セイロン沖海戦(コロンボ空襲・トリンコマリー空襲)と戦跡
80年前の1942年4月5日に、日本海軍はコロンボを空襲し、その後、4月9日にトリンコマリーを空襲しています。
この2つの空襲を含む、日本海軍とイギリス東洋艦隊の戦いを「セイロン沖海戦」と言います。
本記事では、セイロン沖海戦について解説します。
目次
背景
南方作戦:1941年12月8日〜1942年5月31日
1941年12月8日、日本軍は太平洋戦争開始の侵攻作戦である「南方作戦(第一段作戦)」を開始し、マレー半島とハワイの真珠湾に攻撃を行います。
南方作戦とは、日本から見て南方の連合国の重要軍事拠点(香港、マニラ、シンガポール)から米英勢力を一掃することと、重要資源地帯(スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベス、マレーなど)を攻略確保することを目的としていました。
この南方作戦の終盤に実施されたインド洋作戦において起きた戦いが「セイロン沖海戦」です。
イギリス領マラヤ・シンガポールへの作戦:1941年12月8日〜1942年5月18日
イギリス領香港への作戦:1941年12月8日〜1941年12月25日
アメリカ自治領フィリピンへの作戦:1941年12月8日〜1942年6月9日
アメリカ領グアムへの作戦:1941年12月8日〜1941年12月10日
イギリス領ビルマへの作戦:1941年12月14日〜1942年5月27日
オーストラリア委任統治領ビスマルク諸島への作戦:1942年1月23日〜1942年2月6日
オランダ領インドネシアへの作戦:1942年1月11日〜1942年3月9日
インド洋(イギリス領セイロン、フランス領マダガスカル)作戦:1942年4月5日~1942年5月31日
1942年3月8日、日本陸軍はビルマの首都ラングーン(現在のミャンマーの最大都市ヤンゴン)を占領し、全ビルマ制圧作戦を進めようとしていました。
そのためには海路からの軍需品輸送が不可欠です。
しかし、インド洋にあるセイロン島にはイギリス軍の二大基地、商港コロンボと軍港トリンコマリーがありました。
マレー沖海戦に敗北したイギリス東洋艦隊は、セイロン島に退避していました。
イギリス艦隊が日本の海路からの輸送を阻止してくる可能性があり、日本海軍はこの二拠点を攻撃することを決定しました。
参考)
ウィキペディア:インド洋作戦
ウィキペディア:インド洋の戦い
ウィキペディア:南方作戦
アンダマン・ニコバル諸島の占領:1942年3月10日〜6月14日
ラングーンを日本軍が占領したことを受けて、イギリス軍の主力部隊はアンダマン諸島から撤退していたため、大きくな抵抗を受けずに日本軍はアンダマン島を占領しています。
また、ニコバル諸島については無血占領しています。
1942年4月にはインド独立連盟の支部がアンダマン諸島に結成され、6月にインド国民軍が組織されています。
1943年11月に行われた大東亜会議で、スバス・チャンドラ・ボースは東條英機から「アンダマン・ニコバル諸島を近く自由インド仮政府に帰属させる用意がある」と聞き、12月にアンダマン島を訪れています。
インド独立連盟によって創設された自由インド仮政府の主席の
参考)
ウィキペディア:日本軍によるアンダマン・ニコバル諸島の占領
クリスマス島の占領:1942年3月31日
日本軍による「インドをイギリスの支配から解放する」という呼び掛けに答えて、インド人兵士がイギリス軍人に反乱を起こし、3月10日にイギリス人指揮官を殺害。
クリスマス島が、インド洋交通路上の要点に位置し、インド〜オーストラリア間の通信を中継する無電局があり、リン鉱石も採掘されることから、日本海軍はクリスマス島の占領を決め、あまり抵抗を受けずに占領しています。
セイロン沖海戦
コロンボ空襲:1942年4月5日
1942年4月5日午前9時、イースターの日曜日の朝、南雲忠一率いる第一航空艦隊はコロンボ南方200海里から第一攻撃隊を発進しました。
日本軍は戦闘機、軍艦、商船、地上軍事施設、港湾施設、飛行場などを攻撃しました。
トリンコマリー空襲:1942年4月9日
4月9日午前9時、南雲機動部隊はトリンコマリーの東方海上約200海里から第一次攻撃隊を発進。
飛行場と港湾を強襲し、迎撃機のほか飛行場の地上機、港湾施設を破壊しました。
トリンコマリー攻撃から第一次攻撃隊が帰還し、空母ハーミーズへの攻撃に向かわせるべく補給をし、攻撃機に魚雷を積んでいる最中、イギリスの戦闘機からの攻撃を受けます。
飛行甲板上には燃料と魚雷を搭載した航空機がずらりと並べられていました。
幸い爆弾は命中しませんでした。
もし被弾すれば引火爆発を招き、空母を損失しかねない危機だったと言います。
その後、南雲機動部隊は空母ハーミーズ、駆逐艦ヴァンパイヤを撃沈しています。
イギリス東洋艦隊はケニアのモンバサのキリンディニ港へ撤退しました。
日本側も、開戦から連戦続きだった南雲機動部隊を休ませるべく本土への帰還を言い渡され、撤退しています。
こうしてセイロン沖海戦は、日本の勝利で幕を下ろしました。
それぞれの空襲で、基地で働くスリランカ人など民間人も亡くなっていることを忘れてはいけません。
ミッドウェー海戦に反省を活かすべきだった?
