリタラと戦い、倒しました。

彼は西暦455年に王位に登ってダーツセーナ王となり、アヌラーダプラを再び都としました。

ダーツセーナ王は最初にアヌラーダプラで荒廃してしまった土地の修復に集中しました。

彼は彼らのかつての栄光である仏教の土地の再建に熱心でした。

王は18の寺院を建てました。

彼は真鍮の宮殿も修復しました。

王はスリランカに仏教をもたらしたマヒンダ僧侶を称賛し、尊敬していたため、マヒンダ僧侶の像を建てるように命じました。

人々はマヒンダ僧侶が火葬された場所であるミヒンタレーに、マヒンダ像を列になって運びました。

最も古い年代記の一つであるディーパワンサによれば、スリランカの君主制の成立は人々から歓喜を持って迎えられたと言います。

ダーツセーナ王は農業の開発に熱心でした。

彼は18の灌漑用の貯水池を作り、農業用水を提供するためにたくさんの運河を建設しました。

彼が建設した貯水池で最も大きいのは、ゴーナ・ナディ(ゴーナ川)をせき止めて建設したカラー・ウェワです。

彼は”勝利の川”としても知られる、水をカラー・ウェワからアヌラーダプラのティッサ・ウェワに運ぶヨーダ運河も建設しました。

ダーツセーナ王の時代にアウカナブッタが建設されました。

この仏像は花崗岩から削り出された12メートルの高さがある立像で、カラー・ウェワの方を見て立っています。

この仏像はダーツセーナ王が建てたと信じる人たちがいる一方で、ある師匠と弟子による競争によって建てられたと信じている人たちもいます。

ダーツセーナ王には二人の息子と一人の娘がいました。

二人の息子はカーシャパとムガランのまま兄弟です。

ムガランの母は王と同じ位の女性でしたが、カーシャパの母は王よりも低い身分の女性でした。

そのため、カーシャパ王子は自分が王位につけないことを恐れていました。

カーシャパ王は成長したある日、王になることを決意しました。

この時、陸軍司令官のミガラはこの状況を利用しようと、カーシャパ王子を誤解させて、王位を奪うように仕向けました。

ムガランは、次に殺されるのは自分ではないかと思い、インドに逃亡しました。

彼は後に戻ってきて、カーシャパから王国を取り戻したいと思っていました。

西暦473年、ついにカーシャパは父を囚人として捕らえて、王に即位しました。

カーシャパ王はダーツセーナ王が若いムガランに渡すための膨大な資産を隠していると思っていました。

カーシャパ王は何度も父に資産の在りかを知りたいとメッセージを送りました。

返答として、ダーツセーナはカラー・ウェワに連れていくように言いました。

貯水池に着くと、ダーツセーナは手を水をくみ上げて、「この貯水池と私の友人たちが私の全ての資産だ。」と言いました。

ひどく怒ったカーシャパは、カラー・ウェワに生き埋めにされ、殺されました。

ダーツセーナ王は西暦455年から473年の18年間に渡ってスリランカを統治しました。

スリランカを支配していた南インドからの侵略者たちを倒し、彼の統治の下に国に再統合しました。

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