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『紅茶レジェンド―磯淵猛が歩いた イギリスが見つけた紅茶の国』

2022年4月02日

茶の世界史スポットを巡った磯淵猛さんが紅茶史エッセイ『紅茶レジェンド―磯淵猛が歩いた イギリスが見つけた紅茶の国』を紹介します。

著者・磯淵猛さんとは?

紅茶研究家・エッセイスト
キリンビバレッジ株式会社「キリン午後の紅茶」アドバイザー
株式会社モスフードサービス事業開発本部「マザーリーフ」コンサルタント
日本創芸教育「紅茶通信教育」主任教授

1951年、愛媛県生まれ。
1979年、紅茶専門店ディンブラを開業、スリランカをメインに紅茶の輸入を手がける。
1994年、株式会社ティー・イソブチカンパニーを設立し、事業を拡大。
1995年、紅茶文化の会を主宰

紅茶の特徴を生かした数百種類のオリジナルメニューを開発。
NHKをはじめ、テレビ、ラジオへ多数出演。

■著作一覧
2018年12月:ツウになる! 紅茶の教本
2017年1月:
茶楽 世界のおいしいお茶・完璧な一杯のためのレシピ
2016年11月:基礎から学ぶ 紅茶のすべて: 美味しくするテクニックから歴史や産地の話まで
2016年10月:
華麗なる紅茶の世界
2016年2月:紅茶の手帖
2016年9月:TEA BOOK: 完璧な一杯を淹れるためのテクニックを紹介-世界のお茶・基礎知識・文化・ブレンド・レシピ
2014年2月:30分で人生が深まる紅茶術
2012年4月:紅茶の教科書
2012年2月:世界の紅茶 400年の歴史と未来
2011年8月:紅茶レジェンド―磯淵猛が歩いた イギリスが見つけた紅茶の国
2010年1月:
新版 紅茶ブレンド
2009年1月:紅茶レジェンド―磯淵猛が歩いた「イギリスが見つけた紅茶の国」
2005年10月:
紅茶スタイル―週末をおしゃれに楽しむ
2005年8月:一杯の紅茶の世界史
2003年7月:
紅茶事典
2003年2月:紅茶&アレンジティーの技術教本―基本から最新バリエーションまで
2002年3月:金の芽 インド紅茶紀行
2000年11月:
二人の紅茶王―リプトンとトワイニングと…
2000年7月:紅茶の国 紅茶の旅
2000年4月:
風と霧と光の紅茶
2000年1月:紅茶 おいしくなる話
1998年12月:紅茶を楽しむ生活
1998年4月:紅茶のある食卓
1998年4月:
ティータイムのその前に
1998年2月:おいしい紅茶生活―四季折々の飲み方・楽しみ方
1996年10月:紅茶画廊へようこそ
1995年3月:紅茶曜日
1994年12月:Searching for Tea―紅茶 おいしさ発見
1994年5月:
紅茶色の物語―四季の紅茶の楽しみかた
1993年11月:素敵なティータイム―本物のおいしさと楽しみ方
1993年7月:紅茶―おいしさの決めて
1992年1月:紅茶―おいしさの「コツ」
1990年12月:
紅茶、知って味わう―本格派に捧げる一杯 

本書の概要

本書は磯淵さんが訪れた以下の場所を紹介しながら、茶の歴史を紐解く内容になっています。

・樹齢1700年の茶樹近種と基諾(ジノ)族「中国・雲南省西双版納傣族自治州の巴達山」
・樹齢800年、樹齢500年の茶樹と哈尼(ハニ)族「中国・雲南省西双版納傣族自治州の南糯山」
・チベットに運ばれるプーアール茶と哈尼(ハニ)族「中国・雲南省普洱市」
・普洱市からチベットへ茶が運ばれた茶馬古道「中国・雲南省那柯里」
・紅茶の発祥地「中国・福建省桐木村(武夷山)」
・食べるお茶と茶葉の伝説の地「ミャンマー・シャン州タンマー村」
・ロバート・ブルースとジュンポー族と出会いアッサム種を発見した「インド・アッサム州」
・アッサム紅茶の先駆者チャールズ・アレキサンダー・ブルースの墓地「インド・アッサム州テズプル」
・セイロン紅茶の先駆者ジェームス・テイラーの茶園「スリランカ・中部州キャンディ県」
・紅茶王トーマス・リプトンの茶園「スリランカ・ウーワ州バドゥッラ県」
・十代目トワイニング氏「イギリス・ロンドン特別区ストランド」
・アフタヌーンティーの創立者の子孫タビストック公爵「イギリス・ベッドフォードシャー」

