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野口芳宣 著『敗戦後の日本を慈悲と勇気で支えた人ースリランカのジャヤワルダナ大統領』

2021年10月19日

これまで本サイトではジャヤワルダナ氏のサンフランシスコ講和会議に関する記事を2つ投稿していますが、今回ご紹介する本が最も分かりやすくまとまった資料だと思います。

私が過去の記事で参考にしたのは、外務省外交史料館のサンフランシスコ講和会議に関する資料ですが、本書はそれに加えて、国立公文書館、宮中晩餐会のスピーチ記録、当時の主要新聞紙や該当地域の地方紙、多くの参考文献・映像資料などにあたり、日本各地・スリランカ各地への現地調査を行い、見つけた記録を「ジャヤワルダナ氏の年譜」「サンフランシスコ講和会議の概要」「日本に関係する事柄」にまとめた書籍です。

本記事では、本書に取り上げられている内容や場所について、別途調べた補足情報を加えて紹介しています。

ジャヤワルダナ氏の演説はサンフランシスコ以外についても引用し、資料としてもとても参考になりますので、より詳しく知りたい方は本書をご購入ください。

著者の野口氏はスリランカへの奨学金活動を行っているコスモス奨学金の副代表で、この本の印税は全額コスモス奨学金活動に寄付されるそうです。

目次

米国務省「日本単独占領案」と米軍「日本分割統治案」

本書48ページに、日本分割統治案について以下のような記述があります。

アメリカ軍部の「分割案」は、こういうわけで、極秘のまま、どこにも発表もされずに終わったのだった。日本では今日、「日本分割占領」はソ連の案や希望だったと思っている人もいるようだが、そうではない。

ジャヤワルダナ氏がサンフランシスコ講和会議で、ソ連の日本分割統治案に反対する演説を行ったする情報がありますが、それが間違いであることが明確に記述されています。

本書46〜47ページには、五百旗頭真さんの著作『米国の日本占領政策 上・下』と『戦争・占領・講和(1941〜1955)』をもとにまとめた、アメリカ軍部に夜日本分割統治案がまとめられています。

参考文献はこちらです。

スリランカ建国の父ドン・スティーヴン・セーナーナーヤカ

ジャヤワルダナ氏は親日家として紹介されることが多いですが、もう一人、スリランカと日本にとって重要な人物がいます。
スリランカ建国の父ドン・スティーブン・セーナーナーヤカです。

本書138ページに、ジャヤワルダナ氏が1954年に行った演説が引用されています。
重要な一文を以下に引用しました。

D・S・セナナヤケ首相は、私に、セイロンを代表して賠償金を日本に求めず、また日本の自由のためにセイロンを代表して出席するよう指名しました。

ドン・スティーブン・セーナーナーヤカ(D・S・セナナヤケ)は、スリランカ建国の父とも言われるセイロン(現スリランカ)初代首相です。

1950年1月にイギリス連邦外相会議をコロンボで開催し、後にコロンボプランを設立しています。

本書が引用しているジャヤワルダナ氏の演説には以下のようにもあります。

日本を自由にするという問題は、コロンボ英連邦外相会議でも議題になりましたが、そうすることをためらう国もいくつかありました。しかし、我々(セイロン)は、日本を自由にしようと強く思う立場でした。

八千万人の国民が、世界の平和への危機に直面せずに従属的な状態にいるのは不可能だというのが我々の見方だったので、会議では、日本を自由にするいくつかの手段を打つべきだという結論になりました。

D・S・セナナヤケ指導下で、ロンドンでの彼の代表団は、コロンボでの英連邦外相会議に同じ考えだということでしたし、また、なんといってもアメリカが同じ見解を示して、日本との平和条約を締結するためのいくつかの手段が取られたのです。

ジャヤワルダナ氏は親日家・日本の国際社会復帰を後押しした人物として知られていますが、ドン・スティーブン・セーナーナーヤカ氏も同様に、日本の国際社会復帰を後押しした人物と言えそうです。

