スリランカの仏教史が分かる!『部派分裂の真実』藤本晃 著
本書はスリランカに伝わる上座部パーリ語文献を元に仏教史をまとめいるため、
・スリランカの歴史
・スリランカにおける仏教
を知る上で、とても参考になる本です。
仏教の歴史は部派仏教の各部派の文献を元に遡ることになります。
ただ、著者は上座部の資料を基準にすることを主張しています。
1830年代にイギリスで始まった聖書解釈学では、4つの福音書すべてのデータのネタとなった「源」聖書の情報だと見なします。一方で、どれか一つの聖書にだけ見られるトピックは、それを保持していたグループ特有の後代の内容と見なします。
この聖書解釈学の研究方法が仏教文献に当てはめられていますが、それが違うといいます。
また、その背景となる破和合僧の定義についても解説されています。
その詳しい内容は本書を是非ご覧ください。
本書を通読すると、仏教について理解が深まります。
本記事では、本書の内容に沿って、仏教史、特にスリランカ仏教史、東南アジアにも広がった上座部仏教史の流れを解説していきます。
スリランカ各地の仏教遺跡がどういう背景で作られたものかが分かると、世界遺産を見に行った際にもより楽しめるかと思います。
目次
- 1 第一結集
- 2 王都ラージャグリハ
- 3 ヴァイシャーリーの十事
- 4 布薩とは?
- 5 第二結集
- 6 根本分裂
- 7 枝末分裂
- 8 第三結集
- 9 九地域への伝道師派遣(スリランカへの仏教伝来)
- 10 赤銅鍱部(タンバパーニヤ)
- 11 大寺(Maha Vihara)の建立
- 12 サンガミッターと菩提樹が来島
- 13 アバヤギリヤ派が分裂
- 14 第四結集
- 15 ゴータアバヤ王が方広説の比丘を追放
- 16 ジェータヴァナ派が分立
- 17 仏歯の来島
- 18 ブッダゴーサ長老の来島
- 19 ピュー王国との交流
- 20 パガン王朝との交流
- 21 三派を大寺に統一
- 22 スコータイ王朝との交流
- 23 ラーンナー王朝との交流
- 24 ペグー朝との交流
- 25 ミャンマーのラカイン州との交流
- 26 森住と村住の対立
- 27 シャム・ニカーヤの始まり(アユタヤ王朝との交流)
- 28 アマラプラ・ニカーヤの始まり
- 29 ラーマンニャ・ニカーヤの始まり
- 30 まとめ
第一結集
仏滅(釈迦が亡くなった)直後の雨安居の期間に、マガダ国の首都ラージャグリハにある、仏教で最初に建立された精舎「竹林精舎」に500名の阿羅漢聖者(弟子)が集まって、「ともに唱えること」で、経・論・律をまとめたことを言います。
阿羅漢とは、仏教において最高の悟りを得た聖者のことです。
第一結集で集まった500名の弟子を五百羅漢と言います。
座長を務めたのが、大迦葉(マハーカーシヤパ)。
大迦葉は十大弟子の一人で、頭陀第一と言われた仏教第二祖です。
法(ダルマ)をまとめたのが、仏教第三祖となる阿難(アーナンダ)です。
律(ヴィナヤ)をまとめたのが、優波離(ウパーリ)です。
阿難は、釈迦が死ぬまで25年間身の回りの世話も行い、最も多く教説を聞いていたことから多聞第一と称された十大弟子の一人です。
優波離は、戒律に最も精通していたことから持律第一と称された十大弟子の一人です。
王都ラージャグリハ
釈迦の時代のマガダ国の首都がラージャグリハ(現・ビハール州ラージギル)です。
ビハール州の州都パトナから南東約95kmにあります。
パトナはマガダ国がウダーイン王がラージャグリハから遷都した都「パータリプトラ」が置かれていました。
釈迦の時代のマガダ国の王はビンビサーラと、その子・アジャータシャトル。
アジャータシャトルの次の王がパータリプトラを都にしたウダーイン王です。
ラージャグリハには、仏教で最初に建立された精舎「竹林精舎」があったとされ、マガダ国王のビンビサーラが釈迦に寄進して建てられたとされています。
