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『NHK海のシルクロード第4巻 仏陀と宝石/黄金半島を越える』

2022年4月06日

1980年代の日本にシルクロードブームを巻き起こした「NHK特集 シルクロード」。

その第3弾は、地中海から中国まで海のシルクロードが1年間に渡って放送され、スリランカは「仏陀と宝石」というタイトルで放送されています。

第1弾の取材から第3弾の放送終了まで10年間、
取材距離10万キロという壮大なスケールの番組です。

今回はその書籍版『NHK海のシルクロード第4巻 仏陀と宝石/黄金半島を越える』を紹介します。

モルディブの仏教遺跡から始まり、アヌラーダプラ、ポロンナルワ、シーギリヤ、ニゴンボ、コロンボ、ラトゥナプラ、アダムスピーク、ベールワラ、ゴール、マータラ、ヤーラとスリランカ各地を取材しています。

大乗仏教の総本山だったアヌラーダプラのアバヤギリ大塔が雑草に埋もれている写真、
ニゴンボの浜にアウトリガーが集まっている写真など、今では見られない様子を収めた写真が掲載されています。

現在では観光客から撮影料をもらうのが目的と言われるストルトフィッシングについては、「朝の2時間ほどで腰にさげた袋いっぱいになる。(中略)朝夕の涼しい時間だけで50ルピーの稼ぎになるという」と書かれていて、当時は実際に釣りをしていたようです。

1980年代だからこそ取材できたものも掲載されていて、読み応えがあります。

本書の概要

NHK特集 シルクロードとは?

NHK特集 シルクロードは、中国電視台との共同取材が実現し、世界で初めて中国領土内のシルクロードを紹介したことで、大きな反響を呼び、日本にシルクロードブームを巻き起こした連続もののテレビ番組です。

シリーズは陸のシルクロードで一度完結したそうですが、取材班がシリア沖の海底で貿易品を運んだ壺の山を発見したことで、日本・シリア合同調査団が発足して発掘調査が行われたことから、シリアからスタートしてエジプトからナイル川を遡り、紅海からアラビア海、インド西海岸、モルディブ・スリランカ、スマトラ島・マレー半島・シーチャン島・ジャワ島・スラウェシ島・テルテナ島、南シナ海、東シナ海と取材しています。

放送日は以下の通りです。
1980年4月〜1981年3月に全12回で放送された『日中共同制作シルクロード 絲綢之路』中国の西安からパミール高原まで
1983年4月〜1984年9月に全18回で放送された『シルクロード第2部 ローマへの道』パミール高原からローマまで
1988年4月〜1989年3月に全12回で放送された『海のシルクロード』シリアから西安まで

それぞれ書籍(取材記)と写真が発行されています。
シルクロード 絲綢之路は取材記が全6巻、写真集が全3巻
シルクロード ローマへの道も取材記が全6巻、写真集が全3巻
海のシルクロードは、取材記が全6巻、写真集が全4巻が発行されています。

書籍の概要

全12回の放送を2つずつまとめて書籍にまとめられていますが、本書は以下の2つの番組の取材記がメインとなっています。

1988年10月30日に放送されたモルディブとスリランカを舞台にした第8回「仏陀と宝石」
1988年11月27日に放送されたマレー半島・ジャワ島・マルク諸島を舞台にした第9回「黄金半島を越える」

巻頭に作家の三浦朱門さんの文章が、
巻末に学者の増田義郎さんの文章が掲載され、
それぞれまとまったページ数があり、贅沢な本に仕上がっています。

本書を読むと、長期の海外取材で費用が多くかかっているのが想像できますが、書籍化に当たって、それぞれの巻で別々の作家・学者2名に執筆を依頼していて、その力の入れようを感じます。

発行日は、第8回「仏陀と宝石」の放送日と同じ1988年10月30日で、メディアミックスで展開されたようです。

書籍『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の発行年は1979年で、まさにその年から番組の取材が開始され、当時はインターネットは普及していませんので、日本の経済の黄金期の最も影響力のあるメディアによる豪華な企画だったのでしょう。

参考)
NHK:放送史  NHK特集 海のシルクロード
ウィキペディア:NHK特集 シルクロード
ウィキペディア:三浦朱門
ウィキペディア:増田義郎
ウィキペディア:ジャパン・アズ・ナンバーワン

