スリランカ内戦で片目を失った眼帯の戦場女性ジャーナリストを描いた映画『プライベート・ウォー』
レバノン内戦、湾岸戦争、チェチェン紛争、東ティモール紛争、スリランカ内戦、イラク戦争、アラブの春、シリア内戦と長きに渡って戦場から報道を続けた女性ジャーナリストのメリー・コルヴィンを描いた映画『プライベート・ウォー』。
メリー・コルヴィンは、リビアのカダフィ大佐、パレスチナのアラファート議長へのインタビューでも知られ、6つの賞を受賞し、映画が3作品、書籍が3冊出されています。
メリー・コルヴィンのトレードマークは、スリランカ内戦で失った左目を覆う眼帯。
本記事は、メリー・コルヴィンの生涯と、時代背景を紹介することで、映画の内容をより理解するための情報をまとめています。
目次
メリー・コルヴィンの出自からイェール大学まで
1956年1月12日、ニューヨーク市クイーンズ区アストリアに生まれます。
ニューヨーク州ロングアイランドのオイスターベイで、2人の弟と2人の妹を持つ5人兄弟の長女として育ちます。
オイスター・ベイは、ロングアイランド鉄道のオイスターベイ支線の終点。
旧オイスター駅とオイスターベイ・ロングアイランド鉄道転車台はアメリカ合衆国国家歴史登録財に登録されています。
また、セオドア・ルーズベルト・メモリアル・パークがあることでも知られています。
オイスターベイ高校を卒業後、ブラジルに交換留学に行きます。
イェール大学に入学し、人類学を専攻。
ピューリツァー賞小説部門受賞、原爆投下直後の広島での取材をまとめたルポ「ヒロシマ」で知られるジョン・ハーシーのコースを取ります。
ルポ「ヒロシマ」で知られるジョン・ハーシー
ジョン・ハーシーは、1914年に中国の天津で生まれます。
イェール大学とケンブリッジ大学でジャーナリズムについて学び、ノーベル文学賞を受賞したシンクレア・ルイスの秘書、タイムの海外特派員となり、第二次世界大戦でヨーロッパ、アジアを回っています。
1944年にイタリアでの経験を元に小説「アダノの鐘」を発表し、1945年にピューリッツァー賞小説部門を受賞。
1945年に原爆投下直後の広島に入り、1946年にルポルタージュ「ヒロシマ」を発表しています。
1999年、ニューヨーク大学ジャーナリズム学部主任教授のミッチェル・ステファンたちによって20世紀最高のアメリカジャーナリズム作品トップ100が発表され、「ヒロシマ」が1位に選出されています。
ジョン・ハーシーが秘書を務めたシンクレア・ルイス
シンクレア・ルイスは、1885年にアメリカのミネソタ州生まれます。
イェール大学在学中に、アメリカ精肉産業での実態を告発し、食肉検査法の可決に至らた『ジャングル(The Jungle)』を出版したアプトン・シンクレアが設立した実験的生活共同体ヘリコン・ホーム・コロニーで働いてます。
1921年、『本町通り』でピューリッツァー賞小説部門を受賞するも、選考委員会の審議によって白紙撤回されます。
1926年、『アロウスミスの生涯』でピューリッツァー賞小説部門を受賞するも辞退。
1930年、アメリカ人初のノーベル文学賞を受賞。
東ティモール紛争、コソブ紛争、チェチェン紛争、リビア爆撃での取材
1978年、イェール大学を卒業。
1979年、アメリカのUPI通信(United Press International)に入社。
1984年、UPI通信のパリ支局のチーフになり、国際ニュースの担当となります。
1985年、イギリスのサンデー・タイムズに移籍。
1986年、アメリカ空軍・海軍によるリビア爆撃の後、カダフィ大佐にインタビュー。
1999年、東ティモールで1,500人の子女がインドネシアが支援する軍隊に包囲されます。
国連軍に留まり、新聞・テレビで報道を続け、他のジャーナリストが避難する中、メリー・コルヴィンは現地に留まり、避難民の苦境をニュースとして配信し続け、撤退を決めていた国連軍の結果を覆し、国連軍は避難民を安全に避難させました。
2000年に3つの賞を受賞。
・国際女性メディアバンクから「勇気あるジャーナリズム賞」を受賞。
・イギリス報道賞の年間最優秀外国人ジャーナリストを受賞。
・外国人記者協会から年間最優秀ジャーナリストを受賞。
国際女性メディアバンクの「勇気あるジャーナリズム賞」は、メリー・コルヴィンのコソボ紛争とチェチェン紛争での報道に対するものです。
スリランカ内戦で片目を失う
2001年、スリランカ内戦下(第3次イーラム戦争)に、タミル・イーラム解放のトラの支配地域からスリランカ政府の支配地域に移動する際に、スリランカ政府軍による対戦車手榴弾の破片によって左目を失います。
左目に黒い眼帯をするようになり、これが彼女のトレードマークとなります。
その後も通算6年間に渡ってスリランカ内戦の取材を続け、ヴァンニ(ワンニ)地方のジャングルをローカルガイドとともに48キロ以上を歩きます
