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コロンボ散策2「ペター」ローカルマーケットと交通のハブ

2024年5月23日

コロンボ旧市街であるペターについて紹介します。

ペターはムスリム商人、タミル商人が多い町で、商店が立ち並び、大きなローカルマーケットもあります。

コロンボと全土を結ぶ鉄道駅・公営バスターミナル・私営バスターミナルがあり、スリランカ一の交通のハブでもあります。

ペターがどんな町なのかは、まずその名前を知ると見えてきます。

目次

街の名前の由来

ペターはシンハラ語ではピタ・コトゥワ(要塞の外)、タミル語ではプラッコーッタイ(要塞の外の町)と言います。

ペターとは、タミル語の村を意味するペーッタイから生まれたアングロ・インディアン語で、要塞の外の郊外を意味する言葉です。
アングロ・インディアン語とは、ヨーロッパ人(主にイギリス人。他にフランス人、ポルトガル人など)とインド人の混血であるアングロ・インディアン人が使う言葉です。

インドのケララ州の州都ティルヴァナンタプラムの王宮の郊外にもペターという町があります。

インドのマハーラーシュトラ州アフマドナガル県のアフマドナガル城の郊外都市もペターと呼ばれています。

インドのタミル・ナードゥ州州都のチェンナイには、セントジョージ要塞の郊外にロイペターという町があり、これも同じ語源かもしれません。

オランダ統治時代はコロンボフォートがオランダ領ゼイランの首都・要塞・城であり、その城下町として形成されたわけです。

参考)
Wikipedia:Anglo-Indian people
BBC:The young Anglo-Indians retracing their European roots

ペターに残るオランダの足跡

元々はポルトガルが建設したコロンボフォート内にありました。

オランダはポルトガルからコロンボフォートを奪取し、現在のコロンボフォートを星形要塞に変更し、フォートとペターの間に運河を築いて2地区を分離し、それぞれを海と湖に囲まれた島のような町にします。江戸で例えると、コロンボフォートが本丸、ペターは江戸城西の丸下といったところでしょう。

オランダ時代に築かれた碁盤目の街区が今のそのまま残されています。

オランダ時代の鐘塔「カイマンズゲート」

オランダ時代のペターのメインストリートの城門に建てられていた鐘塔が、現在のメインストリートの脇に保存されています。

ペターの城門カイマンズゲートの閉鎖を告げた鐘塔の鐘

オランダ語由来「カイザー・ストリート」

東西に走るカイザー・ストリート(Keyzer Street)は、オランダ語で皇帝を意味する「Keizer」が由来だと言われています。

オランダ統治時代はオランダ人街だったようです。

オランダ博物館(旧オランダ総督公邸)

カイザー・ストリートの南を東西に走るプリンス・ストリートには、1692年から1696年までオランダ領ゼイラン総督を務めたトーマス・ヴァン・リーの公邸として使われた二階建て邸宅が現在も保存されています。

1697年から1796年には、教員養成大学と聖職者教育機関として使われています。

イギリス領セイロン時代には兵舎として使われ、1900年からは警察訓練学校、1932年からはペター郵便局として使われていました。

1971年のモンスーンの大雨で外壁の一つが崩れて建物は放棄されます。

王立アジア協会とダッチ・バーガー・ユニオンが建物の取り壊し計画に反対し、1973年にセイロン観光局、考古局、スリランカ・オランダ同窓会、国立公文書館の代表からなる委員会が設立され、建物を修復してオランダ植民地時代の博物館とすることを決定。

1977年からオランダ政府の財政支援を受けて修復が開始され、1981年に完成し、翌1982年に博物館として一般公開されました。

2020年頃から修復のため閉館が続いています。

参考)
Wikipedia:Keizer(surname)