目次

東南アジア世界の構図 三浦朱門
はじめに 鈴木肇(NHK シルクロードプロジェクト チーフディレクター)
仏陀と宝石 NHK取材班(小笠原昌夫・原口卓也)
黄金半島を越える NHK取材班(中村均)
香料の路 増田義郎
おわりに 小河原正己(NHK シルクロードプロジェクト チーフプロデューサー)

香料の路

増田さんの環インド洋文化圏の説明がとても分かりやすいです。

現代では環太平洋圏と言われますが、古代においては広大すぎて一つの経済圏・文化圏は形成されていません。

経済圏・文化圏が形成されたのは以下の4つで、そのうち最大のものが環インド洋圏だと指摘されています。
・環東シナ海圏
・環南シナ海圏
・環インド洋圏
・環地中海圏

大航海時代のスパイス貿易とスリランカの関係が分かる記述を以下にピックアップします。

  • なんと言っても香料の主役はクローブとナツメグであった。
  • ナツメグはクローブに比べて、ずっと遅くなってから商品化された。
  • 胡椒の主要な産地はインドのマラバル地方だが、ジャワ島でも産し、16世紀のオランダ人ヤン・ハイヘン・ファン・リスホーテンの『東方案内記』(1596年)によれば「インドのマラバル産の胡椒より上等」であったという。
  • シナモンはセイロン島が主産地であった。

東南アジア世界の構図

東南アジアはインド文化圏と言われ、かつて東インドと言われたインドネシアは「インドの島々」という意味だと言われますが、三浦さんは以下の3点を指摘されています。

  • 東南アジアの気候はインド亜大陸と似ている。
  • 一つの自然に適応した文明は、同じ気候を求めて発展する傾向が見られる。
  • インド人がこの地に関心を持った原因は黄金であったという。

かつてのシルクロードは、現在はオイルロードという指摘はたしかに!と思いました。

現在では海のシルクロードは油の道として、東と西、殊に日本と中近東を結びつけている。

仏陀と宝石

モルディブの仏教遺跡

モルディブは、島が輪のように集まった環礁(アトール)が20あります。
首都マーレがあるのは、北マーレ・アトールの南端です。

NHK取材チームが訪れたのは、北マーレ・アトールの西隣にあるアリ・アトールです。
アリ・アトールの北端の島「アリア・ドゥー」、と南端の島「トー・ドゥー」の仏教遺跡を取材しています。

紀元前5世紀にインドから、あるいはスリランカからシンハラ人が渡来して仏教が伝来したとされている一方で、シーギリヤを始めスリランカの遺跡調査をしたハリー・チャールズ・パーヴィス・ベルによれば、モルディブで発見されたストゥーパ跡はインドやスリランカの古いストゥーパと異なると指摘しているそうです。

本書には、アリア・ドゥーの仏塔遺跡はカラー写真で、トー・ドゥーの仏塔遺跡はモノクロ写真で掲載されています。

参考)
Wikipedia:Harry Charles Purvis Bell

海のシルクロードにおけるスリランカ

スリランカが以下のように紹介されています。

  • アラビア半島と東南アジアを結ぶ海上ルートのほぼ中央に位置するスリランカは、東西貿易の中継地として、古くから栄え、西はローマ、東は中国に至る多彩な国々と交易の歴史を繰り広げてきた。
  • 商人には宝石とシナモンの島として知られ、インド洋を越える船乗りたちには休息地、海のオアシスとしてなくてはならない場所であった。
  • プトレマイオスの『地理学』にインド大陸より大きく紹介されているのも、この島が「海のシルクロード」上で欠くことのできない重要な島であったことを物語っている。

