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コーヒーの世界史:スリランカを世界3位のコーヒー生産国に押し上げたスリランカ人事業家

2021年1月06日

スリランカは中国・インドと並び、世界三大銘茶を有する国ですが、かつてはブラジル・インドネシアと並ぶ、世界三大コーヒー生産国でした。

世界にコーヒーを広めたのはオランダですが、インドネシアでコーヒー生産を始めたオランダは、その後にスリランカでも生産を始めます。

キャンディ王国がコーヒー栽培に適した山岳地帯を抑えていたために、オランダはインドネシアでは成功したコーヒー栽培をセイロンでは成功させられませんでした。

オランダに代わってスリランカを植民地にしたイギリスは、キャンディ王国を滅し、山岳地帯でコーヒー栽培を成功させます。
そして、当時の世界の覇権国家イギリスの植民地内で最もコーヒーを生産していたのがスリランカでした。

スリランカがかつて世界1位のコーヒー大国だったという説明は、大英帝国内で世界一位を誇張した表現だと思われます。

ところが、2019年のコーヒー生産量(ワールド・アトラス社調べ)では、ブラジルは1位、インドネシアは4位と現在も世界的な産地ですが、スリランカは上位51国の中に入っていません。

世界で最初に大々的にコーヒーさび病が蔓延したスリランカは大打撃を受けてコーヒー産業は衰退します。
一方、同じくサビ病の被害を受けたインドネシアは今も主要コーヒー生産国です。

スリランカとインドネシアのコーヒー産業の明暗を分けたのは何だったのでしょうか。

本記事では、コーヒーの歴史を主に旦部幸博著『珈琲の世界史』を参考にしながら、スリランカにおけるコーヒー生産の歴史を紹介していきます。

アラビカ種の原産地「kaffa地方」

コーヒーノキの野生種はマダガスカル島に68種、アフリカ大陸に43種、オセアニアに14種の合計125種が自生しています。

このうち、コーヒーとして利用されてきたのは、コーヒーの三原種とも言われる、アラビカ種、ロブスタ種、リベリカ種の3種です。

コーヒーの三原種の中で最も多く生産され、歴史が長いのがアラビカ種です。

アラビカ種の原産地は、現在・世界5位のコーヒー生産国であるエチオピアの南西の高原地とされています。

かつて、カッファ王国(Kingdom of Kaffa)があった地域です。

現在は南部諸民族州カッファ地方ですが、州が合併する前はカッファ州があり、州都はカッファ王国の首都でもあったボンガでした。

2000年になってパナマで再発見されたゲイシャコーヒーは、2004年のコーヒーの国際品評会で、当時の落札最高額の世界記録を更新して、高級コーヒー市場(スペシャルティ・コーヒー)で注目を浴びますが、このゲイシャコーヒーは1930年代にアラビカ種から変異したものとされており、ゲイシャコーヒーの原産地もカッファ地方とされています。

モカ・シダマで知られるエチオピアを代表するコーヒー生産地「シダモ州」も、カッファ州とともに、南部諸民族州を構成し、州都が置かれていましたが、2020年6月に分離しています。

南部諸民族州を囲む位置にあるオロミア州はエチオピア最大の民族であるオロモ人が多数派の州ですが、オロモ人はコーヒーを使った「ブナ・カラー」を戦争時の携帯食としており、これはコーヒー原産地の少数民族を支配した際にオロモ人が取り込んだ風習ではないかと言われています。

コーヒーの文献として最古とされるペルシャの医学書には、ブン・ブンカ、ブンクム・ブンコと記述されています。

kaffaがコーヒーの語源になったという説もありますが、定かではありません。

茶の原産地が明確でないのと同様に、コーヒーの原産地は明確ではなく、いくつかの伝説が語り継がれています。

その伝説の多くは、アラブに関するものです。

羊飼いの少年カルディが見つけたという逸話がありますが、カルディの名を掲げるお店はこの少年が由来になっています。

茶が中国南部などの国境近くの山岳地帯に住む少数民族が飲食していたものを、体系化したのが大国の中国(唐)だったように、コーヒーもエチオピア奥地の山岳地帯に住む少数民族が飲食していたものを、イスラム世界の中心地アラブが文化に取り入れ、商業化していったのです。