インド系商人の町へ

コロンボがオランダからイギリスの手に渡ると、コロンボフォートのオランダ要塞は取り壊され、イギリスはフォートにビルを次々に建設します。

コロンボフォートとともにコロンボ港に接するペターは、イギリス統治下のインド各地からムスリム商人、タミル商人が移り住む町となります。

ポルトガル人が来る前からコロンボに住んでいたのが、アラブ商人とスリランカ沿岸民族ムックヴァッルの混血スリランカン・ムーアです。

そこに、ムスリム商人とタミル商人が暮らし始めた町であり、現在でもペターで一番多いのがムスリム、続いてタミルです。

多様な人々が行き交うインドは喧騒と混沌と言われますが、インド系が多く、様々な人たちがいるペターはリトルインディアと言えるかもしれません。

落ち着いていて、綺麗と言われるスリランカの違った一面が見られる場所です。

インディアン・ムーアが建設したレッドモスク

インドからやってきたムスリム商人をまとめてインディアン・ムーアと呼びます。インドは広いのでインディアン・ムーアの中にも出自とする地域・宗教・民族で様々なグループがあり、アラブ商人とタミル海洋民族パラヴァルとの混血マラッカール、グジャラート州のシーア派商人ボーラ、グジャラート州やパキスタンのシンド州のスンニ派商人のメーモンとコージャなどがあります。

ペターに移り住んだインディアン・ムーアのコミュニティーが建設したのが、ペターの観光名所であるレッドモスクです。

建設を担当したのはインド在住のイギリス人建築家で、インド・サラセン様式(インドのイスラム建築とヨーロッパ建築の融合)で建てられました。

コロンボの定番観光スポット「レッドモスク」の無料ツアー

 

ペターの東にあるグナシンハプラには、オールド・ムーア・ストリート、ニュー・ムーア・ストリートが平行して走り、多くのモスクが点在しています。

ボーラのモスク「サイフィー・マスジット」

グジャラート州のシーア派商人ボーラたちが建設したモスク「サイフィー・マスジット」がフォース・クロス・ストリートにあります。

 

参考)
Wikipedia:Saifee Masjid

メーモンのモスク「メーモン・ハナフィ・マスジット」

グジャラート州やパキスタンのシンド州のスンニ派商人のメーモンたちが建設したモスク「メーモン・ハナフィ・マスジット」がサード・クロス・ストリートにあります。

参考)
Sunday Times:Getting to know the Memons

タミル商人チェッティとヒンドゥー寺院

タミル・ナードゥ州の商人チェッティからの移民も多く、ペターの北東から伸びるシー・ストリート、シュリ・カティレサン・ストリートにはチェッティの建設したヒンドゥー寺院が並んでいます。また、ヴィヴェカンダ(ヒンドゥー教の指導者)の丘に平行する道にはニュー・チェッティの名がつけられています。

ペターのファースト・クロス・ストリートには、レッドモスクよりも古い19世紀に建てられたムルガンを祀るヒンドゥー寺院が残されています。

パールシーが建設したカーン時計塔

ムンバイ出身のパールシー(ゾロアスター教徒)のカーン家が建設した時計塔がペターの西の入口に立っています。

カーン家はコロンボ・オイル・ミルズを経営していた裕福な家庭。

時計塔のプレートには、Framjee Bhikhajee Khanの2人の息子BhikhajeeとMunchershaw Framjee Khanによって、1923年1月4日、父の45回目の命日にコロンボ市議会を通じてコロンボ市民に捧げたことが記述されています。

参考)
Wikipedia:Indian Moors
Wikipedia:Sri Lankan Moors

Wikipedia:Marakkar
Wikipedia:Paravar
Wikipedia:Mukkuvar (India)
Wikipedia:Sri Lankan Mukkuvar
Wikipedia:Memons in Sri Lanka
Wikipedia:Khoja

名門校や大企業の始まりの地

マリバン・ビスケットの創業地

ペターを東西に走る道マリバン・ストリート(Maliban Street)は、マリバン・ビスケット(Maliban Biscuit)の創業地です。

マリバン・ビスケットの創業者、Angulugaha Gamage Hinni Appuhamyはゴールの高速道路入口付近の村Akmeemana出身です。

アップハミーは1928年にペターのファースト・クロス・ストリートでティー・キオスクを創業し成功します。

1935年にマリバン・ストリートにマリバン・ホテルを開業して成功し、ベースライン・ロード、ノリス・ロード、チャタム・ストリートにもホテルを開業します。

その後、コタヘナでベーカリーを開業。当初はパンを販売していたが、後に手作りのビスケットをラインナップに加えたと言います。最初に製造したビスケットのひとつが、マリバン・マリー・ビスケットだそうです。

