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日本を分割占領から守ったスリランカのジャヤワルダナ大統領というのは本当か?

2018年5月19日

スリランカが親日である理由の1つとして出てくるジャヤワルダナ大統領。
彼が大の親日家であり、サンフランシスコ講和会議で日本を擁護する演説をしたことは確かです。

それは日本人として知っておくべき事実だと思います。
恩を受けた日本が親スリランカであるべきところですが、日本ではあまり知られていません。

一方で、ジャヤワルダナ大統領の演説の説明に関して、テレビ番組やウェブサイトなどで間違っていると思われる説明が見受けられます。

スリランカの観光に携わる身として、これは是非伝えたい!と、テレビ番組を見て、その内容をそのまま人前で話したことがありますが、しっかりと事前に調べずに、話してしまったことを今は反省しています。

私が間違えて伝えてしまった以下の3つの噂について、検証してみました。

1)日本分割統治案にジャヤワルダナ氏が反対したという噂
2)日本が最初に国交を結んだのはスリランカという噂
3)「角膜の一つをスリランカ人に、もう一つの角膜を日本人に」と遺言を残したという噂

日本分割統治案は講和会議で話し合われていない

日本分割を提案していないソ連

サンフランシスコ講和会議でソ連が日本分割統治案を主張したが、ジャヤワルダナ大統領の演説によってそれは避けられたと説明されていることがあります。

しかし、サンフランシスコ講和会議では、日本分割統治案について話されたという記録はありません。
ソ連が主張した13項目の条約修正提案には、日本分割統治案については触れていません。

以下は、日本経済新聞社がウェブサイトの記事に掲載されている内容から引用した、ソ連が会議で提出した条約に対する修正案です。

1.樺太と千島はソ連に帰属させる。
2.日本の主権を琉球列島にも拡大させる。
3.日本にある全軍隊は可及的速やかに、あるいは条約署名後90日以内に撤退する。
4.中国、インドネシア、ビルマ、フィリピンのために賠償会議を開く。
5.中華人民共和国を条約署名国に加える。
6.台湾は中華人民共和国に帰属させる。
7.言論、信仰の自由を含むあらゆる人権を保障するのに必要な措置を講じる。
8.軍国主義的色彩を持つ組織はすべて禁止する。
9.第2次大戦中、日本と戦った国を目標とする軍事同盟に日本が加入するのを禁止する。
10.日本の軍隊を陸軍、警察隊併せて15万、海軍2万5000、空軍2万、戦闘機200機、輸送機その他最高150機、重戦車、中戦車併せて最高200台に制限する。
11.以上の軍隊を維持するために必要な軍事訓練を除き、他はすべて禁止する。
12.原子、細菌その他の大量殺戮兵器を禁止する。
13.対馬海峡を非武装化する

上記の通り、日本に分割案はありません。

より詳しい内容は外務省の外交史料館のページで、サンフランシスコ講和会議の関連資料を閲覧することができます。

外交史料館のページで、日本側が記録したソ連が行った演説内容を読むことができますが、日本分割案は出てきません。

参照)
日本経済新聞社:ソ連が13項目の条約修正提案
外交史料館:サンフランシスコ平和条約 調印・発効 
外交史料館:II サンフランシスコ平和会議(PDF)
外交史料館:VI 平和条約の批准・発効(PDF

日本分割に反対していないジャヤワルダナ氏

上記の外交史料館では、本会議に入る前にソ連が妨害した際に、ジャヤワルダナ氏が静止したことが記録されています。

一方で、ジャヤワルダナ氏の演説は外務省の記録資料には残されていません。

外務省の記録に残されている演説は、ソ連、フィリピン、インドネシア、オランダなど条約の内容について、不満を表明した国々のものです。

ジャワルダナ氏の演説内容は、大阪のスリランカ領事館が演説文を提供した『錫蘭島 スリランカ The Bridge of Culture Vol.01 セレンディピティに出会う』に掲載されています。

大阪のスリランカ領事館は、コロンボにある「ジャヤワルダナーセンター」の入口で、演説の英文と日本語訳のコピーを一時期配布していましたが、こちらの本に掲載されているのと同様です。

