『ZEN釈宗演 下 』日本人初の上座仏教徒・釈興然、スリランカのグネラトネ氏
明治時代に世界を回った日本の仏教僧・釈宗演の半生を漫画した『ZEN 釈宗演』の下巻について内容を紹介していきます。
下巻はセイロン(現スリランカ)での滞在について描かれています。
帰路にシャム(タイ)に向かった際のエピソードや帰国後の様子、シカゴ万国会議のことが描かれています。
釈宗演よりも1年早くセイロンに留学し、日本人初の上座部仏教の比丘になった釈興然との出会いも描かれています。
本記事では、漫画で紹介されている人物や関連人物、建物や地名、漫画の主な流れなどを解説していきます。
目次
大燈国師
大燈国師は、鎌倉時代末期の臨済宗の僧で、宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)とも。
京都の大徳寺の開山です。
大徳寺は、一休宗純、沢庵宗彭などを輩出している寺院です。
グランドオリエンタルホテル(GOH)
コロンボ港の前に建つ3つ星のヘリテージホテル。
最初はオランダ領セイロン総督の住宅として1階建てのベランダでした。
Robert Wilmot-Hortonがイギリス領セイロン総督であった1837年にイギリス陸軍の兵舎に改装されています。
Robert Wilmot-Hortonの名は、「ホートン・プレインズ国立公園」、コロンボの通り「ホートン・プレイス」に残っています。
1873年にホテルに改装されています。
1875年に154室を有するホテルとしてオープン。
ホテルの改装を担当したのは、コロンボの国立博物館、ジェネラルホスピタル、旧コロンボ市役所を手掛けたJ. G. Smitherです。
1882年に、フィリピンの国民的英雄「ホセ・リサール」が初の海外留学で国立マドリード大学に向かう際に宿泊しています。
1890年に、ロシアを代表する劇作家「アントン・チェーホフ」がサハリン島に向かう際に宿泊しています。
現在、この二人の名前を冠したスイートルームが1部屋ずつあります。
1966年、ジェフリーバワに依頼して、コロンボ港を見下ろす4階のレストラン「ハーバー・ルーム」を改装しています。
グネラトネ氏
釈宗演はゴールに住むグネラトネ氏に会いに向かいます。
グネラトネ家はオランダ・イギリス統治時代にゴールの行政官「アタパットゥ・ムダリヤ(Atapattu Mudaliyar)を務めた家系で、代々住んだアタパットゥ・ワラッワは重要な歴史的建造物として保存対象になっていますが、現在はブティックホテルとして泊まることができます。
アタパットゥ・ワラッワに関する本も何冊か出ていて、マネージャーさんにヒアリングした際に、日本からは建築関係の方や仏教関係の方が泊まられているとのことでした。
グネラトネ家はシンハラ人の土地所有カーストであるゴイガマでした。
釈宗演が会ったのは、エドモンド・ローランド・グネラトネ(Edmund Rowland Gooneratne)です。
エドモンド・ローランド・グネラトネは、1897年にビクトリア女王のダイヤモンド・ジュビリー・メダルを受領しています。
また、以下のような著名人と交流があったとされています。
スリランカ仏教復興運動のヒッカドゥウェ・スリ・スマンガラ・テラ
パーリ語学者でパーリ聖典協会の創設者であるトーマス・ウィリアム・リス・デイヴィス
インド美術の歴史家、哲学者のアナンダ・クーマラスワミ
神智学協会の創設者の一人で初代会長のヘンリー・スティール・オルコット
英語教育者、パーリ語学生、神智学者のフランク・リー・ウッドワード
など
終点駅カルタラ
漫画では「Kalutara Coach」の標識、ゴールへ行き先を尋ねて回る釈宗演が描かれています。