1954年にスリランカ初となる機械化されたビスケット製造施設を操業(インドからビスケットカッターを購入)します。それが現在のマリバン・ビスケット・マニファクチャラーです。

1965年に現在のラトマラーナ工業団地に工場と本社を移転しています。

参考)
Maliban:Our Heritage
Wikipedia:Maliban

仏教名門校アーナンダカレッジ開校の地

神智学協会の創設者の一人で、近代スリランカの仏教再興運動を担った一人として知られるヘンリー・スティール・オルコットが1886年にペターのマリバン・ストリートに開校したイングリッシュ・ブッティスト・スクールが、後のアーナンダカレッジです。開校地には1890年まで学校として使われいた当時の建物が保存されています。

マリバン・ストリートの南を走る大通りは、ヘンリー・スティール・オルコットから名前をとったオルコット・マーワタと呼ばれ、オルコット・マーワタを西に行くと、コロンボフォート駅の前にヘンリー・スティール・オルコットの立像があります。

参考)
Ananda College:History
Ananda College Old Boy’s Association:History of Ananda College
Wikipedia:Ananda College

オールドタウンホール

スリランカ全島を統治したイギリスは、ポルトガルやオランダが防衛ために築いたコロンボフォートとペターの城壁を取り壊し、堀やベイラ湖の一部を埋め立てました。

そして、メインストリートの城門と堀の外にあった場所にコロンボ市役所を建てます。

コロンボ市役所を設計したのは、ゴールフォートのオールセインツ教会、コロンボ国立博物館、コロンボジェネラルホスピタル、ジャフナ時計塔を設計し、グランドオリエンタルホテルの改修を手掛けたジェームス・ジョージ・スミサーです。

建設と担当したのは、コロンボ総合郵便局、コロンボ国立博物館、コロンボ税関、ザヒラ・カレッジ、ゴール・フェイス・ホテル、ビクトリア・アーケード、コロンボフォートのバッタンバーグ砲台、フィンレイ・モアビルなどを建設したムスリム商人のArasi Marikar Wapchie Marikarです。

イギリス人設計のオールドタウンホールと日本寄贈の消防車

参考)
Wikipedia:James Smither
Wkipedia:Pettah Market
Wikipedia:List of Sri Lankan Moors
Wikipedia:Colombo National Museum

マーケットの集積地

雑貨屋が集まるオールドタウンホールマーケット

オールドタウンホールを設計したジェームス・ジョージ・スミサーは、その南隣に劇場としてエディンバラホールを設計しています。

それが後に公設市場となって、現在はオールドタウンホールマーケットと呼ばれています。

オールドタウンホールの屋外博物館と同じ装飾が見られます。

ジュエリーショップが集まるペターゴールドマーケット

メインストリートの北を走るバンクシャル・ストリート(バンクシャルはヒンディー語で倉庫)の城門の外、運河だったセント・ジョーンズ川を埋め立てて造られた道セント・ジョーンズ・ストリートと交差する部分に作られたのがセント・ジョーンズ・フィッシュマーケットです。

セントジョーンズフィッシュマーケットは2010年にペリヤゴダに移転し、跡地はジュエリーショップが入居するペターゴールドマーケットになっています。

参考)
Sunday Times:Famous city landmark – the St. John Fish Market – moves to Peliyagoda

