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新訳・釈宗演『西遊日記』〜明治時代に29歳でセイロン留学した記録〜

2023年2月24日

明治時代に福沢諭吉の慶應義塾で英語を学び、29歳で命懸けのスリランカ留学をした釈宗演による和文、漢文、英文、シンハラ文字を使った日記の現代語訳 新訳・釈宗演『西遊日記』を紹介します。

本書を読むと、福沢諭吉よりも多くのお金を山岡鉄舟や鳥尾小弥太、日本ラグビーの父「田中銀之助」の父親、歌舞伎作家などが支援したことが分かります。

また、当時の横浜港、神戸港、長崎港、香港、シンガポール、セイロンの様子が記述されていて大変興味深いです。香港では三井物産に立ち寄っています。

当時の日本の知識人から見た、中国人、インド人、セイロン人、イギリス人への評価も興味深いです。

釈宗演はスリランカ仏教について、あまり評価をしていないことも本書を読むと分かります。

本書の時代背景と主な登場人物

西遊日記とは?

『西遊日記』は、釈宗演が29歳でスリランカ(当時のセイロン)に3年間在住した際に残した日記です。

日記は上中下の三巻構成で、上巻のみが原型があり、中巻は漢文に書き改められたもの、下巻は所在が分からなくなっています。

当時は漢文が教養人の共通の素養であり、公刊するならば漢文でなければ恥ずかしいという感覚があったようだと、現代語訳をした正木晃さんが記されています。

西遊日記は、釈宗演は晩年に建長寺管長と円覚寺管長を辞任して、東慶寺に引退していますが、日記は東慶寺に保管されています。

東慶寺の井上禅定さんによれば、「和歌は変体のかな、詩は時に草書、行書、後の方には英語が出る、セイロン文字が出るという具合」とあります。

釈宗演が渡航した1887年はヴィクトリア女王即位五十周年に当たり、イギリス植民地各地(寄港地の香港、シンガポール、目的地のセイロンを含む)で祝賀行事が行われていたため、イギリス人と現地人の様子が描写されています。

また、前年の1886年はイギリスによって仏教国コンバウン朝(ビルマ王朝)が滅亡した年でもあります。

日本では明治維新で廃仏毀釈が行り、西洋化と波、西洋列強に対して、危機感を持った釈宗演が、当日の世界最強国家イギリスの植民地であり仏教国のセイロンに滞在した際の日記、と言えそうです。

明治の高僧・釈宗演とは?

釈宗演は明治時代を代表する臨済宗の高僧です。

29歳の時に福沢諭吉、山岡鉄舟、鳥尾小弥太ら政財の大物から資金援助を受けてセイロンのゴール郊外、コッガラのカタルワ村に3年間留学。

34 歳で円覚寺管長に就任し、後に建長寺管長も兼任。後にも先にも両寺の管長を兼任したのは釈宗演のみだそうです。

夏目漱石は釈宗演に参禅し、著作『門』の老師のモデルは釈宗演だそうです。

弟子の鈴木大拙を伴い渡米し、世界に禅を伝えた人物ともされています。

セイロン留学の目的とは?

釈宗演のセイロン留学の目的は、本書を読むだけでは分かりませんが、「セイロン・シャム間の仏教交流と釈宗演の タマユット派比丘出家の蹉跌」 (1889 年 7 月)  には、以下のようにあります。

 宗演が語るところでは,セイロンに渡っ たのは敵本主義に由るものであり,本当の目的地は欧州であった。憧れの欧州に渡航したいのだが, 資力や知識が不十分なので,取り敢えずイギリス植民地のセイロンに渡って英語力を高め,イギリス 人とも交際して,訪欧の準備をすることが,セイロンに来た第一義的目的であった。ところが,セイ ロンに来て見ると,仏教徒は,支配者の英国人に軽蔑されているので,僧衣を着ていては英国人と交 際することもままならない,それにパーリ語の暗誦に時間を取られ英書を読む余裕もない。西洋植民 地下の仏教に厭気がさした宗演は,国王が仏教の庇護者である独立国シャムの「純正仏法」,とりわ けタマユット派で具足戒を受け比丘出家することに方向転換をした

