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日本を分割占領から守ったスリランカのジャヤワルダナ大統領というのは本当か?

2021年5月19日

スリランカが親日である理由の1つとして出てくるジャヤワルダナ大統領。
彼が大の親日家であり、サンフランシスコ講和会議で日本を擁護する演説をしたことは確かです。

それは日本人として知っておくべき事実だと思います。
恩を受けた日本が親スリランカであるべきところですが、日本ではあまり知られていません。

一方で、ジャヤワルダナ大統領の演説の説明に関して、テレビ番組やウェブサイトなどで間違っていると思われる説明が見受けられます。

スリランカの観光に携わる身として、これは是非伝えたい!と、テレビ番組を見て、その内容をそのまま人前で話したことがありますが、しっかりと事前に調べずに、話してしまったことを今は反省しています。
私が間違えて伝えてしまった3点について、まとめてみました。

日本分割統治案にジャヤワルダナ大統領が反対したという噂

ソ連の条約修正提案

サンフランシスコ講和会議でソ連が日本分割統治案を主張したが、ジャヤワルダナ大統領の演説によってそれは避けられたと説明されていることがあります。

しかし、サンフランシスコ講和会議では、日本分割統治案について話されたという記録はありません。
ソ連が主張した13項目の条約修正提案には、日本分割統治案については触れていません。

1.樺太と千島はソ連に帰属させる。
2.日本の主権を琉球列島にも拡大させる。
3.日本にある全軍隊は可及的速やかに、あるいは条約署名後90日以内に撤退する。
4.中国、インドネシア、ビルマ、フィリピンのために賠償会議を開く。
5.中華人民共和国を条約署名国に加える。
6.台湾は中華人民共和国に帰属させる。
7.言論、信仰の自由を含むあらゆる人権を保障するのに必要な措置を講じる。
8.軍国主義的色彩を持つ組織はすべて禁止する。
9.第2次大戦中、日本と戦った国を目標とする軍事同盟に日本が加入するのを禁止する。
10.日本の軍隊を陸軍、警察隊併せて15万、海軍2万5000、空軍2万、戦闘機200機、輸送機その他最高150機、重戦車、中戦車併せて最高200台に制限する。
11.以上の軍隊を維持するために必要な軍事訓練を除き、他はすべて禁止する。
12.原子、細菌その他の大量殺戮兵器を禁止する。
13.対馬海峡を非武装化する

参照)
日本経済新聞社:ソ連が13項目の条約修正提案 

ペンタゴン起案の日本占領案とスターリンの北海道分割占領要求

そもそも、日本分割統治案とはソ連が出したものではありません。
1945年8月16日にペンタゴンの統合戦争計画委員会(Joint War Plans Committee,JWPC)が起案した日本占領案です。

背景にある考えとして、「日本を占領統治するなら、コストを節減し米軍は最小限にとどめるべきだ。米国が日本軍政に主な責任を負うべき理由はない。」というもの。

以下のように分割する案がまとめられています。

  • ソ連:北海道、東北地方。
  • アメリカ:本州中央、関東、信越、東海、北陸、近畿。
  • 中華民国:四国。
  • イギリス:西日本(中国、九州)をそれぞれ統治
  • 東京は4カ国共同占領

また同日、スターリンはトルーマンに、北方領土に加えて、北海道の東部をソ連領とすることを要求します。

1945年8月18日、トルーマンは分割占領を回避することを勧告する国務省案を承認。
同日、トルーマンはスターリンに対して要求を拒否しています。

つまり、日本分割統治案は日本が降伏文書に調印する前に議論されていたものです。
日本は1945年9月2日に降伏文書に正式に調印し、日本は連合国軍の占領下となります。

サンフランシスコ講和条約と安保条約

日本と連合国との講和条約の締結は先延ばしされていました。

1950年6月に開始した朝鮮戦争を契機に、講和条約締結の機運が高まったと言われています。
1950年8月には、後の自衛隊である警察予備隊が設立されています。

アメリカによる反共産主義体制への対策において、日本が重要な存在となっていきます。

そして、講和会議に向けて、吉田茂とジョン・フォスター・ダレスとの会談が続けて行われます。

1951年1月29日、ダレスと吉田の講和に向けた会談
1951年1月31日、ダレスと吉田の講和に向けた会談
1951年2月7日、ダレスと吉田の講和に向けた会談

1951年7月20日、日本の主要な領土を占領統治していたアメリカとイギリスが講和会議への招聘状を50ヵ国に発送します。

1951年9月4日〜9月8日、サンフランシスコにて、52カ国の代表が参加して講和会議が開催されます。
9月8日、日本政府は講和条約に調印するともに、旧日米安保条約にも調印します。

