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セイロンティー発祥地ルーラコンデラとジェームステイラー

2022年5月02日

スリランカを代表する産業である紅茶は1867年、スコットランド人ジェームステイラーによるルーラコンデラでの産業的な生産が始めだとされています。

本記事では、セイロンティー発祥150年の記念年だった2017年2月にスリランカ紅茶局の会長に推薦いただいて訪れた1回目、2018年7月に農園近くのホテル「Taylors Hill Boutique Hotel(現在閉鎖中)」に招かれて、ホテルのツアーとして農園を訪れた時の写真を使い、ルーラコンデラ紹介しています。

セイロンティーの父「ジェームス・テイラー」

各地にあるテイラー像

ジェームス・テイラーの像は、コロンボの紅茶局、キャンディの紅茶博物館、ヌワラエリヤの紅茶工場を改装したホテル「ヘリタンスティーファクトリー」、キャンディ郊外のルーラコンデラ農園、生まれ故郷のスコットランドと各地にあります。

ルーラコンデラに立つテイラー像

スリランカの紅茶ブランド「ムレスナ(Mlesna)」の創業経営者アンセレム・ペレラさんは、テイラーをセイロンティーの父として敬意を示されています。

ヌワラエリヤ県のディンブラ茶の産地で、デヴォン滝が見えるところにあるムレスナのカフェ&ショップ「ムレスナ・ティー・キャッスル(Mlesna Tea Castle)」の入口には、大きなジェームステイラー像があります。

ムレスナティーキャッスルの入口にあるテイラー像

セイロンティー生誕150周年記念では、コロンボにあるスリランカ紅茶局の事務所入口(ショップの裏手)に、ジェームステイラー像が置かれました。
この時のコロンボティーオークションの会長を務められていたのがアンセレムさんです。

スリランカ紅茶局にあるテイラー像

2019年には、アンセレムさんがテイラーの生まれ故郷であるスコットランドのキンカーデン地方オーチェンブルーにジェームステイラー像を寄贈されています。

キャンディ郊外のハンターナにあった紅茶工場を博物館に改装した、スリランカ紅茶局が運営する「紅茶博物館」にもテイラーについて展示されています。

ハンターナの紅茶博物館

ヌワラエリヤ郊外にある紅茶工場を改装した「ヘリタンスティーファクトリー」のロビーラウンジにもジェームステイラーについて展示されています。

1992年にルーラコンデラに博物館がオープンしますが、2001年にハンターナにオープンした紅茶博物館に展示品が移され、ルーラコンデラの博物館は閉鎖。

現在は、バンガロー跡、展望台に置かれたテイラーの石の椅子、茶園が見学などが見学できるようになっています。

農園に人生を捧げたテイラー

スリランカの紅茶産業史に名を残し、関連スポットが観光地になっているのが、紅茶王と呼ばれたトーマス・リプトンと、セイロンティーの父ジェームス・テイラーです。

二人に共通しているのは、スコットランド生まれで、若くして海外に出て働いたことです。
違いはリプトンはビジネスオーナーで、テイラーは農園会社に勤めた農園管理者(superintendent)だったことです。

リプトンは雑貨店ビジネスで財を成し、銀行家からスリランカへの茶園の投資を勧められてスリランカを訪れ、紅茶ビジネスを始めます。スリランカに滞在したのは2年ほどだったようです。

一方、テイラーは16歳でスリランカにやってきて、その後、一度もスコットランドに帰ることなく、農園会社に勤め上げ、紅茶栽培・製造の研究を重ね、茶園のバンガロー内で亡くなります。死の翌日に、茶園労働者たちが順番に棺を担いで、キャンディ郊外の墓場に運び、埋葬されています。

テイラーは控え目な人で、農園協会からその功績を讃えられるも、会合には参加せず、亡くなる1年前に農園会社を解雇されています。

アッサムティーの父チャールズ・アレクサンダー・ブルースも、スコットランドからアッサムに渡り、会社を解雇された後もアッサムに残り、アッサムに埋葬されていますが、直向きに現地と関わり、一生を捧げた生き様が尊敬を集めているのかもしれません。

ルーラコンデラ茶園へのアクセス

キャンディからデルトタへ

ルーラコンデラに行く際の拠点となるのはキャンディです。

公共交通機関で行くと、移動だけで6時間ほどかかり、丸一日が潰れてしまうため、基本は移動手段を確保して向かいます。

キャンディからはマハウェリ川をビクトリアダム方面に向かう迂回ルートは茶園の入口まで45キロ弱ですが、道が主要道路を通るため、1時間半弱で到着します。

お勧めはハンターナの山越えでいく最短ルート31-32キロのルートです。
山道のため、片道1時間半を少し超えますが、ハンターナの茶園を通過していく景色は、セイロンティーの発祥地を巡る旅にはもってこいです。