以下、本書の内容をピックアップして紹介します。

茶の起源と伝播

お茶を食べる山岳の少数民族

磯淵さんが訪れた樹齢の長い茶樹があるのは、以下の雲南省の山でした。

・樹齢1700年の茶樹近種と基諾(ジノ)族「中国・雲南省西双版納傣族自治州の巴達山」
・樹齢800年、樹齢500年の茶樹と哈尼(ハニ)族「中国・雲南省西双版納傣族自治州の南糯山」

そして、茶を育てている山岳の少数民族(ジノ族とハニ族)は、お茶を食べる習慣があります。
ミャンマーのシャン族とカチン族もお茶を食べる習慣があります。
インドのアッサムに住むジュンポー族もお茶を食べる習慣があります。

本書で磯淵さんは、ジノ族、ハニ族、ミャンマーの食べるお茶の習慣を伝えています。

茶の起源は雲南省あるいは湖南省とされているようですが、湖南省にいた山岳民族であるヤオ族が漢民族に追われて、雲南省に移動したでのはないとも言われています。

湖南省の北隣の湖北省からシルクロードを経由して茶が伝えられたのがロシアのようです。
湖北省も山地が広がっているので、湖北省でも茶が栽培されていたのかもしれません。

参考)
ウィキペディア:ジーヌオ族
ウィキペディア:ハニ族
こんなに違う? 特別な少数民族文化 in中国雲南省 – 長崎市
ウィキペディア:タイ族
ウィキペディア:シャン族
コトバンク:パラウン族
ウィキペディア:トーアン族
茶を祖先に持つ民族「徳昴族」|アジアの茶文化
コトバンク:ドゥアン(徳昴)族
ウィキペディア:カチン族
ウィキペディア:チンポー族

アッサムティーの父とジンポー族(景頗族)を知る@豊橋
ウィキペディア:アーホーム族
ウィキペディア:ミャオ・ヤオ語族
大井川茶園公式ブログ:西欧とは異なるルーツを持つ国・ロシアの茶文化とその歴史。

プーアール茶の起源

雲南省普洱市から茶馬古道を通って、チベットに運ばれたのが後発酵茶のプーアール茶です。

磯淵さんは、中国の人は緑茶を飲み、中国の外の人には発酵した茶(紅茶やプーアール茶)を販売していることを指摘されています。

参考)
ウィキペディア:プーアール茶
ウィキペディア:プーラン族
ウィキペディア:シーサンパンナ・タイ族自治州
ウィキペディア:茶馬古道
NHKオンデマンド:空旅中国 「茶馬古道」
NHK:悠久の文化薫る道 「茶馬古道 イ族の茶」

烏龍茶の起源

ウィキペディアの烏龍茶のページには、烏龍茶の発祥地として鳳凰山が挙げられています。
鳳凰山は、港町「潮州市」から川を遡ったところにある山です。

そして、武夷山は港町「福州市」から川を遡ったところにある山です。

祁門は、上海から川を遡ったところにある山です。

こうしてみると、雲南省の山岳民族が育てていた茶が沿岸部に伝わり、その港町の山で茶が栽培されていったようです。

台湾の茶栽培地もそうですし、宇治茶は大阪から川を遡った山地で栽培され、静岡茶も川を遡った山地で栽培されています。

湖南省の南側の山は、広東省の澳門や香港と川で繋がっています。

参考)
ウィキペディア:烏龍茶
ウィキペディア:鳳凰単欉
ウィキペディア:武夷岩茶
ウィキペディア:武夷山
ウィキペディア:正山小種
福建省茶の旅3〜武夷山・桐木村〜正山小種

紅茶の起源「武夷山」

ウィキペディアの烏龍茶のページには、烏龍茶の代表的な銘柄である「武夷岩茶」が紅茶の原型になった書かれています。

武夷山を訪れた磯淵さんは、その歴史と各お茶の関係を以下のように書かれています。

  • 周りはすべて岩山で耕す田地がなく、人々は茶の葉以外に生計を立てるものがなかった。
  • 正山は武夷山、イギリス人は神秘的な茶の発祥地の意味を込めてボーヒー(Bohea)と呼んだ。
  • すでに広まっていた烏龍茶の製法を江さんの先代が真似て紅茶を作ったのではないか。

