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旅名人ブックス:スリランカ 心安らぐ「インド洋の真珠」

2021年5月03日

地理や歴史的背景が丁寧に記述され、カラー写真もふんだんに使われた日経BPの旅名人ブックス。

124巻まで出版されて廃刊となってしまっていますが、124巻目が『スリランカ 心安らぐ「インド洋の真珠」』です。

スリランカの歴史や民族・宗教について、単純化・省略化して紹介されていることが多い中、この本では経緯や背景が丁寧に紹介されています。

・カトリックを支援したキャンディ王国
・南インド王朝との婚姻関係
・インドとの距離から考察するアヌラーダプラとポロンナルワ
・覇権者の変遷によるカトリック、プロテスタント、イスラムの攻防

などが記されていて、大変興味深いです。

そして、秀逸なのは、歴史を踏まえた地図です。
「ポルトガル時代のコロンボ市街」「オランダ時代のコロンボ市街」が掲載されていて、コロンボの町の形成経緯が分かります。

ゴールの地図もありますが、ゴールの町がポルトガル時代、オランダ時代、イギリス時代を経て、どう形成されてきたのか詳細に記述されています。

「ポルトガルとスペインの世界分割(16世紀末)」「17世紀の欧州・アフリカ・アジア」が掲載されていてい、ポルトガル海上帝国におけるスリランカ、オランダ海上帝国におけるスリランカについても、理解が進みます。

シーギリヤ、アヌラーダプラ、ミヒンタレーなど遺跡の分布を細く記載した地図も素晴らしいです。

ガイドさんとのやりとり、取材時の時間や天候、インタビューに至った経緯なども記載されているのも、とても丁寧です。

以下、本書について紹介します。

425ページの構成

7つの章立て

「はじめに」には本書について以下のように説明されています。

本書はスリランカの仏教遺跡を通してスリランカの古代・中世史と、いわゆる「海のシルクロード」の中継点としてのスリランカの近世・近代史をめぐる歴史の旅の案内書です。

まさにそれを反映したページ割り振りになっています。

第1章スリランカ文化三角地帯:88ページ
第2章キャンディ仏歯寺物語:48ページ
第3章ヌワラエリヤ紅茶物語:68ページ
第4章ゴールと南海岸:96ページ
第5章コロンボとその周辺:66ページ
第6章旅の便利帳:50ページ

「はじめに」は以下の文章で締め括られています。

気がつくと四百ページを超す本となってしまいました。この結果、当初予定していたジェフリー・バワ物語の章は本書から溢れてしまいました。この部分は近々『バワ建築とアマン・リゾート』(仮題)として発刊します。スリランカを知っていただくためにはバワの建築哲学や美学も無視できません。機会があれば一緒に読んでください。

残念ながらジェフリーバワ建築版は発行されなかったようです。
一冊の本にする予定だったようですので、未掲載となったジェフリー・バワ物語は、キャンディ仏歯寺物語、ヌワラエリヤ紅茶物語よりも詳細だったのでしょう。

旅名人ブックス69 アジアのコロニアルホテル 第2版 (2010/2/25)には、スリランカのホテルを追加掲載したことが記載されていました。
ホテルの本とスリランカの歴史を抑えた本を出した編集チームが手掛けるジェフリーバワ本は実現してほしかったです。

町単位のページ割り振り

歴史的背景を丁寧に記述しているため、歴史が有するコロンボ、キャンディ、ゴールの比重が高くなっています。
紅茶関連で合計68ページを割いて、ジェームステイラーについて詳述しているのは、歴史を重視したガイドブックらしいです。

コロンボ:49ページ
キャンディ:40ページ
ゴール:34ページ
アヌラーダプラ:28ページ
ポロンナルワ:26ページ
ルーラコンデラ・キャンディ・ペラデニヤ:20ページ
ヌワラエリヤ:20ページ
紅茶ホテルの滞在:12ページ
紅茶鉄道の旅:10ページ
シーギリヤ:10ページ
カタラガマ:10ページ
ベントタ:8ページ
ニゴンボ:8ページ
ハプタレー・ダンバッテン:5ページ

また、マータラの郊外としてダウンドラ岬をまとめずに別立てにし、
ムルキリガッラはタンガッラの郊外どころかタンガッラよりもページ数を割いています。

イタリアに出稼ぎにいった人たちがイタリア風の自宅を建てたことから、リトルイタリーと呼ばれるコッチカデとウェンナップを取り上げているのは、かなり通です。

ムルキリガッラ:6ページ
タンガッラ:4ページ
マータラ:4ページ
コッチカデ・ウェンナップ:3ページ
ダウンドラ岬:2ページ

執筆者の荻野純一さん

本書のための取材はおそらく2009年の後半に行われたのだと思いますが、8年前(2001年)にも荻野さんはスリランカを訪れているようです。

また、スコットランド、イングランド、マカオ、イエメンでの取材経験を元に共通点や比較した視点で記述されているため、より深みのある内容になっています。

本書では、荻野さんのプロフィールは旅名人編集長となっています。

荻野さんが執筆者に名前が出ている本は以下の通りで、中華圏が多くなっています。
中華圏を細かく分けて、発行されているので、綿密な取材をされていたであろうことを想像させます。
改訂版が何度か出されているのも、こだわりを感じさせます。

