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スリランカについても書かれた『世界地理4 南アジア』

2022年5月19日

1978年発刊の『世界地理4 南アジア』を紹介します。

本書にはインド、スリランカ、パキスタン、バングラディシュ、ネパール、ブータンが取り上げられています。

本記事では、スリランカ、スリランカと関係が深いタミル・ナードゥ州とケララ州、インド総説からいくつか取り上げ紹介します。

本書の概要

地理学者の織田武雄さんが編集を担当され、10名の方が地域を分担して執筆されています。

本記事で取り上げた部分は以下の4名が書かれています。
インド総論:米倉二郎さん
南インド4州:北川建次さん
スリランカ:高野史男さん
ラクシャディープ諸島:林正久さん

参考)
ウィキペディア:織田武雄
米倉二郎先輩を想う
北川建次
ウィキペディア:高野史男
researchmap:林正久

スリランカ

植民地経営とプランテーションの形成

シンハラカーストの、カラーワ(漁師)、サラーガマ(シナモン皮むき)、ドゥラーワ(ヤシ酒作り)はコッテ時代に南インドからスリランカに渡ってシンハラ社会に吸収されたと言われますが、それが分かる記述がありましたので、以下、箇条書きで引用します。

  • 1505年セイロン島にやってきたポルトガル人はコロンボがシンハリ族のコッテ王国の首都コッテに近く、周辺に野生の肉桂が多いというのに目をつけて1517年ここに根拠地を設けた。ポルトガル人は肉桂貿易に大きな関心をもっていたが彼らはコロンボよりもむしろインド洋に対する戦略的位置のよい南方のゴール港を重要視していた。
  • コロンボにやってきたポルトガル人は西海岸の低地に繁茂している高品質の野生の肉桂に目をつけたが、これが後のプランテーション経済の先駆けとなった。肉桂貿易のためにはまず肉桂の樹皮をぬく労働力が必要であったが、その地方のシンハリ族農民たちは雇われ労働をあまり好まなかったため、南インドのタミル族労働者が多数導入された。ポルトガルはコロンボのほかにジャフナと南西端海岸のゴールとに城塞をもつ港を建設。
  • オランダ人はジャワ島などと同じくこの島にもプランテーション制度を導入した。野生肉桂の代わりに肉桂園が設けられ、コショウとコーヒーの樹が導入され、ココナット栽培が増加された。さらにサトウキビやタバコのように商業的に価値のある畑作物が推奨された。
  • かくしてオランダ人の高級官僚の中には自らもオランダ人にまねてプランテーション経営の大農園主になるものさえ出てきた。しかしその反面これらの作物に土地をとられたため、また農園労働者の増加によって自給できなくなった食糧を供給するため、インドから米を輸入しなければならなくなってきたのであった。
  • イギリスは(中略)野生の肉桂の採集や、コーヒー、コショウ、ココナットなどの輸出用樹木作物の栽培を水稲その他の在来作物といっしょに行なう混合経済をやめて、多雨地帯の大部分では特殊な商品作物だけを栽培するモノカルチュア的な商業的農業が推進されたのである。
  • 土地占有条例によって多くの土地がイギリス人の私有地とされ、とくにカンディ人村民が先祖伝来の共有林として放牧や焼畑耕作(chena)を行なったり階段状水田を開いたりしてきた土地が奪いとられることが多かった。
  • 19世紀末になると茶のほかにゴムが加わり、低い台地、丘陵地では他の作物と競合し、またプランテーションの労働力を奪い合った。コーヒーの場合以上に茶やゴムについては年中働いてくれる安価な労働力が必要であったが、シンハリ族の賃銀労働をきらう傾向はなお強かったため、プランテーション農園主たちは南インドから多数のタミル族出稼ぎ労働者を入れた。そして彼らは地元のシンハリ人たちとは言語、宗教、生活様式などで異質性が強いため、農園主はタミル人労働者のための集落を農園内に作らねばならなかった。彼らは4世代も経った今も農園の中に居住しながら”セイロン”とはほとんど接触をもたずに生活しているのである。

主な都市

1973年時点の人口が以下のように書かれています。
コロンボ61.8万人
ジャフナ10.7万人
キャンディ6.8万人
トリンコマリー3.5万人

コロンボの地図が掲載されていますが、国立病院の近くに当時の日本大使館はあったようです。
現在のコロンボ大学は旧セイロン大学と記載され、「セイロン大学はペラデニヤに移転。」と書かれています。
レースコースは「競馬場」、SLBCは「ラジオ・セイロン」と書かれています。

ペターは以下のように紹介されています。

港に接するフォートと呼ばれる地区は古く植民地軍拠点のあったところであり、政府機関、銀行、商社、ホテル、高級商店などの集中する都心地区となっている。すぐ東側に接するペタ地区はセイロン人労働者の町であるが、最近の急激な人口集中に伴い、付近から東部にかけて過密状態でスラム化しつつある。また海岸に沿って南郊は住宅地として急激に発展している。