参考)
バンコクにおける日本人商業の起源: 名古屋紳商(野々垣直次郎,長坂多門)のタイ進出  
セイロン・シャム間の仏教交流と釈宗演の タマユット派比丘出家の蹉跌 (1889 年 7 月)  

仏教の中心地でだったゴール

同じく「セイロン・シャム間の仏教交流と釈宗演の タマユット派比丘出家の蹉跌」には、当時のゴールについて、以下の記載しています。

ゴールは,セイロンと海外を結ぶ港であり,ビルマやシャムに行くセイロン僧もビルマやシャムか ら来錫した僧もかならずゴールを経由したので,ゴールはセイロン,ビルマ,シャムの僧の交流セン ターであった。とりわけ 19 世紀半ばから 1870 年代までのゴールはキャンディに代わりセイロン仏 教の中心地であった。ゴール周辺にはアマラプラ(Amarapura)派の拠点があり,寺院の図書館も整 備され仏教熱が高かった。

タイのタマユット派はサンガに腐敗が見られたことからモンクット(ラーマ4世)王が始めた仏教改革で生まれた派閥で、現在タイでは2番目に大きな派閥です。

タイもスリランカも旧派が最大勢力で、旧派に対して改革の動きで新派ができているのが共通しています。

参考)
ウィキペディア:タイの仏教

スリランカでの支援者「エドモンドゥ・ローランドゥ・グナラトネ」

エドモンドゥ・ローランドゥ・グナラトネ(日記ではグネラトネ氏)は、ゴール県のアタパットゥ・ムダリヤール(県を管理する高官)を務め、ヒッカドゥウェ・スリスマンガラ、ヘンリー・オルコットなどのスリランカ仏教再興運動の活動家たちと交流した人物です。

釈興然と釈宗演の支援者であり、二人はエドモンド・ローランド・グナラトネを頼って、ゴールに滞在しています。

ムダリヤールとは、現地人の高官のことで、釈宗演は3つの階級があると日記に書いています。
セイロン全島を統治するイギリス人のガバナーの補佐をするのが最高級のマハー・ムダリヤールです。

イギリス領セイロンは9つの県に分かれていて、各県にイギリス人のエージェントが配置されていました。
エージェントの通訳をしていたのが、2番目に高い位のアタパットゥ・ムダリヤールです。

県下には郡が設置されていて、郡を管理していたのがムダリヤールです。

ウィキペディアによれば、グナラトネ氏はアタパットゥ・ムダリヤールのもう一つ上の階級であるゲート・ムダリヤールになった後に、最高位のマハー・ムダリヤールになったとあります。

グナラトネ氏はゴール県のアタパットゥ・ムダリヤールであり、その屋敷「アタパットゥ・ワラウワ」は現在も保管され、宿泊することができます。(agodaから予約もできます。)

アタパットゥは、行政上で区分された一区画「パットゥワ」由来の言葉だと思います。

参考)
Wikipedia:Edmund Rowland Jayathilake Gooneratne
Wikipedia:Ceylonese Mudaliyars
Wikipedia:Atapattu Walawwa
Atapattu Walawwa公式サイト
Agoda:Atapattu Walawwa

スリランカの窓口「グナラトネ氏の叔父」

ムダリヤールの最高位の職であるマハー・ムダリヤールだった人物です。

有栖川宮 熾仁親王に随行してロシア皇帝アレクサンドル3世の戴冠式に列席した帰国路にコロンボに寄港した林董が、日本も仏教国であることを伝えたのが、マハー・ムダリヤールでした。

