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ジェフリーバワの生い立ち、父方バワ家と母方シュレイダー家

2021年5月20日

ジェフリーバワはスリランカを代表する建築家ですが、その背景にはバーガー人(ヨーロッパ人とスリランカ人の混血)の富裕層の生まれであることが大きく影響しています。

ジェフリーバワは38歳で建築家になりますが、それまでは弁護士でした。
ジェフリーの父方は法律家の家系で、祖父・父・兄は法律家です。
また父・兄はセイロン総督の副官を務めた軍人でもありました。

ジェフリーの母方のシュレイダー家は、オランダバーガー人のゴム・ココナッツ・シナモンの農園を複数持つ資産家でした。

本記事では、ジェフリーバワの父方バワ家と母方シュレイダー家、ジェフリーバワの生い立ち、建築家を目指すきっかけとなる従兄弟ジョージェットのルヌガンガ訪問までのジェフリーバワの半生を紹介します。

本記事の内容は以下の書籍を参考に、インターネットで調べた情報を追加して記載しています。

祖父アハマドゥ・バワ

祖父アハマドゥ・バワはベールワラ出身のムスリムの弁護士。
アハマドゥは法学を学びにいったロンドンでフランス人のジョージナ・マチルダ・アブレットと出会い結婚。
セイロンに戻り、ゴール、キャンディ、コロンボに法律事務所を開業しています。

父ベンジャミン・バワ

1865年生まれ。
マウントラビニアの名門セントトーマスカレッジ、コロンボの名門ロイヤルカレッジで学びます。
第5代セイロン事務弁護士長のジェームス・ヴァン・ランゲンバーグの元で法律を学びます。

1887年、事務弁護士となり、コロンボやケガーッラで働きます。
1899年、セイロン軽歩兵隊の中尉に任命されます。

1903年、ロンドンに渡り、ミドルテンプルに入ります。
ミドルテンプルはロンドンにある4つの法曹院(ミドルテンプル、インナーテンプル、リンカーン、グレイ)のうちの一つで、現在もイングランドとウェールズの法廷弁護士はいずれかの法曹院に所属することが義務づけられています。
セイロン第2代首相のダッドリー・セナナヤケもミドルテンプルに所属していました。
インド独立の父ガンディー、インド初代首相ネルー、ローデシアを設立したセシル・ローズはインナーテンプルに所属していました。

1904年、イギリスの弁護士となります。
1905年、セイロンに帰国し、勅選弁護士に選出され、セイロン軽歩兵の太尉に昇格します。

1906年、ベンジャミンはダーリーロード(Darley Road)沿いのハイドパーク(Hyde Park)の向かいにあったコロンボ大主教の住居「チャップマン・ハウス」を購入します。
ダーリーロードは、企業や公的機関が集まるコロンボフォートと、新しく開発された高級住宅地シナモンガーデンズ(コロンボ7)を繋ぐ道として作られました。
チャップマン・ハウスは、19世紀のイタリア風のヴィラだったそうです。

1908年、43歳のベンジャミンは11歳年下の、バーサ・マリオン・キャンベル・シュレイダーと結婚します。
1909年、長男ベヴィス・バワが生まれます。
1918年、セイロン総督ウイリラム・マニングの副官となり、少佐に昇格します。
1919年、次男ジェフリー・バワが生まれます。
1922年、腎臓炎と診断されて治療のため、一家でイギリスに渡ります。
1923年、療養していたイギリスのハロゲイトで亡くなります。

母バーサ・バワ(バーサ・シュレイダー)

1876年、バーサ・マリオン・キャンベル・シュレイダーは、オランダ系バーガーの外科医であった父フレーデリック・ユストゥス・シュレイダーと、スコットランドとシンハラのハーフである母エリザベス・ハリエット・キャンベルの間に生まれます。

シュレイダー家は、1683年にドイツのブラウンシュヴァイクに生まれたドイツ人傭兵ユリウス・シュレイダーの子孫だとされています。
ユリウス・シュレイダーは18世紀初頭にオランダ東インド会社とともにセイロンに渡り、1716年にジャフナでオランダ人のクリスティナ・ロウロフスと結婚。

バンダーラナーヤカ空港の北東にあるキンブラピティヤ(Kimbulapitiya)、
さらに北のウェスター・シートン(Wester Seaton)、
そして、コロンボ7のワードプレイス(Ward Place)にタウンハウスを所有していました。

