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『スリランカと民族 シンハラ・ナショナリズムの形成とマイノリティ集団』

2022年4月24日

スリランカの近現代史を知る上で、非常に参考になる書籍『スリランカと民族 シンハラ・ナショナリズムの形成とマイノリティ集団』を紹介します。

多宗教多民族が平和的に共存していたスリランカは、外圧(イギリス植民地支配)によって、キリスト教と仏教による衝突に発展。

そして、イギリスによって形成された市場を目指してやってきたインド人移民とシンハラ人との間にも衝突が生まれます。

キリスト教、インド・ムーア人、マラヤーリ人、インド・タミル人と、外から来たマイノリティを力で排除していき、ついには古来からスリランカを故郷とするスリランカ・タミル人を攻撃し、内戦に突入します。

異民族異教徒への攻撃を煽動したのは、植民地支配によって上昇した一部の新興エリートと一部の過激な仏教僧でした。

キリスト教への改宗や英語教育によって上昇した新興エリートの一部は、イギリスに取って代わうと、今度は仏教へ改宗。
多数派民族シンハラと多数派宗教仏教を利用したシンハラ仏教ナショナリズムを煽って票を集めて、政治の中枢で力を握ったことが見えてきます。

為政者によって「作られた」民族対立・宗教対立とも言えるでしょう。

本記事では、冒頭に書籍の概要を紹介し、その後は本書で扱われている事柄について、本書からの引用を中心にして、ネットで見られる論文・資料・記事などの情報も加えて、主に時系列・年表にまとめました。

重要な記述についても、引用しています。

アナガリーカ・ダルマパーラについては、著書の川島さんが共著を出されている杉本良男の論文を特に参考にしました。

本記事はあくまで一部をピックアップしたものです。
本書を通読いただき、不明点をご自分で調べていただくことで、理解は深まることと思います。

目次

本書の概要

著者:川島 耕司さん

著者は国士舘大学の教授である川島耕司さんです。

本サイトでは、上記の書籍のうち2つをすでに紹介しています。

『スリランカ政治とカースト – N. Q. ダヤスとその時…

『スリランカを知るための58章』(エリアスタディーズ117)杉本良男・…

参考)
国士舘大学:川島耕司

目次

本書は以下の7章で構成されています。
私は本書を読むまで「反マラヤーリ人運動」を知りませんでしたが、川島さんがスリランカと出会ったのは、ケーララ州コチにある公文書館で、「セイロンにおけるマラヤーリ人と反マラヤーリ人運動に関する報告書」を手にしたときだったそうです。

はじめに
第1章 仏教復興運動とシンハラ・ナショナリズム
第2章 反ムーア人暴動とシンハラ・ナショナリズムの展開
第3章 反マラヤーリ人運動とその背景
第4章 スリランカにおけるインド人移民と植民地政策
第5章 植民地下におけるプランテーションとインド人移民
第6章 独立後スリランカにおけるインド・タミル人と政治
第7章 独立後スリランカにおける民族問題
おわりに

シンハラナショナリズムと政治的手法

本書の副題になっている「シンハラナショナリズム」について、「おわりに」で以下のように書かれています。

ロシアのウクライナ侵攻にも参考になるところがあるように思います。

  • シンハラ人の偏見と恐怖に訴え、自らへの支持を取りつけようとする政治的手法は、1930年代にほぼ確立し、それがそれ以降のスリランカ政治の一つの型となった。
  • タミル人はスリランカ国内では総人口の約18%を占めるにすぎないが、もしインド国内のタミル人を含めるならば、シンハラ人の方が逆に圧倒的な少数派となる。シンハラ人が「マイノリティ・コンプレックスをもつマジョリティ」だと言われる原因の一つにはそうした人口比の問題がある。
  • 自集団が他者から脅威を受けているという認識が集団の凝集力、あるいは集団へのアイデンティティを著しく高めることは明らかであろう。特にそれが消滅の危機であると思わせるほどのものであれば、その効果は一段と高まるであろう。実際、この「消滅の恐怖」は、スリランカだけでなく多くの民族紛争の場、フィジー、マレーシア、パンジャーブ、シンド、あるいはバスクなどにおいて深刻な対立と暴力に多くの人々を動員した主張であった。
  • これはまた、「包囲の心理」と呼ばれるものと近い心理であると言えるかもしれない。これは「自分が常に攻撃にさらされていると感じる精神状態」を指し、北アイルランドのユニオニストや、イスラエルのユダヤ人に典型的に現れるものだとされる。
  • この心理においては、世界は、不正を行い、自集団を傷つけようとする意図をもったものとして認識される。その結果、生き残るためにはあらゆる手段を使うべきだと考えられる。また、いかなる変化、妥協も自らを脅かすものとして受け取られ、保証を切実に要求する一方で、抑圧者としての認識が弱いとされる。
  • シンハラ・ナショナリズムを支え、展開させた重要な要素は、一つは西洋、あるいはキリスト教の脅威であり、もう一つはインドからの脅威であった。こうして、オルコットは「仏教の消滅」について語り、ダルマパーラはあらゆる非シンハラ的なものを批判し、バンダーラナーヤカは「タミル人による支配」への恐怖を煽り、JVPは「インドによる植民地化」を訴えた。

植民地時代のキリスト教

ポルトガル時代

非キリスト教徒への迫害、強制改宗、宗教施設の破壊が大規模に行われ、逆にカトリックへの改宗者には法的な優遇措置が取られた。こうした状況の中で、スリランカの支配層やエリート層の多くは従来の地位の保全のため、あるいはより高い地位の獲得を求めて改宗した。また、より下層の者たちにとっても改宗は地位向上の手段となりえた。