オランダ領セイロン時代にマハー・ムダリヤールを務めた、ニコラス・ディアス・アベシンハの子に当たる人だと思われます。

参考)
Wikipedia:Nicholas Dias Abeysinghe

スリランカでの釈宗演の大師匠「 ブラットガマ・スマナティッサ 」

グナワルダナ氏が釈宗演を紹介したのは、アマラプーラ派の僧侶で、スリランカの仏教改革運動を主導した一人、ブラットガマ・スマナティッサと、その弟子です。

ブラットガマ・スマナティッサの父は、イギリス統治下でブラットガマの地方行政官でした。ブラットガマは、その肥沃な土地と高い収入により、キャンディ国王の直轄地でした。

ブラットガマ・スマナティッサはキャンディでシャム派の僧侶として出家するも、ゴイガマ・カーストしか出家できないシャム派に疑問を感じて、ゴールにセイロン初となるダンマスクール「Vijayananda Pirivena」を設立しています。

1862 年 7 月には、タイのモンクット王(ラーマ4世)が寄贈されたイギリス製の印刷機を設置したゴールに作られた 仏教者の印刷所としてはセイロン 2 番目となる仏教関係の印刷所「Lankopakara Press」  を設立。

その後、印刷機はブラットガマ・スマナティッサが設立した寺院「カタルーワ・ウィハーラ」に移されています。

釈興然と釈宗演がともに修行したのが、この「カタルーワ・ウィハーラ」です。

神智学協会のヘンリー・オルコットをスリランカで迎え入れたのが、ブラットガマ・スマナティッサです。

ブラットガマ・スマナティッサは、タイに渡り、タマユット派として再出家しています。

ラーマンニャ派の設立者、アンバガハワット・インドラサバワラ・グナサーミは、ブラットガマ・スマナティッサの弟子です。

参考)
Amazing Lanka:Koggala Kathaluwa Purana Viharaya
Wikipedia:Bulathgama

シャム派の管長「ヒッカドゥウェ・スリスマンガラ」

スリランカ仏教復興運動を代表的な人物で、Vidyodaya Pirivena(スリジャヤワルダナ大学の前身) の設立者。

アナガリーカ・ダルマパーラ

釈宗演はコロンボでH. Don. David(後のアナガリーカ・ダルマパーラ)宅を訪問しています。その隣の建物は、ヘンリー・オルコットの仏教私塾とも記述しています。

アナガリーカ・ダルマパーラは、シンハラ仏教ナショナリズムを代表する人物で来日もしています。

ヘンリー・オルコット

神智学協会の創設者。スリランカ仏教再興運動に大きく関与した人物。

日本の窓口「林董」

林董は江戸時代の幕臣、明治時代の外交官・伯爵。

生まれは下総佐倉藩の蘭方医の家。
江戸幕府の留学生としてイギリスに留学。
榎本武揚に加わって箱館戦争で敗北。
外務省に勤めて、岩倉使節団に加わる。

駅逓局長、内信局長、香川県知事、兵庫県知事、逓信大臣、外務大臣、清の全権特命公使、初代駐英大使などを歴任。

参考)
ウィキペディア:林董

日本の支援者たち

本書に手紙が引用されている人たちは以下の通りです。
・今北洪川:当時の円覚寺管長であり、釈宗演の師。
・山岡鉄舟:幕末の三舟の一人。釈宗演の最大の支援者。
・釈興然(Kozan Gunaratana Unnanse):日本人初の上座部仏教徒で、コロンボのワリガカンダにあるVidyodaya Piriwenaにいた。
・川合清丸:山岡鉄舟の支援のもと、鳥尾小弥太、松平宗武とともに日本国教大道社を設立して、神道・禅・儒学の三道を融合した「日本の国教」を確立しようとした。
・棚橋嘉忠:漢学者、詩人。
・妻木頼矩:江戸末期の旗本、常陸妻木氏8代当主。
・大矢鄧嶺:埼玉の天祥寺住職
など