旅名人ブックス5 メキシコ古代遺跡とカンクン 第2版 2003/05/31
旅名人ブックス69 アジアのコロニアルホテル 第2版2010/2/25
旅名人ブックス72 広州・マカオ・広東省 2005/05/05
旅名人ブックス88 上海歴史散歩 第2版 改訂新版 2010/05/20
旅名人ブックス88 上海歴史散歩 2007/01/18
旅名人ブックス89 大連・旅順歴史散歩 第2版 分割改訂新版 2010/05/20
旅名人ブックス91 黄山らくらく散歩 2007/04/05
旅名人ブックス92 大連と中国・東北歴史散歩 2007/05/17
旅名人ブックス92 中国・東北歴史散歩 第2版 分割改訂新版 2010/05/20
旅名人ブックス97 青島と山東半島 2007/11/01
旅名人ブックス100 北京歴史散歩 2008/03/06
旅名人ブックス110 台北歴史散歩 2008/07/03
旅名人ブックス104 台南 2008/04/17
旅名人ブックス105 台中・新竹・日月譚・台湾中西部 2008/04/17
旅名人ブックス106 高雄と台湾最南端 2008/05/01
旅名人ブックス107 金門島 澎湖諸島 2008/05/22
旅名人ブックス108 台湾東海岸と基隆 2008/06/26
旅名人ブックス109 九分・淡水・桃園と台北近郊 2008/06/26
旅名人ブックス113 マカオ 2008/08/28
旅名人ブックス113 マカオ歴史散歩 第3版 2009/09/17
旅名人ブックス114 香港歴史散歩 2008/08/28
旅名人ブックス115 寧波・天台・金華と浙江省南部 2008/11/20
旅名人ブックス118 イエメン 2009/04/02
旅名人ブックス113 マカオ 単行本 – 2008/8/28
旅名人ブックス123 リヴァプールとチェスター・中央イングランド 2009/11/05
旅名人ブックス124 スリランカ 2010/03/04

ポロンナルワに遷都したチョーラ朝

ラジャラタ王国がアヌラーダプラを第一の都に、ポロンナルワを第二の都としたことと、
チョーラ朝にラジャラタ王国が占領された後に、チョーラ朝がポロンナルワに遷都したことは知っていましたが、

ラジャラタ王国が南インドの王朝との緊張関係によって、アヌラーダプラとポロンナルワを使い分けていたことは知りませんでした。

また、マレー半島やスマトラ島にも影響を持っていたチョーラ朝にとって、ポロンナルワの方が便利だったのではないか?という考察はまさに!と思いました。

宗教対立、民族対立について

スリランカ内戦があったことから、宗教対立・民族対立について語られることがありますが、的確な説明がされていますので、以下に引用します。

より正確に言えば古代から中世にかけての南インドとセイロン島での争いはあくまで王朝を形成する「上層部同士の争い」「支配者階級内の争い」であった。民族意識が高まった現代のスリランカにおけるシンハラ人とタミル人の対立と連想づけると、古代からすでに民族間の戦争、あるいは仏教徒とヒンズー教徒の争いがあったと混同しかねないけれど、大多数を占める当時の一般庶民は王位をめぐる争いに関しては「蚊帳の外」。王朝間の争いも今日のような民族間の争いとは性格がまったく異なっていた。またタミル人の王にはヒンズー教徒が多かったものの仏教徒の王もいたし、ジャイナ教徒の王もいた。

これは何も南アジアにかぎられたことではなく実は近世までのヨーロッパでも同じである。ヨーロッパでも国王が外国人であることは決して珍しくなく、国民国家が誕生するまでは非支配階級は王が外国人というだけで王位継承に異議を唱えることはなかった。

シンハラ王朝は南インドから渡ってきたヴィジャヤ王、その後を継いだのは南インドから渡ってきた甥。
ポロンナルワの王になったニッサンカ・マーラは南インドの仏教国カリンガの出身。
キャンディ王国の最後の4人の王は、南インドのマドゥライ出身。
など、決して、シンハラ民族の純血の王家ではありません。