また、2021年に東京のスリランカ大使館で開催された記念式典で読み上げられたジャヤワルダナ氏の演説日本語訳は上記の本に掲載されているものと言い回しが異なりますが、内容は同様です。

ジャヤワルダナ氏の演説内容が気になる方はこちらの記事をご覧ください。

サンフランシスコ講和会議、ジャヤワルダナ氏の対日賠償権放棄の演説とは何…

また紹介した書籍ですが、日本分割案について話していないジャヤワルダナ氏の原稿を掲載しているにも関わらず、本書に掲載されている対談では、ジャヤワルダナ氏が日本分割案に反対したという内容が掲載されています。

その点以外については、スリランカについて、よくまとまっている本ですので、ジャヤワルダナ氏の演説全文を読みたい方はこちらの本も参照ください。

『錫蘭島 スリランカ Vol.01 セレンディピティに出会う』

アメリカ内で検討された日本分割占領案

それでは、ソ連が提出したと噂される「日本分割統治案」とはなんだったのでしょうか?

「日本分割統治案」は、1945年8月16日にペンタゴンの統合戦争計画委員会(Joint War Plans Committee,JWPC)が起案した日本占領案です。

背景にある考えとして、「日本を占領統治するなら、コストを節減し米軍は最小限にとどめるべきだ。米国が日本軍政に主な責任を負うべき理由はない。」というものです。

以下のように分割する案がまとめられています。

  • ソ連:北海道、東北地方。
  • アメリカ:本州中央、関東、信越、東海、北陸、近畿。
  • 中華民国:四国。
  • イギリス:西日本(中国、九州)をそれぞれ統治
  • 東京は4カ国共同占領

また同日、スターリンはトルーマンに、北方領土に加えて、北海道の東部をソ連領とすることを要求します。

それに対して、1945年8月18日、トルーマンは分割占領を回避することを勧告する国務省案を承認。
同日、トルーマンはスターリンに対して要求を拒否しています。

つまり、日本分割統治案は日本が降伏文書に調印する前に議論されていたものです。
日本は1945年9月2日に降伏文書に正式に調印し、日本は連合国軍の占領下となります。

日本分割案はソ連ではなく、アメリカ内で議論されたことであることは、『敗戦後の日本を慈悲と勇気で支えた人ースリランカのジャヤワルダナ大統領』にまとめられています。

著者の野口さんは日本分割案の引用元を、政治学者・歴史学者の五百旗頭真さんが書かれた『米国の日本占領政策 上・下』と『戦争・占領・講和(1941〜1955)』と書かれています。

五百旗頭真さんは日経新聞の「私の履歴書」においても、日本の分割統治がアメリカ内で議論されたことを取り上げています。

また、在スリランカ日本大使館のウェブサイトではジャヤワルダナ氏が対日賠償請求権の放棄の演説を行い、日本の国際社会復帰への後押しをしたことには触れていますが、分割統治案については記載がありません。

参考)

野口芳宣 著『敗戦後の日本を慈悲と勇気で支えた人ースリランカのジャヤワ…

ウィキペディア:日本の分割統治計画
NHK特集 日本の戦後 第1回 日本分割 知られざる占領計画
在スリランカ日本国大使館:二国間関係

講和会議前に分割占領されていた日本

サンフランシスコ講和会議が行われる前は、アメリカとイギリスによって日本は統治されていました。

イギリス連邦占領軍が統治していたのが中国地方と四国地方です。
北方領土を実効支配していたのがソ連です。
それ以外をアメリカ占領軍が統治していました。

◆アメリカ軍による日本占領

日本が占領統治された流れを見ると、サンフランシスコ講和会議の位置付けがより分かるかと思います。

アメリカは硫黄島の戦い(1945年2月23日〜3月26日)に勝利し、小笠原諸島を勢力下に置きます。
アメリカは沖縄戦(1945年3月26日〜6月23日)に勝利し、沖縄を占領し、奄美大島など南西諸島を勢力下に置きます。