シュレイダー家は、現在もコロンボに残るオランダ系バーガー人のクラブ「ダッチバーガーユニオン(Dutch Burgher Union)」に所属していました。

キンブラピティヤのゴムとココヤシの混合農園で、プランターバンガローは現在、ゲストハウス「ゴールデン・ヘブン・キンブラピティヤ農園(Golden Heaven Kimbulapitiya Estate)」として残されています。

ウェスター・シートンはシナモン農園で、プランターバンガローは、英語学校「Senara English Institute」として残されています。

ワードプレイスにあったタウンハウスは、2011年にパラダイスロードがショップ「デザイン・ウェアー・ハウス」に改装しましたが、現在は取り壊されています。
シナモンガーデンズに残った最後のシナモン農園があった場所で、そこに建っていたタウンハウスだったそうです。

1945年の終わりに脳卒中で倒れ、老人ホームに入所します。
1946年4月、死去。

兄ベヴィス・バワ

1909年4月26日生まれます。
14歳の時に、父ベンジャミンが亡くなります。

ロイヤルカレッジを17歳で卒業して、母バーサによって、叔父フレッド・シュナイダーが管理するキンブラピティヤ農園でプランター見習いとなります。

1928年、19歳の時に母が新車を買ったため、父が乗っていた車を譲り受けます。

1929年、20歳のベヴィスはセイロン軽歩兵隊の少尉に任命されます。
同年、母からベールワラのカラウィラ村にあるゴム農園をを譲り受けます。

1930年、21歳の誕生日に母から新車をプレゼントされています。

1934年、セイロン総督レジナルド・エドワード・スタッブスの副官に任命されます。

同年、結核と診断されて、長期の船旅を医者から勧められ、母・弟と往復10週間の中国旅行に行っています。
15歳の時に、兄ベヴィスが結核と診断され、家族で往復10週間の中国旅行に出掛けています。
往路でペナン、シンガポール、香港、上海に立ち寄り、陸路で北京に行きます。
復路は旅順から船に乗って、横浜、神戸に立ち寄っています。
後にブリーフガーデンに日本庭園を作っていますが、この時の経験からきているのかもしれません。

1937年、母からコロンボのディールプレイスに家を買い与えてもらいます。

16年間、最後の4代のセイロン総督の勅選弁護士・副官として働き、少佐に昇格します。

レジナルド・エドワード・スタッブス
アンドリュー・カルデコット
ヘンリー・モンク=メイソン・ムーア
ハーウォルド・ラムズボサム (初代ソウルベリー子爵)

セイロンがイギリスから独立した1948年の翌年、
1949年、セイロン陸軍が創設され、9人いた少佐の一人がベヴィスでした。

1950年、陸軍から引退します。
40歳で引退したベヴィスは、19歳の時に母から譲り受けたベールワラのゴム農園に移り住みます。
このゴム農園は、父ベンジャミンが生前に、弁護料(ブリーフ)で購入した土地でした。
このゴム農園を、自宅と庭園にし、「ブリーフガーデン(Brief Garden)」と名付けます。

ブリーフガーデンは、以下のようなスリランカのアーティストたちが集まる場所となっていきます。

・スリランカのモダン伝統ダンスを構築したダンサー「チトラセナ」
・スリランカ初のバレリーナで、女性初のキャンディアンダンサー「ヴァジラ・チトラセナ」
・バティックアーティストの「イナ・デ・シルヴァ」
・ファブリックデザイナーの「バーバラ・サンソーニ」
・アーティストの「ラキセナナヤケ」
・画家の「ジョージ・べヴェン」
など

そして、海外からも著名人が訪れるようになり、以下のような人々が来訪しています。

・アカデミー主演賞ノミネート数歴代1位の俳優であり、映画監督、一代貴族の「ローレンス・オリヴィエ」
・アカデミー主演女優賞を受賞した「ヴィヴィアン・リー」
・ウィンザー公爵(国王エドワード8世)
・『オリエント急行の殺人』で知られる推理作家「アガサ・クリスティ」
・オーストラリアのアーティスト「ドナルド・フレンド」
など

