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スリランカ内戦とタミル人難民を描いた『ディーパンの闘い』

2021年3月21日

スリランカ北部のべラナイ島アッライピディ村に生まれ、LTTEの少年兵となった後に、LTTEを脱退してフランスに亡命し、作家・俳優となったアントニーターサン・ジェスターサンが主演を務めた『ディーパンの闘い』。

この作品の半分は、アントニーターサン・ジェスターサンの半生であるそうで、スリランカ内戦の最中にフランスに亡命して、偽装家族となって暮らしたLTTE元兵士ディーパンと女性・少女の3人の暮らしを描いた内容になっています。

2015年、第68回カンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールを受賞。
監督は『真夜中のピアニスト』『預言者』『君と歩く世界』など数々の名作を手がけたフランスの名匠ジャック・オーディアール。

本記事では、本映画の内容がリアルに感じられるように、ジェスターサンの半生と関連情報を紹介します。

アントニーターサン・ジェスターサンの半生

1967年、スリランカ北部のべラナイ島のアッライピディ村に生まれ。

1983年、スリランカ内戦の引き金となる「暗黒の7月」にショックを受けて、15〜16歳の時にタミル・イーラム解放のトラ(LTTE)に参加。
1984年にLTTEのフルタイムのメンバーになるも、1986年にLTTEに幻滅して脱退。

1987年7月にインド・スリランカ協定が調印された後に、コロンボへ移住します。
LTTEとインド平和維持軍との間で戦いが始まると、LTTEメンバーであったことからコロンボで逮捕されます。
プレマダーサ政権がLTTEとの和平交渉の際に、一度釈放されます。

1988年、唯一ビザなしで渡航できる香港に19歳で渡航。
安宿が集まるビルとして知られている「重慶大厦」に6ヶ月滞在した後に、タイに移動します。
タイでは、国連難民高等弁務官事務所の支援で、バンコクの郊外に住んでいます。

1990年8月、スリランカ陸軍はジャフナ要塞を取り返すため、アッライピディ村を占領。
85人の若者がスリランカ陸軍に捕まり、消息を断っています。
また、ジェスターサンの周囲の話によれば、23人の親戚がスリランカ陸軍に殺害されたそうです。
アッライピディ村がスリランカ海軍基地となった後に、ジェスターサンの両親はマドラスに逃亡。

1993年、ジェスターサンと兄弟姉妹はフランスの偽造パスポートでフランスに逃げ、政治的亡命が認められます。
ジェスターサンはパリで仕事を得た後に、左翼的政策を主張する革新共産主義団体のメンバーになり、スリランカ政府とLTTEの人権侵害・残虐行為に抗議します。

革新共産主義団体に4年間在籍していた際に友人から文学をすすめられ、1990年代、ジェスターサンは作家活動を始めます。
2001年にLTTEの少年兵だった経験から書き上げた小説『Gorilla(ゴリラ、乱暴な男の意味)』を発表。
2003年に2作目となる『Traitor(反逆者、裏切り者の意味)』は、1983年にスリランカで起きた囚人の大虐殺(53人の囚人が殺害された)を題材にしています。

俳優としてのキャリアは2011年に脚本を書いた『Sengadal(死の海の意味)』で始まります。
この映画は、マンナール島の対岸にあるダヌシュコディでもがきながら生きるタミル人漁師を描いた作品です。

俳優としての出演した2作品目が『Dheepan(ディーパンの闘い)』です。

レイデン島(ベーラネイ)

ジェスターサンの出身地「アッライピディ村」がある島。
レイデン(タミル語:ベーラネイ)島はポーク海峡に浮かんでいて、ジャフナ半島と橋で結ばれています。

レイデンの名はオランダ統治時代につけられています。
レイデンはオランダ最古の大学都市で、レンブラントの生地、日本博物館シーボルトハウスがあることでも知られているレイデンに由来します。

アッライピディ村はレイデン島の南東にあります。

島の北西にはポルトガルが建設した要塞「カイツ島要塞(Kayts Island Fort)」が残されています。
このカイツ島要塞の向かいには、「ハメンヒエイ要塞(Fort Hammenhiel)」があります。
ハメンヒエイ要塞はポルトガルが最初に建設し、当時の名前は「フォータリーザ・ド・ケエズ(Fortaleza do Caes)」。
その後、オランダが占領して、ハメンヒエイ要塞と改称しています。
留置場として使われた後に現在はスリランカ海軍がホテルとして経営しています。

ベーラネイ島の由来は、ムルガン神の別名「べラン」とされています。
ムルガン神の母・パールヴァティーが、ムルガンに槍(べル)を渡したのがベーラネイ島だとされています。

アッライピディヤの虐殺

2006年5月13日に起きたアッライピディヤでの虐殺事件。

2006年5月13日の夜、スリランカ海軍がアッライピディヤ村、プリヤンコーダル村、ヴァガラディ村の一般市民の家に入り発泡し、アッライピディヤ村で2人の子供を含む9人が死亡、プリヤンコーダル村で3人が死亡、ヴァガラディ村で1人が死亡し、その他多くの負傷者がでたとされています。

150人がアッライピディヤから逃げ、LTTEの本拠地であるキリノッチにこの事態を報告したとされています。
LTTEはスリランカ政府を非難する一方で、スリランカ政府はLTTEが国際世論を扇動するための作戦であるとLTTEを非難しています。

この事件の2日前に、LTTEがスリランカ海軍の護衛船に対して自爆攻撃を行い、18人の水兵が死亡しています。

国際危機グループ、アムネスティ・インターナショナルはスリランカ海軍による犯行である可能性が高いと報告しています。

聖フィリップ・ネリ教会の砲撃

2006年8月13日、アッライピディヤにある聖フィリップ・ネリ教会(St. Philip Neri Church)がスリランカ陸軍による砲撃を受け、少なくとも15人が死亡、54人が負傷したとされる事件。

2006年8月12日の朝、LTTEはアッライピディヤ近くに上陸し、政府軍に海軍基地に引き返すよう要求。
これに対して、スリランカ陸軍はLTTEに対して砲撃を開始し、夜を通して砲撃を続けます。
夜明け前の2006年8月13日の4時半、聖フィリップ・ネリ教会に砲弾が直撃し、少なくとも15人が死亡、54人が負傷します。

聖フィリップ・ネリ教会の司祭・ディルチェルヴァム・ニハル・ジム・ブラウンは、ベラナイ島北部のカイツ(Kayts)にある、聖マリア教会に300人の市民を避難させます。
8月20日にディルチェルヴァム・ニハル・ジム・ブラウン司祭は行方不明となります。
2007年5月14日に、地元紙がベラナイ島の南に浮かぶパンクードゥーティビュー近くで遺体が発見されたと報じますが、スリランカ政府はDNA検査の結果、別人であったと報告しています。

パンクードゥーティビューは、内戦中にスリランカ海軍による戦時性暴力が起きたことで知られる島です。

参照)

Wikipedia「Antonythasan Jesuthasan」
Wikipedia「Velani Island」
Wikipedia「Allaippiddi」
Wikipedia「Allaipiddy massacre」
Wikipedia「St. Philip Neri Church shelling」
Wikipedia「Thiruchelvam Nihal Jim Brown」
Wikipedia「Pungudutivu」
Wikipedia「Fort Hammenhiel」
Fort Hammenhiel公式ホームページ
Wikipedia「Black July」
Wikipedia「Four Four Bravo」
Wikipedia「Chungking Mansions」
ウィキペディア「重慶大厦」
Wikipedia「Welikada prison massacre」
Wikipedia「Dhanushkodi」

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