コロンボ空襲(4月5日)の1ヶ月後の5月5日にマダガスカルの戦いが始まり、
2ヶ月後の6月5日にミッドウェー海戦が始まっています。
日本海軍はセイロン沖海戦にて「飛行甲板に航空機を満載した状態で」奇襲を受けました。
運よく爆撃を逃れたましたが、海軍上層部は問題視せず、特に対策を講じなかったと言われています。
そして、この失敗から学ばなかったことが、後のミッドウェー海戦の敗北の一要因になったのではないか、連戦連勝による慢心があったのではないかとも言われています。
参照)
ウィキペディア:セイロン沖海戦
かしゃぐら通信セイロンのゼロ戦
ニコニコ大百科:セイロン沖海戦
戦跡を訪れる
コロンボの日本人墓地
コロンボ8(ボレッラ)では、日本人墓地を訪れることができます。
セイロン海戦で亡くなった方々や捕虜になって、スリランカで亡くなった方々、スリランカで暮らして亡くなった方々のお墓があります。
トリンコマリーの戦没者墓地
セイロン沖海戦で亡くなったイギリス軍兵士は350人以上といわれています。
トリンコマリーでは、今もなお彼らを追悼するための墓地が整備されています。
また、イギリス軍に編入されていたインド人部隊やパキスタン人部隊のお墓もあります。
終戦から70年の時を経てもなお、毎年戦没者の家族が追悼に訪れると言います。
戦没者墓地を含むトリンコマリーに関する観光情報は以下のページをご覧ください。
参考)
トリンコマリーのオイルタンク91番
トリンコマリーの空爆の際に、日本軍人3人が乗った戦闘機がオイルタンクに突撃しています。
現場はインディアンオイルの子会社であるLanka IOCのオイル・タンク・ファームの敷地内にあります。
跡地には標識が立っており、3人の名前と突撃後、7日間に渡って燃え続けたことが書かれています。
石油会社の敷地内のため、見学するために石油会社に許可を得る必要があります。
詳細は以下のサイトを参照ください。
参考)
Trincomalee Oil Tank Farm and World War II
Tank 91 – The Story Of The Trincomalee Oil Tank Destroyed In World War 2
バッティカロア沖の沈船ハーミス
スリランカの東海岸の町、バッティカロアでは、日本海軍が撃沈したイギリスの空母「ハーミス」をダイビングで見ることができるようです。
ただ沈船ハーミスのダイビングは、テクニカル・ダイビングに分類されるので特別な技術が必要となります。
参考)
https://www.srilanka-divingtours.com/
空襲の影響
学校の疎開
コロンボの学校(ロイヤルカレッジ、セントトーマスなど)が、再度の日本軍による空襲を避けてバンダラウェラに疎開しています。
また、疎開した人たちがガンポラにザヒラカレッジを設立しています。
参考)
Wikipedia:Zahira College, Gampola
教会の修復
コロンボの聖ルシア大聖堂は、空襲でドームが損傷。
2005年に修復の第一工事が開始されたと英語のウィキペディアのページに記載されています。
参考)
https://spiceup.lk/srilankaeaster/#StLucias_Cathedral
まとめ
歴史を詳細にアニメーションで解説しているKings and Generalsが、先週にコロンボ空襲とトリンコマリー空襲についての動画をYoutubeに公開しています。
この動画では、「アンダマン・ニコバル諸島の占領」、「クリスマス島の占領」、「コロンボ空襲」、「ベンガル沖での通商破壊作戦」、「トリンコマリー空襲」について解説されています。
セイロン沖海戦に至るまでの戦争の経緯も詳細なアニメーション動画が公開されていますので、第二次世界大戦について理解を深めたい方はご覧ください。
セイロン沖海戦と関係するのが、戦後に行われたサンフランシスコ講和会議です。
「旅と町歩き」を仕事にするためスリランカへ。
地図・語源・歴史・建築・旅が好き。
1982年7月、東京都世田谷区生まれ。
2005年3月、法政大学社会学部社会学科を卒業。
2005年4月、就活支援会社に入社。
2015年6月、新卒採用支援事業部長、国際事業開発部長などを経験して就職支援会社を退社。
2015年7月、公益財団法人にて東南アジア研修を担当。
2016年7月、初めてスリランカに渡航し、会社の登記を開始。
2016年12月、スリランカでの研修受け入れを開始。
2017年2月、スリランカ情報誌「スパイスアップ・スリランカ」創刊。
2018年1月、スリランカ情報サイト「スパイスアップ」開設。
2019年11月、日本人宿「スパイスアップ・ゲストハウス」開始。
2020年8月、不定期配信の「スパイスアップ・ニュースレター」創刊。
2023年11月、サービスアパートメント「スパイスアップ・レジデンス」開始。
2024年7月、スリランカ商品のネットショップ「スパイスアップ・ランカ」開設。
渡航国:台湾、韓国、中国、ベトナム、フィリピン、ブルネイ、インドネシア、シンガポール、マレーシア、カンボジア、タイ、ミャンマー、インド、スリランカ、モルディブ、アラブ首長国連邦、エジプト、ケニア、タンザニア、ウガンダ、フランス、イギリス、アメリカ
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