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『スリランカ政治とカースト – N. Q. ダヤスとその時代 1956〜1965』 川島耕司

2021年5月11日

スリランカにおけるカースト、カーストと政治の関係、シンハラ仏教ナショナリズムについて理解が深まる本『スリランカ政治とカースト-N. Q. ダヤスとその時代 1956〜1965』とカーストをご紹介します。

この本はロンドン郊外キューにあるイギリス国立公文書館に所蔵されている自治領省などの行政文書を主な一次史料に、ロンドンで行われたネヴィル・ジャヤウィーラへのインタビューなどからまとめられています。
ネヴィル・ジャヤウィーラは、シリマーウォー・バンダーラナーヤカ首相やN. Q. ダヤスやの元で行政官として働いた人物です。

また、本書は著者の川島さんの5つ論文を元に加筆修正された以下の5つの章で構成されています。
第1章 スリランカのカーストとカラーワ
第2章 1950年代スリランカにおける政治とカースト
第3章 1956年の政治変革
第4章 S. W. R. D.バンダーラナーヤカとシンハラ仏教ナショナリズム
第5章 バンダーラナーヤカ夫人政権とN. Q. ダヤス

それぞれが独立した論文であったためか、各章の最後は「おわりに」となっていて、まとめの文章があり、章ごとに参考文献・注意書きがまとめられていて、とても読みやすい本になっています。

また、人物名、都市名はよく使われているカタカナ表記ではなく、シンハラ語の発音に近いカタカナ表記がされているのも参考になります。

本記事では、本書で記述されている内容のうち、カーストについて記載されている内容を最初の方に記載しています。
その後、副題にもなっているN. Q. ダヤス、1956〜1965年という時代について見ていきます。

カーストがスリランカにおいてどういう存在なのか、また当時の政治の紆余曲折が本書を読むと理解が深まりますので、詳しく知りたい方は是非本書をご覧ください。

スリランカのカースト

スリランカには、シンハラ社会にはシンハラカースト、タミル社会にはタミルカーストがそれぞれにあります。

シンハラカーストには15ほどの代表的なカーストがあります。

シンハラカーストには、
キャンディ王朝があった高地で農業を中心としたカーストと、
コーッテ王国時代の16世紀に南インドから渡来して沿岸部に住んでシンハラ社会に組み込まれたカーストがあります。

現在のスリランカでは、「カーストは遅れたもの」という印象があり、あまり公言されません。

カーストごと寺院が分かれていましたが、公立学校や公立病院がカーストの区別なく受け入れるようになり、カーストの意識は薄くなっていったとされています。
また、村では比較的カースト意識は強く、都会では弱いとも言われます。

一方で、スリランカの仏教で多数派なのは、最高位カーストのゴイガマのみに得度を行うシャム・ニカーヤです。

新聞のお見合い欄にもカーストが明記されています。

組織のポジションが上がれば上がるほどにカーストは影響し、ガラスの天井があるとも言われています。
スリランカの歴代国家元首はプレマダーサ大統領以外は全てゴイガマです。

シンハラカースト最高位で多数派のゴイガマ

シンハラ社会で最も高位にあるとされるのがゴイガマ(Goigama)です。

1960年に世界初の女性首相となったシリマーウォー・バンダーラナーヤカは、ゴイガマの中でも特別に高い地位があるとされるラダラというサブカーストであると説明されています。

グラファイト鉱山の経営で財を成したDon Charles Gemoris Attygalleはゴイガマで、娘婿の一人が初代首相D. S. セーナーナヤカの兄F. R. セーナーナヤカ、もう一人の娘婿が3代目首相のコタラーワラの父John Kotelawala Seniorです。

コロンボのケラニ川沿いのセンダワッテ(Sedawatte)で材木ビジネスで財をなしたゴイガマのウィジェワルデナ(Wijewardene)家からは、新聞社「ランカハウスニュースペーパー」を創業したD. R. ウィジェワルデナ、大統領になったジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ、首相になったラニル・ウィクラマシンハが出ています。

仏教復興運動を行なったアナガリーカ・ダルマパーラもゴイガマの新興エリートであったと言われています。

ゴイガマに奉公するサービスカースト

ゴイガマの奉公人のような中位のカーストがワフンプラ(Wahumpura)とバトゥガマ(Bathgama)です。
両者ともキャンディ地域を中心に、同質的な村を形成していました。