アラビア半島のイエメンへ伝播

アラビカ種、アラビカコーヒーの由来はアラビア半島です。

エチオピアからアラビア半島へのコーヒーの伝播は明確ではありませんが、旦部幸博著『珈琲の世界史』にはエチオピアとアラビア半島の歴史がまとめられており、何度かに渡ってコーヒーは伝播していったことが述べられています。

預言者ムハンマドが故郷メッカを追われた際に逃げ込んだのが紅海の対岸・現在のエチオピア・エリトリア辺りにあったキリスト教国のアスクム王国です。

アスクム王国はムハンマドを保護し、その後、ムハンマドたちはメディーナに招待され(イスラム教におけるヒジュラ)、メディーナで体制を整え、メッカを占領、アラビア半島での覇権を築いていきます。

このアスクム王国は現在のイエメンからエチオピアに渡った民族が建国したと考えられており、キリスト教国ですが、アラビア半島の国々と友好関係を持ちます。

この頃からエチオピアとアラビア半島の交流はあったのではないかと思われます。

イエメンでもコーヒーノキの栽培が行われていきます。

モカ港からコーヒー積み出しの開始

イスラム教で羊毛(スーフ)の服を身につけ修行に励むスーフィーが台頭します。

イエメンのスーフィーは眠気を覚ます「コフワ(qahwah)」を様々なもので作りますが、保存・運搬が容易なことからコーヒーの実がコフワの材料に選ばれます。

このコフワがコーヒーの語源とされています。

イエメンからイスラム世界にコーヒーが広がり、イエメンの港町モカからコーヒーの積み出しが行われるようになります。

これがモカコーヒーと呼ばれるようになります。

1616年には、モカ港に立ち寄ったオランダ商人がアムステルダムにコーヒー豆を持ち帰ります。

そして、1620年にモカ港にオランダ東インド会社商館が建て、さらに栄えていきます。

その後、砂が堆積し、モカは港は機能しなくなるとともに、イギリス領となったイエメンのアデンが港町の地位を高めます。

モカは荒廃しますが、モカコーヒーのブランド名は残ります。

カフェ・ハネ(コーヒー・ハウス)の誕生

イスラム教の聖地メッカのイエメン人居住区でコーヒーが飲まれるようになり、メッカにコーヒーを出す専門店「カフェ・ハネ」が誕生します。

その後、イスラムの大国エジプトの首都カイロのイエメン人居住区でもコーヒーが飲まれ、カイロにもカフェ・ハネがオープン。

さらに、エジプトの王朝を倒したオスマン帝国の首都イスタンブールで、シリア人二人がカフェ・ハネを開業します。

こうして、コーヒーを飲む文化が広がっていきます。

南インド、スリランカへのコーヒーの伝播

コーヒーはイエメンの重要な交易品のため、持ち出しが禁止されていました。

ところが、1670年頃、南インドからメッカに巡礼した帰りにコーヒーの種子を持ち帰ったイスラム教徒スーフィー「ババ・ブータン」が現在のカルナータカ州チッカマガルルの山中「ババ・バッデンジリ・ヒル」に植えたという伝承があります。

中村圭志著『世界5大宗教全史』には以下の記述があります。

インドにイスラムが浸透したのも、スーフィーによるところが大きい。法学に精通した正統なウラマーよりも、スーフィーの教説のほうがはるかにインド人に受け入れやすかった。イスラム神秘主義とヒンドゥー教の主流哲学であるヴェーダーンタ学派に含まれる存在一元論との間には類似があると言われる。