オランダ時代

オランダ人たちはカルヴィニズムを熱心に布教しようとした。この宗派への改宗者でなかれば官職に就けないという政策なども取られたが、この信仰の形跡は、オランダ語と同様に、スリランカにはほとんど残りなかった。

イギリス時代のプロテスタントミッション

イギリスのプロテスタントミッションは次々にスリランカで伝道活動を開始し、印刷所、学校を設立。

  • 1805年:ロンドン宣教会が伝道開始
  • 1812年:バプティスト宣教会が伝道開始
  • 1814年:ウェスリー派メソジスト宣教会が伝道開始
  • 1818年:イングランド国教会宣教会が伝道開始

イギリスのミッションスクールが影響を持っていくことが説明されていく中で、興味深い記述がありました。

仏教僧は少女たちに教えることができなかったので、女性は教育を受けることができなかった。

ミッションは、他の多くの非ヨーロッパ地域で採用された公開討論を行います。

公開討論で、宣教師たちはいわゆる「異教徒」たちの「矛盾」を指摘し、逆にそうした「矛盾」への解答を持っていることを示すことで信者を獲得しようとした。

仏教再興運動

プロテスタントのミッションが行う公開討論、印刷物の配布、学校の設立という手法を仏教側が真似て、キリスト教に対抗していきます。

  • 1855年、仏教徒たちがコロンボ、ついでゴールに印刷所を創設して反キリスト教的印刷物を配布
  • 1865年2月、ゴール付近のバッデガマで公開討論を実施。
  • 1865年8月、コロンボ付近のワラゴダで公開討論を実施。
  • 1866年2月、ウダンウィタで公開討論を実施。
  • 1871年、ガンポラで公開討論を実施。
  • 1873年4月、パーナドゥラで公開討論を実施。
  • 1873年、コロンボに仏教カレッジが設立。アナガリーカ・ダルマパーラの父で実業家のドン・カローリス・へーワーウィターラナの財政援助の下にヒッカドゥエ・スリー・サマンガラが設立したものと考えられる。

神智協会

1875年、ブラヴァツキーとオルコットらによってニューヨークに神智協会が設立されます。

  • この団体は特にその初期において明確な反キリスト教的な態度をとった。例えば、オルコットは設立大会において、キリスト教を偽りの宗教であると断じ、キリスト教との戦いを聴衆に訴えた。
  • 神智とは、その名の通り聖なる知恵を意味する。特に17世紀に一般的になったものであるが、オカルト的、あるいは神秘主義的なものを探求しようとする試みの中で使われた言葉。
  • 創立後にはアジアの諸宗教、特にヒンドゥー教と仏教に目を向け始めた。

創設者の一人:オルコット

川島さんは本書で、オルコットは実務家として優秀であったと書かれています。

以下、オルコットと神智協会の略歴をまとめました。

  • 24歳でモロコシ類の書物を著して、かなり売れて第7版まで出る。
  • 陸軍での契約業者の汚職捜査の仕事の成果から陸軍大佐の地位を与えられる。
  • 1868年にニューヨークの法曹界の一員になり弁護士として活動し、保険会社の取締役を務める。
  • 1875年、ブラヴァツキーとオルコットらによってニューヨークに神智協会が設立。
  • 1877年、ブラヴァツキーが『ヴェールを剥がれたイシス』を発行。
  • 1878年、会員のチャールズ・マシィが帰国してロンドン支部を設立
  • 1879年、ヒンドゥー教改革団体「アーリヤ・サマージュ」との提携を決め、オルコットとブラヴァツキーらがボンベイへ
  • 1879年、雑誌『神智学徒』を出版
  • 1880年、セイロンにオルコットとブラヴァツキーらが到着、仏教神智協会を設立
  • 1881年、オルコットが『仏教問答集』を発行
  • 1882年、マドラス(現チェンナイ)南郊に神智協会本部を設立
  • 1884年、仏教守護会、仏教徒防衛委員会を設立、リードビーターが神智協会に参画
  • 1885年、オルコットが提案したウェサックの休日化と仏旗の制定が実現
  • 1886年、ペター仏教徒英語学校(後のアーナンダカレッジ)を設立し、リードビーターが初代校長に
  • 1902年、ルドルフ・シュタイナーがドイツ支部を設立
  • 1913年、シュタイナーが分離独立し、人智学協会を設立
  • オルコットはスリランカで7つの在家信者の支部と1つの仏教僧の支部を設立。
  • 仏教徒学校設立の資金集めで回った際に連れた通訳の一人が後のアナガリーカ・ダルマパーラと名乗るドン・ディヴィッド・ヘーワーィターラナ。
  • オルコットが到着時の1880年に政府の助成金が得られた仏教徒学校が4校、生徒数246人だったのが、1990年には142校、生徒数18,700人に増加。
  • 1888年までにインド国内の支部が127に

参考)
ウィキペディア:神智学協会
ウィキペディア:神智学
ウィキペディア:アーリヤ・サマージ
ウィキペディア:チャールズ・W・レッドビーター
ウィキペディア:ルドルフ・シュタイナー
ウィキペディア:人智学
ウィキペディア:仏旗

アナガリーカ・ダルマパーラとプロテスタント仏教

アナガリーカ・ダルマパーラとは?

アナガリーカ・ダルマパーラは、神智協会に入り、シンハラ仏教ナショナリズムのアイコンとして活躍した人物です。
大菩提戒(マハボディソサエティ)を設立して、ブッタガヤの再興運動でも知られています。
明治の日本に渡航し、日本を褒めたと言われ、日本礼賛者が好んで取り上げる人物でもあります。
釈宗演が出席したシカゴ万国宗教会議で、南伝仏教の代表者として出席しています。
1915年の反ムーア人暴動でセイロンを追放されてからは、インドに本拠を移し,ブッタガヤの奪回を活動の中心としています。

プロテスタント仏教とは?

