Spice Up 観光情報サイト スリランカ観光・情報サイト

『スリランカ 時空の旅―遺跡を旅して知った歴史と仏教 』

2022年3月20日

仏教をテーマにスリランカを回った竹内さんの著書『スリランカ 時空の旅―遺跡を旅して知った歴史と仏教』を紹介します。

竹内さんはインドネシアのスラウェシ島、バリ島の旅を本として出版されていて、スリランカの旅を紹介した本書は3冊目となります。

その後、「チューラヴァンサ」「ディーパヴァンサ」「マハーワンサ」とスリランカの歴史書3冊の日本語訳及び解説をされた本を出版されています。

そのため、東南アジア・スリランカ・日本の仏教遺跡の比較、歴史書に基づく解説がされているのが本書の特徴です。

日本の歴史や仏教遺跡についても知識を深めることができます。

私は本書を通じて知った仏教遺跡があります。
それが「サッセールワブッダ」と「ダンベゴダブッダと観音菩薩」です。
この2点については巻頭でカラー写真が掲載されています。

また、冒頭には駐日スリランカ大使(当時)ランジット・ウヤンゴダ(Ranjith Uyangoda)氏からの「「出版によせて」も掲載されています。

竹内さんは、インドネシアの旅行本にも巻末にインドネシア語について解説されていますが、本書の巻末にもシンハラ語について解説が掲載されていて、旅中もシンハラ語で会話をされている様子が記録されています。

一読すると、スリランカの仏教・遺跡・歴史についての理解が深まります。

それではまず、著書の竹内さんについて紹介いたします。

著書・竹内雅夫さんとは?

1946年、東京生まれ。
明治大学卒業、電気通信大学中退。
神奈川県、埼玉県の公立学校勤務(2007年3月定年退職)

1994年8月:東洋出版から『インドネシア スラウェシ島縦断―ポンコツバイクで冒険旅行!!』
1995年5月:近代文芸社から『
バイクでバリ島―中年ライダー夢紀行』
2008年3月:東洋出版から『
スリランカ 時空の旅―遺跡を旅して知った歴史と仏教』
2013年12月:ブイツーソリューションから『チューラヴァンサによる続スリランカ仏教王国記』
2014年3月:ブイツーソリューションから『ディーパヴァンサによるスリランカ仏教王国記』
2017年6月:ブイツーソリューションから『
マハーワンサ -スリランカの大年代記』

※アマゾンではスリランカ 時空の旅―遺跡を旅して知った歴史と仏教』の発行日は、2004年2月になっていますが、本書には2008年3月17日が発行日と記載され、ランジット大使の文章には平成19年(2007年)と記載されていますので、竹内さんが2007年に退職された後の2008年が正しいようです。

目次と本書の構成

目次

はじめに P.5-P.7
第1章 インド・スリランカと東南アジア P.13-32
第2章 スリランカの建国神話と仏教小史 P.33-44
第3章 讃仏と巡礼の旅 P.45-238
第4章 ディープな旅をするために P.239-246
第5章 上座部仏教からみた比較宗教論 P.247-266
第6章 シンハラ語の基礎の基礎 P.267-266
おわりに P.279-284

本書の構成

本書のメインは、全体のページ数の68%(193ページ)を有する「讃仏と巡礼の旅」です。

第1章は、インド文化圏と言われるインドから東南アジアについて書かれています。
インドネシアの本を出されている竹内さんによる広域の視点からスリランカを捉えた章です。

第2章は、スリランカの建国神話と日本の建国神話の類似点やスリランカにおける仏教の歴史について書かれています。
後年にスリランカの神話・歴史をまとめた歴史書の翻訳・解説本を発行されている竹内さんは、本書を書かれている時から歴史書に関心を示されていることが分かります。

第3章は、竹内さんが回られたスリランカ各地を、年代に紹介されています。
実際に回ったルート順とは異なるため、体験のお話は前後がありますが、スリランカの歴史の流れは掴みやすいです。

第4章は、三帰依文や法句経(ダンマパダ)などに触れた短い章です。

第5章は、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教徒と比較して、仏教や日本について考察している章です。

第6章は、シンハラ語の基本的な単語と文法が紹介されています。
城西大学大学院経営学部修士課程に留学していたスリランカ人のハルシャ・グナセナさんに監修してもらった内容とのことです。