ワフンプラはカンデヨ(山の民)、ハクル(ヤシ糖造り)などとも呼ばれた、ヤシ糖造りなどの家内労働をするカースト。

神智学協会を支援したワフンプラの商人N. S. Fernandoは、インドのサリー輸入業者でサリーを民族服として推奨したことで知られています。

バトゥガマは肉体労働を中心で、多くの人が土地を所有ていないカースト。

シンハラのアウトカースト

低位のカースト(アウトカースト)が、ロディヤ(Rodiya)、キンナラ(Kinnara)、ガハラ(Gahara)です。

ロディヤの語源は、汚物(Rodu)であると考えれています。
死畜の除去、皮革加工、箒作り、カツラ作りなどを世襲の職業としてきた人々で、孤立した村落に住んでいたとされます。

キンナラは、マット作りや不定期な労働を行うカースト。
森のそばに住み、野生的な部族、魔術や呪術によって不幸をもたらすとも言われていたそうです。

ガハラ(ガハラ・ベラワー)は死刑執行、道路清掃、死畜処理を行うカースト。

太鼓叩きのベラワーはアウトカーストなのかどうかは本書に明記されていませんが、地位は低いカーストのようです。
ベラワーは太鼓叩きを独占し、機織り、占星術、悪霊払いなども行うようです。

渡来してきたKSDカースト

コーッテ王国時代の16世紀に南インドから渡来して沿岸部に住んだ人々で、漁業を行うカラーワ(Karava)、古くは機織り・後にシナモンの採取や流通を行ったサラーガマ(Salagama)、ヤシ樹液の採集やヤシ酒造りを行うドゥラーワ(Durava))の3カーストの頭文字からKSDカーストとも呼ばれます。

KSDの中では、カラーワが上位、少し下がってサラーガマで、ドゥラーワが下位に当たります。

■カラーワとは?

カラーワは、インド叙事詩マハーバーラタに登場する戦士カーストであるクル族であるカウラワ(Kaurava)から派生しており、カラーワはクシャトリであり、シュードラに当たるゴイガマよりも、カラーワの方が上だとも主張していたと言われています。

KSDカーストは植民地下のプランテーションやインドとの交易、他のアジアの国々との交易で経済力を高めました。
ゴイガマの高官(ムダリヤール)が酒類を避けたのに対して、カラーワはヤシ蒸留酒のアラックで富を形成しています。

特にコロンボに近いモラトゥワやパーナドゥラのカラーワで経済的に成功した人が出ています。
Lindamullage de silva、Telge peiris、Balappuwaduge manakulasuriya mendisなどが代表的です。

その中でも1832年にキャンディ地域におけるアラック販売を一手に担い、19世紀に最大の富豪になったWarusahennedige Soysaは有名なカラーワで、1835年にゲートムダリヤール(Gate Mudaliyar)の名誉称号を得たジュロニス・デ・ソイサ(Jeronis de Soysa)はこのこの一族です。

ジュロニス・デ・ソイサはスリランカでコーヒー栽培を行ったことでも知られています。

コーヒーの世界史:スリランカを世界3位のコーヒー生産国に押し上げたスリ…

仏教徒神智協会の総裁を務めたW. A. de Silvaもカラーワです。

■サラーガマとは?

サラーガマは、ハラーガマ、チャリヤとも呼ばれ、自らをバラモン出自であると主張しました。

バラピティヤが集住地区。
ポロンナルワにはD. S. セーナーナーヤカの立像がありますが、D. S. セーナーナーヤカはポロンナルワへの入植を推進しました。
実行したのがサラーガマで国土開発長官になったC. P. ダ・シルワ(C. P. de Silva)であったため、多くのサラーガマが南西海岸からポロンナルワに移住し、ポロンナルワにもサラーガマが多くいます。

政治的に成功したサラーガマは、このC. P. ダ・シルワです。

神智学協会の会長を務めた商人R. A. ミランド(R. A. Mirando)はプランテーション経営者で、シナモンやグラファイトの輸出にも関わったサラーガマです。

アーナンダカレッジに土地を提供したのは、サラーガマのチューダー・ラージャパクサです。

南西バス会社(South Western Bus Company)を創設したSir Cyril de Zoysaもサラーガマ。
ブリティッシュレイランドの代理権を獲得し、その後にアソシエイティッド・モーターウェイズを設立。
現在はUAEのAL Futtaimグループ傘下になっています。

仏教とカースト

スリランカの仏教は3つに分かれていました。

最高位カーストのゴイガマのみ得度を行うシャム・ニカーヤ
ゴイガマ以外にも得度を行う村に住むアマラプラ・ニカーヤ
ゴイガマ以外にも得度を行う森に住むラーマンニャ・ニカーヤ