2003年、イラク戦争を取材。
2005年、メリー・コルヴィンを含むイラク戦争を報道した5人の女性レポーターを取り上げたしたドキュメント映画「Bearing Witness」が公開される。
2009年、アフガニスタンでのタリバンによる地元市民に対する攻撃を報道。
同年、2度目となるイギリス報道賞の年間最優秀外国人ジャーナリストを受賞。
アラブの春、シリア内戦で死亡
2011年、アラブの春を報道する中で、ABCニュースのクリスティアン・アマンプール、BBCニュースのジェレミー・ボーエンを伴い、カダフィ大佐への2度目のインタビューを実施。
エジプトのムバラク大統領を退陣させた2011年1月のエジプト革命にならい、2011年4月、反体制派がシリアのホムスを拠点に反政府デモを展開します。
エジプトのタハリール広場でデモが行われたように、アルサー広場にデモで人が集まりアサド大統領の退陣を要求します。
ホムスは、シリアの二大都市であるダマスカスとアレッポの中間に位置するシリア第三の都市です。
シリア政府軍は、ホムスを包囲します。
メリー・コルヴィンは、許可なしの外国人による報道を阻止しようとするシリア政府に対して、モトクロスでシリア中部の反体制派の拠点ホムスを取材。
シリア政府がテロリストを砲撃しているという発表している地域に民間人が多くいることを知り、報道を続けます。
2012年2月、前大統領の三男で、現アサド大統領の弟であるマーヘル・アル=アサドが部隊長を務める第4機甲師団がホムスのババアムル地区を攻撃。
22日、外国人ジャーナリストたちが拠点にしていたババアムル地区の臨時メディアセンターが政府軍の砲撃を受けます。
これによって、メリー・コルヴィン、フランス人写真家のレミ・オシュリクが死亡し、イギリス人写真家のポール・コンロイ、シリア人通訳者のワエル・アル・オマール、フランス人ジャーナリストのエディス・ボウヴィアーが負傷しています。
死亡の前夜、彼女はこう証言したとメリー・コルヴィン・メモリアル・ファンデーションのウェブページには記載されています。
「シリア陸軍の市民に対する砲撃は、これまで私が見てきた中でも、最もひどい衝突だ。テロリストに対する攻撃だというシリア陸軍の発言は完全に嘘で、単に町と市民を寒さと餓えで包囲している。」
メリー・コルヴィンは死の前に編集部に「情報を発信し続けます」とも送っています。
メリー・コルヴィンの死後
2012年2月22日、メリー・コルヴィンの故郷であるオイスターベイで葬式が執り行われ、約300人がストリートで彼女の死を追悼。
メリーコルヴィンの家族が「Marie Colvin Memorial Foundation」を設立。
同年、3度目のイギリス報道賞の年間最優秀外国人ジャーナリストを受賞。
同年、リーチ・オール・ウイメンズ・イン・ウォーでアンナ・ポリトコフスカヤ賞を受賞
同年、ハーパープレスから『On the Front Line: The Collected Journalism of Marie Colvin』が出版。
2013年、ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校が「Marie Clovin Center for International Reporting」を設立。
同年、メリー・コルヴィンが死亡した爆撃で負傷したイギリス人写真家のポール・コンロイが『Under the Wire: Marie Colvin’s Final Assignment』を出版。
2016年、メリー・コルヴィンの家族を代弁する弁護士が、シリア政府がメリー・コルヴィンの暗殺を指示していたことを証言。
2018年、リンゼイ・ヒルサムが『In Extremis: The Life and Death of the War Correspondent Marie Colvin』を出版。
同年、映画『Under the Wire(邦題:メリー・コルヴィンの瞳 )』が公開。
同年、映画『A Private War(邦題:プライベート・ウォー』が公開。
2019年、アメリカの裁判所はシリア政府に対して、メリー・コルヴィンの家族に約300億円の賠償金を支払うよう命じています。
映画に出てくる人物・場所・事件について
LTTEのナンバー2:タミルセルバン
メリー・コルヴィンが、スリランカのヴァンニ地方で会話をしている相手は、LTTEの政治部門トップで、実質的なナンバー2であったタミルセルバン。
1993年のプナリンの戦いで傷を負って以来、杖を使って歩いていました。
隻眼の有名人
以下の3名が会話で取り上げられています。
アメリカの歌手・俳優・ダンサーのサミー・デイヴィスJr.