参考)
全日本仏教会:仏旗・法輪・三帰依文
ウィキペディア:法句経

第1章からのピックアップ

気になった内容をいくつかピックアップし、ネットで調べたことも加えて紹介します。

東大寺とボロブドゥール

東大寺とボロブドゥールが同じ頃に造られたことを指摘しています。

ウィキペディアを見ると、
東大寺の開眼供養会は752年
ボロブドゥールの完成は792年頃とされているようです。

東大寺は華厳経の教主である盧舎那仏(大仏)があり、第2〜3回廊のレリーフは華厳経に解かれる善財童子の物語。

一方、ボロブドゥールは全体としては密教のマンダラを立体的に表現されたものとされるそうです。

学校の先生をされていた竹内さんはこうも書かれています。

高校世界史の教科書中、東南アジア項目は3%である。

参考)
ウィキペディア:東大寺盧舎那仏像
ウィキペディア:善財童子
ウィキペディア:ボロブドゥール遺跡

南〜東南アジアの歴代国家と宗教

タイのスコータイ王朝成立前までは、大乗仏教が信仰され、大乗仏教による寺院が建立されていた。かの有名なアンコール遺跡郡も大乗仏教とヒンドゥー教遺跡である。

とあります。

そこで、各国の王朝の年代と宗教について以下に並べてみました。(仏教、ヒンドゥー教の勃興についても記載)
スリランカは上座部仏教を東南アジア諸国に伝えた国とされますので、上座部仏教を赤字にしました。

BC6世紀:ジャイナ教、仏教が誕生
BC6世紀-1345年:パーンディヤ朝(ヒンドゥー教)
BC322-BC185年:マウリヤ朝(ジャイナ教→アージーヴィカ教→仏教)
BC4世紀:タトン王国(上座部仏教
BC377-1017年:アヌラーダプラ王国(上座部仏教・大乗仏教)
BC3世紀頃:仏教が上座部と大衆部に分裂
50/68-550年:扶南国(ヒンドゥー教、仏教)
1世紀〜375年:クシャーナ朝(仏教)
1世紀末頃:大乗仏教が形成される
192-1832年:チャンパ王国(ヒンドゥー教)
350-446年:クタイ王国(ヒンドゥー教)
550-802年:真臘
6〜7世紀:南インドでバクティ運動(ヒンドゥー教)が始まる
6〜11世紀:ドヴァーラヴァティー王国(上座部仏教
650-1377年:シュリーヴィジャヤ王国(大乗仏教)
661-1292年:ハリプンチャイ王国
752-832年:シャイレーンドラ朝(大乗仏教)
802-1431年:クメール王朝(ヒンドゥー教→大乗仏教)
846-1279年:チョーラ朝(ヒンドゥー教)
929-1222年:クリディ王国(ヒンドゥー教)
10世紀-13世紀:タンブラリンガ王国
1044-1341年:パガン王朝(上座部仏教
1055-1236年:ポロンナルワ王国(上座部仏教
1240-1438年:スコータイ王朝(上座部仏教
13世紀:ムアンナコーンシータンマラート王国(上座部仏教
1287-1539年:ペグー王朝(上座部仏教
1292-1775年:ラーンナー(上座部仏教
1347-1752年:タウングー王朝(上座部仏教
1351-1767年:アユタヤ王朝(上座部仏教
1469-1815年:キャンディ王国(上座部仏教
1752-1886年:コンバウン王朝(上座部仏教

5世紀前半にアヌラーダプラに渡って上座部仏教の注釈書をまとめたブッタゴーサは、インド出身であるとされますが、竹内さんはブッタゴーサがモン族で下ビルマのタトンからアヌラーダプラに渡ったという説を紹介されています。

ミャンマー最古の国家であるモン族のタトン王国は上座部仏教の国で、アヌラーダプラ王国は交流があったようです。
モン族がタイに建国したドヴァーラヴァティー王国も上座部仏教の国でした。

タイの文化を形成したとされるスコータイ王朝は、第5代王リタイ(在位1347-1368年)がスリランカから高僧を招いて、仏教寺院や仏像を多く建造しています。
リタイ王の治世はスリランカではガンポラ王国の時代です。