餞別をした人の一覧が本書に記載されています。多くの名前が列記されていますが、以下にその中から何人かを紹介します。

山岡鉄舟:50円
鳥尾小弥太(長州・奇兵隊、陸軍中将、貴族院議員):25円、指輪
田中菊次郎(実業家、銀行家):20円
川尻宝岑(歌舞伎作者):10円
田中多吉:7円、證券20円
福沢諭吉:5円
妻木頼矩(江戸末期の旗本、常陸妻木氏8代当主):1円、詞章、フランネル
釈雲照(真言密教を国教となす『大日本国教論』を著述した明治前半期の高僧):衣鉢、皆具、書籍
など

参考)
明治・大正・昭和期の実業家、日本ラグビーフットボールの父「田中銀之助」
コトバンク:川尻宝岑 
コトバンク:棚橋松村
ウィキペディア:妻木頼矩

釈宗演の主な旅程

1887年
3月8日:横浜港からドイツ商社の船で出発
3月9日:神戸港に到着
3月12日:午前2時に神戸港を出発
3月13日:長崎港に寄港。停泊時間は5~6時間。
3月17日:15時に香港に到着
3月21日:香港を出発
3月26日:6時にシンガポール港に到着。15時にシンガポール港を出発。
3月31日:22時にコロンボ港に到着。グランドホテルに宿泊。
4月1日:汽車でカルタラへ移動し、馬車に乗ってゴールに移動
4月2日:6時にゴール到着。グネラトネ邸(Atapattu Walawwa)、セリスマナチッサマハッラが創建したKathaluwa Old Temple、釈興然が滞在しているカタルワ寺院を訪問。
4月5日:グネラトネの伯父がコロンボ港から挨拶にくる
4月12日:シンハラタミル正月
5月7日:ウェサック。シャム派の 沙弥として得度受戒
5月18日:ウェリガマのAgrabodhi Raja Maha Viharayaをこうねんと訪問
6月26日:Vidyodaya Pirivena、グネラトネ氏の叔父、コロンボ港の公園と博物館を訪問
6月27日:コロンボのダルマパーラ宅、コロンボ港の印刷局、競馬場を見学
6月28日:コロンボにてビクトリア女王即位50周年式典
6月30日:コロンボ港第二の鉄道停車場(マラダーナ駅?)からキャンディへ鉄道で移動。プッパーラーマ寺(おそらくUdawattakele Sri Rama Viharaya)に宿泊
7月1日:旧王国の大臣家であったギラーガマ氏を訪問、キャンディ湖、旧王宮、仏歯寺を訪問
7月2日:ペーラーデニヤ植物園を訪問し、コロンボのスリスマンガラのお寺に宿泊
7月3日:カルタラ駅でおりてのお寺で昼食、ベンタラ(ベントタ)駅についてお寺に宿泊
7月4日:ゴール郊外マハーモーデラのお寺に宿泊
8月7日:グネラトネ邸内の庵(Simbali Avasaya)で雨安居を開始

1889年
7月10日:バンコクに到着
7月21日:バンコクを出発

参考)
Amazing Lanka:Historic Udawattakele Sri Rama Viharaya in Kandy

タイでの留学が叶わなかった釈宗演

釈宗演はタマユット派出家とパーリ語学習を目的に、般若尊者とグネラトネの紹介状を携えてバンコクに到着しますが、1週間の後に滞在を諦めて帰国しています。

タイで釈興然が歓迎されたのに対して、釈宗演がタイで歓迎されなかったのは、上座部仏教徒の比丘になった釈興然に対して、釈宗演は上座部仏教徒の比丘にならなかったからかもしれません。

ゴール到着までの日記

以降は本書の日記の部分(本編)について紹介していきます。
まずは、留学地となるゴールまでの記述を簡単に紹介します。

横浜港

釈宗演はドイツ商社のアーレンス商会が所轄するウエルデル号で日本を出発します。

日本出発前は、横浜の糸屋仙太郎の家に宿泊。糸屋仙太郎とは、森鴎外の「舞姫」のヒロインのモデルであり、森鴎外のベルリン時代の恋人エリーゼや森鴎外が、エリーゼがドイツに帰国する前に宿泊した宿「糸屋」を経営していた人物。