8月14日、日本政府がポツダム宣言を受諾する旨を通告
8月15日、玉音放送
8月16日、日本政府、陸海軍に停戦を命令
8月17日、満州国皇帝の溥儀が退位を宣言し、満州国が消滅。
8月28日、アメリカ軍の先遣部隊が厚木基地に到着。
8月30日、ダグラス・マッカーサーが厚木基地に到着。続いて、イギリス軍、オーストラリア軍、ニュージーランド軍、カナダ軍、中華民国軍、フランス軍、ソ連軍が到着。
9月2日、横須賀沖に浮かぶアメリカ戦艦ミズーリの船上で、日本政府代表が降伏状に署名。

以後、 ダグラス・マッカーサーを最高司令官とするGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって、日本の大部分が占領統治されます。

南西諸島と小笠原諸島は以下の返還日までアメリカ統治が続きます。

1952年2月10日、トカラ列島を日本に返還
1953年12月25日、奄美群島を日本に返還
1968年6月26日、小笠原諸島を日本に返還
1972年5月15日、沖縄を日本に返還

◆イギリス連邦占領軍による中国地方と四国地方の占領

イギリスも日本占領を行なっています。

1945年11月、イギリス連邦軍は東京分区本部を設置しています。
1946年2月、イギリス軍が日本進駐を開始し、中国地方および四国地方の占領任務をアメリカ軍から引き継ぎます。
1947年、イギリス領インド陸軍が日本から撤退。
1948年、ニュージーランド陸軍が日本から撤退。
1952年、日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発行し、イギリス連邦占領軍が撤退。
1956年、朝鮮イギリス連邦軍が日本駐留を終了し撤退しています。

◆ソ連軍による北方領土の占領

ソ連は1945年2月のヤルタ会談で、千島列島と樺太をソ連領とすることを条件に対日参戦することを約束しています。
そして、1945年8月9日に日本に宣戦布告したソ連は、満州国、朝鮮半島、樺太南部、千島列島への侵攻を開始します。

樺太の戦い(8月11日〜8月25日)で日本に勝利したソ連は南樺太を占領。

占守島の戦い(8月17日〜8月21日)で21日に日本が停戦し、23日〜24日にソ連が日本の武装解除を行います。
25日に松輪島、29日に択捉島、31日に得撫島、9月4日に国後島と色丹島、9月5日に歯舞群島を占領し、軍事行動を停止します。

サンフランシスコ講和条約の論点は日本の再軍備と賠償請求

サンフランシスコ講和会議の論点は、日本の分割統治ではなく、「日本の再軍備と賠償請求」です。

サンフランシスコ講和会議がどういうものだったのかは、「誰が・いつ・何のために」に開催したのかを考えるが重要だと思います。

◆誰が=アメリカとイギリス
サンフランシスコ講和会議はアメリカが主催し、アメリカとイギリスが会議に参加する国を決めて、各国に招待状を送っています。

◆何のために=共産主義陣営に対抗するため
アメリカとイギリスをはじめとした資本主義陣営が、日本をソ連をはじめとする共産主義陣営に対する防波堤にするため。

◆いつ=朝鮮戦争の勃発の翌年(日本が降伏した6年後)
日本が降伏文章に調印したのは1945年9月。
朝鮮戦争が勃発したのは1950年6月。
警察予備隊が設立されたのが1950年8月。
サンフランシスコ講和会議が開かれたのは1951年9月。
日米安保条約が署名されたのは1951年9月。