以下の2点が特徴として挙げられています。
1)英国植民地支配に「プロテスト」するためのシンハラ仏教ナショナリズム
2)マックス・ウェーバーのいう在家信者を主体とするプロテスタント的な現世内禁欲主義

論文『四海同胞から民族主義へ : アナガーリカ・ダルマパーラの流転の生涯』には、以下のように書かれています。

  • 近世以前の仏教改革があくまでも出家僧侶集団である僧伽の改革であったのに対して,ダルマパーラの改革は在家信者を含む仏教徒全体に及ぶものだった。
  • ダルマパーラの仏教史における革命的な意義は,なによりも出家せずに法名を名乗ったところに集約される。ダルマパーラは民族主義的な立場からの「伝統」の再評価と,上座仏教の大原則である出家主義を批判し,信者主体の仏教の民衆化ないし近代化をはかろうとした。そのため,自身出家・剃髪をせずに僧侶を名乗り,「有髪の黄衣着用者」になったが,これは伝統的な出家僧侶と在家信者との絶対的な区別を廃絶する意味を持っていた(Brekke 2002: 84)。

仏教再興運動の資金援助者だった父と祖父

母方の祖父アンディリス・ペレラ・ダルマグナワルダナは、マーリガカンダ(現:マラダーナ)に広大な土地と,ペターに2軒の店をもつビジネスマンであり、ヒッカドゥウェ・シュリ・スマンガラ・テラに土地を提供して、後にスリジャヤワルダナ大学となるウィデョーダナ仏教学校の設立を支援した仏教再興運動の先駆者です。

祖父アンディリスは、母が父に嫁ぐ際の持参金として、ペターで経営していた家具店を持たせ、それが後に父ドン・カローリス・へーワーウィターラナが創業した家具会社「H Don Carolis & Sons」です。

H Don Carolis & Sonsは現在もコロンボに続く家具店で、1886年にスリランカとして初めてオーストラリアに家具を輸出し、1895年に南アフリカに家具を輸出するためのインジケートをロンドンに立ち上げています。

デイヴィットはオルコットに出会って、1884年に神智協会の会員となり、アナガリーカ・ダルマパーラと名乗るようになり、シンハラ仏教ナショナリズムの活動をしていきます。

ダルマパーラの民族主義的な姿勢

  • 「シンハラ人はアーリア人」であり、「優越した人種」に属しているのであり、「シンハラ人の芸術は・・・いかなる形においても
  • ギリシアやペルシアといった外来の影響に汚染されていない」ものであった。
  • スリランカは「輝く美しい島」なのであるが、それはシンハラ人の手によって作り上げられたのであった。そして、この優れたシンハラ人の文化や社会を貶めているのは、外国人、あるいは「外国人的」とされるあらゆるものであった。
  • 実際、ダルマパーラの敵意は非シンハラ人全てに向かったように見える。それは、例えば「キリスト教やイスラーム教の宣教師」であり、あるいは「イギリス人によって連れて来られた南インドのアウトカースト」であり、ムーア人たち、マラヤーリ人たち、タミル人たち、そしてバーガーたちであった。
  • さらにまた、彼の敵意はイギリス人が持ち込んだ酒類、あるいは「下劣で卑しい白人」であるイギリス人そのものにも向けられた。

ダルマパーラに関する年表

  • 1860年、父ドン・カローリス・へーワーウィターラナが家具会社「H Don Carolis & Sons」 を創業。
  • 1864年、ドン・デイヴィット・へーワーウィターラナ(後のアナガリーカ・ダルマパーラ)が誕生。
  • 1873年、祖父アンディリスの支援でウィディヨーダヤ・ピリウェナが設立。
  • 1880年、初めてセイロンを訪れたオルコットとブラヴァツキーに祖父アンディリスが僧院宿舎を寄進
  • 1883 年、祖父アンディリスが仏教神智協会の会長となる。
  • 1884年、神智協会の会員となる。オルコットが仏教守護会が設立。
  • 1884年、オルコットとブラヴァツキーとともにマドラスに渡る
  • 1885年、アナガリーカ・ダルマパーラと名乗るようになる
  • 1886年、H Don Carolis & Sonsはスリランカではオーストラリアに家具を輸出。
  • 1889年、オルコットに随伴して大日本帝国憲法が発布された日本を初訪問
  • 1890年、釈興然とブッタガヤを訪問、帰国後にブッダガヤ大菩提会を設立
  • 1891年、オルコットとともにブッダガヤを訪問、大菩提戒(マハボディソサエティ)を設立
  • 1893年、シカゴ万国宗教会議からの帰国途上、2度目の来日で東京都港区の青松寺、京都の知恩院などを訪問
  • 1902年、アメリカへ向かう途上、日英同盟が結ばれた日本に3度目の訪問
  • 1902-1904年、アメリカに滞在
  • 1906年、『シンハラ仏教徒Sinhala Bauddhaya』誌を創刊
  • 1915年、暴動で逮捕され、セイロンを追放されカルカッタで監視される
  • 1922年、セイロンへの帰還を許される
  • 1925年、座骨神経痛の治療のためにスイスで入院
  • 1927年、セイロンに帰国
  • 1931年、カルカッタのシャーンティ・ニケータやサールナートを訪問
  • 1933年、サールナートで出家

参考)
みんぱくリポジトリ:四海同胞から民族主義へ : アナガーリカ・ダルマパーラの流転の生涯
アナガーリカ ・ ダルマパーラと日本
Wikipedia:Andiris Perera Dharmagunawardhana
Wikipedia:Vidyodaya Pirivena
Wikipedia:University of Sri Jayewardenepura
Wikipedia:Don Carolis Hewavitharana
Wikipedia:Edmund Hewavitarne
Wikipedia:Charles Alwis Hewavitharana