スリランカ建国の父とも言われるセーナーナーヤカ氏の像がコロンボの独立記念広場(Indepedence Square)にあります。

セーナーナーヤカは農地改革に取り組み、アヌラーダプラやポロンナルワの貯水池の改修・拡大を行っています。
貯水池の改修を記念して、ポロンナルワのパラークラマ・サムドラにはセーナーナーヤカ像があります。
パラークラマ・サムドラは「パラークラマの海」という意味で、パラークラマ・バーフ1世が作ったことに由来します。

東海岸にあるスリランカ最大の貯水池「セーナーナーヤカ・サムドラ(Senanayake Samudraya)」は、セーナーナーヤカの政策によって作られたダムで、「セーナーナーヤカの海」と名付けられています。

セーナーナーヤカ・サムドラが完成したのは1953年ですが、セーナーナーヤカ氏は1951年にゴールフェイスグリーンで落馬して他界されています。

息子であり第二代首相となったダッドリー・シェルトン・セーナーナーヤカを農業大臣に任命していたことからも、セーナーナーヤカ氏は農地改革に力を入れていたことが想像つきます。

世界仏教徒連盟と世界仏教徒博物館

世界仏教徒連盟日本センターの代表・椎尾弁匡師が、ジャヤワルダナ氏宛にサンフランシスコでの演説に対して手紙を書かれたことが本書で紹介されています。

椎尾弁匡は、大正大学学長を3度経験し、衆議院議員を3期務め、増上寺法主、東海学園理事長、東海学園女子短期大学の学長を務めた人物です。

世界仏教徒連盟の最高議決期間として、数年毎に世界仏教徒会議が開かれていて、その1回目は1950年6月にコロンボで開催されています。
この時、仏旗が制定されています。
第2回目は1952年9月に築地本願寺で行われています。
第12回(1978年)は築地本願寺と増上寺
第14回(1986年)はコロンボ
第24回(2008年)は浅草寺
第25回(2010年)はコロンボで開催されています。

キャンディの仏歯寺に隣接して、世界仏教徒博物館があり、仏歯寺の拝観料を払っている人は無料で入場ができます。
館内では制定された仏旗のことや仏教が伝播した各国のコーナーがあり、日本の仏教については出口近くの最後の方にコーナーが設けられています。

トリンコマリーのオイルタンク No.91

ジャヤワルダナ氏はサンフランシスコでの演説で、空襲による損害があったと言及されていますが、それは第二次世界大戦で日本海軍がコロンボとトリンコマリーを空爆したセイロン沖海戦のことを意味しています。

トリンコマリーは天然良港で軍港として使われ、現在もスリランカ海軍の基地があります。
第二次世界大戦でイギリスの東洋艦隊はシンガポールを拠点としていましたが、日本軍のマレー半島とシンガポールへの攻撃を受けて、トリンコマリーに退避していました。

イギリスの飛行場、造船所、港、軍艦、燃料基地を攻撃目標として日本海軍は商港コロンボと軍港トリンコマリーを空爆しています。

トリンコマリーにはイギリスが建築した102のオイルタンクがあり、その中の一つ、第91番タンク(No.91)に日本の零戦が意図的に突撃して7日間燃えたと説明板が敷地に設置されています。
説明板には搭乗者の名前をシゲノリ・ワタナベ、トキヤ・ゴトウ、ツトム・トシラと記載しています。

場所はトリンコマリーのチャイナベイです。
チャイナベイの港がある半島の内陸側、
スリランカ空軍が管理する空港の北側に、
インドオイルコーポレーション(IOC:Indian Oil Corporation)傘下のランカIOCが管理するオイルタンクの敷地内にあります。