これは当時はカルタラが終点であったため、馬車でゴールに向かう必要があったからです。
釈興然(グナラタナ)
漫画で、釈宗演はゴールに日本人僧侶「釈興然」がいることに驚きます。
釈興然は、出雲国出身で真言宗の僧でした。
セイロンに渡航し、日本人初の上座部仏教徒となり、ダルマパーラらとともにブッタガヤの再興にも関与しています。
1882年(明治15年)、釈興然は神奈川県橘樹郡城郷村(現・横浜市港北区鳥山町)三会寺の住職となります。
真言宗の釈雲照律師からセイロンでの上座部仏教の研究修行を勧められます。
そこで、釈興然はインドに渡航したことが北畠道龍を訪ねますが不在でした。
続いて、土宜法龍を訪ねると、南条文雄の指示を仰ぐようにアドバイスを受けます。
岩倉使節団に二等書記官として同船している林董は、1882年(明治15年)、ロシア皇帝アクレサンデル3世の戴冠式に列席する有栖川宮熾仁親王に随行し、往路の7月13日にセイロン総督の歓迎を受け、マハームダリヤに会います。
その際、林董がマハームダリヤに日本が仏教国であることを伝えます。
後年、マハームダリヤの甥・グネラトネは林董宛に交流をしたいと手紙を送ります。
林董はグネラトネに南条文雄を紹介する返事を書きます。
こうして、グネラトネとグネラトネが師事するコーダーゴダ・パンニャーセカ、南条文雄・林董との間で、やりとりがなされていきます。
その南条文雄を釈興然は訪ねたのです。
1886年(明治19年)、釈興然はセイロンへ渡航します。
10月11日、コロンボに入港し、総督秘書官マハームダリヤ(Maha Mudaliyar)邸にて、マハームダリヤと面会。
マハームダリヤとは、現地人のトップの役人に当たる役職です。
釈興然はコロンボからゴールにあるグネラトネ邸に向かいます。
コロンボから鉄道に乗り、終点のカルタラ駅に到着。
カルタラからは馬車に乗って、ゴールへ向かいます。
グネラトネに一室に案内してもらっています。
日本から来た僧侶に会いに多くの人が訪れ、その中にはスマナティッサ長老もいました。
スマナティッサ長老は、釈興然に三帰依文と受五戒文を教授しています。
釈興然はグネラトネから紹介されて、コッガラ駅の東隣の駅「カタルワ(Kathaluwa)」があるカタルワの町のアマラプラ派のランウェルレー寺で、比丘のコーダーゴダ・パンニャーセカに受け入れられ、パーリ語、シンハラ語を学びます。
1887年(明治20年)、得度を受けて上座部の沙弥となり、施主グネラトネの名に因んでグナラタ ナ(Gunaratana)の法名を与えられて,以後コーゼン・グナラタナ(興然徳輝)と称します。
4月に釈宗演がランウェルレー寺で共に修学を開始。(つまり、漫画はこの時のことを描いています。)
1888年(明治21年)、釈興然はコロンボの仏教学院「ウィドヨーダヤ・ビリウェナ(現・スリジャヤワルダナプラ大学)」にて、シャム派の指導を受けます。
この年、ドイツ留学から帰国する森鴎外がコロンボで釈興然と会っています。
1889年(明治22年)、神智学協会のヘンリー・オルコット、アナガリーカ・ダルマパーラが来日。
1890年(明治23年)、釈興然はキャンディのマルワッタ大精舎にて、ヒッカドゥウェ・スリ・スマンガラ・テラから具足戒を受けます。
これによって、日本人初の上座部仏教の比丘となります。
マルワッタ大精舎(Malwathu Maha Viharaya)はキャンディ湖の南にあるお寺で、仏歯寺を運営するお寺の一つです。
もう一つの仏歯寺を運営するお寺は、町の北西にあるアスギリ大精舎(Asgiri Maha Vihara Pirivena)です。
