スリランカを訪れたマルコポーロの『東方見聞録』と時代背景
当時世界最大の領土を誇ったモンゴル帝国。
その第5代皇帝であり、元王朝の初代皇帝クビライ・カーンに仕えたヴェネツィア商人のマルコポーロの旅の記録が東方見聞録です。
ヨーロッパにジパング島(鎌倉時代の日本)を始めて伝えたことでも知られています。
東方見聞録には、主に以下の内容が含まれています。
・父ニコロ・ポーロと叔父マッテオ・ポーロの9年間の旅
・ヴェネツィアから元の夏の都「上都」までの3年半の旅(主に陸路)
・17年間の元(中国)滞在で訪れた中国各地の様子
・泉州からヴェネツィアまでの2年の旅(主に海路)
マルコの旅は合計24年間(マルコ17歳〜41歳)に渡ります。
父ニコロと叔父マッテオは合計33年間も旅をしています。
東方見聞録には、旅で立ち寄った土地やそこで聞いた周囲の土地の話が記述されています。
帰路の旅の記録で、日本とスリランカが登場します。
本記事では、東方見聞録の概要とその時代背景、父ニコロと叔父マッテオの旅について紹介します。
次の記事で、日本とスリランカが登場する帰路について紹介します。
目次
主な登場人物
・ポーロ一行(父ニコロ・ポーロ、叔父マッテオ・ポーロ、マルコ・ポーロ)
・元の初代皇帝「クビライ・カーン」
・ローマ教皇「グレゴリウス10世」
・フレグ・ウルスの君主(初代フレグ・2代アバカ・4代アルグン・5代ゲイハトゥ・7代ガザン・カン)
ポーロ家は元の皇帝クビライと、ローマ教皇との間を橋渡しする役割を担っています。
モンゴル(アジア)とキリスト教国(ヨーロッパ)を繋いだ存在とも言えそうです。
モンゴル帝国はこの時代、4つのウルス(カン)に分かれ、中国を本拠地とした元の君主であったクビライが、モンゴル帝国の最高位カーンに君臨していました。
マルコたちはクビライに仕え、17年間の滞在中は元の領土内を中心に過ごしています。
続いて、東方見聞録によく登場するのが、イランのあたりを治めたフレグ・ウルスです。
フレグ・ウルスは、東ローマ帝国やエルサレム、マムルーク朝のエジプトに近く、まさに東西を繋ぐ位置にありました。
フレグ・ウルスの初代君主フレグの使節とともに元のクビライに謁見したことで、ポーロ家はクビライに仕えます。
そして、ヴェネツィアへの帰路は、クビライからイル・カン朝の4代君主「アルグン」への使節としてイランまで向かい、その後、帰国しています。
ニコロとマッテオが旅を始めた1260年にクビライはモンゴル帝国の大カーンに即位し、ニコロ・マッテオ・マルコが元を離れてイル・カン朝に到着した1294年にクビライは亡くなっていますので、東方見聞録はクビライの在位期間の記録とも言えます。
第1回目の旅と目的
第1回目のポーロ兄弟の旅は5つに分けられます。
ジョチ・ウルスの首都「ブルガール」への旅
【目的】ニカイア帝国のコンスタンティノープル包囲からの避難
【出発地】コンスタンティノープル
チャガタイ・ウルスの「ブハラ」への旅
【目的】ジョチ・ウルスとフレグ・ウルスの戦争からの避難
【出発地】ブルガール
元の首都「上都」への旅
【目的】クビライへの謁見
【出発地】ブハラ
エルサレム王国の首都「アッコ」への旅
【目的】クビライから依頼をローマ教皇に伝える
【出発地】上都
クビライから旅の補給・護衛のために金牌を授かります。
ローマ教皇はすでに死去していました。
ヴェネツィアへの帰国
【目的】新しいローマ教皇の就任を待つための帰国
【出発地】アッコ
第2回目の旅と目的
マルコも加わった第2回目の旅は8つに分けられます。
クビライに仕えて、元の領土内をいつ、どこに、何回に渡って視察を行なったかは東方見聞録には記載がなく、「雲南・チベット・ビルマへの旅」と「江南地方(マンジ)への旅」の2つに分けられています。
実際に立ち寄ったと思われる場所を「経由地」
聞き取った話をまとめたと思われる場所を「聴取地」
として記載しました。
聖地エルサレムへの旅
【目的】クビライから依頼された聖火を持ち帰る
【出発地】ヴェネツィア
【経由地】アッコ
元の夏の都「上都」への旅
【目的】ローマ教皇から授かったものをクビライに届ける
【出発地】アッコ
【経由地】ライアス、アッコ、ライアス、タブリーズ、ホルムズ、パミール高原、ゴビ砂漠