スーフィーによってイスラム教が浸透したインドでは、スーフィーが広めたコーヒーが求められていたのかもしれません。

その後、イスラム教徒によって、南インドからスリランカにもコーヒーはもたらされたとも言われています。

一方で、UCC上島珈琲「コーヒーの歴史」、全日本コーヒー協会「コーヒー歴史年表」には、アラブ人によってイエメンからセイロンへコーヒーノキが伝えられると記載されています。

どちらにしろ、スリランカには世界でも早くコーヒーが伝来していたと言えます。
ただ、当時は飲料としてはあまり使われず、コーヒーの葉をカレーに入れたり、お寺にお供えされる程度だったようです。

オランダ領東インド(インドネシア)でのコーヒー栽培の開始

オランダは1690年にイエメンのアデンから、1696年に南インドのマラバル海岸から、コーヒーの苗木をジャワ島に送ります。

1699年、ジャワ島西部のプリアンガン高地で綿花、胡椒、インディゴなどを栽培し、その中で最も成功したのがコーヒーでした。

オランダはヨーロッパにコーヒーを運ぶ際、モカ港でコーヒーの価格を調べ、モカよりも安い値段でジャワ島産のコーヒーを売り、拡販に成功します。

これがジャワコーヒーとして知られるようになり、オランダ領東インド(インドネシア)は世界最大のコーヒー生産国となり、オランダ本国はコーヒー最大の消費国となります。

1706年、オランダはアムステルダムでコーヒーの栽培を行います。

フランスによるコーヒー栽培の開始

1714年、アムステルダム市長がブルボン朝のルイ14世にコーヒーの苗を送ります。
1715年、フランスはブルボン島(現・レユニオン島)でコーヒーの栽培を開始します。

こうして、オランダのみが行っていた海外植民地でのコーヒー栽培にフランスも乗り出します。

新大陸でのコーヒー栽培の開始

オランダは、アジアよりもヨーロッパに近い新大陸に目をつけます。
1718年、オランダ領スリナムでコーヒー生産を開始します。

1723年、フランスはマルティニーク島でのコーヒー生産を開始し、その後、ハイチでも生産を開始し、新大陸でのコーヒー生産に本格的に乗り出します。

イギリスによるコーヒー栽培の開始

1728年、イギリス人軍人のニコラス・ローズによって、ジャマイカでコーヒー生産が始まります。
コーヒー市場をリードしていたオランダとフランスの後を追うイギリスでは、コーヒーハウスが一大流行し、コーヒーは重要な貿易品でした。

オランダ領セイロンでのコーヒー栽培を開始

1740年にオランダ領セイロン総督がセイロン島でのコーヒー栽培を始めます。
生産地に選んだのは、ゴール周辺の海岸地帯であまりうまくいかなかったとされています。
また、オランダ東インド会社本社はジャワコーヒーと競合することを嫌い、生産を抑えられる方針だったとも言われますが、コーヒー栽培に適した山岳地帯はキャンディ王国が支配していたことが大きかったのではないかと思います。

イギリスがやってきた際も、最初は低地で生産に失敗し、その後、キャンディ王国を滅した後に、キャンディ県のガンポラでコーヒー栽培を成功させています。

フランス領ハイチが世界生産1位に

1750年、フランス領ハイチがコーヒー生産高世界一位となり、1788年には世界生産の半数を担います。
しかし、1804年、ハイチはフランスから独立し、コーヒー産業は破綻します。

スペイン領キューバが世界生産3位に

1748年、スペイン人のドン・ホセ・ヘラルドがハイチのコーヒー 農園から豆を持ち帰り、栽培を開始します。
ハイチ独立の際に逃れてきた人たちが生産に加わり、1843年にはインドネシア、ブラジルにつぐ、世界3位となります。
ところが、キューバも独立をし、コーヒー産業は衰退します。

オランダ領東インドが世界生産1位に返り咲き

フランス領レユニオン島はサイクロン被害でコーヒーは減産となります。
オランダ領東インド(インドネシア)がコーヒー生産量首位に返り咲きます。

ポルトガル領ブラジルが世界生産1位に

ブラジルでコーヒー栽培が始まったのは1727年とされていますが、本格的に始まるのは1761年からです。
1850年、ポルトガル領ブラジルが、オランダ領東インドを抜き、コーヒー生産高で世界一位となります。