見学するには事前にランカIOCにコンタクトを取る必要がありそうです。

オイルタンクNo.91についてまとめた動画がありました。
トリンコマリーは東京セメントの拠点でもあるため、動画中に東京セメントの名前が出てきます。

セイロン沖海戦については、以下の記事を参照ください。

セイロン沖海戦(コロンボ空襲・トリンコマリー空襲)と戦跡

多摩動物公園のアヌーラ

1956年8月、三笠宮崇仁親王殿下・百合子妃殿下がスリランカでの仏陀入滅2500年祭の式典に参加しています。
これを記念して、1956年11月にスリランカからゾウが日本に贈られています。

ソロモン・バンダーラナーヤカ首相は、ゾウに息子アヌラ・バンダーラナーヤカ(අනුර බණ්ඩාරනායක)と同じ名前のアヌラと名付けています。
日本では「アヌーラ」として知られています。

多摩動物公園にいるアヌーラは日本国内で飼育されているオスのアジアゾウとしては最高齢の68歳。

1953年頃生まれのアヌーラは3歳の頃に来日して上野公園で2年間飼育されて、多摩動物公園の開園に伴い移動。

アヌーラは1979年頃に病気になり、自力で立てなくなり、長時間横になることでゾウは内臓に負担がかかり死亡することもあるという状況で、メス象のの高子とガチャコが2ヶ月間、アヌーラを支え続けたそうですが、そのエピソードが絵本「ともだちをたすけたゾウたち」としてまとめられています。
この絵本は多摩動物公園でも販売されているそうです。

多摩動物公園のスリランカゾウの絵本『ともだちをたすけたゾウたち』

 

2006年5月に、アヌーラ来日50年記念式典が多摩動物公園で開催され、三笠宮殿下ご夫妻、アヌーラの名の元になったアヌラ・バンダラナイケ国家遺産大臣(当時)が参加されています。

2012年11月に、ピンナワラの象の孤児院から8歳のメス「アマラ」、5歳のオス「ヴィドゥラ」が多摩動物公園に来園。

2021年8月1日に、新アジアゾウ舎「アジアゾウのすむ谷」が完成・公開され、スリランカ生まれのアジアゾウたちの姿を見ることができるようです。

コロンボの日本人墓地

コロンボのボレッラ墓地(Borella General Cemetery)に日本人墓地があります。

毎年9月頃に日本人会会長や駐スリランカ日本大使が参列される墓参会(2020年と2021年は新型コロナウイルスのため中止)が行われています。

1965年11月2日に日本国特命全権大使・高瀬侍郎氏の名で建立された鎮魂碑、
1979年10月18日に日本国特命全権大使・越智啓介氏の名で建立された慰霊碑があります。

高瀬侍郎氏は任期1962年9月~1966年 3月にて第6代駐スリランカ日本国特命全権大使を、
越智啓介氏は任期1977年5月~1980年 7月にて第11代駐スリランカ日本国特命全権大使を務められています。

スリジャヤワルダナプラ総合病院

ジェフリーバワ設計、三井建設によって建設されたスリジャヤワルダナプラコッテにある国会議事堂。

その南に日本のODAによって1983年9月に完成したスリジャヤワルダナ総合病院の玄関ホール入り口の壁に記念プレートがあるそうです。

本書ではそのプレートの文章と、総合病院の開院式のリーフレットに記載されている文章について紹介しています。

病院の設立経緯は、ジャヤワルダナ氏3回目の来日である1979年9月10日に大平正芳総理大臣との協議において、大平氏がサンフランシスコ講和会議での演説に対する感謝の気持ちを表すために、スリランカへの援助プログラムを申し出たとリーフレットに記載があるそうです。

ジャヤワルダナ氏は大平氏の言葉を受けて、大会議場、大競技場、複合議事堂などどんな建物を支援して建ててもらうか考えたそうですが、ブッタの言葉がさしてきて、病院の建設支援をお願いすることに決めたと、病院の定礎式でスピーチされたそうです。