森鴎外は日本への帰国の途上、コロンボで後から来るエリーゼに小説を言付けてもいます。

参考)
森鴎外と一八八八年秋の横浜─ エリーゼと過ごした糸屋の一夜 ─
森鴎外のドイツの恋人、脚気原因論争、そして遺言について・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2588)】
ドイツ商社の草分けアーレンス商会の末裔、森利子さんの体験した戦中の横浜・山手

神戸港

神戸の栄町にあった西村旅館に泊まり、同宿の人たちと祝杯をあげています。

神戸市中央区の湊川神社を参詣して、広厳寺の住職・鈴木子順を訪ねるも不在。

諏訪山の名勝を探訪。諏訪山公園は明治初頭の開園しているため、釈宗演は開園したばかりの諏訪山公園を訪れたのでしょう。

新神戸駅の北にある布引の滝を見物しています。

参考)
第20回新・地域文化講座「西村旅館物語」 ~神戸の名門旅館から見た神戸の近現代~
ウィキペディア:湊川神社
ウィキペディア:広厳寺
ウィキペディア:諏訪山公園
神戸市公式観光サイトFeel Kobe:布引の滝

長崎港

春徳寺の刹利黙雷を訪ねるも不在。

長崎の花街「丸山」の風景の良いところを車を走らせて、一旗亭で船に乗り合わせた多田氏と酒を飲んでいます。

参考)
ながさき旅ネット:春徳寺(トードス・オス・サントス跡) 
長崎市公式観光サイトtravel nagasaki:~風情を感じるおとな旅~ 花街「丸山」を歩いてみよう

香港

香港の規模の大きさに驚くとともに、アヘン戦争からイギリス人や中国人について考えを書いています。

聞けば、この良港を英国人の手に委ねたのは、かつてのアヘン戦争の時だったという。アヘン商人が、アヘンやアヘンの毒を中国に流したのは、短期間のことではないのである。中国人はこのために、生命を縮め、財産をみな失い、国力を消耗してしまった。実に残酷な話である。こうした惨状を英国人は全然気にしていない。考えても見てほしい。自分の政府が厳禁している物を、他国の政府の人民に強制的に売りつけるなどということは、絶対に許されないことと思うが、英国人は眼中に利益ばかりがあって、義というものがない。欲だけを見て、仁を見ないのだ。そして、中国人もまた、口では仁義を説き、表では忠恕を言うが、本当は仁似て非なる愚恕の類で馬鹿である。なぜ、あのアヘンの害や毒を知っていながら、それを警告しなかっただけでなく、人にも勧め、人々は悪習を伝えて、国家を猛毒の中に沈めてしまったのか。しかし、政府にアヘンの蔓延に対処するための法律がなかったわけではない。すでに、法律はあったのだ。それなのに、アヘンの害を防ぐことができなかった。なぜなのか。中国政府の権力を持ってしては、英国政府に対抗できなかったためである。この点からこう言えるであろう。世界中で優れたものが勝ち、劣った者が破れると言う法則は、偽の仁義や偽の道化(道徳教育)をはるかに超えている、と。ああ!

ビクトリアホテルで洋食を食べて、中国人居留地を歩き、九龍を歩いてます。

三井物産を訪ねています。

三井物産は日清戦争後に中国市場に進出した日本企業の中でも重要な位置を占めたとされています。

香港の第7代総督Arthur Edward Kennedyの名からとられたケネディータウンを訪問。

ビクトリアピークへの鉄道が建設中であることが記されています。

香港において、もっとも早期に開発された地域「跑馬地」に行き、ハッピーバレー競馬場を訪問。ハッピーバレー競馬場は1846年に開設され、ヌワラエリヤ競馬場よりも古い歴史があります。