それがうまく説明された文章だと思います。

カトリック教徒になったコーッテ王、キャンディ王

ポルトガル領セイロン、コーッテ王国、シーターワカ王国、キャンディ王国、ジャフナ王国が勢力を競っていた時代に、精強を誇ったシーターワカ王国に対抗するため、コーッテ王、キャンディ王がカトリック教徒になっている時代があります。

また、オランダがポルトガルを排除した後に、キャンディ王がインドからカトリックの布教に来たジョゼフ・ヴァズの活動を認めたことも説明されています。

キャンディ=仏教 という単純な図式ではないことが分かります。

ポルトガルとオランダから見たスリランカ

ポルトガル領セイロンからオランダ領セイロンになる経緯が、ポルトガルとオランダの視点から説明されています。

この頃になるとポルトガルは度重なる領土拡張政策で国家財政も膨らみ、その統治に陰りが出始めていた。そのうえモロッコ遠征の過程でポルトガル国王が戦死してしまう。国王には後継者がいなかったため、1581年にスペイン国王フェリペ二世がポルトガル国王フィリーぺ一世として王位を兼務する同君連合の下ではあくまでスペインとポルトガルの両国は同格ではあったものの次第にポルトガルはスペインの属国と化していった。

同君連合はさらに交易ルートにも変化をもたらした。同君連合以前にはポルトガルにとってマカオを拠点とした中国との交易がドル箱となっていた。しかし同君連合の誕生でスペイン植民地のメキシコ経由で東アジアと交易するガレオン貿易が活況を帯び、とりわけボリビア(ポトシ銀山)やメキシコ(クスコやフアナファト銀山など)の銀が東アジアでの交易で大いに活用されるようになると、ポルトガルが開拓した喜望峰経由のルートの重要度が次第に低下していった。また肝心のスペイン自体も対外戦争による戦費の増大に加え、ラテンアメリカの銀山の銀鉱脈の枯渇もあって国家財政が破綻し始めていた。

スペインからの激しい独立戦争を続けていたオランダはこの機を見逃さなかった。統治能力が弱まったポルトガル植民地を次々と奪っていった。

オランダは南アフリカの喜望峰に続いて香料諸島のアンボン(現在のインドネシア領)を占領すると、続いてマラッカ、ジャワ島のバタヴィアを占領して東南アジアのスパイス原産地と中継地を抑えてしまう。やがてオランダはオランダ領東インド(現在のインドネシア)とケープ植民地(南アフリカ)の中継点となるセイロン島にも目を向け始めた。

上記の文章に加えて、
「ポルトガルとスペインの世界分割(16世紀末)」という地図には、ポルトガル領とスペイン領の領土と拠点となる町が示され、

「17世紀の欧州・アフリカ・アジア」という地図にはオランダ領、ポルトガル領、イギリス領、フランス領、イスパニア量が記されていて、ヨーロッパ諸国の権力争いにおける当時のスリランカの位置付けを理解できます。

かつての高級住宅地ペターが現在に至るまで

コロンボやゴールの現在の土地にポルトガル時代、オランダ時代、イギリス時代に何が建っていたのかが説明されています。

コロンボの地区ごとの宗教・民族の濃淡の違い、町並みの違いがどうして形成されたのかがわかるため、コロンボ在住者には必読と思います。

荻野さんのヨーロッパやマカオなどを踏まえた記述に脱帽しますが、インドに何度かいっている私だから付け加えられることがありました。

コロンボのSea Streetには南インドから来た人たちが宝石店を経営していて、チェッティと言われいると記述されています。

これは豪商の町と知られるチェッティナードから渡ってきた人たちなのでしょう。
Sea Streetにはチェッティナードのレストランがあります。
チャッティナードは豪商がいたため、独自の建築と料理で知られています。

スリランカにはインドからの移民を、インドのどの地域から来たのか、どの宗教の人たちなのか、どういう職業の人たちなのか、いつ頃来たかのか、でそれぞれに小さなコミュニティーを形成して、モザイク模様になっています。

ペターがかつてはオランダ系住民の高級住宅地で、その後、南インドから渡ってきたヒンドゥー教徒、イスラム教徒、ゾロアスター教徒、キリスト教徒が移り住んだことが本書を読むと分かります。

宗教は違えど、タミル語を使う人たちが多かったことから、シンハラ語の「ピタ・コトゥワ」ではなく、タミル語の「ペター」と呼ばれている所以がよく分かります。

世界遺産「テルアビブの白い都市」とのつながり

1921年、スコットランドの生物学者・植物学者・都市設計者のパトリック・ゲデスが、コロンボ7をガーデンシティーにする計画を出しているそうで、

「シナモンガーデンズの最南端にある並木道のバウダハローカ・マーワタ、シナモン・ガーデンズの道路群が彼の計画の遺産」という記録がある。

と本書に記載されています。

ウィキペディアを見ると、パトリック・ゲデスは1925年のテルアビブ北部市街拡張計画案では、スリランカ風の集落をもとにした低密度住宅群を提案し、後のイスラエルの都市開発に影響を与えたと言われているそうです。