スリランカでの取材は、国営放送局ルパバヒニTVとの共同取材だったそうです。

古代の計画都市アヌラーダプラ

アヌラーダプラの説明が非常に分かりやすいです。

  • アヌラーダプラは計画都市であった。市民と異教徒や外国人との居住区ははっきりと区別され、宿泊所や病院がつくられ、人造湖を持ち、上下水道の完備した衛生的な町であったという。
  • 歴代の王は大塔建設を第一の事業とした。土を掘りレンガを焼き大塔を建設することで国民の人望を集め、土を掘り取った跡にできる巨大な穴を溜め池として利用し、旱魃の被害から農家を守った
  • 僧は、金に触ってはいけない、午後は食事をしない、むやみに花を折らない、物を欲しがらない、花や香で身を飾らないなど、その数は二百以上にものぼる。一度仏門に入ると、我が子といえども女である母は触れることはできない。これらの戒律を破らずに僧が修行できるように、仏教徒は食事、衣服、日用品を寺に寄進する。
  • 寺の食堂跡には長さ20メートルもあるライス・ボートが残っている。御飯を入れた、いわば石でできたおひつである。発掘調査隊が試しに米を入れたところ、五千人分入ったという。その横には、長さ6メートルのスープ・ボードも残っている。これにはカレーでも入れたのであろうか。
  • 病院跡からは、石でできた治療台が見つかっている。長さ2メートルほどのこの治療台は、人型にくり抜かれている。毒蛇に噛まれたり、高熱の時など、患者をこの治療台のくぼみに寝かせ、まわりを薬液でみたし、治療したという。
  • 住居跡からは、トレイが見つかっている。トイレの底には小石や砂、植物の葉などが層状に敷き詰められ、浄化できる工夫がなされていた。その近くに、用を済ませた後お尻を水で洗うためのビデも見つかっている。

70代でスリランカを訪れた法顕

玄奘三蔵の旅よりも200年以上前に、中国(東晋)を旅立って11年経った75歳の法顕自身に関する法顕伝の記述が紹介されています。

「この玉像の傍で、商人が晋の白絹の扇で供養するのを見て、思わず悲嘆にくれ涙が両眼に溢れたのであった。」

スリランカの南西部にあるパヒヤンガラについて、面白いことが書かれていました。

ファーヒンの意味は長いこと謎であった。ファーヒンが法顕の中国語での発音であるとわかったのは、つい最近のことであるという。『法顕伝』を読むと、法顕はスリランカで修行するかたわら旅に出ている。

ポロンナルワ

  • ヒンドゥー寺院シヴァ・デバレが建っている。(中略)王の中にはチョーラ朝と仲良くするため南インドから后を迎える者もいた。一説には、この寺院は南インドから来たその王妃のために作られたものだという。
  • ムーンストーンは戒めを絵に表したものであるという。石に彫られた蔦と火は人間の欲望を意味し、アヒルは汚い池でも白い清らかな姿で生きる動物の代表である。そして4種類の動物、うま、獅子、牛、象は人の一生を表している。

世界の関心を集めたシーギリヤレディー

  • この遺跡がジャングルの中から発見されたのは1831年、あるイギリス人によってである。この時はあまり話題とはならなかった。それから44年後、麓から望遠鏡でこの岩山をのぞいていたイギリス人デイビッドの眼に、花を手に微笑む数人の美女の姿が映った。(中略)このニュースは一大センセーションを引き起こした。

ダンブッラ(ランギリダンプラ)

ダンプラは正確にはランギリダンプラである。

と書かれています。

これは私にとって重要な記述でした。

世界遺産名は「ダンブッラの黄金寺院(Golden Temple of Dambulla)」と言いますが、なぜ黄金なのかが気になっていました。

ダンブッラの岩山の麓には黄金の仏像がありますが、それは近年に作られたものです。

本書ではランギリダンプラの意味を説明していますが、本記事では『シンハラ語・日本語辞典』からその意味を引用します。

ラン=金
ギリ=岩山
ダンバ=岩
ブブラ(ブッブラ)=泡、泉

ダンブッラには、ラキ・セナナヤケさんの「ディヤ・ブブラ」がありますが、ディヤは水、ブブラは泉を意味そうですが、ダンブッラから付けられたのでしょう。

ダンブッラの石窟寺院は、岩山を登ったところにありますので、この岩山が「ラン・ギリ(黄金の岩山)」で、第二窟の天井からは水が湧き出ていますが、これが「ダンバ・ブブラ」、短縮されて「ダンブッラ」となったのでしょう。

参考)
ウィキペディア:ダンブッラの黄金寺院

ニゴンボ

  • ニゴンボはスリランカで最も古い漁村と言われ、その歴史は二千年以上も遡ることができる。
  • インド洋を越え、スリランカに到着したアラブ人は、この町でシナモン栽培に力を入れた。
  • 仏教の国スリランカにもカースト制度は存在した。その中で漁師の地位は低い。救われない世界から逃れるために、多くの漁師がキリスト教に改宗したという。

コロンボ

  • 最初にコロンボに町を作ったのは、7世紀、スリランカにシナモンと宝石を求めて渡ってきたアラブの商人であった。
  • 16世紀、続いてやってきたポルトガル人は、町からイスラム教徒を追放し、砦を築きコロンボと名付けた。