さらに、1475年にバゴー王朝のダンマゼーディー王がスリランカに仏僧22名を派遣して、ケラニヤ川で具足戒を受けて、バゴーを仏教の一大中心地にしています。

スリランカが東南アジアに上座部仏教が広がる際に重要な役割を果たしたことが分かります。

スリランカの歴史〜建国から現在まで〜

参考)
ウィキペディア:パーンディヤ朝
ウィキペディア:マウリヤ朝
Wikipedia:Thaton Kingdom

ウィキペディア:アヌラーダプラ王国
ウィキペディア:扶南国

ウィキペディア:クシャーナ朝
ウィキペディア:チャンパ王国
ウィキペディア:クタイ王国
ウィキペディア:真臘
ウィキペディア:ドヴァーラヴァティー王国

ウィキペディア:シュリーヴィジャヤ王国
ウィキペディア:ハリプンチャイ王国
ウィキペディア:シャイレーンドラ朝

ウィキペディア:クメール王朝
ウィキペディア:チョーラ朝
ウィキペディア:クディリ王国

ウィキペディア:パガン王朝
ウィキペディア:ポロンナルワ王国
ウィキペディア:ムアンナコーンシータンマラート郡
Wikipedia:Tambralinga
Wikipedia:Nakhon Si Thammarat Kingdom

ウィキペディア:スコータイ王朝
ウィキペディア:ペグー王朝
ウィキペディア:ラーンナー
ウィキペディア:タウングー王朝
ウィキペディア:アユタヤ王朝
ウィキペディア:キャンディ王国
ウィキペディア:コンバウン王朝
ウィキペディア:部派仏教
ウィキペディア:大乗仏教
ウィキペディア:バクティ
世界史の窓:バクティ運動
ウィキペディア:ブッタゴーサ
ウィキペディア:ラームカムヘーン
ウィキペディア:リタイ

スリランカ・東南アジア・日本に共通する建国神話

竹内さんは、インドシナ半島最古の国家「扶南」の初代君主「カウンディンヤ」がカンボジアにわたり、現地の女王ソーマと結婚して建国したという神話が、スリランカの建国神話と似ていることを指摘されています。

また、扶南の港町「オケオ」にはインド人が定住したことも紹介されています。

ウィキペディアのカウンディンヤのページには、王の名前をオリヤー語でも記載し、マレー半島経由でカンボジアに渡ったとあります。
また、ウィキペディアのカリンガ国のページには、以下のように説明しています。

カリンガ国は強大な海洋王国であり、スリランカミャンマータイベトナムなどの東南アジアと、海路による交易が盛んであった。スリランカ、ミャンマー、インドネシアには、カリンガ人の集住区も存在していた。マレーシアでは現在でも、インド人のことを「カリング」と呼ぶ。

NHK 海のシルクロード第4巻には、マラッカ海峡だけではなく、マレー半島を横断する陸路の取材が紹介され、タミル人が入植したマレー半島の村が紹介されていますが、その内容と重な理、大変興味深いと思いました。

カリンガ国といえば、スリランカに仏歯をもたらした国であり、ポロンナルワは占領してジャフナ王国を建国したカリンガ・マガーがやってきた国でもあり、スリランカの歴史にも重要な存在です。

また、カリマンタン島のヒンドゥー教王国「クタイ王国」、ジャワの建国神話、スリランカを訪れた東晋の法顕、法顕・玄奘・義浄が訪れたガンジス河口のタームラリプティ、唐からスリランカに渡った不空金剛、インドを目指した高岳親王、東大寺の開眼供養法会の導師を務めた菩提僊那などを挙げて、古くから南インド・スリランカ・東南アジア・中国・日本が繋がっていたことを紹介しています。

法顕と不空金剛は大乗仏教の経典を求めてスリランカを訪れていますので、アヌラーダプラは上座部仏教と大乗仏教のそれぞれの一大拠点であったことが想像できます。

参考)
世界史の窓:オケオ遺跡
ウィキペディア:菩提僊那
ウィキペディア:不空金剛
ウィキペディア:カリンガ国
ウィキペディア:カウンディンヤ
コトバンク:タームラリプティ
ウィキペディア:グランタ文字

ライオンと階段装飾3点セット

スリランカでもインド同様、ライオンは北の方角の守護獣である。

とあります。

そういえば、シーギリヤロックのライオンは北を向いています。

弟のモッガラーナが南インドに亡命していることと、父ダートゥセナは南インドのパーディヤ朝を撃退していることから、対インドの意味もあり、シーギリヤロックをライオンに見立てて宮殿を築いたのかもしれません。

階段装飾3点セットとは、「ムーンストーン」「ガードストーン」「手摺り」と紹介されています。

アヌラーダプラのムーンストーンに装飾されているのは、「蓮華」「唐草」「アヒル」「象」「馬」「ライオン」「牛」。
ポロンナルワではヒンドゥー王朝から姫をもらったことから「牛」が消えています。

