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スリランカ内戦とは?

2019年10月14日

スリランカでは、26年間(1983年7月23日~2009年5月19日)の内戦がありました。

戦争による被害は、以下にように言われています。
・死者10万人以上
・国内避難民30万人以上
・国外避難民10万人以上(主にインドのタミル・ナードゥ州に避難)

本記事では、スリランカ内戦について、その背景と経緯について紹介します。。

多民族多宗教国家スリランカ

スリランカには、人口の7割を占めるシンハラ人と2割弱を占めるタミル人、スリランカムーア人(ムスリム)やバーガー人など様々な民族が住んでいます。

イギリスから独立したスリランカでは、仏教再興運動、そして、シンハラ仏教ナショナリズムが台頭しました。
イギリスは植民地支配では少数派のタミル人が優遇していましたが、シンハラ仏教ナショナリズムによって、相対的にタミル人は制限を受けるようになります。
そうした中で、タミル人過激派組織が登場します。

データで徹底解説!スリランカの民族・宗教構成とその分布

内戦に至る背景〜シンハラ仏教ナショナリズムの台頭〜

当初、シンハラ仏教ナショナリズムは、反キリストの動きから始まります。

イギリス領セイロン時代、キリスト教ミッションがスリランカにおける学校教育を開始します。
政府は公立学校を設立するよりもミッション系スクールを支援する方が良いのため、学校教育はキリスト教ミッションが担います。

仏教批判を行う宣教師がいるなどの問題が指摘され、子供たちがキリスト教のミッションスクールで学んでいることに対して危機感を持つ人たちが出てきて、仏教再興運動が起こります。

以降、大きな出来事を時系列に紹介します。

1883年、コタヘナで仏教徒とキリスト教徒が衝突が発生。
飲酒は西洋の悪習として、禁酒運動が起こります。

1890年、スリランカを訪れたアメリカ人のヘンリー・スティール・オルコットは神智協会を組織。

1892年、仏教僧ヒッカドゥウェ・スマンガラからのサポートを得たオルコットは仏教徒英語学校(Buddhist English School)をペターに創設。

1915年、反ムーア人暴動(仏教徒によるムーア人の商店、モスクへの攻撃)

1930年代、反インド人キャンペーン(鉄道、港湾で働くインド人への排斥)
南部の貧しい地域からタミル人が多い北部・東部への入植政策。

1943年、J. R. ジャヤワルダナによるシンハラ語を唯一の公用語にする決議案の提出

1948年、セイロンとして独立し、その後、インド・タミルの国籍剥奪

1956年、シンハラオンリー政策を採択したバンダーラナーヤカ政権が誕生
タミル人比率は専門職で60%から10%、行政職は30%から5%、軍隊は40%から1%と激減。

1958年、シンハラ人とタミル人との間に暴動発生

1972年、憲法にシンハラ語のみが公用語と明記
プラバーカランが「タミルの新しいトラ(TNTTamil New Tiger)を設立

1975年、プラバーカランによるジャフナ市長の暗殺
プラバーカランがタミルの新しいトラを、「タミル・イラーム解放のトラ(LTTE:Liberation Tigers of Tamil Eelam)に改称。

1977年、シンハラ人暴徒によるタミル人襲撃

1981年、シンハラ人暴徒によるタミル人襲撃

スリランカ内戦の経緯

26年に及んだスリランカ内戦は、幾度にわたる停戦合意から大きく4つの時期に分けられます。

第一次内戦期(1983年~1987年)

1983年、LTTEが北部都市ジャフナで政府軍の兵士13人を殺害したのを機に、ついに全面的な内戦へと突入しました。
その報復として同年7月、コロンボでは暴徒化したシンハラ人がタミル人の住む地域を襲撃、虐殺や略奪が発生し多くのタミル人が亡くなりました。
このときから、多くのタミル人が国外へ避難するようになります。
内戦は、LTTEによるテロと政府軍によるその応酬で次第に泥沼化していきます。
LTTEはジャフナ市長の殺害や仏教の聖地であるアヌラーダプラで放火、虐殺を行いました。

1987年には、タミル人が多く住むインドが内戦に介入。
タミル人が多く住むインドはLTTEに協力的で、当時武器や資金などもインドが支援していました。
インドは1987年から1990年まで平和維持軍を派遣しており、内戦における初めての停戦合意の締結にも協力しました。

第二次内戦期(1990年~1995年)

しかし、その停戦合意はすぐに崩れることになります。
1990年には停戦合意が崩壊し、再び内戦状態へ突入しました。
インドの平和維持軍はこのときに撤退しています。
LTTEがインドの大臣だった人物を殺害したことで、インドのLTTE支援はこれを機に縮小していきます。

また、LTTEはインドの平和維持軍が撤退したのを機に北東部のほとんどを支配下におさめます。
LTTEは北東部の一部地域の警察を虐殺すると、政府軍は支配地域への食料や物資のルートを遮断、LTTEの要所を激しく攻撃し、戦闘はさらに激しくなりました。

1991年には、北部地域のキリノッチ近くの軍事拠点だったエレファントパスで大規模な戦闘が起き、延べ2000人以上が死亡しました。

1993年5月、プレマダーサ大統領が、LTTEの自爆テロによって殺害されます。

第三次内戦期(1995年~2002年)