◆オーストリア・ドイツ・朝鮮は分割、日本は分割せず

日本領朝鮮、オーストリア、ドイツは分割統治され、日本もアメリカ・イギリス・ソ連に占領されましたが、国として分割されることはありませんでした。

それは、1945年2月のヤルタ会談のあたりから、東西対立(共産主義 vs 資本主義)が始まったことが原因だと言われています。

以下、ヤルタ会談、日本領朝鮮の分割、オーストリア分割、ドイツ分割、朝鮮戦争、サンフランシスコ平和条約・日米安保条約の発行までの主な出来事です。

◆戦争末期からサンフランシスコ講和条約までの主な出来事

1945年2月、ヤルタ会談で米英中ソ4カ国による日本領朝鮮の信託統治が合意
1945年4月、トルーマンがソ連に対して朝鮮半島の南北分割統治を提案
1945年4月、米英仏ソ4カ国によるオーストリア分割占領開始
1945年5月、米英仏ソ4カ国によるドイツ分割占領開始
1945年8月16日、ペンタゴンの統合戦争計画委員会が米英中ソ4カ国による日本占領を起案
1945年8月16日、スターリンがトルーマンに北海道の分割統治を提案
1945年8月18日、トルーマンは分割占領を回避することを勧告する国務省案を承認
1945年8月18日、トルーマンはスターリンの北海道分割統治を拒否
1945年8月23日、スターリンは日本人のシベリア抑留を決定
1945年9月9日、南京にて日本軍支那派遣軍総司令官と中華民国陸軍総司令官が降伏文書に調印
1945年9月10日、上党戦役開始(中国共産党と中国国民党の軍事衝突)
1946年6月26日、国民党軍が中国共産党に対して全面侵攻を開始
1946年12月、第一次インドシナ戦争開始
1948年5月、第一次中東戦争開始
1948年6月、ベルリン封鎖
1948年8月、大韓民国が建国
1948年9月、朝鮮民主主義人民共和国が建国
1949年9月、西ドイツが建国
1949年10月、東ドイツ・中華人民共和国が建国
1949年12月、中華民国が台北を臨時首都に
1950年6月、朝鮮戦争開始
1950年8月、警察予備隊設立
1950年10月、チベット侵攻
1951年1月29日、ダレスと吉田の講和に向けた会談
1951年1月31日、ダレスと吉田の講和に向けた会談
1951年2月7日、ダレスと吉田の講和に向けた会談
1951年7月20日、アメリカとイギリスが講和会議への招聘状を50ヵ国に発送
1951年9月8日、サンフランシスコにて講和条約署名、日米安保条約署名
1952年4月28日、講和条約発行、日米安保条約発行

サンフランシスコ講和会議がどんな会議だったのかということは、先ほどもリンクを貼りましたが、以下の記事に詳しく解説しました。

参考)

サンフランシスコ講和会議、ジャヤワルダナ氏の対日賠償権放棄の演説とは何…

 

ウィキペディア:シベリア抑留
ウィキペディア:ソ連対日宣戦布告
ウィキペディア:ソ連対日参戦
ウィキペディア:樺太の戦い (1945年)
ウィキペディア:占守島の戦い
ウィキペディア:国務・陸軍・海軍調整委員会
ウィキペディア:硫黄島の戦い
ウィキペディア:連合国軍占領下の日本
ウィキペディア:イギリス連邦占領軍
ウィキペディア:日中戦争
ウィキペディア:ヤルタ会談
ウィキペディア:群島 (沖縄)
ウィキペディア:朝鮮戦争
ウィキペディア:警察予備隊
ウィキペディア:日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約
ウィキペディア:吉田茂
ウィキペディア:白洲次郎
ウィキペディア:ジョン・フォスター・ダレス

最初に批准したのはイギリス

サンフランシスコ講和会議後に、「日本が最初に国交を結んだのはスリランカ」とも紹介されることがあります。

スリランカに関する観光・生活情報を発信している身としても、この話も是非伝えたいと思い、調べるもののそれに関する情報は未だ見つけられていません。

サンフランシスコ平和条約は第23条1の規定により、日本及びアメリカ合衆国が批准書を寄託し、かつ、主たる占領国の過半数が批准書を寄託した時に、その時に批准書を寄託しているすべての国に関して効力を生ずるとなっており、アメリカ合衆国東部標準時の1952年4月28日 8時30分(日本標準時で同日22時30分)に条約が発効したと4月28日付に外務省によって告示されています。

つまり、主たる占領国アメリカと日本がまず批准し、その他の占領国も批准してサンフランシスコ平和条約は効力を発揮していますので、条約の性格上、最初に国交を結んだ国はアメリカになるでしょう。

一方で、ウィキペディアのページには批准日がまとめられています。
批准日が日本に次いで早いのはイギリスで、その次はメキシコです。
批准日を基準に考えると、戦後、日本が最初に国交を結んだのはイギリスになりそうです。