世界順位はブラジル、インドネシア、キューバとなります。

イギリスによるセイロン、インドでの栽培開始

イギリスはインドを植民地にし、オランダ領セイロンを占領し、イギリス領セイロンとします。

イギリス領インド帝国のマイソール 、イギリス領セイロンでコーヒー栽培に着手します。

北インドはカレーにチャパティ、飲み物はチャイに対して、
南インドはカレーにライス、飲み物はコーヒーと言われるのは、
このイギリスによってデカン高原南部のマイソールで一大コーヒー産地が作られたことによります。

セイロンでのコーヒー栽培はゴール周辺の低地で行ったため、オランダ同様に失敗に終わります。
コーヒー栽培に適した山岳地帯はキャンディ王朝が収めていました。

1815年、イギリスはキャンディ王国を滅し、セイロン島全土を支配下に置きます。

1824年、ウェールズ出身のジョージ・バードがキャンディ県ガンポラで最初のコーヒー農園を始めます。
続いて、キャンディ県のシンガペティアとウェヤンプワッテの2つの村でコーヒー農園が開かれます。
さらに、オロワ川流域とマータレー県マータレーでもコーヒー農園が作られます。

キャンディ王国の支配地で栽培を始めたことで、ついにセイロンでのコーヒー栽培は成功したのです。
しかし、上記のコーヒー農園は後に廃園します。

コーヒー栽培を行ったスリランカの大事業家

イギリス人コーヒープランターに対抗しようと、キャンディ王国最後の王スリー・ウィクラマ・ラジャシンハの行政長官が白羽の矢を立てたのが、シンハラ人初の総合商社を創業したジェロニス・デ・ソイサです。

ジェロニス・デ・ソイサはモロトゥワ出身のアーユルヴェーダ医師の家系に生まれ、先祖はマータラのでディヌワラ寺を管理してきたと言われています。

ジェロニスはアーユルヴェーダ医師になりますが、伯父からコロンボの土地と船を相続します。

ジェロニスは海岸地域とシンハラ王朝の都キャンディの貿易に投資することにして、1820年にキャンディに総合商社を作ります。
これがシンハラ人が初めて作った商社です。

さらにキャンディと港の間に荷馬車を導入し、鉄道が敷設されるまでの物流を掌握します。
ジェロニスは政府から依頼されて、コロンボ・キャンディ・ロードの敷設も請け負います。
事業を拡大するジェロニスにキャンディ王朝は目をつけたのです。

ジェロニスはオランダが所有していたシナモン農園・シトロネラ農園・ココナッツ農園を買い取ります。
ゴール・フェイスからパナドゥーラまでは彼の土地だったそうです。
イギリス領セイロンの首都コロンボの海岸地域のほぼ全て彼が所有していたというのは驚くことです。

そして、デ・ソイサ家とペイリス家でシンハラ人による初の銀行を設立します。

一方で、引き続きアーユルヴェーダ医師としても働き、評判も高かったといいます。
公共事業にも次々と着手し、道路をいくつも敷設し、貯水池、寺院を作ります。
晩年は仏教からキリスト教に改宗し、学校や図書館、教会を建てます。

ジェロニス・デ・ソイサの息子が、シンハラ人初の銀行や農協、茶のプランターとして活躍し、彼が設立を支援した病院が建つ、コロンボ7のオデール前の交差点「デ・ソイサ・サーカス」にその名と銅像が残されている、チャールズ・ヘンリー・デ・ソイサです。

スリランカのコーヒー生産地

コーヒーの生産はキャンディ県の山地(ガンポラ郊外やマータレー郊外)で行われていたようです。

ガンポラ郊外(コットマレー)

イギリス人画家のジョナサン・ニードハム(Jonathan Needham)がリトグラフで描いた、ガンポラ郊外のピーコック・ヒル・コーヒー農園の絵がインターネットで見られます。