1957年〜1962年と5年間ブリーフガーデンに滞在したドナルド・フレンドはブリーフガーデン、ジェフリーバワ邸「ナンバー11」、ジェフリーバワ別荘「ルヌガンガ」に作品を残し、ジェフリーバワにバリ島のバトゥーシンバの設計を依頼したことでも知られています。

ベヴィス・バワとドナルド・フレンドはゲイカップルでした。
弟のジェフリー・バワもゲイでした。

ベヴィスはブリーフガーデンにアートや彫刻を加えていきました。

1969年、ブリーフガーデンを一般に公開します。

1992年9月18日、84歳で亡くなります。

死後、ブリーフガーデンはマネージャーだったドゥーランド・ダ・シルワ(Dooland de Silva)が引き継がれています。

弟ジェフリーの別荘ルヌガンガの見学は、2021年5月現在は1日2回行われている有料ツアーに参加する必要がありますが、兄ベヴィスの別荘ブリーフガーデンは、朝8時〜夕方5時まで開園していて、入場料1,000ルピー(2018年時点の料金で現在の料金は未確認です。)を払えば、好きな時間に好きなように見学することができます。

またルヌガンガは建物内部に入れるのは、宿泊者あるいはランチ付きのツアーを事前に予約した人のみですが、ブリーフガーデンはバンガローの中に入ることができます。

ジェフリー・バワの生まれ

1919年7月23日生まれ。
フルネームは、ジェフリー・マニング・バワ。
ミドルネームのマニングはジェフリーの名付け親であるセイロン総督のウイリアム・マニングから取られたものです。
父ベンジャミンは1918年からウイリアム・マニングの副官を務めていました。

ジェフリーは乳母エンサに育てられます。
エンサの娘リーラは後にルヌガンガの家政婦となり、その夫はルヌガンガの庭師となります。

ジェフリーには専属の男性使用人ミゲルが付きました。
ミゲルはトラヴァンコール王国(現在のケララ州)出身で、1982年に亡くなるまでジェフリーに仕えています。
トラヴァンコール王国の首都は現在のパドマナーバプラム、ティルヴァナンタプラムに置かれていました。

ジェフリーが4歳の時に、父ベンジャミンが死去。
ジェフリーは母方の親戚たちと過ごします。

ジェフリーの生家はコロンボのダリーロードにあったイタリア風のヴィラでした。
叔父のフレッド・シュレイダーが所有したキンブラピティヤ農園は、ゴムとシナモンの農園でした。
バンガローはシンハラ式邸宅のワラーウィでした。
これが現在のゲストハウス「ゴールデン・ヘブン・キンブラピティヤ農園(Golden Heaven Kimbulapitiya Estate)」です。

従兄弟のロナルド・シュレイダーが所有したウェスター・シートン農園はココナッツ農園でした。
バンガローはオランダ様式でした。

15歳の時に、兄ベヴィスが結核と診断され、家族で往復10週間の中国旅行に出掛けています。
往路でペナン、シンガポール、香港、上海に立ち寄り、陸路で北京に行きます。
復路は旅順から船に乗って、横浜、神戸に立ち寄っています。

1924〜1936年、コロンボの名門ロイヤルカレッジで学びます。
1937年、18歳のジェフリーは母からコロンボ7のトリントンアヴェニューとプラーズレーンに挟まれた新しい家をもらいます。
1938年、ケンブリッジ大学に出願。

ジェフリーバワの弁護士時代

1939年、ケンブリッジ大学が始まる前に、パリに住む従兄弟ジョージェット・カミーユの所に滞在します。
ジョージェットを介して前衛的な芸術家たちと知り合います。
その後、イタリアに旅行します。

母がお目付役として依頼したロンドンの銀行家リチャードソンからロンドンに急いで戻るように知らせを受け、リチャードソンが手配した列車でロンドンに戻ります。
ケンブリッジ大学での生活が始まる9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻して、第二次世界大戦が勃発します。

ケンブリッジ大学在学中に、大学の友人家族が所有する城やタウンハウスをよく訪れたそうです。

1944年、司法試験に合格します。
ミドルテンプルのウィリアムフォーダムの法律事務所に入ります。
この頃、ロールス・ロイス・ファントムを購入します。

1945年、ロンドンでルームシェアしていた友人の義理の姉妹がデ・ラ・グラツィエ公爵と結婚し、コラ・デイ・ラツィーゼのヴィラ(Cola’ Di Lazise Villa)に招待されます。
そこで、イタリアルネッサンス庭園の専門家で建築家のベンジョリーニ公爵に案内されて、ヴィラ・フォスカリ(Villa Foscari)などを訪問します。
この時の経験がルヌガンガを作ることに繋がっているのでしょう。