世界三大紅茶のキーマンの産地に触れて、以下のように茶の伝播について書かれています。

紅茶の発源地が福建省であることは間違いない。茶は福建省が最も早かったわけではなく、その由来はおそらく広東省を通じて泉州港に伝わったのがはじめである。その後、(中略)現在の武夷山市に伝わった。(中略)最後に祁門市に伝わったのである。

参考)
おいしい旅:英国紅茶の歴史
紅茶文化・歴史:ミルクティーいろいろ ~世界で飲まれるミルクティー~

武夷山の「正山小種」とフレーバーティー「アールグレイ」の誕生

  • 武夷山で正山小種と名付けられた紅茶が作られるようになったのは、明代末期から清の初期であった。
  • 中国に派遣された使節団が二代目グレー伯爵(後の首相)のお土産として正山小種を持ち帰った
  • 当時、地中海のシチリア島で栽培されいたベルガモットを使うことを思いついた。

イギリスの紅茶史

イギリス人は緑茶よりも紅茶を好んだ

中国人が緑茶を多く飲む一方で、中国から茶を輸入したイギリスは緑茶よりも紅茶を好んだ理由を磯淵さんは以下のように書かれています。

  • イギリス人は当初手にした中国緑茶に深い尊敬の念を抱き、ありがたく飲んではいたものの、それ以前から伝わっていたココアやコーヒーに比べると、緑茶はあまりにもライトで、個性が弱く、もの足りなさを隠し切れなかった。
  • 特に石灰分を多く含んだ硬度の高いロンドンの水で緑茶を入れると、タンニンの成分が弱められ、水色だけ濃くして味と香りを弱めてしまう。
  • 緑茶よりも紅茶のほうが、水色はコーヒーやココア系のコゲ茶色を呈し、不快であるはずの強い渋味も硬水の影響でほど良くなり、バランスのとれた風味になる。
  • 黒っぽい水色は、コーヒーやココアと同様、牛乳を入れるとよりおいしそうなクリーム・ブラウンになり、栄養効果を発揮し、より人々に愛される味に完成していったのだ。

トワイニング家

  • 1650年頃からロンドンでも急速にコーヒーハウスが開店され、そこに集まった人々が、政治や経済、様々なスキャンダルの話に花を咲かせ、中には政治的な陰謀と革命までが噂されたので、1678年、チャールズⅡ世は、それらの鎮圧のためにコーヒーハウス廃止令を布告した程だった。
  • チップ(TIP)という言葉は、コーヒーハウスに起源を発するもので、壁に打ち付けられた箱は、特別に親切で早くサービスを要求した客がお金を入れるものだった。それぞれの箱には、「迅速なサービスを保証する」というTO INSURE PROMPTNESSが記されていた。
  • トーマス・トワイニングは31歳の時、ストランドにトムのコーヒーハウスを開店し、紅茶販売を開始。
  • 減税が行われた1785年頃にイギリスが世界一の紅茶消費国となる。
  • ヴィクトリア女王統治の最初の年、1837年にトワイニング家には、王室御用達の許可書が与えられた。
  • アヘン戦争が終わり、東インド会社の茶の独占権の廃止により、自由貿易と競争が行われ、快速船(ティークリッパー)が話題を呼んだ。

参考)
Wikipedia:Strand, London

アフタヌーンティーの発祥地「ベッドフォードシャー」

アフタヌーンティーの誕生の背景が分かり易く説明されています。

朝食はイングリッシュ・ブレックファストと呼ぶ品数の多いたっぷりの食事をとったので、ランチは簡単にサンドイッチやフルーツ、それにお茶をバスケットに詰めピクニックに出掛け、軽く済ませていた。しかし、社交的なディナーは音楽会や観劇の後で、8時か9時頃と遅くなりがちであり、夕食までに空腹で耐えられないことから、午後にお茶とパンやお菓子を食べることを考えた。

大航海時代に胡椒一握りは金銀一握りと同等だったとよく言われますが、似た事が書かれていました。高価なものを説明するときに、比喩的に金銀と同等と言っていたのかもしれません。

金銀一握りとお茶一握りが同等の価値と言われたが、茶の品質はかなり粗悪で、茶軸や茎がたくさん混ざり、夾雑物と呼ぶ小さなゴミも含まれていた。これらのゴミが混ざった茶葉で茶を点てると、それが上に浮かんでくる。それをモートスプーンですくい取って捨てたのである。いわば、モートスプーンは今日の茶漉しの源である。そして、次に小さな茶碗に注ぐ。この時、急須の口が小さくて狭いので茎や葉が詰まってしまう。それを尖ったスプーンの柄でスパイクし、通りをよくした。