ローマ教皇は、ポーロたちが安全に旅ができるよう、フレグ・ウルスの第2代君主アバカへの手紙を渡します。
元の冬の都「大都」への旅
【目的】クビライの移動に同行
【出発地】上都
雲南・チベット・ビルマへの旅
【目的】クビライの監察官としての派遣
【出発地】大都 or 上都
【経由地】成都、大理、雲南、永昌など
・クビライが1253年に征服した雲南と大理
・クビライが1287年に滅ぼしたパガン王朝があったビルマ
などへの旅がまとめられています。
盧溝橋(英語名:マルコポーロブリッジ)について書かれているのが、この旅です。
江南地方(マンジ)への旅
【目的】クビライの監察官としての派遣
【出発地】大都 or 上都
【経由地】徐州、揚州、蘇州、杭州、泉州など
東方見聞録で最もページ数が割かれているのがクビライが1276年に滅した南宋の首都「臨安(杭州)」についてです。
中国での覇権を握る上で、南宋が統治していた土地の情報収集は最も大切だったのでしょう。
フレグ・ウルスの首都「タブリーズ」への旅
【目的】マンジ王の娘コカチンをフレグ・ウルスの第4代君主アルグンに送り届ける。
【出発地】泉州
【経由地】チャンパ王国、スマトラ島、セイロン島、インド南東海岸、インド南西海岸、ホルムズ
【記録地】日本、ジャワ島、スコトラ島、マダガスカル島、ザンジバル島、アデンなど
クビライから旅の補給・護衛のために金牌を授かります。
第4代君主アルグンはすでに死去していました。
ホラーサーン地方への旅
【目的】コカチン姫をフレグ・ウルスの皇太子カザンに送り届ける。
【出発地】タブリーズ
フレグ・ウルス第5代君主ゲイハトゥから、皇太子カザンが守備しているホラーサーン地方にコカチン姫を送り届けるよう依頼されます。
ヴェネツィアへの帰国
【出発地】タブリーズ
【経由地】トレビゾンド、コンスタンティープル
ゲイハトゥから旅の補給・護衛のために金牌を授かります。
ポーロ一行
父ニコロ・ポーロの略歴
1230年、ヴェネツィアの商人の家に生まれます。
中東貿易を行い、マルコが生まれる前にニコロは弟マッテオ(22歳年下)を伴ってラテン帝国の都コンスタンティノープルに移り住みます。
ニコロの妻はヴェネツィアで暮らし続けます。
1回目のモンゴル帝国への旅
1260年、コンスタンティノープル包囲戦が起こり、ポーロ兄弟はコンスタンティノープルから東に移動します。
1261年、ジョチ・ウルスの都「ブルガール」で君主ベルケに謁見し、ジョチ・ウルスに1年間滞在。
1262年、ベルケ・フレグ戦争にベルケが敗北したため、ポーロ兄弟はブルガールを出発。
チャガタイ・ウルスの町「ブハラ」に到着し、3年間滞在。
1265年、フレグ・ウルスの使節が、元の君主クビライ・カーンのところに向かう途中、ブハラでポーロ兄弟に出逢います。
フレグ・ウルスの使節は、ポーロ兄弟を伴い、1年かけて元の都に到着します。
1266年、ポーロ兄弟はトルコ語とモンゴル語も話せたことから、クビライは興味を持っていたキリスト教やヨーロッパ諸国について様々なことを聞きます。
クビライの母ソルコクタニ・ベキはネストリウス派キリスト教徒でした。
そして、クビライはポーロ兄弟をローマ教皇への使節として、送り出すことにします。
クビライはポーロ兄弟に以下のことを依頼します。
・ローマ教皇からキリスト教に精通した者を100人派遣してもらうこと
・エルサレムの聖墓の上に燃えるランプから聖油を持ち帰ること
クビライはポーロ兄弟に金牌を授けます。
金牌があることで、広大なモンゴル帝国領土内の旅の途中では必要な宿・馬・護衛が供給されるようになります。
こうして、3年間かけてエルサレム王国に到着します。
1269年4月、ポーロ兄弟はエルサレム王国の首都アッコに到着して、ローマ教皇クレメント4世が亡くなったことを知ります。
クレメント4世は1268年11月29日に亡くなっていました。
ローマ教皇の全権使節テオバルド・ピアケンツァは、ポーロ兄弟の報告を聞き、ポーロ兄弟に新しい教皇が決まるまで待つように伝えます。
1269年後半、ヴェネツィアに帰国して始めて、ニコロは妻がマルコ(このとき15歳)を残して亡くなっていたことを知ります。
2回目のモンゴル帝国への旅
1270年末、新教皇がなかなか決まらないことから、これ以上クビライを待たせられないと判断し、元に戻ることを決めます。