インド

州ごとに自然、歴史、産業、人口、交通、都市がまとめられています。

スリランカと関係が深い、タミル・ナードゥ州、ケララ州、ラクシャディープ諸島の記述内容について、気になったところを紹介します。

インド総論

インド総論では、インドを中国と対比して説明しているのが非常に分かりやすいです。

インダス川と黄河
ガンジス川と揚子江
デカン高原と南シナ山地

インドと中国の共通点と相違点から、インド及びインド亜大陸の特徴が浮かんできます。

以下のインド地図は、「図1.15 インド史における核心地域と拠点」の一部を取り上げたものです。

黒い線は境界を表し、その太さは境界性の大きいことを示しています。

マルワやゴンドワナが境界線に囲まれているのが分かります。

スリランカに関連して注目すべきは、タミルナードゥ州、ケララ州が新帰属地域になっていることです。

タミル・ナードゥ州

◆ヒンドゥー教比率が高い
タミル・ナードゥ州はヒンドゥー教比率が全国平均と比べて高く、以下のようになっています。

ヒンズー教:タミルナードゥ89.01%、全インド82.73%
イスラム教:タミルナードゥ5.10%、全インド11.21%
キリスト教:タミルナードゥ5.74%、全インド2.6%
シーク教:タミルナードゥ0.01%、全インド1.9%
仏教:タミルナードゥ0.002%、全インド0.7%
ジャイナ教:タミルナードゥ0.09%、全インド0.47%
※1971年調査時点

◆識字率はインド2位
識字率はケララ州に次いで高く2位となっています。

男性:タミルナードゥ51.78%、全インド39.45%
女性:タミルナードゥ26.86%、全インド18.70%
合計:タミルナードゥ39.46%、全インド29.45%
※1971年調査時点

◆大規模な村落の比率が高い
インド全体に比べて、大規模な村落が多いのも特徴的です。

500人以下:タミルナードゥ18.86%、全インド55.34%
500-1000人:タミルナードゥ21.76%、全インド23.08%
1000-2000人:タミルナードゥ28.89%、全インド14.23%
2000-5000人:タミルナードゥ24.79%、全インド6.25%
5000-10000人:タミルナードゥ4.78%、全インド0.86%
10000人以上:タミルナードゥ0.89%、全インド0.23%
※1971年調査時点

ケララ州

◆キリスト教比率が最も高い
インド国内の州でキリスト教比率が最も高いのがケララ州です。

ヒンズー教:ケララ59.4%、全インド82.7%
イスラム教:ケララ19.5%、全インド11.2%
キリスト教:ケララ21.0%、全インド2.6%
シーク教:ケララ0.006%、全インド1.9%
仏教:ケララ0.002%、全インド0.7%
ジャイナ教:ケララ0.01%、全インド0.47%
※1971年調査時点

◆識字率は全国1位、特に女性の識字率が高い
識字率が高く、特に女性の識字率が高いに注目です。
2位のタミル・ナードゥ州に比べても、女性の識字率は非常に高いです。

男性:ケララ66.62%、全インド39.45%
女性:ケララ54.31%、全インド18.70%
合計:ケララ60.42%、全インド29.45%
※1971年調査時点

◆大規模な村落の比率が高い
タミル・ナードゥ州同様に大規模な村落の比率が高いです。

500人以下:ケララ0.31%、全インド55.34%
500-1000人:ケララ0.15%、全インド23.08%
1000-2000人:ケララ1.26%、全インド14.23%
2000-5000人:ケララ9.6%、全インド6.25%
5000-10000人:ケララ24.92%、全インド0.86%
10000人以上:ケララ63.72%、全インド0.23%
※1971年調査時点

ラクシャディープ諸島

ラクシャディープ諸島の最大のミニコイ島と、そのほかの島々、モルディブ諸島を分ける、8度海峡、9度海峡が地図に示されていて、位置関係が非常に分かりやすいです。

ミニコイ島については、以下に書かれています。

ミニコイ島は、諸島中最大で(4.5㎢)、他の島々とは異なる文化を持つ。この島の住民は、セイロンから移住してきた仏教徒がイスラム化されたもので、もともと南方のモルディブ諸島の文化圏に入っていたが、16世紀になって、モルディブの教王からラクシャディープのイスラム王に譲渡されたものである。住民なはマール語を話す。ミニコイ島には、インド海軍の基地が建設されており、インド洋における重要な軍事的位置を占める。

ミニコイ島とは異なる、他のラクシャディープ諸島の島々については、以下のように書かれています。

ラクシャディープ諸島には、9世紀頃、マラバル海岸のヒンズー教徒が移住・定着したが、アラビア人の侵入によって13世紀にはイスラム化されてしまった。その後ポルトガル人、イギリス東インド会社の支配下におかれたが、19世紀には、マドラス州の属州としてイギリスの植民地支配を受けていた。(中略)住民の99%はマラバル地方のモプラであり、マラヤラム語を話す。

参考)
Wikipedia:Mappila Muslims

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