ラージャグリハの郊外に、浄土真宗本願寺派の大谷光瑞が率いた第一次大谷探検隊が、1903年(明治36年)、ビハール州ラージギル郊外にグリドラクータ(霊鷲山)を発見しています。
グリドラクータは釈迦が『無量寿経』や『法華経』を説いたとされる山として知られています。
法華経は、Sad(正しい) Darma(法) Pundarika(白い蓮華) Sutra(経)の漢訳「妙法蓮華経」から妙と華を省略した呼び方。
グリドラクータの山上の石段は、ビンビサーラ王が釈迦の説法を拝するために造ったといわれ、その道は「ビンビサーラ道」と呼ばれています。
ヴァイシャーリーの十事
仏滅100年後に、マガダ国とコーサラ国の中間にあるヴァッジ国の商業都市「ヴァイシャーリー」のサンガが行なっていた律を緩和した10の除外例のことです。
特に問題になったのが、金銀を受け取ることで、ヴァイシャーリーを訪れていたヤサ長老が金銀の受け取りを拒否します。
具体的な10項目は以下の通りです。
1.塩浄:受けた塩を容器に貯えておいてよい
2.二指浄:日時計の影が二指の幅まで推移する間は食事をとってもよい
3.聚落間浄:一つの村落で食事した後に、他の村落に行って食事をしてもいい
4.住処浄:一定の場所で懺悔や反省、食事しなくても別の場所で行ってもよい
5.随意浄:布薩のとき、比丘の人数が揃っていなくても事後承認で議決してもよい
6.久住浄:サンガの行事・戒律を為すときに前人の先例に随ってやればよい
7.酪漿浄:食事の後に半酪乳を飲んでもよい
8.水浄:発酵していない椰子の汁を飲んでもよい
9.坐具浄:縁(ふち・へり)をつけずに、好きな大きさで座具を用いてよい
10.金銀浄:金銀や金銭の供養を受けてそれを受蓄してもよい
十戒に照らすと、十事がそれと異なることが分かります。
・不非時食戒:正午から翌日の日の出まで、一切の固形物を食さない
・不飲酒戒:穀物酒であれ果実酒、薬酒であれ、一切の酒類を飲まない
・不蓄金銀宝戒:金銀財宝、金銭に触れ、蓄えない
また、布薩の説明を見ると、4と5もそれと食い違います。
布薩とは?
同じ地域に属するサンガの比丘・比丘尼たちが、満月の日(15日)と新月の日(30日)に1ヶ所に集まり、律の条文を読み上げて、自身の清浄を証明する儀式です。
罪を犯した比丘・比丘尼は懺悔して、自身を清浄します。
第二結集
ヴァイシャーリーのサンガが行なっていた十事について検討するため、長老たちを含む700人の阿羅漢が集まったのが第二結集です。
第二結集の結果、十事は非法とされました。
根本分裂
第二結集の結果に納得しない、十事を妙法とした大衆部が分裂します。
十事を非法としたのは長老上座たちだったことから、大衆部と比較して上座部と言います。
釈迦の生前から根本分裂までを「初期仏教」といいます。
枝末分裂
仏滅200〜300年頃に上座部から11派が分裂し、大衆部からも5派が分裂し、合計18の派に分かれます。
この時代を「部派仏教」と言います。
最も勢力が大きかったのは、上座部から分かれ、インド北西を拠点とした説一切有部だったと言われています。
多くのアビダルマ文献を残したのは、この説一切有部と、スリランカの大寺派と言われています。
第三結集
アショーカ王の時代に、マガダ国の首都パータリプトラ(現・パトナ)で、上座部の分別説部のモッガリプッタ・ティッサ長老を中心に千人の比丘が集まった3回目の結集。
九地域への伝道師派遣(スリランカへの仏教伝来)
第三結集をまとめたモッガリプッタ・ティッサ大長老は、以下の9地域に伝統師を派遣します。
1:カシュミール・ガンダーラ地方
2:不明(インド南東部の海岸地方か?)
3:インド南西部のケララ州周辺
4:パキスタンの辺り?
5:ムンバイの辺り
6:アフガニスタン
7:ヒマヤラ?