まず、ハンターナから見下ろすキャンディの街並みが素晴らしいです。
紅茶博物館を通過しますので、時間の余裕がある方は、紅茶博物館を見て、ジェームステイラーについて学んでから、先に進むのもいいでしょう。
山を下っていくと、ガラハの町に出て、さらにデルトタの町まで行きます。

バスで行く場合は、キャンディからデルトタ行きのバスに乗ります。

上記の2ルートとは異なり、ペーラーデニヤを経由して、B364を通って迂回して走ります。
車でもこのルートは1時間45分ほどかかり、バスだと途中止まるため、片道3時間ほどかかります。

そして、デルトタからルーラコンデラは8キロあり、歩くと2時間かかります。
ルーラコンデラの入口についたら入場料250ルピーを払って、そこから急な山道を登って山の上の方で行ってようやくジェームステイラーのスポットがあり、山道は車両で登るのが一般的です。

デルトタからルーラコンデラへ

デルトタからさらに南下すると、ルーラコンデラの看板が見えてきます。

セイロンのコーヒー農園で働くためにやってきたジェームス・テイラーが最初に目指したのは、この看板に記載されている「ナランヘナ」農園でした。

テイラーが茶栽培を任されたのが、ルーラコンデラでした。

1975年に施行された土地改革法によってルーラコンデラ茶園は国有化され、現在は農業省傘下のJANATHA ESTATES DEVELOPMENT BOARDが経営しています。

斜面に茶樹が植えられています。
この斜面を登っていくと、茶園のメインエリアがあります。
道路はさらに南に山を下っていきます。

南に道を下っていく行くと、谷底に茶工場が見えてきます。

デルトタを背にして、道の右の山の上に茶園があり、左の谷底に茶工場、道はこの山と谷の間の高さを走っています。

ルーラコンデラとは?

川魚が生息する渓流の村ルーラコンデラ

ルーラコンデラの名は、シンハラ語ではルールコンデラと言います。
川魚(ルーラー)と、コンデラ(渓流・小川・谷間)が由来だとされています。

ルーラーは、シンハラ語名で、一般にはプラーチョンなどと呼ばれ、南アジアと東南アジアに生息している食用とされる川魚です。

ルーラコンデラ茶園の入口に小川「マ・オヤ」が流れていて、少し下流に行くと「グル・ガル・オヤ・ダム」があり、さらに下流は「ビクトリア・ダム」に流れ込んでいます。

茶園入口の川は天然のプールになっていて、子供たちが水浴びをしていました。

私が初めてルーラコンデラを訪れた時は、ヌワラエリヤからトゥクトゥクで3時間半かけて行ったため、ドライバーさんが「川に入ろう!」というので、一緒に川に入りました。

水浴びをした後に、ドライバーさんは「ここからは地元のドライバーに託して、俺はヌワラエリヤに帰るから!」と言って去っていきました。

入口から茶園の山道を登って、茶園を見学して、また入口まで戻って、次の町まで行くのを地元のトゥクトゥクドライバーさんに任せるわけです。

天然プールの上流側

看板にはジェームステイラーのバンガローの先にある大きな岩「コンダガラ」の名前を冠した茶園もあるようです。

入口近くの看板

巨岩が転がる渓谷

私は茶園を10か所以上見学していますが、最も山道が険しく、道がガタガタだったのがルーラコンデラでした。

ゆっくり進みますが、それでもガンガンに揺れて揺れまくります。
頭をぶつけないように気をつけないといけない上に、ゆっくりなので、30分ほど走るのでもはやアトラクションです。

また、ルーラコンデラは景色が独特です。
他の茶園は、到着するまでの道のりも茶樹が並んでいる姿が見られますが、ルーラコンデラは巨岩が多く転がっています。

ジェームステイラーは、まず、この巨岩が転がる土地を整備することから始めたそうですが、コーヒー栽培が栄華を極めている時に、茶の試験栽培地として選ばれたのは岩だらけの山だったのかもしれません。