釈宗演がセイロン留学に向かった1887年はビクトリア女王在位50年のゴールデン・ジュビリーにあたり、香港では公園の新設計画があると記されています。

その後にクイーンズタウン(後のヴィクトリア市、現在の中環)を訪問。

いくつかの詩を読んでいますが、その中で興味深い部分を以下に引用します。

黄色人種は謙虚だが白色人種は傲慢。

反抗心の持ちようがほんの少し違う。

西洋人は孫子の戦術を知らないから驕る心は鼻の高さよりもさらに高い。

参考)
ウィキペディア:跑馬地
ウィキペディア:ハッピーバレー競馬場
HONG KONG TOURSIM BOARD:西洋の世界:堅尼地城(Kennedy Town)

シンガポール港

「まさにアジア貿易の中枢であり、軍事の要衝である。」と書いています。

労働者階級の人種は、現地人はまれで、かえって中国人が多い。まさに、全世界において、脳力の奴隷は欧州人であり、肉体労働の主体は中国人である。あるいは、中国人は経済のために生まれ、欧州人は知識のために死ぬ、といっても良い。

現地人の姿は、全身が真っ黒(黄色もある)で、眉とヒゲが濃く、眼光爛々、鼻の穴は大きく、唇は紫朱(椰子を食べるから)、身体はやや大きい。頭の後ろに髪を結い、頭のてっぺんに櫛をのせている。上半身はシャツを着、腰のあたりはスカートをまとっている(日本の腰巻そっくりである)。頭上に束帽(イスラム教徒の帽子)の者がいると思えば、布を巻いている者もいる。手にブレスレットをしている者もいれば、耳にイヤリングをしている者もいる。靴を履いている者もいれば、裸足の者もいる。身分の上下によって、容貌が異なる。

コロンボ港

グランドホテルに宿泊。
翌朝8時にコロンボの埠頭でゴール行きの汽船を現地人に尋ねるも言葉が通じづ、馬車に乗ってカルタラ行きの汽車を捜します。
12時発のカルタラ行きの汽車を待つ間に食事をします。

カルタラ

馬車会社に行き、ゴール行きの馬車を探します。

ゴール

午前6時にゴールに到着し、人夫を雇ってグネラトネ氏の家へ。
グネラトネ氏に林董の手紙を渡します。
禁酒を決意しています。
カタルワ村にいる釈興然を訪ねています。

スリランカに関する記述

釈宗演はスリランカについては、人々の暮らし、仏教のあり方に関して、あまり良い評価をしていないことが分かります。

スリランカの人々

  • この国の人の体格は、日本人とやや似ている。男女ともに束髪で、男は鼈甲の湾曲した櫛を頭に乗せているが、女は乗せていない。男は一般に頬や口の周りや顎に髭を生やしている。眼光は人を射るがごとく鋭い。そして、全身真っ黒である。衣服は身分の高いものは・・・(途中まで書いてころで中断し、墨で横線を引いて抹消している)
  • この地の人民は、その生活程度がはなはだ低く、しかも食うことに困らないために、一般人民の性質はすべて怠惰に陥り、向上心というものがない。いわゆるその日暮らしの、ぐうたら主義に安生しているようである。

スリランカの仏教寺院

釈宗演はスリランカの仏教寺院について書き記しています。以下に引用します。

  • この国の寺院の伽藍は仏塔(ダガバ)、仏殿(ウィハーレ)、方丈(パンサラ)を正式の構造とする。
  • 仏塔は、錫杖・鉄鉢・三衣の姿を表現している。
  • 塔の基礎は、八角形が通例だ。角ごとに擬宝珠のような小さな塔の形が設けられている。これは八塔の形を模している。塔の前には高く大きな門がある。みな、泥で造られていて、(塔も同じ)彫刻や彩色が施されている。
  • 仏殿は十角形や八角形があり、その規模は一定していない。内陣には坐像の泥仏を安置する。門の外側は、釈尊が悟りを得るまでの八つの段階を、5彩(青・黄・赤・白・黒)で描いてある。
  • 仏を祀るのに、茶や菓子や食物などをささげず、ただ草花と灯燭をささげるのみである。香の類も用いない。しかもこの地の寺院には、我が国のいわゆる檀越というものがない。ありとあらゆる人々が、皆すべて檀信徒なのである。だから、寺には亡くなった人たちの位牌や墓というものもない。従って、これらを供養する年忌の法要というものも全然ない。