8:東の国(スヴァンナブーミ)
9:スリランカ
この中で、現在も続いているのがスリランカです。
赤銅鍱部(タンバパーニヤ)
スリランカに伝わった分別説部を赤銅鍱部(タンバパーニヤ)と言います。
タンバパーニヤの、ニヤは「部」に当たる言葉で、タンバパーニは、スリランカ建国の王ヴィジャヤがスリランカに到着して、砂浜に手をついた際に赤胴色の砂が手に付いたことからスリランカの古名です。
部派仏教で残ったのは、スリランカの赤銅鍱部のみで、その他の部派は後に消滅してしまったと言われています。
モッガリプッタ・ティッサ大長老によって、アショーカ王の息子・マヒンダ長老やマヒンダ長老の妹の息子・スマナ沙弥たち7名がスリランカに派遣されました。
マヒンダ長老はミヒンタレーで、アヌラーダプラの王・デヴァーナンピヤティッサに会い、問答をされたと伝えられています。
デヴァーナンピヤティッサ王は仏教に帰依し、マヒンダ長老たちを王都アヌラーダプラに招きます。
大寺(Maha Vihara)の建立
スマナ沙弥がアショーカ王のところに戻り、仏舎利(右の鎖骨の部分)をスリランカに持ち帰り、仏塔が建てられます。
それが大寺(Maha Vihara)です。
サンガミッターと菩提樹が来島
デヴァーナンピヤティッサの王妃の一人・アヌラーがマヒンダ長老に出家を願い出ます。
そこでマヒンダは妹のサンガミッターと比丘尼たちが来島して、アヌラーを出家させてくれるという話をします。
それを受けて、デヴァーナンピヤティッサの甥・アリッタがアショーカ王に会いに行きます。
ブッタがスリランカに2回目に訪れたとされるナーガティーパの港から出発して、ガンジス川河口のターマリッティに着き、パータリプッタに至ります。
アショーカ王はサンガミッターがスリランカに渡るのも拒みますが、兄・マヒンダ長老の依頼ともあり、サンガミッターはスリランカに渡ります。
この時、アショーカ王は菩提樹の枝をサンガミッターたちに持たせ、ガンジス川河口のターマリッティまでサンガミッターと比丘尼たちを送り届けたそうです。
そして、アヌラーダプラに植えられた菩提樹の枝が、現在のスリー・マハー菩提樹(Sri Maha bodhi Tree)です。
アバヤギリヤ派が分裂
ワッタガーミニ・アバヤ王は、パーンディヤ朝によってアヌラーダプラを追われ、ダンブッラの寺院に匿われた後に、パーンディヤ朝からアヌラーダプラを奪還します。
ジャイナ教の寺院を破壊し、アバヤギリ大塔を建立します。
アバヤギリ大塔をマハーティッサ長老のお布施して、アバヤギリ派が誕生し、分裂します。
大寺が始まってから217年後のことです。
上座部の説一切有部から分裂した犢子部の比丘・法喜(ダンマルチ)がアバギリヤ派に加わり、法喜部と名乗るようになります。
ワッタガーミニ・アバヤ王とともに戦った勇士たちが建てた仏塔の一つが南寺(Dakkhina Dagoba)です。
南寺はインドから来た比丘・海(サーガラ)の教えを取り入れて、海部と名乗るようになります。
第四結集
マータレーの石窟寺院「アルウィハーラヤ」で聖典の筆写が行われます。
ヤシの葉に文章として保存したのです。
アルヴィハーラには現在も図書館があり、ヤシの葉に文字を書く様子を見学することができます。
ゴータアバヤ王が方広説の比丘を追放
ゴータアバヤ王(Gothabhaya、254〜267年)が、方広説(大乗)を唱える60人に比丘をインドに追放します。
ジェータヴァナ派が分立
インドの大乗仏教(方広説)のサンガミッタ長老が、ゴータアバヤ王の子の教育係として、アヌラーダプラに入り込みます。
サンガミッタ長老は、次男マハーセーナをひいきにし、長男ジェッタティッサに嫌われます。
ジェッタティッサがゴータアバヤ王の後を継ぐと、サンガミッタ長老はインドに戻ります。
そして、ジェッタティッサの後に、マハーセーナが即位すると、サンガミッタ長老はスリランカに戻り、大寺を破滅させようとマハーセーナ王に働きかけます。
マハーセーナ王は大寺を破壊します。
大寺のものがアバヤギリヤ精舎に運ばれ、アバヤギリヤ精舎は荘厳になります。
大寺派の比丘たちはアヌラーダプラを離れ、ルフナへの移動を余儀なくされます。