キリスト教徒と仏教徒の衝突

主な衝突

仏教徒が意図的に教会の前で騒音を立てて騒動となることが1880年代から増えます。

  • 1883年、コロンボの聖ルシア大聖堂でイースターを妨害する仏教徒をキリスト教徒が攻撃
  • 1889年、アルトゥガマ教会、マッゴナ教会、カルタラの聖十字架教会で衝突
  • 1903年、アヌラーダプラで政庁関係施設、食肉市場、教会、学校が破壊

近年の事例では、2003年12月24日~2004年2月2日の1ヶ月余りの間に56の教会が襲撃されたと報告されています。

禁酒運動

  • セーナナーヤカ一族はチラウ協会において中心的な役割を担っていたとされる。
  • 1882年に設立されたセイロン農業協会を前身とするセイロン国民協会
  • 低地産品協会、チラウ協会、ジャフナ協会
  • 1904年に禁酒協会が作られた。当日のスリランカの成人男子人口の1/5に当たる20万人が会員として参加。
  • 1912年に酒税法改正に対する抗議から始まった禁酒運動
  • 1912年に結成されたコロンボ完全禁酒中央連合は、F. R. セーナーナーヤカ(D. S. セーナーナーヤカの兄)やエドモンド・へーワーウィターラナ(ダルマパーラの弟)が創設メンバー。
  • セーナーナーヤカ一族は、地方の禁酒団体で最大規模のハピティガム・コラレ連合の財政支援者であり、指導者であった。

禁酒運動は,スリランカにおける酒の製造販売がおもに西・南西海岸部のカラーワ・カースト=キリスト教徒(ローマン・カトリック)がほぼ独占していたというところから始まる(U.C.H.C.3: 259)。

1911 年から14 年の第2段階では,民族主義と連動しはじめる。カラーワ・キリスト教徒は酒の製造販売を握るとともに政治的影響力を持つようになり,これが仏教徒の反感をかったのである。

キリスト教の優位

1920年の選挙では、候補者の90%が(総人口の約一割に過ぎない)キリスト教徒であったとも言われる。1920年代後半においても立法評議会ではキリスト教徒の議員は67%を占めていた。

ソロモン・バンダーラナーヤカ

S. W. R. D. バンダーラナーヤカの仏教への改宗が、こうした1930年代の激しい反キリスト教運動の最中に起こったことは、ある意味では自然なことであった。彼は、バンダーラナーヤカ=オベーセーカラという貴族的な家系に生まれた。この一族は世襲的なムダリヤールという役職を務めていたが、なかでもバンダーラナーヤカの父と祖父はマハ・ムダリヤールという最高位の役職を占めた。ムダリヤールとは植民地権力を補佐するセイロン人支配者の役職名であり、その支配の末端は各村落のヘッドマン層に至るものである。この一族の植民地権力との密接な関係を可能にした要因の一つは彼らがキリスト教に改宗していたことであり、バンダーラナーヤカがキリスト教徒として生まれたのはそのためである。彼が「なぜ私は仏教を奉ずるか」という講演を行い、仏教への改宗を公言したのは1934年のことであった。

政治的比丘

1930年代後半からは、それまで政治的な活動を控えていた仏教僧たちが再び活発に活動し始めた。これはいわゆる「政治的比丘」と呼ばれる人々である。

ミッションスクールの摂取

1956年のバンダラーナーヤカの勝利を受けて、1960年にミッションスクールが摂取される。

イギリスの移民政策

イギリスの帝国的利害に従った移民政策は、明らかに偏狭なナショナリズムの展開を支えた重要な要素であった。

1)帝国内での自由な労働力の移動が自らの経済的権益にとってきわめて重要なものだとイギリス人たちが考えた
2)ある程度の民族的な対立は、調停者としての彼らの役割を増大させ、その存在理由をより確固たるものにしうるという計算
3)民族的に分裂させることで民衆の不満が支配層へ向かうのを阻止するといういわゆる分割統治的発想

植民地期に形成されたエリート層の政治戦略

シンハラ・ナショナリズム、あるいは仏教復興運動のイデオロギーによれば、様々な問題の根元には、仏教的な文化やシンハラ人的な生活様式の衰退があり、その原因は「外国人」の活動、あるいはそうした外国人的で非シンハラ的、非仏教的な文化の流入にあるのであった。

エリートたちは階級的な問題を、民族的な、あるいは宗教的な問題に転化することで、民衆の不満が自らに向かうことを回避し、逆にそれを自らの勢力拡大に利用することができたのである。こうしたなかでエリートたちが最初に関与したのが仏教復興運動であった。

反インド・ムーア人暴動

反インド・ムーア人暴動のピークは、イギリスがキャンディ王国を滅ぼして結んだ条約締結から100 年後に当たる1915 年。

1915 年4 月にキャンディ条約締結100 周年を記念して「ナショナル・デーNationalDay」の祝賀行事が全国各地で行われ,シンハラ仏教徒の不興をかった。しかしその矛先は,経済的に支配力を持っており,また騒音に対しても制限を要求していたムスリムにむけられた。そこで禁酒運動の指導者が真っ先に疑いをかけられ,穏健派・急進派を問わず逮捕された(de Silva, K. M. 1981: 378–385; Bond 1988: 62–63)

インド・ムーアとは?