それ以降の旅については、以下のマルコ・ポーロの略歴を参照ください。
1295年にヴェネツィアに帰国。
1299年、ヴェネツィアで死去。
叔父マッテオ・ポーロの略歴
1252年、ヴェネツィアに生まれます。
生まれ年がニコロと同じと記載されているものもあります。
1252年生まれだとすると、兄ニコロと1回目を旅をしたのは8歳になります。
帰国時に妻と再会したという記載もあることから、生まれ年は1252年ではなさそうに思います。
以降、兄ニコロとともに旅を続け、
1295年にヴィネツィアに帰国。
1309年、ヴェネツィアで死去。
マルコ・ポーロの略歴
1254年、ヴェネツィア生まれ
1270年年末〜1274年6〜8月頃 父ニコロと叔父マッテオに同行してヴェネツィアから上都へ。
1274年夏〜1290年末、元に滞在してクビライの使節として各地を訪問
複数の外国語を習得し、訪問地について詳細に記録・報告したため、クビライに寵愛されます。
17年間の滞在中、クビライによって領土の各地に派遣され、各地の報告を行っています。
フレグ・ウルスの第4代アルグンの王妃ボルガナが亡くなります。
ボルガナの遺言で、後継者は自身の一族を希望したため、アルグンはクビライに王妃を選んでもらうよう依頼します。
クビライはコカチン姫を選びます。
アルグンの重臣3人がコカチン姫を連れてフレグ・ウルスに向って8ヶ月陸路を進むも、戦争によって断念。
引き返して、クビライに海路で行くことと、旅慣れたポーロ3人を連れていくことを依頼。
1290年末、泉州から出発。
1293年2月頃、フレグ・ウルスのホルムズ港に到着し、コカチン姫を送り届ける。
1295年、ヴェネツィアに帰国。
1296年、ヴェネツィアとジェノバの戦争でジェノバの捕虜となります。
1298年、ジェノバの牢獄でともに抑留されていた、ルスチケロがマルコの旅の話をまとめあげます。
1299年、ジェノバの牢獄から釈放されます。
1324年、ヴェネツィアで死去
イタリア海洋共和国(ヴェネツィア・ジェノバ・ピサ)について
東方見聞録は、第二次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争で捕虜になったマルコポーロが抑留中に語った旅の内容を、ピサ共和国とジャノヴァ共和国の「メロリアの海戦」でジェノヴァの捕虜になったルスティケロ・ダ・ピサが書きまとめたものだとされています。
ルスティケロ・ダ・ピサは、『アーサー王の円卓騎士物語』の著作でも知られるピサ共和国出身の小説家です。※異説あり
イタリアの海洋共和国はそれぞれ競合し、衝突をしていました。
マルコポーロの時代は、ジェノヴァ共和国が台頭し始めた時代です。
イタリアの海洋共和国であるピサ共和国・ヴェネツィア共和国・ジェノバ共和国は十字軍に参加し、エルサレムやコンスタンティノープルに土地・自治権を獲得し、地中海貿易で台頭したイタリア海洋共和国です。
最初に第1回十字軍でコンスタンティノープルの権益を得たのがピサ共和国でした。
その後、第4回十字軍でコンスタンティノープルの権益を得たのがヴェネツィア共和国です。
父ニコロ・叔父マッテオがコンスタンティノープルに移住した時は、ヴェネツィア共和国が設立に深く関わったラテン帝国がコンスタンティノープルを治めていた時代です。
ポーロ兄弟は、ジェノヴァ共和国が支援するニカイア帝国がコンスタンティノープルを包囲した1260年にモンゴル帝国への旅を始めます。
ポーロ兄弟の旅の途中に第8回十字軍、第9回十字軍が行われ、第9回十字軍に従軍して後にローマ教皇になったグレゴリウス10世から授かった書簡などを持って、モンゴル帝国のクビライに会いに上都に向かいます。
そして、マルコポーロが帰国した時には、1295年にヴェネツィア共和国とジェノバ共和国は大きな衝突をし、マルコポーロはジェノヴァ共和国の捕虜となります。
1299年にヴェネツィア共和国とジェノバ共和国との断続的な戦争状態が一旦落ち着き、マルコポーロは釈放され、東方見聞録が世に知られるようになったのです。
東方見聞録は、イタリア海洋共和国が競合する中で生まれたとも言えそうです。
以下、イタリア海洋共和国に関する出来事を年表にまとめました。
1099年
第1回十字軍でピサ共和国が東ローマ帝国の同盟国となり、コンスタンティノープルの権益を獲得。