スリランカ仏教への批判的視線

釈宗演はスリランカの仏教をあまり評価していません。以下に該当する部分を引用します。

  • 小乗仏教は、仏教の初歩であって、はななだ浅いことは浅い教えではあるけれども、まさか心識が消滅すると説くことはなかろう、とおもっていたが、あにはからんや、その教説が、ここまで次元が低いとは、予想外であった。また、比丘は、心識は死なない、と説くのは、外道の考え方である、という。私は、このお粗末な説に、驚きを禁じえなかった。
  • 現地人が、自分の子弟を捨てて、ことごとく僧侶とし、ことごとく出家させる理由は、信心に由来するというよりも、むしろ安逸に走る結果だ、と考えたほうが、かえって実状に近いようである。言葉を換えれば、一人の生業者が消え、十人が遁世すれば、十人の自活者が消える、といっても、不言ではない。なぜなら、僧侶というものは、ひとたび家を出れば、身を山林に寄せて、心を声色(女色)に関わらせない。その力量はその形以上に評価されるが、その実効となると、その形以下のものでしかない。生活や生産に一切、責任を負わず、逆に、人に供養されるのが仕事であって、いわゆる織らずして衣し、耕さずして食らう、という逸民だからである。
  • この地の出家の在家に対する態度は、はなはだ尊大であって、在家は出家を礼拝するのが常であるが、出家は在家に拝しないのが常である。たとえ、貴人や高官に対してであっても、出家は絶対に挨拶したり合掌したりしない。ただ、「スキターホントー」というひとことをもって、礼拝にこたえるだけだ。しかも、在家の者が、たまたま寺に参詣に来ても、一杯の茶も、一椀の飯も、出すことはない。たいていの場合、三帰五戒を授けるのが常である。したがって、こんなぐあいだから、寺の境内の静謐で無事なことは、じつにもってのんびりしたものだ。わが国の僧たちが、生計に営々とし、世事に奔走し、俗人に媚びへつらい、檀越に気に入られようとしているのとは、話が全く異なる。
  • この地の俗家に病人が出たときは、しばしば比丘を呼んで、昼夜、経を読んでもらったり念誦をしてもらって、四供養(飲食・衣服・湯薬・房舎)を施すことを徳とする。その意は患者の全快を祈るためといってはいるが、あえて生死を僧侶に託すのではなく、ただただ三宝(仏・法・僧)を供養し、その功徳をもって、患者の浄めることが、その極意なのだ。患者の生死は、患者自身の定業である。みだりに祈祷をして、それを避けるみちを、わが正法は選ばないのである。
  • この地の僧は、よく仏教の制度を守り、戒律に忠実ではあるが、禅定ということに関しては、知らないようだ。まったく修行することがない。およそ仏法の修学が、いくら広大だといっても、要するに三
    学を出ることはない。そして、三学は、鼎の三本の足のようなものであって、一つを欠けば、円くならない。しかしながら、この地では、いずれの世からか、いずれの年からか、坐禅観道の一大事を廃棄してしまい、一行三昧の境地を知らないのである。ただただ黄巻赤袖(経典)だけに固執し、念誦や読経のほかは、まったくかえりみない。
  • この地には、6万の僧侶と数千の寺院があるとはいえ、はじめから、本末の関係がない。各寺院が、独立しているみたいな格好であr。僧位のようなものも、わが国や中国のように複雑ではなく、比丘と沙弥の二つの階があるだけだ。しかも、沙弥が二十歳以上になっても、将来、伝道の器として堪えらるだけの見込みと才能がなければ、比丘戒を授けないという。
  • また、この地では、わが国のように、僧侶と檀越を細かく区別しない。たしかに、能教者(僧侶)からみるときは、あらゆる人民は、まとめて一檀越である。被教者(檀越)からみるときは、あらゆる僧侶は、ことごとく一法阿闍梨である。こんな理由で、離檀離末というような、珍事は絶えてないのである。
  • かつ、この地の寺院では、檀越の亡魂を弔うことがない。だから、墓碑を作らない。仏殿の本尊は、釈迦の仏像一体に限る。他の仏は、礼拝しない。まして、菩薩をはじめ、いろいろな天に至るまで、全く礼拝しない。この地の僧侶は、過去七仏の名前を知っているだけで、その他は知らない。また、聞けば、この地の葬式は、はなはだ簡単である。僧侶は、檀家信徒の招きに応じて、おもむくことはあるが、誦む経文は、無常の偈のみである。そのほかの経は、誦さない。
  • しかも、年忌の仏事などは、さらにない。たまたま仏事を催すことがあっても、それは、その人が、そうしたい、と思ったから、催したまでで、一定の規則があるわけではない。この地の人民は、ただただあらゆる僧侶を供養することが、第一の功徳を積むことだ、と信じて止まないのである。