本書では以下のように説明されています。

  • スリランカのムスリムは、少数の北インド出身者を除けば、マレー人、セイロン・ムーア人、インド・ムーア人の3つに大別できる。
  • マレー人と呼ばれる人々は、オランダ人によってジャワから兵員として連れてこられた人々の子孫、あるいは海外流刑されたジャワの王族の末裔であると考えられている。その多くがイギリス支配下でも軍隊や警察で働いた。
  • セイロン・ムーア人とは、10世紀頃から15世紀頃にかけて活発にインド洋交易を行っていたアラブ人の末裔と考えられる人々である。商業に従事する者が多く、その居住地はセイロン島全域に及んでいた。ムーア人と呼ばれる人々の約9割はこのセイロン・ムーア人であった。
  • インド・ムーア人はコースト・ムーアとも呼ばれ、その大多数はインドから、特に今日のタミル・ナードゥ州南部のカヤルパトナム周辺から渡ってきた人々であるとされている。1921年の出生地調査によれば、セイロン・ムーア人の99.9%はセイロン生まれであったが、インド・ムーア人の場合、その割合は19.6%と極端に少なかった。インド・ムーア人たちのほとんどは単身者であり、インドから妻子を連れて来ることはほとんどなかった。
  • セイロン・ムーア人およびインド・ムーア人の主要な職業はどちらも商業であった。彼らの多くはスリランカ各地の町や村に移り住み、通常ブティックと呼ばれる雑貨店を経営し、衣類や金物などを売るほか、金貸し業なども行っていた。

このムスリムは南西インド,マラバール海岸からスリランカ西海岸部に移住してきた「海岸ムーアCoast Moors」とよばれる人びとであった。海岸ムーアは手広く海上交易を行い,シンハラ仏教徒は直接間接にその経済的支配を受けて反感をいだいていた。そのためタンバイヤーはこの騒乱を当時の中間層がビジネスのライバルを蹴落とそうとして始められたものだと述べている(Tambiah 1992: 7–8)。

暴動の背景

  • シンハラ人とムーア人たちとの関係を決定的に悪化させ、反ムーア人暴動へと導いた直接の原因は、宗教儀礼をめぐる争いであった。ムーア人たちは彼らの礼拝の場であるモスクの前を、音楽演奏を伴った仏教徒たちの行進が通り過ぎることに次第に抗議するようになった。
  • 旧キャンディ王国の一部では20世紀初頭にすらムーア人たちが音楽を鳴らしながら行進することもがあったと言われている。また、日常生活においてもシンハラ人とムーア人が隣り合わせて生活していることも多く、ムーア人のヘッドマンが仏教徒の村民を代表することもあったのであり、ほとんどの時期において両者は平和的に共存していた。
  • しかし、イスラーム復興主義的な思想がインド経由でスリランカに移入されるにつれ、ムーア人の儀礼から音楽が追放されるようになった。そして、その影響はインドからの移民が多いインド・ムーア人たちの間で特に強かった。

セイロンではイスラム復興運動が起こり、音楽を放棄したワッハーブ派に基づく超保守派の影響を受けた、独特のイスラム教徒のアイデンティティが形成された[12]。

イギリス植民地政府は、法律を成文化し、生活のあらゆる側面を統制するために、多くの立法や行政措置を制定した。そのひとつが1865年第16号警察令第96条に定められた騒音礼拝の規制で、政府が発行する許可なく町内でいつでもトムトム・ドラムを叩くことを禁じ、罰金または3ヶ月以下の懲役を科した。1898年の地方委員会条例第13号は、これらの規制をセイロン全土に拡大し、農村部を含むようにした。

暴動のきっかけ

1915年の暴動のきっかけはガンポラ・ペラヘラ訴訟。

1907年にガンポラでモスクが建てられ、仏教徒たちはモスクの前で音楽を休止することなくペラヘラを行う許可を植民地政庁に求めた。

植民地政庁が許可を出さなかったことを受けて、仏教徒が訴訟を起こす。

1914年の地方裁判所では仏教徒に有利な結果だったものの、1915年の最高法院の判決は植民地政庁の判断を支持。

1915年5月28日、ウェサックポーヤの深夜にキャンディで、仏教徒がモスクを襲撃したこと暴動に発展し、6月2日までに116の地点で暴動が発生し、戒厳令が出され、6月6日に鎮圧。

マレー人、セイロン・ムーア人は攻撃対象にならなかった。

セイロン・タミル人の政治家サー・ポンナンバラム・ラーマナーダンが暴動後に、シンハラ人擁護のために活躍。

マイケル・ロバーツが主張しているように、シンハラ人暴徒たちはムーア人たちを攻撃することで、イギリス人たちに抗議していたのであり、それは「政治的行為であり、イギリス支配への告発」であったのだと言えるかもしれない。

多くの地域では、禁酒運動を契機に多数作られた各地のサマーガマがこの暴動において大きな役割を果たしていた。

地方のサマーガマを支えた人々の多くは、伝統的な支配構造に異議申し立てをしようとするシンハラ語の教育を受けた新興のエリートたちであった。また、従来のゴイガマ・カーストによる支配を変えようとする動きも多く存在した。

1915年の暴動はイギリスの植民地当局にも向けられたものであったため、イギリス植民地当局は強硬に対応。

イギリス植民地政府は、F・R・セナナヤケ、D・S・セナナヤケ、アナガリカ・ダルマパラ、Dr C A Hewavitarn、Edmund Hewavitharana などを逮捕。

ダルマパーラは、報道界の雄D.R.ウィジェワルダナのレイクハウス・グループによる報道キャンペーンによって国外に追いやられた。

3つの噂

インド・ムーア人への暴動の際して、以下の3つの噂があったとされています。
1)ムーア人からの襲撃
2)イギリス政府の是認
3)イギリス支配の終焉

  • 暴動における噂はその後の暴力行為を正当化し、「普通ならば行わないことに普通の人々を動員する」うえで、きわめて重要な役割を果たす。
  • 民衆の暴動に関するいくつかの研究は、こうした暴動は通常ある種の狂乱状態の中で行われるのではなく、高い計算と合理性の上で行われることを指摘している。
  • 暴徒たちは多くの場合極めて冷静であり、通常は特定の集団を標的として明確に設定するだけでなく、実際の襲撃の際には標的の確認には極めて慎重である。暴徒たちは自集団の成員のみでなく、第三の集団への襲撃をも回避しようとする。それゆえ特定の人物が襲撃対象であるか否かが不確かである場合は襲撃が回避される場合が多く、間違って襲撃されることは少ない。これは多方面に戦線を開くことで暴動の資源が分散するのを防ごうとするメカニズムが働くからである。つまり多様な集団への怒りを同時に喚起するよりも、単一の集団への反感に焦点を合わせる方が、民衆を扇動し、暴動へと勧導すると言う目的のためには効果的であるからだとされている。
  • 反イスラム教徒運動の次に起こるのが、反マラヤーリ人運動です。