ガンポラから南東20kmに、Monara Gala Mountain (Peacock Hill) という山(丘)があります。
コーヒー農園があったのは、この辺りだと思われます。

Monara Gala Mountain (Peacock Hill)の南には、コットマレ貯水池(Kotmale Reservoir)がありますが、この周辺ではコーヒー栽培が行われていると、ナチュラルコーヒーの吉盛さん、Whight & Co.のジェームスさん、London House of Coffeeのアルナさんから聞きました。

マータレー郊外

スパイスの産地として知られるマータレーで、現在もコーヒーを作っているのが、KIYOTA Coffeeです。

KIYOTA Coffeeのコーヒー工場があるのが、マータレー郊外の森の中です。

ハンターナ山(キャンディ郊外)

キャンディ市の南にあるハンターナ山でもコーヒーを栽培しているナチュラルコーヒーの吉盛さんから教えていただきました。
具体的な農園についてはわかりませんが、茶も栽培されていたエリアで、紅茶工場を博物館に改装した「紅茶博物館」もある場所です。

スリランカが世界3位のコーヒー生産国に

1868年、キューバは独立戦争のため、輸出量が激減します。
そこで登場するのがイギリス領セイロンです。

1868年、ブラジル・インドネシア・スリランカが世界3大産地となります。
つまり、世界に多くの領土を持った大英帝国内における世界1位の生産国になったのです。

『珈琲の世界史』には以下のように書いております。

スリランカはパルパーによる水洗式精製を取り入れ、1868年のアンリ・ヴェルテール『コーヒーの歴史に関するエッセイ』でも高品質で将来有望だと、期待が寄せられていました。

イギリスは山岳地帯で収穫したコーヒーを港に運ぶために鉄道を敷設します。
それが現在のスリランカ鉄道のメインラインです。

セイロンのコーヒーは、量・質ともに高い状態になったのです。

このとき、セイロンのコーヒー農園の1/3はスリランカ人が所有していたと、英語のwikipediaには記載されています。
その多くはジェロニス・デ・ソイサ所有の農園だったのではないかと思います。

コーヒーさび病の発生

1861年、ビクトリア湖のケニア地域でイギリス人探検家によって発見・報告されたのが初めと言われています。そのため、菌は東アフリカから発生したものと考えられています。

最初にコーヒーさび病の被害が出たのが、1867年、セイロンにおいてです。
樹から樹に伝染し、1869年にはセイロンのコーヒー農園は大ダメージを受けます。
スリランカが世界3位になったのは、わずかな期間で終わってしまいます。

続いて、1870年インド、1876年スマトラ島、1878年ジャワ島、と次々にコーヒーさび病が発生していきます。
コーヒーさび病はその後も世界各地で発生し、現在もコーヒー産業における大きな課題の一つです。

リベリカ種の発見

さび病に強いコーヒー品種を欧米諸国は探します。
1876年に西アフリカのリベリアで新しいコーヒー品種が発見されます。
リベリアで発見されたことから、リベリカ種と命名されます。

しかし、リベリカ種もさび病に弱く、また、品質はアラビカ種に劣るとされ、コーヒー三原種の一つに数えられますが、全生産量の1%未満です。

リベリアの建国に関わったのはアメリカですが、アメリカ領となっていたフィリピンで栽培されます。
しかし、フィリピンでも1889年にコーヒーさび病が発生し、大きな被害が出ます。

リプトンがセイロンで茶栽培を開始

1890年、イギリスで雑貨店を多店舗展開するトーマス・リプトンがセイロン島にやってきます。
リプトンはイギリスで普及し始めた紅茶に目をつけて、紅茶の売上を伸ばしていました。

リプトンはセイロン島の荒廃したコーヒー農園を買い取り、茶畑と茶工場を作ります。
リプトンが買った土地はウバ州のダンバンテで、後に世界三大銘茶と呼ばれるスリランカ・ウバとなります。