大寺を破壊されたことで、大臣たちがサンガミッタ長老を殺害します。
その後、マハーセーナ王は南寺の海部のティッサ長老に信じ、大寺の近くにジェータワナ・ラーマヤを建てます。
こうして、海部の流れをくむジェータヴァナ派が分立されます。
マハーセーナ王はミンネリヤ池を作ったことでも知られ、ミンネリヤの神とも呼ばれました。
仏歯の来島
後に、ジェータヴァナ派のティッサ長老は、環俗させられます。
マハーセーナ王の子・シリーメーガワンナ王は、大寺派を復興させます。
このシリーメーガワンナ王の時に仏歯がカリンガ国からもたらされます。
ブッダゴーサ長老の来島
ブッダゴーサ長老がスリランカに来島し、「清浄道論」を書き上げます。
ピュー王国との交流
ミャンマーのピュー王国とスリランカは交流したと考えられており、世界遺産「ピュー古代都市郡」には、アヌラーダプラの建築の影響が見られるものがあります。
パガン王朝との交流
パガン王朝の初代の王アノーヤターが、シュエズィーゴン・パゴダに納める仏歯を求めて、スリランカに使いを出します。
ポロンナルワ王国建国のヴィジャヤバーフ1世は、チョーラ王朝の支配によって荒廃した仏教を再興するため、パガン王朝から長老を招きます。
1180年、パガン王朝からウッタラジーヴァナ長老らがスリランカに渡り、大寺で修行します。
1190年、ウッタラジーヴァナ長老らは帰国し、大寺派のシーハラ。・サンガを設立します。
三派を大寺に統一
ポロンナルワの全盛期の王パラークラマバーフ1世の時にアバヤギリヤ派、ジェータヴァナ派は廃され、大寺派に統一されます。
スコータイ王朝との交流
ミャンマーからスコータイ王朝に上座部仏教が伝わり、スコータイ王朝のリタイ王はスリランカから仏教を学びます。
スコータイ王朝の建築は、アンコールワットなどのクメール建築にスリランカの様式を加えたスコータイ様式で建てられます。
ラーンナー王朝との交流
チェンマイに都を置いたラーンナー王朝は、スコータイ王朝から上座部仏教を導入し、スリランカと交流します。
ペグー朝との交流
バゴーを都としたペグー朝のダンマゼーティー王は元僧侶で、1476年に比丘24名をスリランカに派遣して大寺派で受戒を修得させ、帰国後戒壇を設立しています。
ミャンマーのラカイン州との交流
1597年、キャンディ王国初代の王ヴィマラダンマスーリヤ1世が、ミャンマーから比丘サンガを招きます。
ヴィマラダンマスーリヤ1世の父親はシーターワカ王国のラージャシンハ1世に殺されたため、ポルトガル領ゴアに逃げ、カトリックに改宗しています。
ヴィマラダンマスーリヤ1世は即位すると、仏教の復興に力を入れ、ミャンマーから長老たちを招いたのです。
ヴィマラダンマスーリヤ2世も、ラカイン州から33名の比丘をスリランカに招いています。
森住と村住の対立
ヴィラ・ナレンドラ・シンハ王の時代、森住のアスギリヤ精舎と村住のマルワッタ精舎は対立し、それぞれ世俗と関係を深めて堕落していたそうです。
そのため、出家授戒させることができる比丘がおらず、アユタヤ王朝の交流期に活躍するサラナンカラ沙弥は比丘になれず、沙弥のままで活躍して行きます。
シャム・ニカーヤの始まり(アユタヤ王朝との交流)
シリヴィジャヤラージャシーハ王は、外国から比丘サンガを招くことを考えます。
そこで、バゴー、ラカイン州、アユタヤなどに大臣を送ります。
その結果、アユタヤ王朝のアヨーディヤーで行われいる教えがいいと判断し、比丘サンガ派遣を要請するために大臣を派遣しますが、返事が来る前に王は亡くなってしまいます。
キッティシリラージャシーハ王は、アユタヤ王朝のアヨーディヤーから比丘サンガを招きます。
そして、その時に出家したのが、サラナンカラ沙弥です。
この時が1753年で、シャム・ニカーヤの始まりとされています。
キッティシリラージャシーハ王の時代に、もう一度アユタヤ王朝から比丘サンガがスリランカを訪れています。
アマラプラ・ニカーヤの始まり
シャム・ニカーヤは上位カーストであるゴイガマ(農民)カーストにしか受具式への参加を認めませんでした。
そこで、非ゴイガマ・カーストの沙弥がミャンマーのコンバウン王朝の首都アマラプラへ行き、受具式を受けます。