参考)
Wikipedia:Sri Lankan independence movement
Wikipedia:1915 Sinhalese-Muslim riots

反マラヤーリ人運動

反マラヤーリ人運動とは?

反マラヤーリ人運動とは、インドのケーララ州から渡ってきた、マラヤーリ人への排斥運動のことです。
1930〜1936年に反マラヤーリ人運動が活発になります。
ピークは、1939年に移民追放策として形になります。

反マラヤーリ人運動の背景

  • 1910〜1920年にインドからスリランカへの移民は、プランテーションに約87万人、都市部などへ約72万人。
  • 1884年には、大規模な防波堤が完成し、コロンボ港はインド洋における重要な給炭港となった。また、1880年代以降、茶、ゴム、ココナッツなどの農産物の輸出経済が繁栄し、寄港船の数も急速に増加した。19世紀末からは東アジアやオーストラリア行きの船舶のほとんど全てはコロンボに寄港するようになった。
  • コロンボは中継港としての機能ももち、荷物の積み下ろし、石炭、石油の積み込みなどに多数の労働者を必要とした。こうして1912年までにこの港は「大英帝国で3番目、世界では7番目の港」と呼ばれるほどになった。
  • 1921年当時のコロンボ市では約四人に一人がインド人移民であった。
  • 少なくとも20世紀前半のセイロンでは、労働組合運動と仏教復興運動はきわめて近い関係にあった。
  • 直接のきっかけは、労働連合の資金の不正流用をマラヤーリ人たちが批判し、拠出金の支払いを停止したことであったと言われている。
  • フィジーやマラヤでの反インド人的な動きは、シンハラ人たちの反移民感情をより高めることにつながった。
  • マラヤーリ人の出身カーストは、ほとんどがティッヤ(イーラワー)と呼ばれる中位カースト。
    ティッヤはかつては不可触カーストとして分類されていたこともあるが、主に19世紀後半以降に社会的経済的に大きく上昇した。
  • 次に多いのが高位カーストのナーヤル、ナーヤルと同等のシリアン・クリスチャン。
  • 反マラヤーリ人運動の対象になったのは、家内使用人、守衛、酒造り、ポーター、小工場労働者、港湾労働者など。
  • マラヤーリ人の多くは男性の単身者で、50〜60人で同居し生活費を低く抑えていた。
  • 家族を養わなくてはいけない、村の行事に参加しないといけないシンハラ人からすると、好ましい生活形態ではなく、労働力を安売りしていると見えた。
  • シンハラ人は卑しいとする仕事をしない一方で、マラヤーリ人はどんな仕事でもした。
  • インドのケーララ州に住むマラヤーリ人は主にスリランカの都市部に移民していましたが、マラヤーリ人への暴行事件が1930年に増えていきます。
  • 移民追放策にセイロン・タミル人の政治家たちが反対。
  • これはジャフナタバコの輸出先が主にマラヤーリ人たちのトラヴァンコール藩王国だったこと、そして、移民追放策が実質的にはシンハラ化であったことから。

インド人移民に関する主な出来事

1922年、インド政庁がインド出国移民法を通過させ、出国移民の管理・保護を強化
1923年、セイロン政庁がセイロン労働法令第一号を成立させ、インド人移民の環境改善
1934年、土地開発法令によって、官有地を「セイロン人」に払い下げる
1938年、村落共同体法令で村落の自治へのインド系住民を排除
1939年、インド系労働者1,425人がインド送還
1940年、セイロン漁業法令第24号で「インド人漁民」の漁労権を否定
1948年、セイロン国籍法でインド人移民のセイロン国籍を否定
1949年、セイロン国会選挙修正法でインド人移民の選挙権を剥奪
1958年、インド・タミル人への暴行事件

人民解放戦線(JVP)の反乱以降の主な出来事

1971年、JVPの反乱
1972年、土地改革法
1976年、土地改革修正法によりプランテーションが国有化を進める
1977年、大暴動がプランテーション地域にも波及して暴動が発生
1981年、大暴動がプランテーション地域にも波及して暴動が発生
1983年、大暴動がプランテーション地域にも波及して暴動が発生
1984年、タラワケレーでシンハラ人たちがタイプーサム祭りを阻止
1985年、タラワケレーでシンハラ人暴徒によってタイプーサム祭り中止
1986年、タラワケレーのタイプーサム祭りでシンハラ人暴徒とタミル人暴徒が衝突
1939年にはインド・タミルによるストライキが頻発し、ネルーのセイロン訪問の直後にセイロン・インド人会議が設立されています。
1977~1983年の大暴動によって、インド・タミル人の北部ワウニヤーあるいはインドへの移住が増えた。

参考)
アジア経済研究所:紛争関係年表
Wikipedia:List of massacres in Sri Lanka
Wikipedia:List of attacks on civilians attributed to Sri Lankan government forces

スリランカ内戦

スリランカ内戦とは?