1952年4月28日、サンフランシスコで調印された講和条約と旧日米安保条約が発行され、日本は国際社会に復帰します。

つまり、サンフランシスコでの講和会議は、連合国の中でも日本の占領統治を主導していたアメリカと日本との間で取り交わされたとも言えます。
資本主義陣営と共産主義陣営が対立していた時期で、主な連合国で共産主義陣営のソ連は会議で修正事項を提示し、最終的には条約に著名していません。
参加した52ヵ国中の49ヵ国が著名し、著名しなかったのは共産主義陣営のソ連、ポーランド、チェコスロバキアです。

内戦中の中華人民共和国と中華民国は会議に招聘されていません。
インド、ビルマ、ユーゴスラビアは招聘されたものの、欠席しています。

このアメリカを中心とした連合国軍の日本占領が6年間経過した後に開催され、その半年後に日本が国際社会に復帰するサンフランシスコ講和会議で、ソ連が日本分割統治案を主張することや、ジャヤワルダナ氏がそれに反対したということは、実際にはなかったのはないでしょうか。

ジャヤワルダナ氏の演説文を掲載しているサイトがあります。
それを読むと、ソ連の主張に対して反対の意を表明していますが、分割統治の話はありません。

参照)
サンフランシスコ講和会議 スリランカ代表の演説
ウィキペディア「日本の分割統治計画」
知っていて欲しい「戦後日本の分割占領計画」 — 山口 俊一
日本人ならば知っておくべきスリランカのこと①

テレビ番組やブログなどで紹介されている分割統治案の地図は中華民国となっていますので、このペンタゴンの統合戦争計画委員会が起草した案をもとに作ったものだと思います。

仮にソ連が主張したとすれば、中華民国ではなくて、中華人民共和国とするでしょう。
上記にご紹介した13項目の条約修正提案では、台湾を中華人民共和国に帰属させることをソ連は主張しています。
ちなみに、サンフランシスコ講和会議には、中華民国も中華人民共和国も参加していません。

■日本分割統治案について触れている例
テレビ朝日「陸海空 地球征服するなんて」『スリランカで1番有名な日本人は?』2018年12月8日放送
第1989回「世界一の親日家 ジャヤワルダナ大統領」2016年6月19日放送
テレビ東京「知られざる親日国スリランカ!経済&観光急成長…その裏には世界マーケットが!」2014年1月13日放送
日本を分割統治から救ったスリランカ初代大統領J.R.ジャヤワルダナの名演説

在スリランカ日本大使館やJICAのページでもジャヤワルダナ大統領では、対日賠償請求権の放棄や日本の国際社会復帰への後押しをしたことには触れていますが、分割統治案については記載がありません。

参照)
在スリランカ日本国大使館 二国間関係
JICAスリランカ事務所長あいさつ

ちなみに、賠償請求権を放棄した国はアメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリア、中華民国、インド、カンボジア 、ラオス、スリランカのようです。

参照)
外務省「歴史問題Q&A 関連資料 日本の具体的戦後処理(賠償、財産・請求権問題)」
ウィキペディア「日本の戦争賠償と戦後補償」

アメリカによるの日本占領統治

アメリカによる奄美群島、小笠原諸島、沖縄の占領は講和条約の発行後も続きます。

日本が占領統治された流れを見ると、サンフランシスコ講和会議の位置付けも、より分かるかと思います。

アメリカは硫黄島の戦い(1945年2月23日〜3月26日)に勝利し、小笠原諸島を勢力下に置きます。
アメリカは沖縄戦(1945年3月26日〜6月23日)に勝利し、沖縄を占領し、奄美大島など南西諸島を勢力下に置きます。

8月14日、日本政府がポツダム宣言を受諾する旨を通告
8月15日、玉音放送
8月16日、日本政府、陸海軍に停戦を命令
8月17日、満州国皇帝の溥儀が退位を宣言し、満州国が消滅。
8月28日、アメリカ軍の先遣部隊が厚木基地に到着。
8月30日、ダグラス・マッカーサーが厚木基地に到着。続いて、イギリス軍、オーストラリア軍、ニュージーランド軍、カナダ軍、中華民国軍、フランス軍、ソ連軍が到着。
9月2日、横須賀沖に浮かぶアメリカ戦艦ミズーリの船上で、日本政府代表が降伏状に署名。

以後、 ダグラス・マッカーサーを最高司令官とするGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって、日本の大部分が占領統治されます。

南西諸島と小笠原諸島は以下の返還日までアメリカ統治が続きます。

1952年2月10日、トカラ列島を日本に返還
1953年12月25日、奄美群島を日本に返還
1968年6月26日、小笠原諸島を日本に返還
1972年5月15日、沖縄を日本に返還