スリランカ仏教の良い点

悪い点に比べて少ないですが、良い点と書かれている部分がありますので、以下に引用します。

  • このセイロンにおいては、いわゆる比丘尼と称する者は、絶えていない。私は、このことを、大いに良い、とおもう。
  • 日雇い人足などは、みな、信者の奉仕活動であり、寺からは、半銭も支払わない。しかし、村民は喜んで働き、土を運び、石を曳き、一挙手一投足ごとに、例の歓喜の声(サードゥ)をあげる。そして、一日の仕事が終われば、寺の僧が、これら労働奉仕の人々に、三帰五戒を授与するのが、通例である。その他は、冷えた茶の一杯といえども、寺の財物を割いて、在家にあたえることはない。このようにして、能所財法(僧は法を施し、俗は財を施す)の二つの施しに関する古来の規範が、明らかになるのである。こうした習俗は、南方仏教の美点といってよい。

解説部分

釈興然と釈宗演が留学したカタルーワ・ウィハーラに幼稚園を寄進された山田智信さんによる解説が本書の最後にあります。

山田さんはスリランカ人のダグラス・ダヤシリさんとのご縁でカタルーワ・ウィハーラに「YST幼稚園」を寄進されたそうです。

ダグラス・ダヤシリさんは1949年生まれで、コロンボ大学を卒業後に、日本政府派遣の研修生として、愛知製鋼所で研修を受けた知日家で、ライオンズクラブのガバナーを務めた篤志家とあります。
ミダヤセラミックのダヤシリさんとご関係がある方かもしれません。
参考)
大野修一・国際協力またのぞき:ササカワトラスト副会長ダヤシリさんのこと

山田さんのジャヤワルダナさんの演説に対する記述

山田さんのジャヤワルダナさんの演説や日露戦争から太平洋戦争に至るまでの記述は、さすがです。以下に引用します。
  • 勿論、こうした演説がセイロン一国の見解にのみ基づくものでなかったことは、改めて指摘するまでもない。まず間違いなく、アメリカの意向を受けていたと思われる。
  • 明治37年から38年の日露戦争に、日本は辛うじて勝利をおさめた。事実は、勝利というようなものではなかった。精々分の良い引き分け程度でしかなく、アメリカの仲介を得て、漸く停戦に持ち込んだというのに、官民あげて大勝利、大勝利と歓呼した。(中略)しかし、このときから、近代日本はおかしくなってゆく。同じ東洋の国々を蔑み、夜郎自大の国、増長慢の国となる。その挙げ句が太平洋戦争の敗北である。

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