品質が粗悪だったにも関わらず、高価だったことが以下の記述で想像できます。

どれほど高価だったかは、当時の貴族たちが茶を保管するために作らせた箱を見ればよくわかる。これはキャンディボックスと呼ばれ、丁度、宝石箱のように鍵が掛けられる箱で、中にはさらに二つの小さな箱があり、一方に緑茶、もう一方に発酵茶を入れた。

アッサムでのCTC製法の開発

オーソドックスティーは茎や軸を雑物として除去し、生葉からの紅茶の仕上がり率30%なのに対し、CTC茶はこれらを除かず、全て含んで加工されるため、仕上がり率60%に達し、生産量が倍にもなる。

スリランカの紅茶史

セイロンティーの父「ジェームス・テイラー」

ジェームステイラーがスリランカにやってきた頃の説明がとても分かりやすかったです。以下、要約して引用します。

セイロンのコーヒー栽培で富を得ようとするラッシュと、カリフォルニア、オーストラリアの金鉱熱とは、ほぼ同じ時期に起こった。多くはスコットランドのアバデーン周辺からきた若い男たちで(冒険家・軍人・貧しい村人など)で、最初の耕作者になり、事業主になることができた。彼らは監督者として働き、やがて自分たちの農園を所有したのだ。コーヒー熱は1845年に絶頂に達した。

以下、ゴールドラッシュとスリランカにおけるコーヒー栽培の年表です。たしかに同じ頃です。

1824年:イギリスによるスリランカでのコーヒー栽培開始
1848年:アメリカのカリフォルニア州でのゴールドラッシュ
1851年:オーストラリアのニューサウスウェールズ州、ビクトリア州でのゴールドラッシュ
1868年:スリランカが世界3位のコーヒー生産量を記録
1861年:ニュージーランドのオタゴ地方でのゴールドラッシュ
1883年:チリのティエラ・デル・フエゴでのゴールドラッシュ
1886年:南アフリカのウィットウォーターズランドでのゴールドラッシュ
1896年:カナダのクロンダイク地方でのゴールドラッシュ

アバデーンはここです。

スリランカでのコーヒー栽培が命懸けのハードな仕事であることが分かる部分を以下に引用します。

彼らは道のない森の中を奮闘しながら進み、未開のジャングルであってもテントなしで露営した。(中略)必要とした装備は、斧、ナイフ、ロープ、石油ランプ、マッチとローソク、救急箱、そして、獲物を撃つとともに身を守るためのライフルだった。労働者はみな裸足だったが、彼らにはどうしても必要なものがあった。それは足に巻くガータである。ジャングルに入った途端、数千のヒルに出くわすのだ。痛みがなくて食いつかれたのに気づかないでいると、同じ箇所を何度も噛まれ、やがてその傷から菌が入ってしまい、足は腐ってしまうのだった。(中略)ジャングルの生活とは、野生の象、豹、熊へ日、ヒルに縛られることであり、雨が降れば水浸しになり、寒さにぶるぶる震えることであった。雨は時に数週間も降り続き、今まで造った道も、土手も全て流し、霧だけが渦を巻いて熱を保った。真の開拓者精神を持つ者だけが、この過酷な環境に打ち勝つことができた。(中略)多くの人々がコーヒー園の開拓の途上で亡くなっていった。しかし、開拓者たちの環境は世代を経るごとに改善されていった。セイロンでの開拓時代は、一般に1900年の半ばまで続いたと考えられている。

ジェームス・テーラーがスリランカやってきた経緯を以下、要約して引用します。

セイロンのコーヒー農園で6年間働いた母の従兄弟ピーターノイルが帰国し、セイロン行きを勧めた。
1852年2月、16歳(17歳の誕生日1ヶ月前)のテーラーは従兄弟ヘンリースティーブンスと一緒に3ヶ月の船旅でコロンボへ。
当時のコロンボにあったのはゴールフェイスホテルとロイヤルホテルの2軒のみで、ゴールフェイスホテルに宿泊。

ゴールフェイスホテルの記述が面白いです。

ホテルとは名ばかりの薄暗い掘立て小屋で、二つとも不潔極まりない宿泊所だった。ゴールフェイスホテルは、ホコリとシミの付いたテントで仕切ってあるだけで、プライバシーなどはなく、できるだけ早く逃げ出したくなるようなところだった。(中略)ホテルとして名を出せるようになったのは、テーラーが泊まってから十年以上も経ってからなのか、ホテルのメモリアルボードには、1864年創立と記されている。