アマラプラで受具式を受けた比丘が帰国し、1803年にバラピティヤで受具式を開始。
こうしてできたのがアマラプラ・ニカーヤです。
ラーマンニャ・ニカーヤの始まり
アマラプラ・ニカーヤの比丘は村に住みます。
ゴイカマ・カーストのアンバガハヴァテー・サラナンカラは当初はシャム派に属していましたが、アマラプラ派に転じます。
さらに、ミャンマーに渡って受具式を受け、1864年に帰国して森林に住む比丘を形成するラーマンニャ派を設立しています。
まとめ
スリランカにおける仏教史の流れをご紹介しました。
本書にはスリランカの上座部仏教大寺がなぜ正統と言えるのかを丁寧に解説していますので、興味のある方は是非ご覧ください。
参照
ウィキペディア「結集」
ウィキペディア「竹林精舎」
ウィキペディア「霊鷲山」
ウィキペディア「大谷光瑞」
ウィキペディア「大谷探検隊」
ウィキペディア「法華経」
たびびとのたまご「インド 各地域情報 ラージギール」
ウィキペディア「ビンビサーラ」
ウィキペディア「アジャータシャトル」
ウィキペディア「パータリプトラ」
ウィキペディア「パトナ」
ウィキペディア「阿羅漢」
日本テーラワーダ仏教協会「パーリ聖典の源流」
ウィキペディア「十事非法」
新纂浄土宗大辞典「布薩」
新纂浄土宗大辞典「具足戒」
ウィキペディア「八斎戒」
ウィキペディア「六斎日」
ウィキペディア「波羅提木叉」
真言宗泉涌寺派大本山法楽寺「結集-仏滅後の僧伽-」
真言宗泉涌寺派大本山法楽寺「十戒」
真言宗泉涌寺派大本山法楽寺「根本分裂-分裂した僧伽-」
真言宗泉涌寺派大本山法楽寺「枝末分裂 -部派仏教-」
ウィキペディア「説一切有部」
初期仏典(三蔵)の編纂(結集)と伝承(口伝と書写) ――インドよりスリランカ・ミャンマーへ――
ウィキペディア「赤銅よう部」
Wikipedia「Gothabhaya of Anuradhapura」
Wikipedia「Mahasena of Anuradhapura」
ウィキペディア「ブッダゴーサ」
ウィキペディア「清浄道論」
ウィキペディア「タトン」
ウィキペディア「ピュー」
ウィキペディア「スコータイ王朝」
世界史の窓「ペグー朝」
ウィキペディア「ペグー王朝」
ウィキペディア「アノーヤター」
Wikipedia「Vimaladharmasuriya I of Kandy」
Wikipedia「Vimaladharmasuriya II of Kandy」
Wikipedia「Vira Narendra Sinha of Kandy」
Wikipedia「Kirti Sri Rajasinha of Kandy」
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「旅と町歩き」を仕事にするためスリランカへ。
地図・語源・歴史・建築・旅が好き。
1982年7月、東京都世田谷区生まれ。
2005年3月、法政大学社会学部社会学科を卒業。
2005年4月、就活支援会社に入社。
2015年6月、新卒採用支援事業部長、国際事業開発部長などを経験して就職支援会社を退社。
2015年7月、公益財団法人にて東南アジア研修を担当。
2016年7月、初めてスリランカに渡航し、会社の登記を開始。
2016年12月、スリランカでの研修受け入れを開始。
2017年2月、スリランカ情報誌「スパイスアップ・スリランカ」創刊。
2018年1月、スリランカ情報サイト「スパイスアップ」開設。
2019年11月、日本人宿「スパイスアップ・ゲストハウス」開始。
2020年8月、不定期配信の「スパイスアップ・ニュースレター」創刊。
2023年11月、サービスアパートメント「スパイスアップ・レジデンス」開始。
2024年7月、スリランカ商品のネットショップ「スパイスアップ・ランカ」開設。
渡航国:台湾、韓国、中国、ベトナム、フィリピン、ブルネイ、インドネシア、シンガポール、マレーシア、カンボジア、タイ、ミャンマー、インド、スリランカ、モルディブ、アラブ首長国連邦、エジプト、ケニア、タンザニア、ウガンダ、フランス、イギリス、アメリカ
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