ガードストーンの装飾は、吉祥の壺(プンカラサ)と蛇王(ナーガラージャ)。

手摺りの装飾は、マカラ(空想上の怪獣)。

第2章からのピックアップ

スリランカの建国

スリランカの建国神話が丁寧に解説されています。

ヴィジャヤ王子の来島の神話に加えて、仏典に基づく商人と羅刹女の説話も紹介されています。

ヴィジャヤ王子がインドのどこから渡ってきたのかは西インド説と東インド説があります。

ウィジャヤの母はヴァンガ国(ベンガル)からカリンガ国(オリッサ)に嫁ぐ際にライオンに襲われて、生まれた長男とされています。
そのため、東インドからスリランカに渡ったという説があります。

一方で、西インドの古代主要港であったナラソパラ(ムンバイの北)からスリランカに渡ったとも言われています。

竹内さんは神話を紹介した最後に以下のように書かれています。

なお、インドライオンが多数生息していたのは西インドである。

それぞれの説話については、取り上げる長くなりますので、本書をご覧ください。

参考)
Wikipedia:Vanga Kingdom
Wikipedia:Nala Sopara
Wikipedia:Prince Vijaya
Wikipedia:Indian maritime history

スリランカの仏教小史

ポロンナルワ時代までのスリランカ仏教の歴史がまとめられています。

紀元前3世紀にマヒンダが来島して仏教を伝道、マハーウィハーラ(大寺)が創建。

紀元前1世紀にアバヤ王がアバヤギリウィハーラを創建。
対立したマハーヴィハーラが三蔵をインドに先駆けて成文化。

3世紀にマハーセーナ王がジェータワナーラーマヤ(祇園精舎)を創建。

4世紀にカリンガ国から仏歯がもたらされる。

5世紀に法顕が来島して、アバヤギリウィハーラに滞在。
ブッダゴーサが三蔵の研究のためにマハーウィハーラを訪問。

8世紀に密教が伝来。

10世紀にチョーラ朝にアヌラーダプラが滅ぼされる。

11世紀にポロンナルワ建国の王ヴィジャヤバーフ1世がパガン朝から高僧を招き、ポロンナルワでマハーウィハーラ、アバヤギリウィハーラ、ジェータワナーラーマヤを復興。

12世紀にパラークラマバーフ1世がマハーウィハーラに3派を統一。

参考)
Wikipedia:Abhayagiri vihāra
Wikiepdia:Jetavanaramaya

第3章からのピックアップ

ミヒンタレー

ライオンは北の守護神だと書かれていましたが、ミヒンタレーでもそれが見られるようです。

スリランカと南インドの古代の仏塔には東西南北の四方に突き出た部分がある。カンタカ・チェーティヤのこの突出部には大理石の柱が立っている。その石柱の上には、東にゾウ、南に雄牛、西にウマ、北にライオンが乗っている。

アヌラーダプラ

竹内さんは、アバヤギリに滞在した法顕の『法顕伝』に、仏歯が仏歯寺からアバヤギリに向かっている様子を記した記録から、仏歯のペラヘラが大乗仏教のお祭りとして行われていたことを指摘しています。

ジェータワナーラーマヤについての説明が分かりやすいです。

マハーセーナ王の宗教改革のシンボルとしてマハーウィハーラの敷地の東部分を破壊して創建(中略)ジェータワナーラーマヤを有名にしたのは1982年にサンスクリット文字で書かれた黄金の『般若経』が発見されたことだ。

サマーディ・ブッダについてネルーの話を紹介されています。

インドのネルー元首相はイギリス当局に監禁されていたときに、この仏像の写真を眺めては心を慰めていたという。

ムーンストーンの説明が分かりやすいですので、以下に引用します。

参拝者は寺院の入口で、裸足でこの石の上に乗り、両足を清め、同時に心をしずめ、心を清浄にする。そのために、この踏み石には、清浄の象徴ともいうべき蓮の花やガチョウの姿がみられる。また、仏教の4種の聖獣や蔓草が描かれている。

ムーンストーンの外側から以下のものが見られます。
炎:限りない欲望を表す
ゾウ:人間の4相「誕生」
ウマ:人間の4相「老齢」
ライオン:人間の4相「病気」
ウシ:人間の4相「死」
輪:花びらのない花心
口ばしに蓮の花をくわえたガチョウ:涅槃を探すために家と家族を捨てたブッダ
半分に切れた蓮の花:物欲が最高に達したこと

ガチョウはヒンドゥー教では吉祥の鳥とされ、ブラフマー神の乗り物であるが、アンコール遺跡の1つ、バンテアイスレイのかの有名な「東洋のモナリザ」の足元にも彫られている。