そして、セイロン島は世界最大の紅茶輸出国となり、リプトンはサイトの称号を得て、紅茶王「サー・トーマス・リプトン」と呼ばれるようになります。

コロンボ7のオデール前の交差点にはかつて、リプトン茶の本社があり、リプトン・サーカスと呼ばれていました。

ロブスタ種の発見

1895年、ベルギーの農業学者が中央アフリカのコンゴ自由国(ベルギー王の私有地)で新たなコーヒー品種を発見します。

病虫害に強く、高温多湿の気候にも適応することから、「強靭・頑丈・こくのある」を意味する英語”robust”に由来して、ロブスタ種と命名されます。

1897年に、ロブスタ種は新種ではなく、コンゴの西隣のガボンですでに発見されていたカネフォーラ種であったことが判明しますが、ロブスタ種として広まります。

ちなみに、発見地のコンゴはバントゥー語で”山”を意味し、ロブスタ種はコンゴ高原で発見されています。

ロブスタ種の各国への導入

1901年、さび病が蔓延するインドネシアにロブスタ種の苗木が送られ、さび病に耐性があることが分かります。

こうして、インドネシアのコーヒーの90%はロブスタ種となります。

ロブスタコーヒーは、コンゴ民主共和国(旧・ベルギー領コンゴ)、コンゴ共和国(旧・フランス領コンゴ)の旧宗主国との関係で、フランスでの消費が多く、フレンチロースト、イタリアンローストなど深煎りしてミルクを合わせる飲み方が普及しています。

世界で最もロブスタ種を栽培しているのはベトナム(旧・フランス領インドシナ)で、コーヒー豆全体でもブラジルに次ぐ、世界二位の生産高です。

スリランカにもロブスタ種は導入され、現在、スリランカで主に生産されているコーヒーはロブスタ種です。

ロブスタ種は世界の生産量の2〜3割を占めるまで増えましたが、アラビカ種が7〜8割と世界シェアの大半を占めます。

スリランカはイギリスによって紅茶生産に重点を置いたため、コーヒー栽培は細々と続けられた程度でした。

スリランカコーヒーの復活

近年になって、スリランカでのコーヒー生産復活の動きがあります。

スリランカの小規模農家の農園に残っているコーヒーノキから収穫されており、あまり産業化されていません。
収穫後の製品化のプロセスも整えっていません。

また、ロブスタ種ではなく、味・香りに優れていると言われるアラビカ種の栽培が試みられています。

2007年9月〜2010年3月、JICAの草の根協力事業として、熊本の特定非営利活動法人 日本フェアトレード委員会が「コットマレー地域の小農⺠によるアラビカフェアトレードコーヒー栽培のコミニュニティ開発」に取り組んでいます。

その後、特定非営利活動法人 日本フェアトレード委員会代表の清田さんがKIYOTA COFFEEを創業して、セイロンコーヒーの生産・販売を開始しています。

2013年にキャンディで、吉盛さんがセイロンコーヒー専門カフェ「Natural Coffee」を開業しています。

2018年にはキャンディ郊外にアーユルヴェーダリゾート「Tree of Life」を経営する生活の木が、セイロンコーヒーの生産・販売を開始しています。

日本人以外にも、セイロンコーヒーを手掛ける人たちがいます。

1996年にコロンボでレストラン「クリケット・クラブ」を開業したオーストラリア人のホワイトさんがセイロンコーヒー店「Whight and Co. Cafe」をコロンボに開業。コーヒー豆はコットマレ産で、コーヒー豆の販売、ホテルへの卸売も行っています。

アメリカ人のローレンスさんが、スリランカ人の奥様と始めたのがHansa Coffee。ヌワラエリヤでコーヒーを生産しています。

スーパーでも販売しているのがSoul Coffeeです。ホテルでも見かけることがあります。

まとめ

スリランカはかつてコーヒー生産世界一位でコーヒーさび病で壊滅したと説明されることがありますが、複数の文献に当たると、正しくはブラジル、インドネシアにつぐ第3位だと思われます。スリランカが特殊に凄かったわけではなく、コーヒー生産のトップはブラジルが1位になるまでは、インドネシア、レユニオン島、ハイチ、スリナム、キューバなどが台頭し、ハイチが独立して脱落、キューバが戦争で脱落、レユニオン島がサイクロンで脱落。