1995年に、再び停戦合意が締結されましたが、すぐに無効化され内戦状態へ突入します。

1996年1月、コロンボの国立銀行(Central Bank Building)での自爆テロによって約150名が死亡しています。

2001年には、スリランカの空の窓口であるバンダラナイケ国際空港がLTTEによって襲撃されています。
北部地域では、政府軍とLTTEによる激しい戦闘と民間人への虐殺が発生しました。

2002年2月22日、和平交渉に実績があったノルウェーによって停戦合意が結ばれました。
停戦合意後には6回もの和平交渉が行われました。

日本も和平交渉において大きな役割を担います。
2002年8月4日、駐スリランカ大使の大塚清一郎氏がLTTEの本拠地キリノッチでLTTEナンバー2で政治部長のタミルチェルヴァン氏と和平について会談。
2002年10月にスリランカ平和構築・復興開発担当日本政府代表として明石康氏が任命。
2003年1月、外相の川口順子氏がスリランカを訪問。
2003年3月、日本政府がスリランカ政府・LTTEの和平交渉を箱根で主催
2003年6月、日本政府が「スリランカ復興開発に関する東京会議」を開催し、51か国、22の国際機関が参加、45億ドルの復興支援が表明された。

2004年には、スマトラ沖津波地震が発生し、LTTE支配地域を含む全土が甚大な被害を受けますが、内戦状態下の混乱した中で支援は全土にまで行き渡りませんでした。

この時期の動きについては、駐スリランカ大使をされていた大塚さんの著書が参考になります。

スリランカ内戦中にLTTE本拠地に行き和平交渉をした大塚清一郎氏の著書『キルトをはいた外交官』笑いは世界をめぐる

第四次内戦期(2006年~2009年)

停戦合意後も、LTTEはテロを続け、政府軍のそれに対する応酬が続きました。
2006年、政府軍はついに海軍と空軍を動員し、総力戦をはじめます。
そのとき、LTTEは内部の離反などによる混乱と国際社会の非難によって国外タミル人ネットワークの支援が途絶えたことにより、当初より弱小化していました。

中国やパキスタンなどから支援を受けた政府軍の殲滅作戦は圧倒的でした。
LTTEも南部都市のゴール襲撃や空軍基地への空襲で必死の抵抗をみせますが、強大な政府軍を前に急速に支配地域は狭まっていきます。
2007年には政府軍は東部地域を奪還し、LTTEの本拠地だったキリノッチを爆撃。
2008年には、勝利が目の前になった政府軍が停戦合意を完全に破棄し、2009年1月にはLTTEの本拠地キリノッチを陥落させ、LTTEが逃げ込んだ北東部の小さな街ムッライッティーブもおさえます。

このときLTTEは、ムッライッティーブの一部地域に逃げ込み、20万人の住民を使って政府軍の侵攻をはばむ、人間の盾と呼ばれる作戦を実行。
政府軍は2009年4月に、住民の大規模な救出作戦を成功させ、最後の攻撃を行います。
2009年5月17日にはLTTEの広報委員長が戦闘破棄を発表、翌18日にはLTTE最高指導者ヴェルピライ・プラバカラン議長の遺体がジャングルの中で発見されました。
19日、ラージャパクサ元大統領は、プラバカラン議長の遺体発見を機に、内戦の終結を宣言。
こうして、26年にわたるスリランカ内戦に幕が下ろされたのでした。

スリランカ内戦のその後

26年にわたる内戦は、幾度もの停戦合意を経て、最終的には戦闘によって終結しました。
戦闘の中では、政府軍による民間人への攻撃、捕虜に対する非人道行為、LTTEによる子どもの徴兵、人間の盾、無差別テロなど、多くの問題が国連によって追求されています。

犠牲者数は10万人以上、難民は数十万とも、国外に避難した難民を加味すると数百万にのぼるとも言われています。
政府は、いずれの問題も認めてはおらず、今もなお真相は謎に包まれたままです。
特に内戦終盤期には、両者ともに戦闘員と民間人の境なく攻撃しています。
北部の街でLTTEが展開した人間の盾作戦では、政府軍は住民を救出したとしていますが、攻撃地域に残された住民がその後の政府軍による激しい爆撃で亡くなっていることが分かっています。

最後に

内戦後、スリランカは持続的な経済成長を享受し、今では世界中から観光客が集まる国となりました。
しかし、26年の長きにわたった血で血を洗う戦闘はたった10年前に終わったに過ぎません。
日本も内戦の交渉に深く関わっています。
スリランカを旅行する際に内戦について知っておくと、より深くスリランカという国を知ることができるでしょう。

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スリランカ内戦とタミル人難民を描いた『ディーパンの闘い』

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参照

・外務省:わかる!国際情勢 スリランカ内戦の終結~シンハラ人とタミル人の和解に向けて~
・アジア経済研究所「スリランカ内戦に関する国際専門家レポート(荒井悦代)」
・アジア経済研究所「スリランカ 内戦終結から1年(荒井悦代)
・Sri Lankan Civil War-wikipedi

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