20世紀半ばのスリランカの仏教僧は15,000-18,000人で、そのうち、シャム・ニカーヤが12,000人を占めています。

1753年を最後にシャムニカーヤはゴイガマ以外には得度を拒否します。

1799年、サラーガマの僧が5人の見習いと3人の在家信者を連れてビルマの首都アマラプラで得度を受けて始まったのがアマラプラ・ニカーヤです。

アマラプラ・ニカーヤとラーマンニャ・ニカーヤは2019年8月に統合していますが、現在もシャム・ニカーヤが多数派です。

仏教再興運動は、アマラプラ・ニカーヤやラーマンニャ・ニカーヤの仏僧を、カラーワ、サラーガマなどの経済力のある低地カーストの人々が支援する形で展開します。
もちろん、シャム・ニカーヤを仏僧を経済力のあるゴイガマが支援する動きもありました。
ただ、低地の動きがより目立ちます。

シャム・ニカーヤ内では、キャンディの仏歯寺を関与するマルワッテ寺院派とアスギリヤ寺院派ではゴイガマの中でも地位が高いラダラの影響力が高く、高地のシャム・ニカーヤ仏僧に対して、低地のシャム・ニカーヤの仏僧は不満を持ち、反目があったとされています。

タミルカースト

内陸部に経済基盤を持つヴェッラーラ
沿岸部に住む漁業を行うカライヤール
などがあります。

ヴェッラーラはジャフナで有力なカーストで行政職や専門職を担っていました。
LTTE(タミルイーラム解放の虎)の指導層はカライヤールが多かったと言われています。

インドのカライヤールやパラワも漁民カーストです。

仏教復興運動とカラーワ・サラーガマ

政治におけるカラーワとサラーガマ

オランダ統治時代にオランダはカラーワやサラーガマを重用しましたが、イギリス統治時代にイギリスはゴイガマを重用します。

経済力をつけたカラーワはイギリスからの権限委譲・政治改革を求めて活動し、男女普通選挙が導入されます。

KSDカーストの人口が多い南西海岸ではKSDカーストが選ばれます。
カラーワが多いアンバランゴダではカラーワが当選し、サラーガマが多いバラピティヤではサラーガマが当選するようになります。

ところが、スリランカ国内全体では、数が多いゴイガマが選挙では有利なため、カラーワは有している経済力に比べて、政治的な発言力を持てませんでした。

カーストの壁を乗り越えるため、より高次のアイデンティティとつながる、当時勢いをつけていたシンハラ仏教ナショナリズムにカラーワが関わっていったのではないかと本書では説いています。

対キリスト教としての仏教復興運動

パーナドゥラは、仏教復興運動の地として知られていますが、これはパナドゥーラのカラーワがキリスト教徒との宗教論争の場を提供したためです。

モラトゥワのカラーワに比べてパナドゥーラのカラーワは後発とは言われるものの、アラックやプランテーションによって富を蓄積します。

パナドゥーラのランコット寺院の建立を支援したMudaliyar Andiris Perera
彼の妻であり、女子校Visakha Vidyalayaに土地と資金援助をしたSelestina Dias
はパナドゥーラでの宗教論争の場を組織したことで知られるカラーワです。

宗教論争は、キリスト教徒と仏教徒との間で5回討論が行われました。
そのうち3回は公開討論、2回は文書の交換によるものでした。

また、当時の教育はキリスト系学校が中心であったことに対して、シンハラ語で教える仏教系学校が作られます。

1890年にスリランカを訪れたアメリカ人のヘンリー・スティール・オルコットは仏教徒神智協会を組織し、1892年に仏教徒英語学校(Buddhist English School)をペターに創設します。

1895年、アーナンダカレッジと改称し、現在の地であるマラダーナに移転し、初等学校から中等学校へ格上げされます。
この時、土地を提供したのは、サラーガマのチューダー・ラージャパクサです。

アーナンダカレッジの校長職を長く務めたPatrick de Silva Kularatne、L. H. Mettanandaはカラーワでした。

Kularatneはアーナンダカレッジ以外の仏教学校にも関わり、教育界では活躍するものの、政治ではカーストによるためか、落選が続き、ようやく当選しても重用されず、活躍できませんでした。