本書にはスピーチ内容についても掲載されています。

1999年5月には、総合病院の向かいに「スリジャヤワルダナプラ国立看護学校」が日本のODAによって建設されています。

ヌワラエリヤのイチゴ栽培事業

戦時中にドイツ大使館武官補佐官であった藤村義朗氏は、サンフランシスコ講和会議への恩返しがしたいと、1981年に日本・東京商工会議所、日本スリランカ経済委員会を通して、スリランカ政府に申し出たそうです。

スリランカではお茶、柑橘類を栽培していることと、静岡県はお茶、みかん、石垣いちごが有名なことから、いちごの栽培がスリランカでできるのではないか?と考えたそうです。

いちごを栽培してアラビアに輸出して外貨を稼いで、スリランカの経済発展に貢献するという提案だったそうです。

栽培地はヌワラエリヤの競馬場の一角と、ラハンガラ。

藤村氏が創業したジュピターコーポレーションは現在も存続し、会社沿革にスリランカでのイチゴ栽培事業についても記載がありますが、内戦などの影響でスリランカのイチゴ栽培事業からはすでに撤退しています。

本書で野口氏はヌワラエリヤのグレゴリー湖イチゴ農園とショップを運営しているamda-agroを訪れた時の様子を記述しています。

私もこのお店は訪れたことがありますが、イチゴ畑は見学が可能で、ファームショップではイチゴの購入、イチゴを使った軽食と紅茶を楽しむことができます。。

野口氏は本書で、

今は陸上競技場とサッカー場になっているいちご栽培跡地

と記述していますが、アドマアグロストロベリーファーム(Adma Agro Strawberry Farm )の周辺にあるのはグレゴリー湖畔のグレゴリー公園です。

グーグルマップを見ると、ヌワラエリヤ郊外のラデッラクリケット場(Radella Cricket Ground)の隣接地にジャグロストロベリーファーム(Jagro Strawberry Farm)があります。

ジャグロはコロンボに直営のイチゴカフェを経営している会社で、ホートンプレインズ国立公園方面の酪農場があるアンベウェラ(Ambewela)の北側にイチゴ農場があり、そちらにもカフェを経営しています。

ジャグロのコロンボ店

ジャグロのコッテ店

野口氏が話を聞いたamda-agroの店長はジュピターコーポレーションのイチゴ栽培事業に関わっていたそうですが、amda-agroもJagroもジュピターコーポレーションがイチゴ栽培を行ったことが現在の事業展開に影響しているのかもしれません。

私はジャグロの創業者とその息子さんにお会いしたことがあり、いずれ取材をさせていただこうと思っていますが、本書を読むまでジュピターコーポレーションについては知りませんでしたので、大変参考になりました。

藤村氏のイチゴ栽培事業以後のご経歴は以下のようです。

1982年4月、スリランカに対する経済援助事業としてイチゴ栽培事業を展開
1992年3月18日、千葉県富津市にて永眠
1992年4月、富津市特別名誉市民の称号

ペーラーデニヤ植物園の平成天皇の記念植樹

明仁皇太子ご夫妻による記念植樹

1981年3月、明仁皇太子殿下・美智子妃殿下は国際親善のためにスリランカを訪問されています。
3月4日にペーラーデニヤ植物園にイペー(ゴールデントランペットツリー)を記念植樹されています。

イペーは、花柱が細長く、先端の花びらがトランペットのように開いた黄色い花を咲かせることから、別名イエロートランペットツリーあるいはゴールデントランペットツリーとも言われ、ブラジルの国花です。

和名はコガネノウゼン。

ペーラーデニヤ植物園でイペーが咲くのは12月頃と、本書には紹介されています。

秋篠宮文仁親王ご夫妻による記念植樹

1992年11月、日本・スリランカ国交樹立40周年にあたり、秋篠宮文仁親王殿下・紀子妃殿下がスリランカを訪問して式典にご出席され、ペーラーデニヤ植物園にスパニッシュチェリーを植樹されています。