1891年(明治24年)、釈興然はインド・マドラス府の神智学協会本部(霊智協会本部)の15周年会に、ダルマパーラ、徳沢智恵蔵らと共にインドに向かいます。
マドラスの後にブッタガヤを訪れると、ブッタガヤはヒンドゥー教シヴァ派の僧院長職マハントが所有していることを知ります。
5月31日、ダルマパーラが呼びかけて、ブッタガヤの再興のため、コロンボで大菩薩協会(Maha Bodhi Society)が結成されます。
初代会長はヒッカドゥウェ・スマンガラ、日本代表は釈雲照と堀内静宇。
ブッタガヤの買取には1万ルピー(約5,000円:現在の価値で3,500万円)が必要で、セイロン、ビルマ、シャム、日本から資金を出すことにし、釈興然は釈雲照と真言宗管長に手紙を出します。
ダルマパーラと釈興然はセイロンに帰国し、そこに釈雲照から金千円(現在の価値で約700万円)を託された阿刀宥乗師が来島し、再びブッタガヤに渡ります。
釈興然と阿刀宥乗師はブッタガヤ、クシナガラ、祇園精舎とまわり、阿刀宥乗師はカルカッタから日本へ、釈興然はカルカッタからセイロンへ戻ります。
1893年(明治26年)8月12日、セイロンで受戒して比丘となっていた日間宥海とともに、セイロンを出発して日本へ向かいます。
ちなみに、1893年に、日本郵船がボンベイ航路を開設しています。
9月に帰国して、翌月の10月、上座部仏教の僧侶養成・戒律の研究・上座部仏教を広めることなどを目的に三会寺内に「釈尊正風会」を設立します。
釈尊正風会は林董が会長となり、高楠順次郎、加藤玄智、田中義成、南条文雄、上田萬年、澤柳政太郎、三上参次、白鳥庫吉などが名を連ねています。
釈興然をセイロンに送った師・釈雲照と釈興然は対立します。
釈興然はパーリ語を鈴木大拙や、日本人で初めてチベットに入国した河口慧海に教えています。
上座部仏教では、5人以上の比丘によって僧団が組織されることによって、はじめて比丘戒を授けることができるとされています。
そのため、釈尊正風会は日本からセイロンに5人以上を比丘戒受戒させることを目標に活動をします。
セイロンに以下のメンバーを送ります。
第一期生:小島戒宝(比丘となるも帰国して真言宗の僧侶となる)
第二期生:鳥家仁度、工藤敬慎(マータラで死去)
第三期生:向山亮雲(環俗して日露戦争に応招)
第四期生:吉松快祐
1907年(明治40年)、シャム国公使ピャナリソンが日本で唯一の上座部仏教の僧侶であることを知り、シャムに招待します。
釈興然は和田慶本沙弥を伴い、シンガポールで比丘になった鳥家仁度・吉松快祐と合流し、4人でシャムに入ります。
1908年(明治41年)、50余体の仏像、シャム文字の三蔵などを日本に持ち帰ります。
それらを橘樹・都築・鎌倉の32の寺院に安置します。
1924年、セイロンで5人の比丘戒受戒の目標を達成する前に、この世を去ります。
釈雲照
幕末から明治の真言宗の僧で、釈興然の叔父。
江戸時代後期に戒律復興運動を行った慈雲の影響を受けたとされています。
土宜法龍が釈雲照を補佐しています。
1881年(明治14年)、僧侶育成機関の総黌(そうこう)を開きます。
この総黌を起源とするのが、種智院大学と洛南高等学校・附属中学校です。
種智院大学の名は、空海が庶民教育や各種学芸の綜合的教育を目的に、京都に設置した私立学校「綜芸種智院」に由来します。
1883年(明治16年)、青木貞三、鳥尾得庵らの経済支援を受けて十善会を発足しています。
1890年(明治23年)、機関紙「十善宝窟」を創刊。
目白新長谷寺に戒律学校を創建。
1872年(明治5年)にヨーロッパに留学した赤松連城から、セイロンで仏僧のスマナティッサに会うことができたという話を聞くも老齢のため、甥の釈興然にセイロン行きを勧めています。