ラトゥナプラ

世界最大級のブルーサファイアの原石とともに写真に写っている宝石王グルゲさんの発掘中の露天掘りは非常に大きく、本書に掲載されている写真は見ものです。

  • 『アラビアンナイト(千夜一夜物語)』の中で船乗りシンドバッドが素晴らしい宝石の村を訪ねたとあるのは、スリランカの宝石産地ラトゥナプラのことである。
  • その全てが洗い終わると、ザルの小石の中に原石が混じってないかを調べる、彼らが最も興奮する時を迎える。石を見分けるのは、それを専門にしている男だ。
  • 男が調べ終わったザルを、今度は鉱夫たちが調べる。石を見分ける専門家がいい石を見落とすことはまずない。彼らは小さすぎて宝石としての価値はないが、この町にやってくる観光客には売れる石を探している。小遣い稼ぎである。

採掘のお金の分配について書かれているのが参考になりました。

鉱夫たちには1日に食事代として3ルピー(約15円)が渡される。この金額では食事も満足にとれない。だが、もしいい石が見つかると、それ相当の配分がある。その配分方法はこうである。まず5分の1を土地の所有者がとる。続いて井戸を掘るのにかかった費用、ポンプのレンタル代、油代、材木代などを引く。彼らの食事代もこのとき引かれる。残った金額を全員で平等に分ける。一本の井戸を掘るのに、およそ10万ルピーはかかる。今日見つかったほどの質のいい石があと2個は出ないと儲けにならない。赤字で終わる井戸も少なくない。

以下の話は非常にイメージが湧くが説明です。

ラトナプラの町には、宝石を掘って四十年、五十年という老人も少なくない。彼らに「今まで一番思い出に残ることは何ですか?」と聞くと、ほぼ全員が「若い頃、二十万ルピーもするルビーを見つけた」と、いい石を見つけた時の昔話をはじめる。たぶんそれは事実であろう。その金を元手に井戸を掘るが、幸運は二度続けてはおこらず金を失う。

アダムスピーク

  • 11月から5月にかけて、この山に登る巡礼者の姿が絶えることはない。
  • 特に仏教徒にとって大切な3月の満月の日(中略)麓から山頂まで長いひと筋の白い道が浮かび上がるという。
  • ラトナプラからのものが最も古くから開けており、ラージャ・マワタ(王の道)として、かつては歴代の国王がこの道からも登ったと言われている。

ベールワラ

  • ここにイスラム人が住むようになったのは800年頃、今もその当時に作られたカラハリ・モスクが町に残っている。船乗りシンドバッドの話も、ここのイスラム人によって、宝石とともにアラブの国々に伝えられた。
  • 白い波頭が打ち寄せる浜は太陽の光を浴び金色に輝いている。ゴールデンビーチの名もこの浜の色からきたという。

ゴール

  • インドネシアの香料を手に入れたオランダにとって、ゴールはインド洋を越えるための水と食料の最後の補給地としてなくてはならない港であった。入り口の壁は建物になっていて、今も何かの会社に使われている。

マータラの悪魔祓い

月に4〜5回治療に当たっているという呪医と、
毎月20回ほど悪魔祓いの儀式を行なっているというダンサーによる12時間を超える儀式(観客は300人)をNHKは取材しています。

  • この儀式にかける金は3万ルピー、この国の勤労者の平均年収の三年分に相当する。
  • 時々おどけた仕草で村の若者を追いかけたりして、見物人の笑いを買う。
  • この悪魔と呪医の言葉のやりとりが続く。何か面白いことを話しているらしく、観客の間から爆笑が起こる。
  • 笑いを提供してくれる悪魔祓いの儀式は村の娯楽ともなっている。
  • 夜の11時を回っても踊りは続く。だが観客は誰も帰らない。家の者が観客に菓子とお茶を配って歩く。