レディオヘッドのトム・ヨーク
イスラエルの国防相モーシェ・ダヤン
フアン・カルロス・グムシオ
ボリビア生まれのジャーナリスト・作家で、メリー・コルヴィンの2人目の夫。
2003年イラク国境
イラン国旗が映像で旗めいていることからイラン側からイラクの都市「ファルージャ」に向かったことがわかります。
ファルージャ
2004年にアメリカ軍とイラク武装勢力との戦闘(ファルージャの戦闘)が起きたイラクの都市。
1991年イラク反政府蜂起
サッダーム・フセインは共和国防衛隊を派遣して反政府組織を弾圧、シーア派住民が大量虐殺されました。
ラマーディー
2006年にラマーディーの戦いが起きたイラクの都市。
マーサ・ゲルホーン
アメリカの小説家・旅行作家・ジャーナリスト。
スペイン内戦、第二次世界大戦、ベトナム戦争などを戦争特派員として取材。
第二次世界大戦ではフィンランド、香港、ビルマ、シンガポール、イングランドで取材し、ノルマンディー上陸作戦では女性で唯一の上陸者だとされています。
ヘミングウェイと結婚もしています。
The Face of Warは1959年に出版した本。
マルジャ
アフガニスタン南部の町。
2009年時は、タリバンが実効支配していました。
ミスラタ
トリポリとベンガジに次ぐリビア第3の都市。
2011年にカダフィー大佐の政府軍と反体制派が衝突しています。
ハマー虐殺
1982年2月にハーフィズ・アル=アサド大統領の命令によって、シリア軍がハマー街で行った作戦。
1万人〜4万人の市民が死亡したとされています。
ハマーはダマスカス、アレッポ、ホムス、ラタキアに次ぐシリア第5の都市。
参照)
片目の視力を失いながらも戦場を駆け抜け、戦場に散った女性ジャーナリストの実話『プライベート・ウォー』
AFP BB News「ここは冷気と飢えの街」、シリアで死亡したベテラン戦争特派員と若手写真記者
Wikipedia「A Private War」
Wikipedia「Marie Colvin」
Marie Clovin Center for International Reporting
Marie Colvin Memorial Foundation
ウィキペディア「オイスターベイ駅」
ウィキペディア「プライベート・ウォー」
ウィキペディア「メリー・コルヴィン」
ウィキペディア「UPI通信社」
Wikipedia「Foreign Reporter of the Year」
ウィキペディア「ジョン・ハーシー」
ウィキペディア「ヒロシマ」
ニューヨーク大学ミッチェル・ステファン&他選: 20世紀最高の米国ジャーナリズム作品ベスト100
ウィキペディア「シンクレア・ルイス」
ウィキペディア「アプトン・シンクレア」
Wikipedia「Helicon Home Colony」
ウィキペディア「リビア爆撃 (1986年)」
ウィキペディア「東ティモール紛争」
ウィキペディア「RPG (兵器)」
Wikipedia「Bearing Witness」
ウィキペディア「イラク戦争」
ウィキペディア「クリスティアン・アマンプール」
Wikipedia「Jeremy Bowen」
ウィキペディア「ホムス」
ウィキペディア「シリア内戦」
ウィキペディア「エジプト革命 (2011年)」
ウィキペディア「ホムス包囲戦」
ウィキペディア「マーヘル・アル=アサド」
ウィキペディア「ハーフィズ・アル=アサド」
ウィキペディア「バッシャール・アル=アサド」
Wikipedia「Ali Mahmoud Othman」
ウィキペディア「アンナ・ポリトコフスカヤ」
ウィキペディア「リンゼイ・ヒルサム」
Wikipedia「S. P. Thamilselvan」
サミー・デイヴィスJr.を偲んで①〜片目を失った“史上最高のエンターテイナー” の生い立ちと、成功への軽やかなステップ
ウィキペディア「トム・ヨーク」
ウィキペディア「モーシェ・ダヤン」
Wikipedia「Juan Carlos Gumucio」
ウィキペディア「ファルージャ」
ウィキペディア「ラマーディー」
Wikipedia「Battle of Ramadi(2006)」
Wikipedia「Martha Gellhorn」
AFP BB News「マルジャの統治権限が州政府に、情勢は依然不安 アフガニスタン」
日本経済新聞「リビア、ミスラタなど戦闘続く 多国籍軍は空爆続行」
ウィキペディア「ミスラタ」
ウィキペディア「ハマー虐殺」
ウィキペディア「ハマー (都市)」
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「旅と町歩き」を仕事にするためスリランカへ。
地図・語源・歴史・建築・旅が好き。
1982年7月、東京都世田谷区生まれ。
2005年3月、法政大学社会学部社会学科を卒業。
2005年4月、就活支援会社に入社。
2015年6月、新卒採用支援事業部長、国際事業開発部長などを経験して就職支援会社を退社。
2015年7月、公益財団法人にて東南アジア研修を担当。
2016年7月、初めてスリランカに渡航し、会社の登記を開始。
2016年12月、スリランカでの研修受け入れを開始。
2017年2月、スリランカ情報誌「スパイスアップ・スリランカ」創刊。
2018年1月、スリランカ情報サイト「スパイスアップ」開設。
2019年11月、日本人宿「スパイスアップ・ゲストハウス」開始。
2020年8月、不定期配信の「スパイスアップ・ニュースレター」創刊。
2023年11月、サービスアパートメント「スパイスアップ・レジデンス」開始。
2024年7月、スリランカ商品のネットショップ「スパイスアップ・ランカ」開設。
渡航国:台湾、韓国、中国、ベトナム、フィリピン、ブルネイ、インドネシア、シンガポール、マレーシア、カンボジア、タイ、ミャンマー、インド、スリランカ、モルディブ、アラブ首長国連邦、エジプト、ケニア、タンザニア、ウガンダ、フランス、イギリス、アメリカ
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