1951年11月28日   日本
1952年1月3日    イギリス
1952年3月3日   メキシコ
1952年4月9日   アルゼンチン
1952年4月10日 オーストラリア
1952年4月10日 ニュージーランド
1952年4月17日 カナダ
1952年4月17日 パキスタン
1952年4月18日 フランス
1952年4月28日 アメリカ
1952年4月28日 セイロン

スリランカは平和条約の効力が発生した1952年4月28日のアメリカ合衆国東部標準時の13時30分(効力発生の3時間後)に批准書を寄託したとウィキペディアには記載されており、平和条約の効力発生後に最初に批准した国はスリランカのようです。

大国・戦勝国による利権獲得の思惑・せめぎ合いが繰り広げられている中、小国スリランカを代表するジャヤワルダナ氏が投じた一石「憎しみは憎しみによって止むことなく、愛によって止む」の演説は、サンフランシスコ講和会議の経緯や状況を知ると、より輝いて見えるように思います。

参照)
ウィキペディア「日本国との平和条約」

正しい遺言は「角膜の一つはスリランカ人に、もう一つは百瀬氏に」

ジャヤワルダナ氏が以下のような遺言を残したとよく言われます。

「角膜の一つをスリランカ人に、もう一つの角膜を日本人に」

また、この角膜は群馬県の女性に移植されたとするもの、長野県の女性に移植されたとするものがあります。

本件について調べた野口さんの書籍を参照すると、正しくは群馬県の女性の2名のようです。

そして、野口さんは遺言を「角膜の一つはスリランカ人に、もう一つは百瀬氏に」であると書かれています。

百瀬氏はスリランカのアイバンク協会の設立に尽力した群馬県の方で、ジャヤワルダナ大統領とも交流がありました。

百瀬氏はたしかに日本人ですが、百瀬氏がスリランカのアイバンク協会の設立に尽力してくれたので、その百瀬氏に片方の角膜は託したようです。

百瀬氏は受け取った角膜を二人の群馬県の女性に移植手術しています。
野口さんの書籍では、手術が行われた時の新聞記事2件のコピーが掲載されています。

また、ジャヤワルダナ大統領の角膜の提供が日本の角膜手術の最初の成功例となったと紹介しているテレビ番組もありましたが、日本での角膜手術の成功例はもっと前から、それは間違いだと言えます。

参考)

野口芳宣 著『敗戦後の日本を慈悲と勇気で支えた人ースリランカのジャヤワ…

 

日本における角膜移植の歴史

まとめ

ジャヤワルダナ大統領が親日家であり、日本を擁護した演説をしたことは覚えておくべきことだと思います。

おそらく、記事や番組をまとめられた方々、番組に登場されたコメンテーターの方々は「この話は素晴らしい!!」と伝えたい気持ちが強く、つい盛ってしまった、あるいは裏取りをせずに発信してしまったのではないかと思います。

それを見たり、読んだ人が、調べずにコピして発信することが繰り返されたのでしょう。

他の国にもこのような日本がお世話になっている話や、日本の方が現地の方のために尽くしてくださったエピソードがあるのではないかと思います。

ただ、今回のようにそのようなエピソードの紹介も、本当のところはどうなのか?誇張はないのか?という視点も併せ持つ必要があるように思います。

ジャヤワルダナ氏はその後、アメリカ寄りの政策を進めていますが、サンフランシスコ講和会議では、資本主義陣営を一方的に指示するのではなく、第三世界の立場も主張しているのがポイントだと思います。

演説の内容にはなかった「日本分割案」ではなくて、実際にジャヤワルダナ氏が話された内容を吟味することにこそ意味があるように思います。

演説の内容については、以下の記事でより詳しく書きました。

サンフランシスコ講和会議、ジャヤワルダナ氏の対日賠償権放棄の演説とは何…

また、コロンボにはジャヤワルダナ氏を記念する「ジャヤワルダナセンター」があり、日本と交流された記録がまとめられた「日本館」もありますので、訪れてみるのもいいでしょう。

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