第1回十字軍でヴェネツィア共和国がエルサレム王国の名目上の自治権を得る。
第1回十字軍でジェノヴァ共和国が通商条約を多く獲得する。
1204年
第4回十字軍でヴェネツィア共和国がコンスタンティノープルを占領し、ラテン帝国の設立に関わる。
第4回十字軍でピサ共和国は東ローマ帝国の崩壊に伴い、コンスタンティノープルでの特権を失う。
1258年
・ヴェネツィア共和国とジェノバ共和国が衝突。
1259年
・東ローマ帝国の亡命政権の一つ、ニカイア帝国が周辺諸国との戦い「ペラゴニアの戦い」に勝利。
1260年
・ジェノヴァ共和国がニカイア帝国を支援。
・ニカイア帝国がコンスタンティノープルを包囲。
・ポーロ兄弟がモンゴル帝国へ出発
1261年
・ニカイア帝国がコンスタンティープルを奪還し、ラテン帝国が滅亡。
・ジェノヴァ共和国が東ローマ帝国内の自由貿易権を独占し、キオス島、レスボス島の通商基地とする。
1284年
・メロリアの海戦でジェノヴァ共和国がピサ共和国を破る。
・東方見聞録の著者ルスティケロ・ダ・ピサがジェノヴァ共和国の捕虜となる。
1295年
・ヴェネツィア共和とジェノバ共和国が衝突。
・ポーロ一行がヴェネツィアに帰国。
1296年
・マルコポーロがジェノバ共和国の捕虜になる。
1299年
・ヴェネツィア共和国とジェノバ共和国が衝突。
・ヴェネツィア共和国とジェノバ共和国が停戦。
・ヴェネツィア共和国がマルコポーロを釈放。
モンゴル帝国について
ニコロとマッテオの旅は、モンゴル帝国第5代皇帝をクビライとアリクブケがそれぞれ名乗り、継承戦争が始まった1260年に始まります。
そして、モンゴル帝国第5代皇帝クビライが死去した1294年の翌年にヴェネツィアに帰国しています。
まさにクビライの皇帝在位期間がマルコポーロが記した時代です。
マルコも加わった旅の往路は陸路が中心のため、モンゴル帝国の領土を通っています。
ニコロとマッテオの旅が始まる前年の1259年、モンゴル帝国第4代皇帝モンケが死去。
この時、フレグは西征中、クビライが南征中で、末弟アリクブケが首都カラコラムを守っていました。
ポーロ兄弟はクビライとアリクブケによる帝位継承戦争中にモンゴル帝国内に留まり、第5代皇帝となったクビライにフレグが送った使節に同行して上都に行き、クビライに謁見します。
この時のモンゴル帝国は以下の4つのウルス(カン)に分かれていました。
ダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス(元)
初代君主(カーン):クビライ・カーン(チンギス・カンの四男トルイの次男)
領土(ウルス):中国。北部をカタイ、南部がマンジと呼んでいます。
北部主要都市:冬の都「大都(北京)」、夏の都「上都」、旧都「カラコルム」
南部主要都市:港町「泉州」、古都「杭州」、水の都「蘇州」
フレグ・ウルス(イル・ハン朝)
初代君主(カン):フレグ(チンギス・カンの四男トルイの三男)
領土(ウルス):イラン
主要都市:首都「タブリーズ」、旧都「マラーゲ」、新都「ソルターニーイェ」
ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)
初代君主(カン):ジョチ(チンギス・カーンの長男)
領土(ウルス):キプチャク草原(カザフスタン・ウクライナ)
主要都市:旧都「ブルガール」、新都「サライ」
チャガタイ・ウルス(チャガタイ・ハン国)
初代君主(カン):チャガタイ(チンギス・カーンの次男)
領土(ウルス):ウズベキスタン、ウイグル
主要都市:首都「アルマリク」、カルシ、ブハラ、サマルカンド、タシュケント、カブール
ニコロとマッテオは、最初にジョチ・ウルスのブルガールに行き、
その後にチャガタイ・ウルスのブハラ滞在中に、
フレグ・ウルスから元に向かう使節と出会っています。
年表から時代背景を見る〜十字軍・イタリア海洋共和国・クビライ・鎌倉時代〜
ニコロポーロとマッテオポーロは、ラテン帝国の都コンスタンティノープルに中東貿易のため、移住していました。
第4回十字軍に参加したヴェネツィア共和国はコンスタンティノープルを奪還。
その後にコンスタンティノープルに建国されたのがラテン帝国です。
ヴェネツィア共和国はコンスタンティノープルに権益を有していました。