八王子・雲龍寺のジャヤワルダナ像

1987年10月、八王子にある雲龍寺の住職・足利正明師によって、ジャヤワルダナ像が建立されています。

本書で野口氏は碑文について”史実と少し異なるけれど、当時の日本国民の声を代表する者として、この銅像が建立された意義はとても大きいと思う。”と記述されています。

雲龍寺については、以下の記事を参照ください。

八王子にあるスリランカ系寺院「正山寺 釈迦牟尼国際佛教センター」での雨安居入り法要

J・R・ジャヤワルダナセンター

1988年、コロンボのジャヤワルダナ氏の生家周辺にオープンしたジャヤワルダナ氏を記念するセンター。

センターの奥には日本会館があり、1981年10月17日に国士舘大学教授の福島正義氏をはじめとする日本人有志16名によって贈られた胸像が置かれています。

永平寺の丹羽廉芳禅師による書「和光」も展示されています。

鎌倉大仏のジャヤワルダナ顕彰碑

ジャヤワルダナ氏の初めての来日はサンフランシスコ講和会議参加前の1951年8月29日〜9月2日。
GHQ最高司令官のリッジウェイ氏(マッカーサー氏の後任)、駐日米国大使のシーボルト氏(米国下院議員)、駐日英国大使、総理大臣の吉田茂氏、仏教学者の鈴木大拙氏などに会い、鎌倉大仏を訪問されています。

これを記念して建立されたのが鎌倉大仏のジャヤワルダナ顕彰碑です。

3回目の来日の際に宮中晩餐会でのスピーチで、1回目の来日時に鈴木大拙氏と会った時のことをお話されています。
以下に一部引用します。

私は、日本で信仰されている大乗仏教とスリランカで信仰されている小乗仏教との違いについて尋ねました。
すると鈴木教授は、「なぜ違いを重要視しようとされるのか。逆に、共通点について考えられてはいかがか。三宝(仏=仏陀、法=仏陀の教え、僧=僧団)は、両国で盛んであるし、一切皆苦や無我につながる八正道などは、両国で信奉されているではありませんか。」と諭されました。(中略)
私がサンフランシスコで貴国のために演説をしたとき、私は、心の底から訴え、私たちが信じる仏陀の教えの言葉を引用しました。

鈴木大拙氏は、セイロンに留学した仏教僧の釈宗演氏とともに、禅をアメリカ及び世界に伝えた人物と言われています。

ウィキペディアによれば、釈宗演氏が1889年に発表した著作『西南之仏教』で、北伝仏教を大乗仏教、南伝仏教を小乗仏教を言い換えたそうです。

本書で野口氏は以下のように記述されていますが、非常に重要なことだと思います。

もともとは一つだったブッダの教えが大きく二つ、大乗と小乗に分かれたのだから、共通しているところに目を向ければ、ブッダの初めの教えとはどのようなものかもよく解ることになるのだろうと思う。

鈴木大拙氏、釈宗演氏が登場する漫画『ZEN 釈宗演』をご覧いただくと、その背景がよりよく分かります。

『ZEN釈宗演 下 』日本人初の上座仏教徒・釈興然、スリランカのグネラトネ氏

鎌倉の顕彰碑の除幕式はジャヤワルダナ氏の7回目の来日である1991年4月28日に行われています。

碑文は仏教学の世界的権威の中村元氏によるものです。

鎌倉顕彰碑については、以下の書籍を参照ください。

ジャヤワルダナ氏来日の記録

ジャヤワルダナ氏は7回来日しているようですが、本書ではその7回の訪問を日付ベースで一覧にまとめています。

コロンボにあるジャヤワルダナセンターの日本館には、ジャヤワルダナ氏の来日時の写真が展示されていますが、それがいつ頃の出来事なのかが一覧を見ると分かります。

また、日本にはジャヤワルダナ氏の像がいつくかありますが、それらのことも一覧を見ると分かります。

その中からいくつかを以下にピックアップします。

日本への嘆きを言及

親日家のジャヤワルダナ氏は日本に対して一方的に絶賛していたわけではありません。
日本の近代化を評価する一方で、日本の精神性の欠如について指摘したインド初代首相のネルー氏に共通するところがあるように思います。