そして、世界遺産「テルアビブの白い都市」はパトリック・ゲデスの計画案の中に作られているそうです。

並木道がいくつもある緑豊かなコロンボ7の町が、世界的に知られた都市設計者の計画の元に作られたかもしれないという話は、コロンボ7の街歩きをより楽しくしてくるように思います。

スコットランドの街並みとヌワラエリヤ

コッツウォルズで見かける外壁

とヌワラエリヤの建物が説明されています。

これはイギリスを取材してきた荻野さんならではの記述だと思います。

コッツウォルズを調べると、「コッツウォルズストーン」を使った建物群が特徴的な景観の町だそうですが、画像検索すると、なるほど!!と思います。

またハプタレーのページで、アディシャンバンガローについても説明されていますが、建設した人について調べると、イギリスのアディシャン村出身で、アディシャンの画像を検索すると、これまた、なるほど!!と思います。

スリランカを知る上では、イギリス、オランダ、ポルトガル、インド、それぞれの国が植民地した国などを見ると、よりスリランカに対して理解が深まるのだろうなと思います。

ジョームス・テイラー、トーマス・リプトン、ジョージ・スチュアート、エドワード・スキナー、ジョン・ウォーカーなどスコットランド人が名を残し、スコットランドから送られたキャンディの噴水があるなど、スリランカの歴史にスコットランドが関係していることを感じますが、その説明が記載されていました。

当時のスコットランドは地主による土地囲い込み(エンクロージャー)が進行中で、多くの小作人が農地から放り出されていた。土地を失ったスコットランドの農民の多くは、グラスゴーやイングランドの都市に出て工場労働者になり、その一部はインド、中国、そしてスリランカなど海外に出た。

キャンディやヌワラエリヤなどに、スコットランドの守護聖人である聖アンドリューの名を冠する教会が多いのも、そのためだそうです。

インド・ペルシャ・マレー・ジャワからきたイスラム教徒

・ベールワラには、南インドに侵攻したパラークラマ・バーフ1世が移住を許可した場所で、南インドからのイスラム教徒が多い

・プッタラマ、チラウなど真珠業が盛んだった地域にいるイスラム教徒はペルシャ湾出身。

・マータレーとキャンディの間にあるアクラナ(Akurana)は、スパイスプランテーションで働くために南インドから移民したタミル系のイスラム教徒の子孫。

・ハンバントータは交易で移住したマレー系のイスラム教徒

・コロンボのOld Moor Street、New Moor Streetはオランダ統治時代にジャワ島から、イギリス統治時代にマレー半島から連れてこられた軍人のイスラム教徒の移住した地域。

と説明されています。
その説明に付け加えると、

・コロンボのスレイブアイランドのイスラム教徒もジャワ島やマレー半島から兵士として連れてこられた人たちの末裔

です。

イスラム教徒といっても、出身とする地域は異なります。
スリランカには、パールシーやメーモン人、モザンビークから連れてこられた人々の末裔もいますので、多様な人々がいます。

ジャフナ近辺にジャワ島に由来する地名がありますが、仏教国だったタンブラリンガ国からの移住者ですので、ジャワ島出身でもイスラム教徒ではなさそうです。

ポルトガル、オランダ、イギリスが残したもの

ポルトガルはカトリック、ポルトガル人名、ポルトガル由来の言葉を残し、
オランダは沿岸部に要塞、そして混血のバーガー人を多く残し、
イギリスは現在も残るコロニアル建築や英語を残しましたが、
3カ国が残したものと、消えたものの背景が分かる記述があります。

・オランダ東インド会社のもとで、残ったポルトガル人が活躍したこと
・セイロン島に永住する人を増やそうとしたオランダ東インド会社の政策
・イギリス時代に蒸気船がセイロン島に到着し、家族での移住が可能になったこと
などが記述されています。

10数年前のお勧めホテルが興味深い

2009〜2010年時点でのオススメホテルなので、今見ると非常に面白いです。

ヒルトンコロンボにはかつて、ディルマのカフェがあったようです。

ホテルの本を出したり、歴史を詳述する荻野さんが書かれているので、ホテルのなる前に何に使われていたのか、あるいはどんな土地だったのか、オーナーや建築家は誰かなど、歴史的経緯が詳しく書かれています。

参照)

Wikipedia:Joseph Vaz
ウィキペディア:コッツウォルズ
ウィキペディア:パトリック・ゲデス
ウィキペディア:テルアビブの白い都市
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