1959年にギリシャのペラゴニア平原で、ニケーア帝国がエピロス専制侯国・シチリア王国・アカイア公国との戦争を始めます。
この戦いは1961年にジェノヴァ共和国の支援を受けたニケーア帝国がラテン帝国からコンスタンティノープルを奪還して終結します。
この戦いを逃れるため、1960年、ポーロ兄弟はアジアに向かったのです。
1959年に第4代皇帝モンケが死去したため、西アジアではフレグが征服事業を停止していました。
東アジアでは、第5代カーン継承戦争がクビライとアリクブケの間に勃発します。
コンスタンティノープルからやってきたポーロ兄弟はジョチ・ウルチの君主ベルケに謁見します。
1962年、ジョチ・ウルチとフレグ・ウルスの内戦が勃発。
ポーロ兄弟はさらに東のチャガタイ・ウルスに移動します。
西アジアではフレグが勝利し、東アジアではクビライが勝利し、フレグがクビライに送った使節がポーロ兄弟を見つけ、ポーロ兄弟はクビライに謁見します。
ウルチのフレグフレグまた、ヨーロッパでは第8回・9回の十字軍が行われ、アジア方面への関心が高まっているときでした。
マルコポーロの故郷はヴェネツィア共和国はジャノヴァ共和国、ピサ共和国と海洋覇権を争っている時期でした。
1253年
・クビライが雲南・大理に遠征し、大理国を征服
1256年
・フレグがアラムートのニザール派を壊滅
・第一次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争開始
1258年
・フレグがアッバース朝の都バグダートを破壊
・フレグ・ウルスが成立
・ヴェネツィア共和国がジャノヴァ共和国と衝突
・パーンディヤ朝がジャフナ王国を支配
1259年
・モンゴル帝国第4代皇帝モンケ・カーンが死去
・ペラゴニアの戦い
1260年
・クビライが開平府(後の元の夏の都「上都」)でカーンへの即位を宣言
・アリクブケがモンゴル帝国の首都カラコラムでカーンへの即位を宣言
・モンゴル帝国帝位継承戦争(クビライvsアリクブケ)が始まる
・ポーロ兄弟がコンスタンティノープルからジョチ・ウルチの都ブルガールに向かう
1261年
・ニケーア帝国がラテン帝国の首都コンスタンティープルを奪還
1262年
・ベルケ・フレグ戦争
・ポーロ兄弟がチャガタイ・ウルスのブハラに移動
1264年
・クビライがアリクブケに勝利して南北モンゴルを統一
・モンゴル帝国がアイヌを攻撃
1265年
・ポーロ兄弟がフレグ・ウルスの使節に同行してブハラから上都に向かう。
1266年
・ポーロ兄弟がクビライに謁見し、クビライの使節となる。
1267年
・モンゴル帝国が新しい都として大都(現:北京)の建設に着手
1268年
・北条時宗が鎌倉幕府執権になる。
・モンゴル軍が南宋の襄陽を包囲。
・モンゴル軍が派遣した高麗の国王「元宗」の側近が太宰府に到着し、日本の服従を要求。
・第183代ローマ教皇クレメント4世が死去
1269年
・モンゴル軍の使節が対馬に到着
・ポーロ兄弟がベネツィアに帰国
1270年
・第8回十字軍がイスラム教国チュニス(チュニジア)を包囲
・第一次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争が終了
・ブヴァナイカバーフ1世がヤーパフワに遷都
1271年
・ポーロ兄弟はマルコを連れて、ヴェネツィアを出発
・第9回十字軍がアッコに向かう
・第184代ローマ教皇グレゴリウス10世が即位
・5度目の元の使節が日本を訪れる
1274年
・文永の役
・第2リヨン公会議(クビライの使節が参加)
1275年
・鎌倉幕府が元の使節を処刑
・第184代ローマ教皇グレゴリウス10世が死去
1276年
・元が南宋の首都「臨安(杭州)」を落とし、宗が滅亡
・モンゴル帝国のモンケ・カーンがバクダートを破壊
・第185代ローマ教皇インノケンティウス5世が死去
・第186代ローマ教皇ハドリアヌス5世が死去
1277年
・第187代ローマ教皇ヨハネス21世が死去
・パーンディヤ朝がジャフナ王国を直接支配
1280年
・第188代ローマ教皇ニコラウス3世が死去
1281年
・弘安の役
・第189代ローマ教皇マルティヌス4世が即位
1284年
・メロリアの海戦でルスティケロ・ダ・ピサがジェノバの捕虜になる
1285年