スリランカ・タミルの過激派武装組織LTTE(兵力5千人〜1万人)と、
スリランカ政府軍(兵力約12万人)との間で行われた1983-2009年の内戦。

内戦に至る主な出来事

1956年、ソロモン・バンダーラナーヤカがシンハラ人優遇政策を掲げて首相に就任、シンハラオンリー法を採択。仏滅2500周年。
1957年、バンダーラナーヤカ=セルワナーヤガム協定
1958年、バンダーラナーヤカ=セルワナーヤガム協定に反対する仏僧と群衆がバンダーラナーヤカ私邸に押し寄せ、協定が破棄。
1959年、ソロモン・バンダラナイケが僧侶に暗殺
1972年、シリマーボ政権がシンハラ語を公用語とし、仏教に準国教的地位を与える新憲法発布。
1972年、タミル人政党の連邦党やタミル人会議、その他タミル人組織が合同しタミル統一戦線(TUF)結成。
1972年、後に一部が武装集団タミル・イーラム解放機構(TELO)となるタミル青年連盟が結成。
1972年、後のタミル・イーラム解放の虎(LTTE)となるタミルの新しい虎(TNT)が結成。
1975年、ジャフナ市長(SLFP党員)がTNTメンバーによって暗殺される。
1975年、ロンドンでイーラム革命機構(EROS)が結成される。
1976年、タミルの新しい虎TNTを母体にタミル・イーラム解放の虎(LTTE)が結成される。
1976年、タミル統一戦線(TUF)がタミル統一解放戦線(TULF)に改名
1977年、ジャヤワルダナ政権がタミル語に国民語の地位を与える新憲法を発布。
1979年、政府がタミル人の苦情解決をする委員会を設立
1981年、TULFと政府の交渉で県域開発評議会を設立
1981年、ジャフナで暴動、ジャフナ図書館が放火される。
1983年、暗黒の7月
1986年、LTTEが他のタミル武装集団を闘争で破り無力化

1958年の暴動時には軍や警察はタミル人たちを助けたが、1977年には無関心になった。そして、1981年以降は軍や警察自体が暴動に加わった。

タミル・ナードゥ州のタミル人勢力への支援

当初、タミル・ナードゥ州首相のM.G.ラーマチャンドラはじめタミル・ナードゥ州の多くの政治家がタミル人武装集団を支持。

タミル・ナードゥ州各地にタミル人武装集団の訓練場が作られた。

インド政府の研究分析部門(RAW:Research and Analysis Wing)が各武装集団に武器を与え、訓練を施したと言われている。

1987年5月、スリランカ政府はジャフナを統治下に置くために「解放作戦」と名付けた軍事活動を開始。

1987年6月、これに対してタミル・ナードゥ州首相ラーマチャンドランは、ラジーヴ・ガンディーに対し、スリランカ政府による攻撃を止めさせるよう訴えた。こうしてインドは明らかにスリランカ政府軍のジャフナ進攻を阻止するために、封鎖状態にあったジャフナに食料と石油製品を送ろうと試みた。しかしこれはスリランカ海軍によって拒否されたために、その翌日インド空軍がスリランカ領空を侵犯し、食糧と医薬品をジャフナに投下した。

1987年7月、ラジーヴ・ガンディーとジャヤワルダナがインド・スリランカ和平協定を調印。

1987年10月、インド・スリランカ和平協定に基づき、インド平和維持軍がジャフナでLTTEと戦闘開始。

インド・スリランカ和平協定を、JVPはインドによるスリランカ北部植民地化の一段階であると主張し、その後15ヶ月以上に渡って暴力的な活動を続け、統一国民党幹部1,000人以上を暗殺。

政治家とナショナリズム

スリランカの率いた代表的な政治家の多くが、ナショナリズムを利用していたことが本書を読むと分かります。

初代首相ドン・スティーヴン・セーナーナーヤカ

ドン・スティーヴン・セーナーナーヤカは、
独立した1948年、セイロン国籍法でインド人移民のセイロン国籍を否定し、
翌年の1949年、セイロン国会選挙修正法でインド人移民の選挙権を剥奪したことなどが本書には書かれています。

また、農業大臣時代に、ガルオヤ開発やポロンナルワ周辺の開発を進め、タミル人が多い地域に、シンハラ人の入植を進めたことが記述されています。

2代目首相ダッドリー・シェルトン・セーナーナーヤカ

以下のような記述が本書にあります。

  • 特に与党統一国民党(UNP)は、インド系住民からの国籍の剥奪は彼らの功績であったとシンハラ人たちに訴えた。たとえば1852年5月の選挙運動時には、UNP党首ダッドリー・セーナーナーヤカはインド系住民の指導者であるトンダマーンやアズィーズと言った「部外者」を国会から排除したという「実績」を示すとともに、UNPは南インドによる中央高地の植民地化を阻止すると繰り返し、UNPへの反対は「先住の人々」への裏切りだとまで訴えた。

シンハラオンリー法のソロモン・バンダーラナーヤカ

バンダーラナーヤカは政権獲得後に政治姿勢を変更し、タミル人指導者のセルワナーヤガムとタミル語使用を認めるなどの協定を結びます。

本書ではソロモン・バンダーラナーヤカが政権獲得後に政策を変えて、タミル人に宥和的に動いた際に、野党政治家から強い抗議を受けたと書かれています。

その野党政治家の一人は、ジャヤワルダナ氏でしょう。
本書には名前がありませんでしたが、『スリランカ (暮らしがわかるアジア読本)』には、ジャヤワルダナ氏が協定に反対する行進を先導していたことが記述されています。

参考)