慈雲
江戸時代後期の真言宗の僧侶で雲伝神道の開祖。
戒律を重視し「正法律」(真言律)を提唱。
土宜法龍
近代日本仏教史を代表する仏教学者、高野山学林長、仁和寺門跡(36代)、真言宗御室派管長、真言宗各派連合総裁、高野山真言宗管長などを歴任。
慶應義塾別科に入学し卒業。福澤諭吉の仏教保護方針の下、禅僧の釈宗演と並んで慶應義塾精神界の二大明星とうたわれました。
1893年(明治26年)、シカゴで開催された万国宗教会議に日本代表として、釈宗演(臨済宗円覚寺派管長)、芦津実全(天台宗)、八淵蟠竜(浄土真宗本願寺派)の4名で渡米しています。
島地黙雷と南条文雄は万国宗教会議を欠席したと言われています。
南条文雄
日本の明治・大正期に活躍した仏教学者・宗教家。
1876年(明治9年)、同僚の笠原研寿とともに サンスクリット研究のためイギリスに渡り、オックスフォード大学のマックス・ミューラーのもとでヨーロッパにおける近代的な仏教研究の手法を学び、漢訳仏典の英訳、梵語仏典と漢訳仏典の対校等に従事。
1878年(明治10年)、オックスフォード大学よりマスター・オブ・アーツの称号を授与され、帰国。
1887年(明治20年)、インド・中国の仏教遺跡を探訪。
笠原研寿
南条文雄とともに、オックスフォード大学のマックス・ミューラーのもとで学んだ人物。
帰国途上の1882年(明治15年)10月8日、コロンボに立ち寄り、ヒッカドゥウェ・スリ・スマンガラ・テラと面会。
島地黙雷
西本願寺・大谷光尊からの依頼によって、ヨーロッパへ教状視察に向かっています。
フランスのマルセイユから入り、フランス、イギリス、ドイツ、スイス、イタリア、ギリシャ、パレスチナ、インドを訪れています。
島地大等
島地黙雷の養嗣子。
1902年11月10日〜15日でコロンボに滞在し、ダルマパーラの父親ドン ・カロリス、ヒッカドゥウェ・スリ・スマンガラ・テラと面会。
藤井宣正
第一 次大谷探検隊の実質的なリーダーで、日本人として初めてアジェンター、エローラを調査。
1902年10月20日から26日のインド入国まで、コロンボに滞在して、ドン ・カロリスとヒッカドゥウェ・スリ・スマンガラ・テラに会っています。
イン ド仏教史 『仏教小史』
仏教辞典 『仏教辞林』
の著者としても知られています。
赤松連城
幕末から大正にかけての浄土真宗本願寺派の僧侶。
1872年(明治5年)に宗門・大谷光尊の命で、岩倉使節団に遅れること3ヶ月、島地黙雷とヨーロッパに向けて横浜を出発し、赤松はイギリスに留学しています。
北畠道龍
最初にブッタガヤを訪れた日本人・浄土真宗西本願寺派僧侶。
1881年(明治14年)、横浜を出発。
1883年(明治16年)、イタリアのプリンジーゼ港から英国船モンゴリア号に乗船しムンバイへ上陸。
ブッダガヤからカルカッタへ行き、シンガポールを経由して日本に帰国。
ブッタガヤは荒廃して土砂に埋もれた後に、ヒンドゥー教の聖地となっています。
1876年からブッタガヤで発掘が始まり、1881年に金剛法座が発見されています。
北畠道龍がブッタガヤを訪れたのは、金剛法座が発見された2年後にあたります。
善連法彦
1888 年(明治21)年2月、タイからコロンボへ来て、ダルマパーラと面会。
土岐寂静
1898 (明治31)年6月15日、 土岐寂静は朝倉明宣とともに海外視察を目的とした布教使としてコ ロ ンボに到着しています。
土岐寂静は7月13日に病死し、 ダルマパーラを中心としたグループが葬儀を行っています。
土岐寂静の墓は、コロンボのボレッラ墓地にあります。
アマラプラ・ニカーヤ、シャム・ニカーヤとは?