当時のことなので、コロンボからキャンディまで歩いたそうです。

二人は6日間かけてコロンボからキャンディまで歩いた。そして、テーラーはセイロンでも一番大きなコーヒー園を経営し、農園事業の成功者として立派な人物とスコットランドで聞いたプライド氏のナランヘナ農園に向かった。

ナランヘナで調べると、ジェームス・テーラーのバンガローがあるルーラコンデラの東隣にグーグルマップでポイントされました。
最初からのこの辺りで農園の仕事をしていたことが想像できます。

キャンディの町の北はずれの墓地のジェームステイラーのお墓には、キニーネと茶の栽培において功績を残したことが書かれています。

本書によれば、コーヒーさび病でコーヒー栽培が被害を受けた後、テーラーが働いた農園の主人は、マラリヤや熱病の特効薬として解熱に使われるキニーネを採るシンコナの木の栽培を始めるようにテーラーに指示し、テーラーはその栽培に成功しています。

キニーネはその後、世界で価格が暴落したからでしょう。
テーラーはキニーネの後に、今度は茶の栽培に取り組み、成功します。
このテーラーの茶栽培の成功をセイロンティーの誕生とするのが一般的です。

紅茶王「トーマス・リプトン」

以下、本書からの要約です。

◆雑貨店の王「トーマス・リプトン」

  • リプトンの両親は、アイルランドで起こったジャガイモ飢饉によって、スコットランドのグラスゴーに逃げのびてきた難民だった。(中略)父が下町でバターやハム、卵を売る小さな雑貨店を開き、彼は小さい時から店を手伝っていた。
  • 13歳で単身渡米して百貨店で6年間働き、貯金とともに帰国し、1871年の21歳の誕生日に自分のお店を開業。
    30歳までに20店舗以上に拡大させる。
  • それまで量り売りが基本だった紅茶を小包装にして販売し、さらに各地の水質に合わせその地名を冠したブレンドで売り出し、人気を博す。
  • 1890年、40歳のリプトンはグローサリー・キングと呼ばれ、雑貨店の経営でその名を知られる。

◆紅茶王「トーマス・リプトン」

  • 銀行家からセイロン島のコーヒー農園跡地での茶栽培が成功しているという話を聞いたはセイロン島に渡り、キャンディ地区、マータレー地区、ウーワ地区、ウドゥ・プッセッラーワ地区と農園を買い取る。
  • リプトンがバンガローを立てたのがハプタレーのダンバンテ農園。

ジェームステイラーは一度もスコットランドに帰ることなくスリランカで一生を終えますが、リプトンは1890年〜1892年にセイロン島に滞在し、その後はイギリスに戻っています。

リプトン社のオフィスがあったのがコロンボ7のLipon Circus(現:De soysa Circus)です。

現在、ダンバンテ農園はリプトン社の経営ではなく、リプトン社はありません。
これは1958年にソロモン・バンダーラナーヤカ首相が外国人が所有している農園を国有化することを政策に掲げ、1972年にシリマーボ・バンダーラナーヤカ首相が土地改革法を実施したことによって、外国人経営者が離れたためでしょう。

この経緯については『スリランカ 紅茶のふる里』に記載されています。

スリランカの訪問スポット

磯淵さんがキャンディに向かう際に立ち寄られるスポットが2ヶ所紹介されています。

パイナップルの町「イムブルゴダ」

国道を造ったエンジニアの公邸

まとめ

本書は本のサイズが大きく、写真と地図が掲載され、磯淵さんが訪れた各地の様子が想像できます。

現在の茶の生産国を見ると、陸路で伝わったイランやトルコも、ロシアやインドと同様に「チャイ」と呼ばれているようです。
イランやトルコには先にコーヒーが伝わっていましたが、コーヒー生産地からは遠く、茶が国内生産できたことから、コーヒーから茶(紅茶)に置き換わったようです。

海路で伝わったインドネシア、マレーシア、スリランカは、「テ」と言われます。

茶やコーヒーがどのように世界各地に広がり、定着していったのが分かるのは非常に面白いなと思いました。

参考)

お茶の葛野:カテキン先生のお茶講座 第18回 お茶の生産量世界一はどこ?「世界のお茶」
大東文化大学:飲料:イラン―チャイハーネ考
公益財団法人世界緑茶協会:イランの茶
公益財団法人世界緑茶協会:トルコの茶
ウィキペディア:チャイ (トルコ)

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