ジャヤワルダナ政権

ジャヤワルダナ氏は、サンフランシスコ講和会議で、ブッダの言葉を引用した演説で知られますが、スリランカ内戦勃発時の大統領でもあります。

ジャヤワルダナ氏は和平にも尽力した側面もありますが、内戦を止められなかったという側面もあります。

内戦を止められなかった側面として、以下、本書から引用します。

  • 多くのシンハラ人の意識の中では、スリランカはシンハラ人の国家となり、スリランカ国民とシンハラ民族は頻繁に無意識のうちに混同して語られることになった。それは本書のなかで見たように、ダルマパーラやグナシンハの主張の中に典型的に現れたものであったし、シャンカラン・クリシュナが指摘しているように、J.R.ジャヤワルダナ大統領の演説等のなかにも見られるものであった。このシンハラとスリランカの同一視は、ジャヤワルダナ政権下で産業大臣を務めたシリル・マテューにおいてはあからさまであった。彼は反タミル人暴動を背後で操っていたともされる人物であるが、1983年12月の党大会で、「スリランカとはシンハラの歴史のことであり、それ以外の何ものでもない」と述べている。
  • 暴動勃発以降ほとんど二日間、外出禁止令が発せられることも、大統領や他の閣僚が沈静化を求める声明を出すこともなかった。その上、7月28日夜になって初めて行われたジャヤワルダナ大統領の英語とシンハラ語による短いテレビとラジオ演説は、暴動を非難するものでも、タミル人被害者たちへの同情を含むものでもなかった。大統領は逆に、分離国家を要求するタミル人たちの暴力を咎め、分離主義を禁止する憲法改正を準備すると述べた。翌日のシンハラ語の新聞の見出しには、「私はシンハラの願いを叶える。私はこの国を分割させない」という大統領の言葉が踊った。こうして大統領の演説は、1958年の暴動時のバンダーラナーヤカのそれときわめてよく似た形で、暴徒たちの行動を正当化する役割を果たした。実際、翌日にはタミル人武装組織がコロンボに侵入したという噂が流れるなかで多くのタミル人が虐殺された。暴動はその後5日間続いた。

かつてのスリランカの姿

本書ではかつてのスリランカでは、キリスト教、イスラム教、タミル人移民労働者、スリランカ・タミル人、シンハラ人が平和的に共存していたことが書かれています。

外圧によってその共存が破壊され、それに対抗したナショナリズムによって作られた民族対立と宗教対立が続いっていったことが分かります。

キリスト教とスリランカ

  • キリスト教の礼拝の後で仏教寺院に行き、仏像を礼拝することが悪いとは「ほんの少しも思っていない」のであった。ある信者が言ったように、「私はキリスト教という宗教を持つ仏教徒です」と言った意識はかなりの程度一般的であった。
  • こうしたなかで、宣教師たちにとっては、「ゴータマのダルマと聖書の教義」との間に「明確な境界線」を引くことは何よりも重要なことであった。彼らは、キリスト教の神以外のものを崇拝することは「最も過酷な罰に値する」行為であると信者たちに知らしめることが自らの重要な役割であると信じていた。

イスラム教とスリランカ

  • 旧キャンディ王国の一部では20世紀初頭にすらムーア人たちが音楽を鳴らしながら行進することもがあったと言われている。また、日常生活においてもシンハラ人とムーア人が隣り合わせて生活していることも多く、ムーア人のヘッドマンが仏教徒の村民を代表することもあったのであり、ほとんどの時期において両者は平和的に共存していた。
  • しかし、イスラーム復興主義的な思想がインド経由でスリランカに移入されるにつれ、ムーア人の儀礼から音楽が追放されるようになった。そして、その影響はインドからの移民が多いインド・ムーア人たちの間で特に強かった。

タミル人移民労働者とシンハラ人

  • プランテーション地域の労働組合の指導者の一人であったS.ナデサンが指摘するように、タミル人労働者とシンハラ人村民との間にはかなりの程度密接で友好的な関係があったことも事実である。例えば、プランテーションや町のヒンドゥーの祭に仏教徒が参加することもあった。マータレーの「山車祭」にはあらゆるコミュニティの人々が集まり、またタミル人たちもキャンディの仏歯寺に参拝し、有名なペラヘラ祭にも参加した。シンハラ人とタミル人の共通の新年には互いに贈り物をすることもあり、また収穫時にはプランテーションの労働者がシンハラ人村民の水田で働くことも珍しくなかったとされる。さらにまた両コミュニティ間では野菜の売買もされたし、村の酒場にプランテーション労働者が集まることも珍しくなかった。両者が集まる日曜市場は特に1910年頃から著しく発展していたし、シンハラ人とタミル人の結婚も見られた。

このタミル人労働者とシンハラ人の関係は本書では過去形で書かれていますが、2000-2001年にゴムプランテーションと隣接したシンハラ農村での調査を元に書かれた『つながりのジャーティヤ: スリランカの民族とカースト』には、上記のことが調査時に見られたものとして、現在形で書かれています。

スリランカ・タミル人とシンハラ人

  • 13世紀にポロンナルワのシンハラ王朝が衰退した後、シンハラ人たちは徐々に南西部のいわゆるウェットゾーンへの移動した。その結果スリランカ中部のドライゾーンは人口疎放な地域となり、両民族はかなりの程度分離した状態に置かれていた。(中略)他の多くの植民地がそうであったように、それ以前に作られてきた境界は無視され、スリランカは単一の政体として支配された。

まとめ

為政者と支援者、為政者に煽動された一部の過激派や暴徒は目立ち、メディアはそれを喧伝しますが、多くの市民は今も昔も平和を望み、民族と宗教を超えて「隣人を愛し」「生きとし生けるもの幸せ」を願っているのではないかと思います。

経済危機に直面するスリランカのニュースでは、一時期のデモの絶頂期の写真が使い回され、静かに生活を続ける多数の市民の姿が報道されることはごく稀だと感じています。

パッと見に分かりやすい情報ではなく、丁寧に事実を掬い取って考えることは大事であると、本書を読んで感じました。

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