そこで伸びてきたのが、コーヒー生産でオランダとフランスに後塵を拝していたイギリスが力を入れたセイロン(スリランカ)。3位になったのも束の間、コーヒーさび病が発生。世界で流行するこの病が最初に流行したのがスリランカでした。コーヒーさび病に耐性のあるロブスタ種が見つかるよりも早く、トーマス・リプトンがスリランカに到着し、コーヒー再開の前に紅茶園になってしまったからコーヒーが廃れたのです。

コーヒーさび病の被害が一番最初で、宗主国イギリスがコーヒーから紅茶に転換し、さらに紅茶王のリプトンがオーストラリアに行く途中に立ち寄ってスリランカに目をつけて、リプトンがロブスタ種の到着よりも早かった、といくつも要因が重なって衰退したのでしょう。

しかし、最近はコロンボやキャンディ、南西海岸のリゾート地などでは美味しいコーヒーを出すカフェ、お洒落なカフェが増えてきています。

コーヒー栽培、コーヒー文化がまた新たに花開くことを期待しています。

是非スリランカにお越しの際は、コーヒーも紅茶も楽しんでいただけたらと思います。

参照

ウィキペディア「コーヒー」
ウィキペディア「コーヒー豆」
ウィキペディア「コーヒーノキ」
ウィキペディア「アラビカコーヒーノキ」
ウィキペディア「ロブスタコーヒーノキ」
coffee mecca「コーヒー豆アラビカ種の特徴と産地」
coffee mecca「コーヒー豆ロブスタ種の特徴と産地」
coffee mecca「コーヒー豆リベリカ種の特徴と産地」
Wikipedia「Kaffa Province」
Wikipedia「Kingdom of Kaffa」
丘の上珈琲(珈琲考房):エチオピア モカ シダモ
コーヒー発祥地?の博物館公開 エチオピアのカファ県
Coffee production in Ethiopia
エチオピア高地の流動する民族間関係 -コーヒー栽培の拡大をめぐって-
ウィキペディア「ゲイシャ (コーヒー)」
ウィキペディア「コーヒー・ハウス」
ウィキペディア「クイーンズ・レイン・コーヒー・ハウス」
ウィキペディア「ル・プロコップ」
ウィキペディア「カッフェ・フローリアン」
UCC上島珈琲「コーヒーの歴史」
ウィキペディア「コーヒーの歴史」
全日本コーヒー協会「コーヒー歴史年表」
ウィキペディア「フランス植民地帝国」
中日新聞「コーヒー栽培が世界に広まる」
コーヒーの品種【ティピカ種、ブルボン種など / 一杯の珈琲ができるまで #2】
Wikipedia「Coffee production in Sri Lanka」
Wikipedia「List of countries by coffee production」
Wikipedia「George Bird (coffee planter)」
Wikipedia「Jeronis de Soysa」
ウィキペディア「ブラジルにおけるコーヒー生産」
コーヒー大国ブラジル!気候や歴史的背景を通じて生産量世界一の理由を紹介
ウィキペディア「ハイチにおけるコーヒー生産」
ウィキペディア「ジャマイカにおけるコーヒー生産」
キューバ クリスタルマウンテン
コーヒー大国ブラジル!気候や歴史的背景を通じて生産量世界一の理由を紹介
【コラム】インドネシアのコーヒー事情
コーヒーの意味と価値の変容 ――エチオピア南西部の事例――
JICA「スリランカコーヒーを知っていますか? フェアトレードが創る架け橋 」
スリランカ国 農村生産者コミュニティのコーヒー分散 型生産・集約管理システムの導入基礎調査 業務完了報告書 
生活の木「幻のセイロンコーヒー」

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