ネルー氏について、ウィキペディアでは以下のように記述しています。。

1957年の来日時の国民歓迎大会においても、アジアの共通性をもとに日印のみならずアジアの時代に期待する演説をしながらも、同時に第二次世界大戦に至るまでの日本の植民地主義を批判するのも忘れず、日本の近代化への対応を称賛しながら、かつて日本が西欧の力の論理に追従し、他のアジア諸国を抑圧したことを引き合いに出して、技術の進歩に見合った精神性が欠如していたと指摘している[33]

1957年5月24日、インドを訪問した岸信介首相を歓迎する国民大会が開催され、3万人の群衆の中、ネルーは日露戦争における日本の勝利がいかにインドの独立運動に深い影響を与えたかを語ったうえで、「インドは敢えてサンフランシスコ条約に参加しなかった。そして日本に対する賠償の権利を放棄した。これは、インドが金銭的要求よりも友情に重きを置くからにほかならない」と演説した

本書ではジャヤワルダナ氏3回目の来日の際の宮中晩餐会でのスピーチで、2回目の来日時に感じたことをお話した部分を引用しています。
その中から抜粋して以下に引用します。
ネルー氏の「技術の進歩に見合った精神性が欠如していた」の指摘に共通するところがあるように思います。

日本でも、世界の他の国と同じように、おごりたかぶって偉そうにしていた権力がやがて必然の終わりにいたると(そのときになってやっと)、かつて寺から広まった理想、僧侶の瞑想や僧侶によって飄然される信心深い言葉に気付き、思い出されて、子、孫の世代の人類の生命を形作ることになります。

日本山妙法寺

1979年のジャヤワルダナ氏3回目の来日時、宮中晩餐会のスピーチにて、前年の1978年にスリーパーダに建立された日本山妙法寺が建設した日本平和塔(Japanese Peace Pagoda)の落慶法要に参加されたことについて言及されています。

日本山妙法寺については、以下の記事を参照ください。

ウナワトゥナやスリーパーダで見られるジャパニーズピースパゴダ(日本山妙法寺)とは?

テレビ放送局開設、文化遺跡保存

1979年9月10日の来日時の協議で、スリジャヤワルダナ総合病院と合わせてテレビ放送局開設、文化遺跡保存についても話し合われたようです。

スリランカ初のテレビ局であるインディペンデント・テレビジョン・ネットワーク(ITN:Independent Television Network)は1979年4月15日に放送を開始しています。

ITNの会長を務められたのが、駐日スリランカ特命全権大使を務められたダンミカ・ガンガーナート・ディサーナーヤカ氏です。

2014年9月、日本とスリランカは137億1,700万円を限度額とする円借款「地上テレビ放送デジタル化計画」に関する書簡の交換を行っています。

テレビ放送局開設、文化遺跡保存について日本がどのように支援をしたのかは調べられていませんが、その後、1982年に世界遺産に登録されたシーギリヤには、日本の支援で博物館が建設されています。

スリランカ航空の日本-スリランカ間の直行便

1984年5月、第4回目の来日でジャヤワルダナ氏は中曽根首相と会談して、以下の述べたと朝日新聞に報道されたようです。
本書から以下、引用します。

「両国の航空協定が結ばれ国営航空エアランカが7月から日本に乗り入れる。すべての国との友好関係のなかでも、インド、中国、日本との友好関係を望んでいる。」

スリランカに訪れる外国人の中で、日本人は10〜12番目に多い国で、特別多い訳でもありませんが、エアランカ(現:スリランカ航空)が直行便を日本に飛ばしている日本との直行便を長年継続しているきっかけはこの時にあるようです。