・元がアイヌを攻撃
・第189代ローマ教皇マルティヌス4世が死去
・第190代ローマ教皇ホノリウス4世が即位
1287年
・元がミャンマーのパガン王朝を滅ぼす
・元が3度目の日本信仰を計画して、征東行省を再開設
・第190代ローマ教皇ホノリウス4世が死去
1288年
・第191代ローマ教皇ニコラウス4世が即位
1291年
・イルカン朝の第4代君主アルグンが死亡
・イルカン朝の第5代君主にゲイハトゥが即位
1292年
・元がジャワ島遠征で敗退
・第191代ローマ教皇ニコラウス4世が死去
1294年
・クビライが死去
・第192代ローマ教皇ケレスティヌス5世が即位・死去
・第193代ローマ教皇ボニファティウス8世が即位
・第二次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争開始
1297年
・北条貞時の徳政令
1299年
・オスマン帝国が成立
・第二次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争終了
・マルコポーロが釈放される
・ニコロポーロが死去
参照)
ウィキペディア「東方見聞録」
ウィキペディア「マルコ・ポーロ」
Wikipedia「Niccolò and Maffeo Polo」
ウィキペディア「ヴェネツィア共和国」
ウィキペディア「ハーン」
ウィキペディア「ウルス」
ウィキペディア「ジョチ・ウルス」
ウィキペディア「ブルガール (都市)」
ウィキペディア「サライ(都市)」
ウィキペディア「ベルケ」
ウィキペディア「フレグ」
ウィキペディア「イルハン朝」
世界史の窓「イル=ハン国/フラグ=ウルス」
コトバンク「イル・ハン国」
ウィキペディア「タブリーズ」
ウィキペディア「アルグ」
ウィキペディア「チャガタイ・ハン国」
ウィキペディア「クビライ」
ウィキペディア「アッコ」
ウィキペディア「エルサレム王国」
ウィキペディア「クレメンス4世 (ローマ教皇)」
ウィキペディア「第8回十字軍」
ウィキペディア「第9回十字軍」
ウィキペディア「グレゴリウス10世 (ローマ教皇)」
ウィキペディア「十字軍」
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ウィキペディア「コンスタンティノープル包囲戦 (1260年)」
ウィキペディア「ラテン帝国」
ウィキペディア「ニカイア帝国」
Wikipedia「Maritime republics」
ウィキペディア「ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争」
ウィキペディア「ルスティケロ・ダ・ピサ」
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「旅と町歩き」を仕事にするためスリランカへ。
地図・語源・歴史・建築・旅が好き。
1982年7月、東京都世田谷区生まれ。
2005年3月、法政大学社会学部社会学科を卒業。
2005年4月、就活支援会社に入社。
2015年6月、新卒採用支援事業部長、国際事業開発部長などを経験して就職支援会社を退社。
2015年7月、公益財団法人にて東南アジア研修を担当。
2016年7月、初めてスリランカに渡航し、会社の登記を開始。
2016年12月、スリランカでの研修受け入れを開始。
2017年2月、スリランカ情報誌「スパイスアップ・スリランカ」創刊。
2018年1月、スリランカ情報サイト「スパイスアップ」開設。
2019年11月、日本人宿「スパイスアップ・ゲストハウス」開始。
2020年8月、不定期配信の「スパイスアップ・ニュースレター」創刊。
2023年11月、サービスアパートメント「スパイスアップ・レジデンス」開始。
2024年7月、スリランカ商品のネットショップ「スパイスアップ・ランカ」開設。
渡航国:台湾、韓国、中国、ベトナム、フィリピン、ブルネイ、インドネシア、シンガポール、マレーシア、カンボジア、タイ、ミャンマー、インド、スリランカ、モルディブ、アラブ首長国連邦、エジプト、ケニア、タンザニア、ウガンダ、フランス、イギリス、アメリカ
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