ヤーラ

石窟で修行する僧と寄進する仏教徒を取材しています。

  • 一つの自然石に一つの石窟がある。
  • 一つの石窟に一人の僧が住む。
  • 彼らの一日は実に単調だ。一日の大半は自由時間である。自室で、木陰で、経を読んで過ごす。彼らが全員で行動するのは、菩提樹と仏さまに朝夕花と水を捧げるとき、1キロほど離れた集会所に食事の布施をもらいに行くときぐらいのものである。
  • 青色の大型バスが停まっている。(中略)彼らはコロンボの近くケラニアの町から来たという。総勢五十人。2/3は女性である。この日の当番は一年前に決まった。彼らは親戚や近所の人に声をかけ、苦しい生活の中から毎日少しずつ金を貯め、ここにきた。食事だけではない。当番に決まると法衣、灯明の油、線香など修行に使うものから歯ブラシ、文房具など日用品まで寄進する。これにかかる費用は1万ルピーを下らない。彼らの年収にあたる。

黄金半島を越える

スパイス貿易の拠点「テルテナ島」

オランダ東インド会社がバタヴィアの前に本拠地を置いたクローブの産地「テルテナ島」。

マルク諸島(香料諸島)はポルトガルとスペインが争い、続いてオランダとイギリスが争った地であることが説明されています。

クローブについて、以下のように説明されています。

  • クローブはオイゲノールを主成分とし、辛い刺激性の焼けつくような焦臭に近い香味を持っている。
  • オイゲノールは香料中で最も殺菌力と防腐力が強いから、これを主成分とするクローブは飲食品の保存に最も適している。
  • クローブとナツメグは、はじめ中国にもたらされ、胃腸、肝臓の妙薬として珍重された。それがやがてヨーロッパに渡り、スパイスとして爆発的な人気を呼んだのである。

取材記では、鉄串を体に突き刺すバダブス・ダンスが紹介されています。

まるでタミルのアーディヴェルのようです。

参考)
ウィキペディア:テルテナ

見るだけで痛い!タミルの槍祭り「アーディヴェル(タイプーサム)」

マレー半島のタミル人入植地

マラッカ海峡ルートとは別にマレー半島を陸路で通過するルートがあったことが書かれてます。

  • アラブやインドの商人がここを通過するためには、半島に沿ってマラッカ海峡を南下した上さらに北上し、中国へ向かわなければならない。これは往復で二年もかかる長いものだった。このルートは遠いだけでなく、海賊におそわれる危険も少なからずあった。
  • 2世紀の地理学者プトレマイオスは、マレー半島を黄金半島と記している。その頃のインド東海岸の船乗りたちには、マレー半島は「黄金の土地」として知られていた。すでに前3世紀に、アショーカ王は仏教の伝導師団を「黄金の土地」へ派遣している。
  • 青銅の原料である錫は、古代から黄金と並ぶマレー半島の重要な輸出品となっていて、タクアパはその採掘の拠点である。

共栄タンカーのページには、マラッカ海峡は「狭く水深も浅いため、これまで多くの海難事故が発生している」とも書かれていて、マラッカ海峡を避ける理由はいくつもあったようです。

ウィキペディアのタクワパー郡のページには、町の名前の語源はタミル語だと書かされています。

タクワとはタミル語で「鉛」を意味する「タコラム」から来ていると言われる。パーとはタイ語で森を意味する。

マレー半島のムアンナコーンシータンマラート郡は、ジャフナ半島を占領したタンブラリンガ国の首都リゴールが置かれ、インドからの入植地だとも言われていますので、マレー半島と南インドやスリランカをタミル人が行き来していたのでしょう。

三浦さんと増田さんの文章にも、インドから植民に関する記述があります。

  • インドネシア半島南部にインド系の植民者が現れ、林邑(チャンパ)やその南の扶南などが興った。
  • この地域で最初に歴史に登場する国家は、今日のカンボジャ付近に紀元1世紀ころ出現した扶南である。(中略)発音は日本語でいえばプナンという音に近く、今日のプノンペンなどのプノン(山)と関連があるとされる。

参考)
共栄タンカー株式会社:オイルロード〜1万キロの旅に密着〜
ウィキペディア:タクワパー郡
ウィキペディア:チャイヤー郡
ウィキペディア:ムアンナコーンシータンマラート郡

まとめ

本記事では、スリランカに関係するところを中心にピックアップしましたが、本書には勉強になることがたくさん書いてありました。

スリランカを知るには、スリランカだけを見ていても分からず、もう少し広い視点で捉えると見えるものがありますが、本書はインド洋から南シナ海にかけた交易におけるスリランカの位置付けを理解することができ、非常に面白かったです。

80年代のスリランカの様子を見たい方や、歴史やスパイス貿易、海のシルクロードに興味がある方にはとてもオススメの本です。