ソ連による北方領土の占領統治

ソ連は1945年2月のヤルタ会談で、千島列島と樺太をソ連領とすることを条件に対日参戦することを約束しています。
そして、1945年8月9日に日本に宣戦布告したソ連は、満州国、朝鮮半島、樺太南部、千島列島への侵攻を開始します。

樺太の戦い(8月11日〜8月25日)で日本に勝利したソ連は南樺太を占領。

占守島の戦い(8月17日〜8月21日)で21日に日本が停戦し、23日〜24日にソ連が日本の武装解除を行います。
25日に松輪島、29日に択捉島、31日に得撫島、9月4日に国後島と色丹島、9月5日に歯舞群島を占領し、軍事行動を停止します。

イギリス連邦占領軍による中国地方と四国地方の占領統治

イギリスも日本占領を行なっています。

1945年11月、イギリス連邦軍は東京分区本部を設置しています。
1946年2月、イギリス軍が日本進駐を開始し、中国地方および四国地方の占領任務をアメリカ軍から引き継ぎます。
1947年、イギリス領インド陸軍が日本から撤退。
1948年、ニュージーランド陸軍が日本から撤退。
1952年、日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発行し、イギリス連邦占領軍が撤退。
1956年、朝鮮イギリス連邦軍が日本駐留を終了し撤退しています。

オーストリア・ドイツ・朝鮮の分割統治、東西対立

日本の分割統治案は、オーストリアやドイツ、朝鮮が実際に連合国によって分割統治されていますので、起こりえたとも言えます。

東西対立はヤルタ会談から始まったと言われますが、ヤルタ会談からサンフランシスコ講和会議までの年表を見ると、そうはならなかったことが想像つきます。

1945年2月、ヤルタ会談で米英中ソ4カ国による日本領朝鮮の信託統治が合意
1945年4月、トルーマンがソ連に対して朝鮮半島の南北分割統治を提案
1945年4月、米英仏ソ4カ国によるオーストリア分割占領開始
1945年5月、米英仏ソ4カ国によるドイツ分割占領開始
1945年8月16日、ペンタゴンの統合戦争計画委員会が米英中ソ4カ国による日本占領を起案
1945年8月16日、スターリンがトルーマンに北海道の分割統治を提案
1945年8月18日、トルーマンは分割占領を回避することを勧告する国務省案を承認
1945年8月18日、トルーマンはスターリンの北海道分割統治を拒否
1945年8月23日、スターリンは日本人のシベリア抑留を決定
1945年9月9日、南京にて日本軍支那派遣軍総司令官と中華民国陸軍総司令官が降伏文書に調印
1945年9月10日、上党戦役開始(中国共産党と中国国民党の軍事衝突)
1946年6月26日、国民党軍が中国共産党に対して全面侵攻を開始
1946年12月、第一次インドシナ戦争開始
1948年5月、第一次中東戦争開始
1948年6月、ベルリン封鎖
1948年8月、大韓民国が建国
1948年9月、朝鮮民主主義人民共和国が建国
1949年9月、西ドイツが建国
1949年10月、東ドイツ・中華人民共和国が建国
1949年12月、中華民国が台北を臨時首都に
1950年6月、朝鮮戦争開始
1950年8月、警察予備隊設立
1950年10月、チベット侵攻
1951年1月29日、ダレスと吉田の講和に向けた会談
1951年1月31日、ダレスと吉田の講和に向けた会談
1951年2月7日、ダレスと吉田の講和に向けた会談
1951年7月20日、アメリカとイギリスが講和会議への招聘状を50ヵ国に発送
1951年9月8日、サンフランシスコにて講和条約署名、日米安保条約署名
1952年4月28日、講和条約発行、日米安保条約発行

参照)

ウィキペディア:シベリア抑留
ウィキペディア:ソ連対日宣戦布告
ウィキペディア:ソ連対日参戦
ウィキペディア:樺太の戦い (1945年)
ウィキペディア:占守島の戦い
ウィキペディア:国務・陸軍・海軍調整委員会
ウィキペディア:硫黄島の戦い
ウィキペディア:連合国軍占領下の日本
ウィキペディア:イギリス連邦占領軍
ウィキペディア:日中戦争
ウィキペディア:ヤルタ会談
ウィキペディア:群島 (沖縄)
ウィキペディア:朝鮮戦争
ウィキペディア:警察予備隊
ウィキペディア:日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約
ウィキペディア:吉田茂
ウィキペディア:白洲次郎
ウィキペディア:ジョン・フォスター・ダレス