釈興然、釈宗演が最初に修行した寺院はアマラプラ・ニカーヤでした。
釈興然はその後、シャム・ニカーヤの寺院で修行しています。
このアマラプラ派、シャム派とはなんでしょうか?
ポルトガルによる植民地支配でスリランカの仏教は衰退していたいました。
そこで、オランダ領セイロン時代の後期に、キャンディ王朝のキールティ・スリ・ラージャシンハ王(Kirti Sri Rajasinha)はタイ(シャム)のアユタヤ王朝に依頼して、仏教僧を迎え入れ、受具式を行います。
そうして1753年に設立されたのがシャム派です。
シャム派は上位カーストであるゴイガマ(農民)カーストにしか受具式への参加を認めませんでした。
そこで、非ゴイガマ・カーストの沙弥がミャンマーのコンバウン王朝の首都アマラプラへ行き、受具式を受けます。
アマラプラで受具式を受けた比丘が帰国し、1803年にバラピティヤで受具式を開始。
こうしてできたのがアマラプラ派です。
アマラプラ派の比丘は村に住みます。
ゴイカマ・カーストのアンバガハヴァテー・サラナンカラは当初はシャム派に属していましたが、アマラプラ派に転じます。
さらに、ミャンマーに渡って受具式を受け、1864年に帰国して森林に住む比丘を形成するラーマンニャ派を設立しています。
以上の3つが現代のスリランカ仏教の三大派です。
シャム派:ゴイカマ・カーストに限定(1753年設立)
アマラプラ派:カーストに限定せず村に住む比丘(1803年設立)
ラーマンニャ派:カーストに限定せず森に住む比丘(1864年設立)
釈宗演、法名:パンニャーケートゥを授かる
釈宗演は、師事したコーダーゴダ・パンニャーセカの名前に由来すると思われる、パンニャーケートゥという法名を授かります。
ラゴラ尊者
釈迦の長男で、十大弟子の一人。
正しい修行を為した密行第一と称されます。
釈宗演が感じたスリランカ仏教
釈宗演は、スリランカ仏教の修行はゆるく感じたと漫画で描かれています。
禅行を行わない。
まず、禅の入り口である作務という概念がない。
温暖な気候に恵まれ自生の植物に多くの果実が実るこの地では、わざわざ作物を育てる必要がない。
さらには敬虔な在家者達が食事の世話から寺の維持まで全てをやってくれる。
僧はせいぜいわずかに掃除や洗濯を行うだけ。
日々の労働の中で土や自然に触れその意味を学ぶ作務という修行を行う機会自体がないのだ。
それは環境ゆえ仕方がない決定的なのは、この地の僧侶は定に対する関心が薄いこと。
仏法における三学
戒=戒律
定=禅定・瞑想
慧=知恵
セイロン留学後に上座部仏教を日本で広めようとした釈興然とは対照的です。
禅定とは、心が動揺することがなくなった一定の状態を指します。
釈宗演、シャムに向かう
釈宗演は、シャムで比丘になろうとしますが、雨安居の時期に入っていて、それは成し遂げられませんでした。
漫画で、メナム川と記載されているのは、バンコクやアユタヤを流れる主要河川、現在のチャオプラヤー川のことです。
タイ語で「メーナーム・チャオプラヤー」と言い、メーナームとは川の意味。
「メナム」が川の名前であると外国人が勘違いしたことによる古い呼称がメナム川です。
釈宗演がシャムに訪れたのは、チャクリー王朝第5代・ラーマ5世(チュラーロンコーン)が在位の期間です。
現在の王が第10代・ラーマ10世(ワチラーロンコーン)。
2016年に亡くなったのが第9代・ラーマ9世(プミポン)です。
鈴木大拙
帰国した釈宗演が鈴木大拙と対話する場面が描かれています。
鈴木大拙は、日本の禅文化を海外に広く知らしめた仏教学者で、著書約100冊の内23冊を英文で書いています。
世界に禅をZENとして英語で伝える最初の機会が、釈宗演に伴われて渡米した第一回万国宗教会議でした。
鈴木大拙は、鎌倉円覚寺の今北洪川、釈宗演に参禅して、釈宗演より「大拙」の居士号を受けています。