野菜、果物、スパイスのボーディ・ラージャ・マーケット2

シュリー・ボーディ・ラージャ・マーワタとフィフス・クロス・ストリートの間にある屋根付きの屋外マーケット。

野菜、果物、スパイスなどが販売されています。

別名はFederation of Self Employees Market 2。

服や雑貨のボーディ・ラージャ・マーケット1

シュリー・ボーディ・ラージャ・マーワタにある屋根付きのマーケット。服や雑貨が売られています。

別名はFederation of Self Employees Market 1。

近代的なピーブルズ・パーク・コンプレックス

オールドタウンホールマーケットと隣接してあったコロンボ最古と言われるマーケットがあった場所です。

プレマダーサ大統領時代に、ペターの東隣のグナシンハプラの開発に合わせて建設されました。

書店、文房具屋、食器屋、雑貨、旅行会社、レストランなど様々なお店が入っています。

服や雑貨のマルワッツ・ロード・ホーカーズ・ストール・コンプレックス

マルワッツ・ロード(フロント。・ストリート)にあり、服屋などが入っています。

サリー屋さんが集まるアスラム・マーケット

細長いビルに所狭しと、サリー屋さんがたくさん入っています。

4階建てのビルで、どの階も基本的にサリー屋さんが並んでいます。

旧倉庫街にあったマニングマーケット

1918年から1925年までイギリス領セイロン総督を務めたウィリアム・マニングにちなんで命名されたマニング・マーケット。

元々はマニング食料倉庫(Manning Food Warehouse)と呼ばれた倉庫街でした。

マーケットが元々あったのはピープルズ・パーク・コンプレックスの北を走るカッチェリ・ロードです。

ピープルズ・パーク・コンプレックスの建設にあたり、市場は一時的にマニング食料倉庫に移されましたが、ピープルズ・パーク・コンプレックス完成後にその中に入居することにはならず、マニング食料倉庫に維持され、マニングマーケットと呼ばれるようになりました。

2011年にペリヤゴダへの移転が発表され、2020年11月にペリヤゴダにニュー・マニング・マーケットが開業しています。

マニングマーケットは、イギリスによって埋め立てられたオルコットマーワタより南側にあります。

参考)
roar media:Colombo’s Dying Market Place: The Manning Market
ADA deraa:New Manning Market complex in Peliyagoda declared open

 カフェとショップのペターフローティングマーケット

2014年8月にオープンした92の露店で構成された水上マーケット。

水上マーケットの開発と美化工事は、都市開発庁(UDA)によって1億5,000万ルピーをかけて行われました。

再開発の目的のひとつは、ペターにおける無許可の露天商を歩道から移転させることとも言われています。

参考)
Wikipedia:Pettah Floating Market

青空マーケットのキャレーポラ

フローティングマーケットの東、オルコットマーワタ沿いで行われる青空マーケットです。

交通のハブ

フォート駅

1917年に開業したコロンボの中央駅。

当初、コロンボに鉄道が敷設された際は、駅の東側にあるコロンボターミナスが終着駅で、コロンボフォート駅は現在のセクレタリアット・ホールト駅の位置にある小さな駅でした。

コロンボターミナス駅が閉鎖されて、1889年に木造のマラダーナ駅が新たな終着駅として作られます。1908年に現在のマラダーナ駅が開業しています。

マラダーナ駅ができた後に、新しい中央駅として現在地にフォート駅が開業しています。

参考)
Wikipedia:Fort Railway Station 
roar media:The Time-Tested Landmarks Of Maradana

セントラル・バス・スタンド(CBS)

1964年にランカ・サマジャ党(LSSP)のアニル・ムーネシンゲが通信大臣及びセイロン運輸局(Ceylon Transport Board)の総責任者となったときに、建設をしたバスターミナル。

スリランカ運輸局(Sri Lanka Transport Board)が運営する(国営)赤色のバスのターミナルで、コロンボと全国各地を公営バスで結んでいます。

参考)
Wikipedia:History of Sri Lanka Transport Board

バスティアン・マーワタ・バスターミナル

コロンボと全国各地を結ぶ私営バスターミナル。空港や主要な町へはACバス(マイクロバス)も出ています。

マータラ行き、ウェリガマ行きの大型の高速バスもあります。

グナシンハ・バス・スタンド

ニゴンボ行きの高速バス(マイクロバス)の乗り場は、セントラル・バス・スタンドの北、ピープルズ・パーク・コンプレックスの南にあるグナシンハ・バス・スタンドにあります。

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