スリランカへの外国人観光客数については、以下の記事を参照ください。

スリランカでも増える中国人観光客

昭和天皇大喪の礼に参列

1989年1月7日、昭和天皇が亡くなられたとき、ジャヤワルダナ氏は大統領を退任した5日後。
2月24日、ジャヤワルダナ氏はプレマダーサ大統領の代わりに昭和天皇大喪の礼に参列されています。

広島平和記念資料館所蔵のジャヤワルダナ氏のメッセージ

1991年4月23日にジャヤワルダナ氏は夫人とともに広島を訪れ、メッセージを書き残し、広島平和記念資料館に所蔵されているようです。

私は2021年2月に広島平和記念資料館を訪れていますが、見落としてしまったようです。

本書にはジャヤワルダナ氏のメッセージと写真が掲載されています。

愛知県・法光山明通寺のジャヤワルダナ氏顕彰記念碑

2016年10月9日、ジャヤワルダナ氏顕彰碑の除幕式が行われ、駐日スリランカ大使のダンミカ・ガンガーナート・ディサーナーヤカ氏が出席されています。

ディサーナーヤカ氏は日本語が堪能で、日本語の書籍が出版されています。
ディサーナーヤカ氏の目を通した日本とスリランカが記されていて、とても良い文章が収録されています。

群馬県桐生市の献眼者の供養碑

ジャヤワルダナ氏は「角膜の一つはスリランカ人に、もう一つは百瀬氏に」と遺言を残されています。

百瀬氏はスリランカのアイバンク協会の設立に尽力した群馬県の方。

1972年にスリランカのアイバンク運動の先駆者であるハドソン・シルヴァ博士と知り合い、スリランカに度々訪れて、眼科医療の指導やアイバンク運動の推進に協力されたそうです。

日本のテレビ番組などで、ジャヤワルダナ氏の角膜を移植したのは長野県の女性、静岡県の女性などと説明しているものがありますが、本書のおかげで群馬県であることが分かりました。

本書には移植された時の新聞記事(角膜は二人の女性に移植され、それぞれの新聞記事が引用されています)が掲載されています。

群馬県桐生市の梅田山西方寺の境内に、献眼者の供養碑があります。

揮毫は日本スリランカ協会会長の福田康夫氏(元総理大臣)。
建立者は財団法人 臨床眼科研究所 理事長・所長 百瀬皓氏。

1964年東京オリンピックのゼッケン67

1974年〜1976年版の光村版の国語教科書に掲載された「ゼッケン67」。

1964年の東京オリンピックで、1位から3周遅れたゼッケン67のセイロン代表のカルナナンダ選手に関するエピソードが本書で紹介されています。

谷川俊太郎の「一本の鉛筆の向こうに」

光村版の国語の教科書(1992年〜2001年版)に掲載された谷川俊太郎氏の「一本の鉛筆の向こうに」についても本書で取り上げています。

鉛筆の芯になる黒鉛(グラファイト)の産出はスリランカと中国で大半を占め、塊状黒鉛の鉱床が確認されている国は世界でもスリランカだけだそうです。 

黒鉛の採掘場はケーガッラ郊外やクルネーガラ郊外などにあるようです。

コロンボの5つ星ホテル「ゴールフェイスホテル」博物館

皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の1921年3月3日〜9月3日で巡洋艦「香取」で欧州視察を行っています。

香港、シンガポールを訪れた後に、3月28日にコロンボに上陸されています。

ゴールフェイスホテルに宿泊され、翌29日には特別列車でキャンディに向かい仏歯寺をご見学。
31日には海岸までのドライブやゴルフを楽しまれ、4月1日午前9時にコロンボを出港しています。

本書はこの時、皇太子のお世話をする係の一人がジャヤワルダナ少年のおじさんだったと紹介されています。

ゴールフェイスホテルには博物館が併設されており、そこにはゴールフェイスホテルに宿泊・訪れた世界各国の要人・著名人が写真とともに展示されていますが、昭和天皇の写真もそこにあります。