スリランカ自由党で党首にまでなったサラーガマのC. P. ダ・シルワは首相にはなれませんでした。

これらもカーストによるガラスの天井ではないかと言います。

N. Q. ダヤスとは?

N. Q. DiasのDias(ダヤス)は、Dayasiri(ダヤシリ)の西洋化された呼称。

N. Q. ダヤスの略歴

1910年代前半、パーナドゥラのカラーワの家に生まれる
1936年、セイロン高等文官に採用
1951年、ラトナプラの政府長官
1953年、登録局長官、政府および地方行政府公務員仏教徒教会を設立して議長に
1956年、初代文化局長
1959年、文化社会事業省常任長官代理
1961年、国防外交常任長官
1970年、インド駐在セイロン高等弁務官

ラトナプラの政府長官時代に、仏教僧グナーナシハーとともに、サバラガムワ地域のほぼ全ての村に仏教徒協会(Baudha Sasana Samiti)を作りました。
協会のない地域での活動を促すために、出版所ダルマ・ヴィジャヤ・プレスを作り、週刊誌ダルマ・ヴィジャヤを発行。

L. H. メッターナンダとともに、仏教僧たちの協会のネットワークを作ります。

仏教僧グナーナシハー

ラーマンニャ・ニカーヤに属して、ラトナプラ地域で活動をした仏僧。
ドゥトゥギャムヌ王の生涯に関する著書で有名。
農村の貧困を憂慮した「反帝国主義闘争」で主導的立場を担った。

1966年のクーデター未遂事件で逮捕される。

L. H. メッターナンダ

アーナンダカレッジの校長を務めた後に、仏教徒国民軍(BJB:Bauddha Jatika Balavegaya)を中心に行政の仏教徒化を推進。

N. Q. ダヤスが設立した政府および地方行政府公務員仏教徒教会(Goverment and Local Government Servants Buddhist Societies)の各地に作られた協会を統合する組織として、スリランカ大仏教僧協会(Sri Lanka Maha Sangha Sabha)を設立。
1954年に仏教僧組織の全ランカ比丘会議(SLBS:Samasth Lanka Bhikkhu Sammelanaya)と合同して統一比丘戦線(Eksath Bhikkhu Peramuna)を結成。

ブッダラッキタ

全ランカ比丘会議の有力な指導者。

1921年生まれ。
15歳で出家し、ケラニヤ寺院の住職に。
1951年にバンダーラナーヤカのスリランカ自由党の創立メンバー兼パトロンとなっています。
1959年のバンダーラナーヤカ首相暗殺に関わったとして有罪判決を受けます。

シンハラオンリー政策

本書には以下のようにあります。

コーッテ王国の王も元々は現在のケーララ地域から渡来したマラヤーリ人商人の子孫であり、その王妃は南インドの王族から選ばれる傾向があった。

建国の王ウィジャヤはインドから渡来し、アヌラーダプラに遷都するまで、王はインドから渡来した一族が続いています。
全島を統一したポロンナルワのパラークラマバーフ1世は南インドから王妃を迎え、その後を継いだニッサンカマーラ王は南インド出身です。
キャンディ王朝の後期は南インドのマドゥライ出身の王が続いています。

本書で説明されている沿岸部のKSDカーストは南インドから渡来した人たちがシンハラ社会に組み入れられています。

民族意識が高められたのは仏教復興運動ともにシンハラ仏教ナショナリズムが高まったことが大きいように思いますが、その経緯も書かれています。

シンハラ語公用語化の年表

1936年、ソラマン・バンダーラナーヤカがシンハラ大協会(Sinhala MahaSabha)を結成。
1944年、J. R. ジャヤワルダナによってシンハラ語公用語化が国家評議会に提出、これにバンダーラナーヤカは反対。
1951年、ソラマン・バンダーラナーヤカがスリランカ自由党(Sri Lanka Freedom Party)を創設。
1952年、選挙中のスリランカ自由党はシンハラ・タミルの二言語の公用語化を主張。
1954年4月、スリランカ自由党はシンハラオンリーを否定。
1954年9月、シンハラ民族協会(Sinhala Jatika Sangamaya)がシンハラオンリーを求める著名運動。
1955年9月、仏教僧も参加する集会でシンハラオンリーを求める決議。
1955年10月、仏教僧が共産党や新ランカ平等社会党のデモ行進を襲撃。
1955年12月、スリランカ自由党はシンハラオンリー政策を採択。
1956年6月、バンダーラナーヤカ政権がマイノリティに配慮したシンハラ語のみを公用語とする法案を提出。
1957年、シンハラ・タミルが歩み寄ったBC協定(Bandarnaike – Chelvanayakam Pact)が成立。
1958年4月、仏教僧を含む数百人の群衆がバンダーラナーヤカ邸に押しかけ、BC協定が破棄される。
1959年9月、ソラマン・バンダーラナーヤカ首相が仏教僧に暗殺される。
1962年1月、キリスト教徒によるクーデター未遂事件
1965年、日曜日の休日が廃止、月4回のポーヤ(上弦半月、満月、下弦半月、新月)が祝日、その前日が半祝日になる。
1966年、仏教団体と関わる陸軍士官らによるクーデター未遂事件