日本が最初に国交を結んだのはスリランカという噂

サンフランシスコ講和会議後に、日本が最初に国交を結んだのは、スリランカであるとも紹介されているのを何度か目にしています。
スリランカに関する観光・生活情報を発信している身としても、この話も是非伝えたいと思い、調べるもののそれに関する情報は未だ見つけられていません。

サンフランシスコ平和条約は第23条1の規定により、日本及びアメリカ合衆国が批准書を寄託し、かつ、主たる占領国の過半数が批准書を寄託した時に、その時に批准書を寄託しているすべての国に関して効力を生ずるとなっており、アメリカ合衆国東部標準時の1952年4月28日 8時30分(日本標準時で同日22時30分)に条約が発効したと4月28日付に外務省によって告示されています。

つまり、主たる占領国アメリカと日本がまず批准し、その他の占領国も批准してサンフランシスコ平和条約は効力を発揮していますので、条約の性格上、最初に国交を結んだ国はアメリカになりそうです。

一方で、ウィキペディアのページには批准日がまとめられています。
批准日が日本に次いで早いのはイギリスで、その次はメキシコです。
批准日を基準に考えると、戦後、日本が最初に国交を結んだのはイギリスなのかもしれません。

1951年11月28日   日本
1952年1月3日    イギリス
1952年3月3日   メキシコ
1952年4月9日   アルゼンチン
1952年4月10日 オーストラリア
1952年4月10日 ニュージーランド
1952年4月17日 カナダ
1952年4月17日 パキスタン
1952年4月18日 フランス
1952年4月28日 アメリカ
1952年4月28日 セイロン

スリランカは平和条約の効力が発生した1952年4月28日のアメリカ合衆国東部標準時の13時30分(効力発生の3時間後)に批准書を寄託したとウィキペディアには記載されており、平和条約の効力発生後に最初に批准した国はスリランカのようです。

大国・戦勝国による利権獲得の思惑・せめぎ合いが繰り広げられている中、小国スリランカを代表するジャヤワルダナ氏が投じた一石「憎しみは憎しみによって止むことなく、愛によって止む」の演説は、サンフランシスコ講和会議の経緯や状況を知ると、より輝いて見えるように思います。

参照)

ウィキペディア「日本国との平和条約」

日本の角膜手術の最初の成功例という噂

ジャヤワルダナ大統領は遺言で以下のように伝えていると言われています。

「角膜の一つをスリランカ人に、もう一つの角膜を日本人に」

この角膜は群馬県の女性に移植されたとしている説明しているものと、長野県の女性に移植された説明としているものがあります。
どちらが定かは分かりませんが(群馬とする情報の方が多いのでおそらく群馬だと思います)
この角膜の提供が日本の角膜手術の最初の成功例となったと紹介しているテレビ番組のコメンテーターもいましたが、日本での角膜手術の成功例はもっと前のようです。

参照)
日本における角膜移植の歴史

最初ではなさそうですが、ジャヤワルダナ大統領の角膜が日本人に提供され、手術は無事成功したものと思われます。

まとめ

ジャヤワルダナ大統領が親日家であり、日本を擁護した演説をしたことは覚えておくべきことだと思います。
おそらく、記事や番組をまとめられた方々、番組に登場されたコメンテーターの方々は「この話は素晴らしい!!」と伝えたい気持ちが強く、つい盛ってしまったのではないかと思います。

これが誇張なのかどうかも結局は、私がネットで調べて読んでものをベースに書いており、その参照元が確実なものであるかは分かりません。
歴史、記録は強い者の都合で書き残されるともいわれますよね。
ただ、太平洋戦争、それに関する各会談、サンフランシスコ講和会議、日本と各国との関係、現在の国際情勢などについて、調べて考えるきっかけになればいいのではないかと思います。

サンフランシスコ講和会議の日本語のウィキペディアにはジャヤワルダナ大統領の演説については一文記載されているだけです。
一方、英語のサンフランシスコ講和会議のウィキペディアのページにはジャヤワルダナ大統領の演説については目次にも登場し、しっかり説明されています。

英語のウィキペディア「J. R. Jayewardene」のページには、「日本では非常に尊敬されており、鎌倉には彫像が建立された」と記載されており、実際に鎌倉大仏の脇にありますが、それをどれぐらいの日本人が知っているでしょうか?

私はたまたまスリランカにきて、ジャヤワルダナ大統領のことを知りました。
他の国にもこのような日本がお世話になっている話や、日本の方が現地の方のために尽くしてくださったエピソードがあるのではないかと思います。

ただ、今回のようにそのようなエピソードの紹介も、本当のところはどうなのか?誇張はないのか?という視点も併せ持つ必要があるように思います。
スリランカのコロンボにくる機会がありましたら、是非ジャヤワルダナセンターを訪れてみてください。

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