鈴木大拙は、石川県立専門学校以来の友人である、西田幾多郎、藤岡作太郎と「加賀の三太郎」とも称されています。
また、安宅産業の安宅弥吉は金沢時代の旧友で、「お前は学問をやれ、俺は金儲けをしてお前を食わしてやる」と約束した仲。
鈴木大拙は、チェンナイにある神智学協会の支部にて神智学徒にもなっています。
1941年、鈴木大拙は釈宗演が住職を務めた東慶寺の境内に、釈宗演が発案した「松ヶ岡文庫」を創設します。
賛同者には、明石照男、石井光雄、岩波茂雄、安宅彌吉、小林一三、五島慶太、近藤滋彌、酒井忠正などが名前を連ねています。
松ヶ岡文庫は、鈴木大拙の死後、鈴木大拙の膨大な書籍を管理する財団法人として、東慶寺の住職・井上禅定が管理団体を運営しました。
第一回万国宗教会議
漫画は釈宗演がシカゴ万国博覧会の「第一回万国宗教会議」で挨拶する場面で終わっています。
1893年にシカゴで開催された万国博覧会は、コロンブスがアメリカ大陸に到達して400年をも記念したもので、教育に関する万国会議も開かれ、世界の宗教者を集めた第一回万国宗教会議も開かれました。
第一回万国宗教会議は宗教間対話の嚆矢とされています。
万国宗教会議の委員長を務めたのは、プレスビテリアン教会の牧師「ジョン・バローズ」でした。
19世紀イギリスを代表する宗教学者マックス・ミュラーが献辞を寄せています。
日本、中国、タイ、インド、スリランカ、イラン、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカなどから宗教者が参加しています。
出席者は以下のような面々。
スリランカからアナガリーカ・ダルマパーラ
ヒンドゥー教改革指導者スワミ・ヴィヴェーカーナンダ
Protap Chunder Mozoomdar(ベンガル、ヒンドゥー教改革運動「ブラフモ・サマージ」)
ジャイナ教のウィーラチャンド・ガンディー
ガストン・ボネーモリ(フランス、プロテスタントの歴史家)
メリー・ベーカー・エディ(アメリカ、クリスチャン・サイエンス設立者)
アレクサンダー・ラッセル・ウェッブ(イスラム教徒、アメリカの作家、フィリピン領事)
ウィリアム・クアン・ジャッジ(神智学協会の創設者の一人)
アニー・ベサント(神智学協会第2代会長)
バハーイー教徒
釈宗演(臨済宗円覚寺派管長)
土宜法竜(真言宗高野山派)
芦津実全(天台宗)
八淵蟠竜(浄土真宗本願寺派)
英学者・平井金三
神道・柴田禮一(実行教管長)
日本のキリスト教会・小崎弘道
など
欠席した清沢満之(真宗大谷派)のエッセイが読み上げられています。
千崎如幻
1905年、釈宗演はサンフランシスコに千崎如幻を伴って訪れています。
千崎如幻はアメリカに留まり、アメリカに暮らしながら禅を広げる活動を行なっています。
参照
ウィキペディア「宗峰妙超」
ウィキペディア「大徳寺」
ウィキペディア「一休宗純」
ウィキペディア「沢庵宗彭」
Grand Oriental Hotelオフィシャルホームページ
Wikipedia「Grand Oriental Hotel」
Wikipedia「Robert Wilmot-Horton」
ウィキペディア「ホセ・リサール」
ウィキペディア「アントン・チェーホフ」
Wikipedia「Atapattu Walawwa」
Wikipedia「Edmund Rowland Gooneratne」
ウィキペディア「ダイヤモンド・ジュビリー」
Wikipedia「Queen Victoria Diamond Jubilee Medal」
Wikipedia「Hikkaduwe Sri Sumangala Thera」
Wikipedia「Thomas William Rhys Davids」
ウィキペディア「トーマス・ウィリアム・リス・デイヴィッズ」
ウィキペディア「パーリ聖典協会」