昭和天皇が宿泊された部屋は「キング・エンペラー・スイート」という名がつけられていて、宿泊することが可能です
部屋からはゴールフェイスグリーンが一望できます。

ゴールフェイスホテルについては、こちらのページをご参照ください。

コロンボ老舗ホテル4選!歴史感じるコロニアルホテルをご紹介

スリランカの寺院から寄贈された菩提樹がある千葉県の長福寿寺

本書の著者・野口氏はコスモス奨学金の副代表プロフィールにありますが、コスモス奨学金に寄付をしている千葉県の長福寿寺は、ガンパハのワルダナ寺院のアマラワンサ僧から菩提樹を貰い受けたようです。

柏東ロータリクラブは、コスモス奨学金授与式と共に ワルダナ寺院にて図書室の贈呈式を行っています。

接足作礼、慈悲

本書で子どもたちが僧侶、先生、両親や年長者に対して、膝をついて足に礼をする接足作礼について紹介していますが、スリランカに行かれたことがある方であれば、その様子を見たことがあるでしょう。

また、ジャヤワルダナ氏のサンフランシスコでの演説の英語の”love”を愛ではなく慈悲と訳すべきではないか?と本書で野口氏は記述されています。

この部分は引用ではなく、本書を直接お読みいただくのが良いと思い、引用は控えます。

本書では触れられていませんが、慈悲といえば、スリランカ生まれで日本にて「慈悲の瞑想」、「ヴィパッサナー瞑想」、「テーラワーダ仏教」を普及されているスマナサーラ僧侶がいらっしゃいます。

テーラワーダ仏教協会の雨安居の法要には多くの日本人が集まっていました。
新宿から二駅の幡ヶ谷に寺院がありますので、ご興味にある方は訪れてみてください。

詳しくはこちらの記事をご覧ください。

スリランカ人僧が長老を務める渋谷区の日本テーラワーダ仏教協会での雨安居入り法要

著者・野口芳宣氏とコスモス奨学金

野口氏は青山学院大学教育人間科学部特任教授、共立女子大学非常勤講師で、コスモス奨学金副代表と本書のプロフィールにあります。

ふたば・アーローカヤ基金を作られたのも野口さんのようです。

コスモス奨学金は現在(2021年10月19日)ウェブサイトにアクセスができません。

本書の最後に説明が書かれていますので、こちらに紹介いたします。。

目的:意欲と優れた才能を持ちながら、経済的な理由で勉学に苦労しているスリランカの子どもたちへの教育や生活への支援活動をする。

2006年に鈴木康夫氏と五木田恭子氏が設立。

鈴木康夫氏は本を書かれています。

2017年7月時点で、里子数248(うち卒業生32)。里親数214。
年間12,000円で一名の子どもを1年間支援。
支援内容は、学用品、通学バス代、補習授業費用、制服、傘、靴など。

毎年1月、スリランカの事務局の寺院で奨学金授与式を行う、スタディツアーを実施。
ウィセシャ・シシャーダラ基金、ふたばアーロカヤ基金、ムディタ基金、メッタ基金、ウペクシャ基金、カルナ基金が設立され、食糧支援など、里子たちの様々なケースに対応。

大網ロータリークラブ有志からは食糧支援を、柏東ロータリークラブ有志からは図書室と図書の支援を、君津ロータリークラブ有志からは浄水器の支援をいただいているそうです。

アマラワンサ僧侶の寺院はおそらく、ガンパハ郊外のこちらのお寺だと思います。
キャンディ、ゴール、ポロンナルワ、クルネーガラにも地方センターがあるそうです。

参考)

ウィキペディア:ドン・スティーヴン・セーナーナーヤカ
ウィキペディア:椎尾弁匡
ウィキペディア:世界仏教徒連盟
ウィキペディア:アヌーラ
東京ズーネット:アジアゾウ「アヌーラ」と「アマラ」の同居
ウィキペディア:アヌラ・バンダラナイケ
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ふっつ No.241 1992年5月号
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