激しい揺れのため、道中は写真をほとんど撮りませんでした。
以下の岩は小さい方で、これよりも大きな岩が点在していました。

テイラーの展望台とバンガロー

山道の麓で入場料250ルピーを払うと、守衛さんがゲートを開けてくれます。
その後、上記のガタガタ山道を登っていき、駐車スペースまで向かいます。

駐車スペースは、以下の地図のJames Taylor’s Seat方面と、James Taylor’s Cottage方面と道が分かれる部分です。

周辺の景色を見渡す「テイラーの展望台」

景色が展望できる石の椅子が置かれた展望台(James Taylor’s Seat)。

テイラーはこの椅子に座って、ルーラコンデラの将来を計画した説明板にはあります。

Seatとは固定した座席のことを言います。(動かせるのはChair)
この座面と背もたれのように置かれた石がジェームステイラーズシートと呼ばれています。

キャンディ郊外のビクトリアダム、フンナスギリヤ、ナックルズ森林山脈
マータレー郊外のウィルトシャー、ハンプシャー
バッティカロア郊外のトッピガラなどが見えるそうですが、遠くに見える山脈が世界遺産に登録されているナックルズなのでしょう。

茶摘みをする女性

テイラーの椅子に行く途中で、茶摘みをする女性たちを見かけました。

テイラーの井戸

コテージに向かうと、まず、テイラーの井戸が見えてきます。

テイラーは1865年にコテージを建てて、茶の栽培・製造の実験を始めています。

バンガロー跡地、テイラーの生涯

さらに進むと、バンガロー跡地が見えてきます。

バンガローで残っているのは、煙突部分のみです。

ポロンナルワのガル・ウィハーラのような保護のための屋根が設置されています。

6年間セイロンに滞在して戻ってきた従兄弟にセイロン行きを勧められたテイラーは16歳の秋、1851年10月にセイロン行きを決断。

テイラーは9歳で母を亡くし、再婚した父たちの暮らしには恵まれなかったと言われています。
そんなテイラーは、母方の従兄弟の誘いに乗ったのでしょう。

時代は1833年の奴隷制度廃止後、イギリスは奴隷労働で経営していたカリブ海のプランテーションに比べて、労働者を現地あるいは近隣諸国から獲得できるであろうと、スリランカを見ていました。

各植民地では、地域ごとに砂糖、コーヒー、カカオなどのプランテーションが経営されて、スリランカではコーヒーが主に作られていました。

1839-1842年のアヘン戦争の前に、アッサムでは茶の栽培に成功していましたが、この時、イギリス植民地で茶を栽培しているのはインドのみでした。

この時代はアメリカやオーストラリアではゴールデラッシュが起き、一攫千金を求めて海外へ金を掘りに行く人、未開拓の植民地で換金作物の栽培で一発当てようとする時代でもありました。

そんな中、テイラーの従兄弟は、セイロンに渡ってコーヒー農園で働き、一時帰国したわけです。
末端の労働者ではなく、ビジネスオーナーでもなく、労働者を管理するマネージャーとしての仕事です。

テイラーは、従兄弟二人などとともに1851年11月にスコットランドを出港して、3ヶ月後の1852年2月にコロンボに到着します。

マックウッズファミリーに迎えられ、まだホテルになっていなかった現在のゴールフェイスホテルに数日間宿泊します。
6日間かけて、コロンボからキャンディまで歩きます。

さらにキャンディからコーヒー農園「ナランヘナ農園」を経営するプライド氏のところにやってきます。
3月が誕生日だったテイラーはこの時、17歳になっていました。

ナランヘナ農園で6週間働いた後にテイラーは隣のワロヤ農園(コーヒー農園)に移され、1857年にはマラリヤの特効薬になるキニーネが取れるシンコナの栽培を命じられ、成功させています。

1867年、プライド氏がイギリスに帰国し、新しいオーナーとしてガビン氏がやってきます。
ガビン氏は、インドで成功した茶の栽培を、セイロンでも栽培する試みをテイラーに任せます。

そうして、テイラーが移り住んだのが、ここ、ルーラコンデラでした。

1866年、テイラーは茶栽培・紅茶製造を学びにインドに渡ります。

1867年、ペーラーデニヤ植物園のインド原産種の茶樹の苗木がテイラーに渡され、栽培を始めます。
栽培は番号7の畑(Field No.7)と名付けた19エーカー(7.7ヘクタール)の森を切り開いた農地で行います。

同年、スリランカでコーヒーさび病が発生します。
この時、コーヒー農園主たちは、さび病を甘く見ていました。

1868年、コーヒーの輸出量が世界3位、イギリス帝国内で1位となります。
さび病は広がっていましたが、そのうち改善されると見込まれていました。
何せ、コーヒーの生産量、輸出量は増える一方だったのです。