1945年12月、糖尿病を患っていた母が脳卒中で倒れ、老人ホームに入所したことから兄ベヴィスが帰国を促します。

1946年1月、セイロン総督の副官であるベヴィスが手配した空軍機の座席に乗って帰国します。
コロンボの法律事務所で弁護士として働きます。

1946年4月、母バーサが亡くなります。

1946年秋、世界旅行をすることにして、トリトン・アヴェニューの家を売却し、ロールス・ロイス・ファントムを兄ベヴィスに買い取ってもらい、旅行資金にします。

1946年11月、法律事務所を退職して、船でマレーシア、インドネシア、フィリピン、中国、日本を経由してサンフランシスコに行きます。
サンフランシスコで映画俳優ビクター・チェイピンと知り合います。

1947年1月、ビクター・チェイピンがニューヨークの友人に絵を届けるのに一緒に行かないか?と誘われ、ニューヨークまでアメリカを横断。

1947年12月、ビクター・チェイピンとフロリダからロンドンへ船で渡り、その後、イタリアへ行きます。
帰国前に滞在したコラ・デイ・ラツィーゼ近くにヴィラを借りて、ビクター・チェイピンと数ヶ月を過ごします。

1948年2月4日、セイロンが独立します。
ジェフリーはイタリアに永住することにし、相続した家や土地を売却し、ヴィラを買い取ろうとします。
しかし、ヴィラの買取は進まず、1948年7月、計画を断念してセイロンに帰国します。

パクス・ブリタニカと言われ、イギリスが世界の覇権国だった時代は二つの世界大戦によって終わりを告げ、1944年に世界の基軸通貨はイギリスのスターリングポンドからアメリカドルに変わっています。

イギリス領であったセイロンで富を形成していたシュレイダー家の財産は価値が下がっていたのかもしれません。

ルヌガンガを購入

1948年、すでに家や土地を売却していたジェフリーは、兄ベヴィスのゴム農園に一時的に住みます。
そして、イタリアのヴィラに代わる土地を探して見つかったのがゴム農園(現在のルヌガンガ)です。
丘の上にタウンハウスが建っていました。
これが現在のメインバンガローです。

ゴム農園とタウンハウスの買取に当たって後に大統領になるジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナの弟コルベット・ジャヤワルダナに代理人を依頼します。

ルヌガンガを購入したジェフリーバワは庭造りを始めます。

1949年、弁護士の仕事をするためにコロンボのゴールフェイスコートに部屋を借ります。

この年、パリから従兄弟ジョージェット、イタリアで映画俳優をしていたビクター・チェイビンがルヌガンガを訪れます。
ジョージェットがパリから持ってきてくれたシャンデリアは、現在もルヌガンガのリビングルームにあります。

弁護士の仕事の合間に、自己資金で庭造りをするジェフリーに対して、ジョージェットは建築家になることを勧めます。

そして、ジェフリーは建築家の友人にどうするべきかを相談し始めます。

ジェフリーバワが50年間手を加えた別荘「ルヌガンガ」とは?

参照)

ウィキペディア:控訴院
ウィキペディア:ミドル・テンプル
ウィキペディア:法曹院
Wikipedia:Benjamin Bawa
ウィキペディア:事務弁護士
ウィキペディア:法廷弁護士
Wikipedia:William Manning (colonial administrator)
ウィキペディア:ハロゲイト
ウィキペディア:イギリス軍の階級
ウィキペディア:ブラウンシュヴァイク
Explore Sri Lanka:Paradise Road Design Ware House: Pieces Of Eternity
Wikipedia:Aide-de-camp
Wikipedia:Brief (garden)
Daily News Bevis:The Bawa of Brief
Wikipedia:Chitrasena
Wikipedia:Vajira Chitrasena
ウィキペディア:ローレンス・オリヴィエ
ウィキペディア:ヴィヴィアン・リー
ウィキペディア:一代貴族
ウィキペディア:ウィンザー公爵
Art Ceylon:George Beven
ウィキペディア:トラヴァンコール王国
ウィキペディア:Villa Foscari