1956年のタミル人にも配慮した公用語法案はシンハラナショナリストの反対運動でタミル側に不利な内容に変更されます。
それを受けて、タミル人が非暴力不服従運動のサティヤグラハを実施し、シンハラ人暴徒がタミル人を襲撃します。

1956年は仏滅2500年の記念事業として、仏教寺院の改修、仏教事典の編纂と出版、キリスト教の日曜学校にあたるダンマ学校に本を無償配布などが行われ、文化省は寺院仏教保護協会(Vihara Sasanarakshaka Society)を設立しています。

1957年、バンダーラナーヤカとタミル人を代表する連邦党のS. J. V. セルワナーヤガムによって、お互いに歩み寄る内容の協定が成立します。
ところが、シンハラ側はJ. R. ジャヤワルダナが、タミル側はG. G. ポンナンバラムが激しく抗議。

ケラニヤ大学、スリジャヤワルダナ大学の前身大学

1956年、バンダーラナーヤカ政権は仏教の高等教育機関であった2校を大学に格上げすることを決めます。

一つが1874年にヒッカドゥエ・スリー・サマンガラと在家信者が設立された学校ウィディヨーダヤ僧院学院(Vidyodaya Pirivena)。
1978年にすリジャヤワルダナプラ大学になっています。

もう一つが1875年にラトマラーネ・スリー・ダルマロカ・テラ(Ratmalane Sri Dharmaloka Thera)によって設立されたウィディヤーランカーラ僧院学校(Vidyalankara Pirivena)で、1978年にケラニヤ大学となっています。

シリマーウォー・バンダーラナーヤカ政権

シンハラ仏教ナショナリズムで利用して政権を獲得したソラマン・バンダーラナーヤカは、その後はタミル人などのマイノリティーに配慮した政策を進めようとするも、支持者であるシンハラ仏教ナショナリストから裏切り者とされ、暗殺されてしまいます。

その後に首相になった夫人のシリマーウォー・バンダーラナヤカは夫とは異なり、多数派のシンハラ重視に政策を進めます。

政治家として経験があまりないゴイガマの中でも高位なラダラであるシリマーウォー・バンダーラナヤカは、カラーワであることから政治的な脅威を感じないが経験豊富なN. Q. ダヤスを頼ったのではないかとされます。

マイノリティーに穏健的な政策をとったソラマン・バンダーラナーヤカ政権よりも、シンハラ仏教徒を重視するシリマーウォー・バンダーラナヤカ政権でN. Q. ダヤスは活躍。

キリスト教系学校を取り込むために学校の国有化を進め、軍隊の仏教徒化も推し進めます。

1956〜1965年とはどういう時代か?

副題に1956〜1965年と記載されています。

1956年はシンハラオンリー政策を掲げたスリランカ自由党(SLFP)が勝利し、ソラマン・バンダーラナーヤカ政権が樹立した年です。
1965年はより強くシンハラオンリー政策を進めたシリマーウォー・バンダーラナーヤカ政権が終了した年です。
1965年3月に統一国民党(UNP:United National Party)が政権を取ります。

バンダーラナーヤカ両政権で活躍したのがN. Q. ダヤスであり、その時期の政治とカーストのことを取り上げたのが本書です。

参照)

ウィキペディア:カースト
ウィキペディア:ソロモン・バンダラナイケ
ウィキペディア:シリマヴォ・バンダラナイケ
Wikipedia:N. Q. Dias
Neville D Jayaweera – The Vicissitudes
Neville Jayaweera’s Blog:Into the turbulence of Jaffna
外務省:スリランカ内戦の終結~シンハラ人とタミル人の和解に向けて
Wikipedia:Don Charles Gemoris Attygalle
Wikipedia:C. P. de Silva
L. H. Mettananda
Wikipedia:Patrick de Silva Kularatne
Wikipedia:Vidyodaya Pirivena
Wikipeida:Vidyalankara Pirivena
Wikipedia:Ratmalane Sri Dharmaloka Thera
History of University of Sri Jayewardenepura

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