ウィキペディア「ヘンリー・スティール・オルコット」
Wikipedia「Ananda Coomaraswamy」
Wikipedia「F. L. Woodward」
ウィキペディア「釈興然」
日本仏教とセイロン仏教との出会い : 釈興然の留学を中心に
はじめて比丘になった人-釋興然和上顕彰6
[大法輪版] はじめて比丘になった人 釋興然和上顕彰
グナラタナ釈興然の南方僧団移植の事業
ウィキペディア「釈雲照」
ウィキペディア「学校法人綜藝種智院」
ウィキペディア「種智院大学」
ウィキペディア「綜芸種智院」
明治仏教における十善戒の問題
ウィキペディア「慈雲」
Wikipedia「Maha Mudaliyar」
東京大学仏教青年会「第29回 南伝仏教との出会い」
ウィキペディア「スリランカの仏教」
ウィキペディア「コンバウン王朝」
龍谷大学アジア仏教文化研究センター「2012年度 第1回 国内シンポジウム」
ウィキペディア「赤松連城」
ウィキペディア「島地黙雷」
西本願寺の教状視察とイタリア訪問の足跡
ウィキペディア「大谷光尊」
ウィキペディア「藤井宣正」
仏跡巡礼 最初にブッタガヤを訪れた日本人 北畠道龍
ウィキペディア「土宜法龍」
ウィキペディア「南条文雄」
ウィキペディア「十善戒」
三會寺
公益財団法人 大倉精神文化研究所「第166回 港北区内の名僧・学僧 -その1、印融と釈興然-」
明 治 印 度 留 学 生一 その南アジア体験をめぐっ て一
釈尊正風会のひとびと
ソービタ長老釈仁度和上招来の貝多羅葉について 東元慶喜
ウィキペディア「高楠順次郎」
ウィキペディア「フリードリヒ・マックス・ミュラー」
ウィキペディア「有栖川宮熾仁親王」
ウィキペディア「河口慧海」
ウィキペディア「禅定」
ウィキペディア「ラゴラ尊者」
十大弟子(羅睺羅尊者)–四苦–
ウィキペディア「チャオプラヤー川」
ウィキペディア「鈴木大拙」
ウィキペディア「シカゴ万国博覧会 (1893年)」
松ヶ岡文庫
ウィキペディア「松ヶ岡文庫」
1893年シカゴバンコク宗教会議における日本仏教代表 釈宗演の演説
【記録】シンポジウム「シカゴ万国宗教会議と日本仏教界」
シカゴ万国宗教会議120年に思う
ウィキペディア「宗教間対話」
Wikipedia「Parliament of the World’s Religions」
ウィキペディア「千崎如幻」
明 治 印 度 留 学 生一 その南アジア体験をめぐっ て一
コトバンク:笠原研寿
ウィキペディア:島地大等
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「旅と町歩き」を仕事にするためスリランカへ。
地図・語源・歴史・建築・旅が好き。
1982年7月、東京都世田谷区生まれ。
2005年3月、法政大学社会学部社会学科を卒業。
2005年4月、就活支援会社に入社。
2015年6月、新卒採用支援事業部長、国際事業開発部長などを経験して就職支援会社を退社。
2015年7月、公益財団法人にて東南アジア研修を担当。
2016年7月、初めてスリランカに渡航し、会社の登記を開始。
2016年12月、スリランカでの研修受け入れを開始。
2017年2月、スリランカ情報誌「スパイスアップ・スリランカ」創刊。
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2019年11月、日本人宿「スパイスアップ・ゲストハウス」開始。
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途上国でのホームステイは、異文化や温かい人々に出会う一方で、時にインフラや生活環境の違いに驚かされることもあります。今回は、スリランカで5家庭にホームステイした私がホストファミリーとの日々を通じて感じたこと…
2024年11月05日