1869年、コーヒーさび病は加速度的に蔓延し、コーヒー農園が大きな被害を受けます。
コーヒーさび病が最初に発見されたのは1861年ケニアのビクトリア湖のことでしたが、初めての大流行はセイロンで起きてしまいました。

それまで例がなかったこと、明確な対策が分かっていなかったこと、そして、命懸けで渡ってきて開拓をして、ようやく収益を生む段階になった農園では、増産や農地の拡大が重視されてしまい、さび病対策を怠ってしまったと言われています。

1872年、テイラーは、紅茶を製茶するための揉捻機をキャンディで製作します。(この揉捻機はハンターナの紅茶博物館に展示されています。)
そして、直径6メートルの水車で動力を供給した紅茶工場をルーラコンデラに建設します。

1873年、テイラーは初めてルーラコンデラの紅茶をロンドンに送ります。

1875年からはロンドンへの定期的な輸出を開始します。

こうして、セイロンの高地でのプランテーションは、コーヒーから茶に入れ替わっていきます。
コーヒーさび病が流行する前に、テイラーが茶の栽培に成功したことは、とても大きな意味がありました。

テイラーは亡くなる2年前の1890年、セイロン農園主協会はテイラーのシンコナと茶栽培の功績に対し、感謝の品を贈呈することを決定し、お金を集めてテイラーに贈っています。

1892年、セイロンティーのビジネスが拡大し、小さな農園は大きな会社の傘下になるようになり、小さなテイラーの農園も経営体制が変わります。

会社はテイラーに対して6ヶ月の休職を取るように命じますが、テイラーはこれを拒否。
会社はついにはテイラーを解雇します。

そして、テイラーは重度の胃腸炎と赤痢にかかり、バンガローで息を引き取ります。

テイラーは巨漢でした。
テイラーの棺は、12組の男が交代して24人の男が34km離れたキャンディのマハイヤワ墓地に運び、埋葬されました。

マハイヤワ墓地のジェームステイラーの墓

私は行きそびれましたが、コンダガラ(Kondagala)という大きな岩があり、景観が良さそうで、そこにも茶園があるようですので、せっかくなら行ってみると良いかと思います。

紅茶工場へ

山を降りて、今度は工場に向かいます。

スリランカにある無数の茶工場のうち、観光客の見学を受け入れているのはごくわずかです。

ルーラコンデラ茶工場は通常は受け入れておらず、2017年の時は突撃訪問して、雑誌に掲載したい!と話したら、快く対応してくれました。

2018年の時はホテルがツアーとしてアレンジしてものでした。

現在、ホテルは閉鎖中ですので、ルーラコンデラ茶工場は見学を受け入れていないかもしれません。
スリランカのことですので、笑顔で挨拶したら受け入れてくれそうな気もしますが、行かれる場合は事前の確認をお願いいたします。

ジェームス・テイラー像

まず、山を降りて茶園の入口まで戻ります。

そして、今度は谷底の茶工場へ通ずる位置に向かいます。

道の入口にジェームス・テイラー像と記念碑が設置されています。

ルーラコンデラ茶工場

道を下っていくと、工場が見えてきます。

この工場は、数あるスリランカの茶工場の中でも、最も長い工場だそうです。

たしかに横に長いですよね。

この工場の標高は3,600フィート(1,097メール)。
工場の設立は、テイラーが亡くなった後のようです。

マネージャーさんに相談すると、生産ラインや事務所の一部を見せてくれました。
といっても、訪れた時は夕方で、工場はお休み状態でした。

一般公開している訳ではないので、あまり詳しいことは書かないでほしいとのことでした。

まとめ

セイロンティーの発祥地は、物静かに紅茶の研究に打ち込んだジェームステイラーを感じられる場所でした。

ヌワラエリヤには農園主たちが余暇を楽しんだクラブハウス、ゴルフクラブ、レースクラブなどが残されていますが、オーナーではなく、あくまで農園の責任者として働いたテイラーは、余暇には興味はなく、業界への功績を讃えて招かれて辞退したそうです。

キャンディに滞在された際のオプション旅行として、ルーラコンデラを訪れてみませんか?

道中の紅茶博物館と合わせると、紅茶のことがグッと理解できて、滞在中のセイロンティーをより深く味わえるように思います。

参考)
JANATHA ESTATES DEVELOPMENT BOARD:Loolecondera
Wikipedia:Loolecondera
ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑:プラーチョン
Wikipedia:Channa striata
Wikipedia:James Taylor (tea planter)
Visit Mearns:_Auchenblae to celebrate Scottish Father of Ceylon Tea
Wikipedia:Auchenblae
Dilmah:JAMES TAYLOR
スリランカ紅茶局

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