とも書かれています。

サッセールワブッダ

アウカナブッダは知っていましたが、その近くにマハーセーナ王が建立したというサッセールワブッダがあることは、この本で知りました。

右手のひらがこちらを向いているところが、他のスリランカの仏像と異なる点である。(中略)バーミヤンの大仏を見て、大感激した人が当時のマハーセーナ王にその土産話をし、それを聞いた王はスリランカにも同じような大仏を造ろうと思い立ち建立が始まったとされている。

と説明されています。

シーギリヤ

シーギリヤについての文献として、コッテ王国建国の王であるパラークラマバーフ6世の相談役だった、スマトラ島のパレンバン出身のブッダミトラの『シヒギリ物語』が紹介されています。

以下のデイリーミラーの記事には、父王ダートゥセナがペルシャきた僧侶に岩山の上に宮殿を築くことを助言されたと書かれています。
シーギリヤは、ペルシャ庭園を持つタージマハールのように左右対称の作りですが、この話は興味深いです。

ゴールで見つかった鄭和の碑文は中国語・タミル語・ペルシャ語で書かれていると言われていますので、ペルシャとは交流があり、その影響を受けたことは想像できます。

参考)
Daily Mirror:Maudgalyana’s holocaust Dhatusena’s peak
Wikipedia:Murunda dynasty

スリーパーダ

竹内さんは、スリーパーダで見に迷われて上まで登っていないことが書かれています。
歴史について触れています。

スリーパーダは少なくとも11世紀には巡礼地として確立され、ポロンナルワ時代のヴィジャヤバーフ1世やニッサンカ・マーラ王が巡礼に訪れた記録が残っている。

ローハナ地方の仏像・寺院

竹内さんは北部のポロンナルワ王国がマハーヴィハーラに一本化して、大乗仏教と密教が廃れたのに対して、ローハナ(ルフナ国)には、大乗仏教と密教が独自に発展したことに触れて、各地の仏像・寺院を巡っています。

日本のガイドブックにはローハナの仏教遺跡はそこまで取り上げられていませんので、下記にGoogleマップを差し込みました。

私が知らなかったのは、マーリガーウィラ、ダンベゴダの仏像です。
アウカナブッダ、サッセールワブッダのように立派な立像があるようです。

 

竹内さんは、ティッサマハーラーマでは、大きな仏塔「ティッサマハーラマーラジャマハビハーラ」ではなく、湖畔に遺跡が集まっているところに立つヤータラダーガバについて、紹介されています。

タンガッラ郊外のムルギリガラについては、竹内さんは「ダンブッラよりもいいと思われた。」と書かれています。

ミニシーギリヤロックとも紹介されますが、竹内さんが書かれているように、石窟寺院ですので、シーギリヤよりもダンブッラに近いと思います。

ディクウェッラのウェウルカンナラ

マータラ郊外のウェヘラヘナ

ウェリガマのクスタ・ラージャガラ。

ポロンナルワ王国

竹内さんは歴史書に目を通されているので、説明が丁寧です。

建国の王・ヴィジャヤバーフは、スマトラのシュリーヴィジャヤ王国の援助を受けて、チョーラ朝に勝ったそうです。

また、ポロンナルワは古代以来「プラッティ・プラ」と登場するとも紹介されています。

パラークラマバーフ1世のミャンマー遠征は、カンボジアと結んで行ったとも書かれています。

また、ポロンナルワでは大きな仏像が増え、キリヴィハーのように小さな仏塔があることから、この時代頃から仏塔よりも仏像が重視されるになったのではないかとも考察されています。

本書の表紙に使われている写真は、ティワンカピリマゲ堂の壁画ですが、中にある仏像は「三屈法(トリパンガ)」という市政なのだそうです。

参考)
三曲法の菩薩の起源は

クルネーガラ

イブン・バットゥータはバッターラ(現プッタラム)から上陸して、当時の王都のクルネーガラで国王にあってからアダムスピークに登ったと書かれています。

私、イブン・バットゥータの旅行記を読んだのに、それを忘れていました。。。

スリランカマレーとシュリーヴィジャヤ王国

スリランカマレーが移り住んだ街はジャワ島由来の「Ja」で始まる名前になっていて、ジャフナの由来も同様とウィキペディアに書かれていますが、それに合致する説明が書かれていました。

ベンガル湾、東南アジア海域の交易は、10世紀末までは、スマトラのシュリー・ヴィジャヤ王国の独占状態であったが、その後、これに挑戦する勢力として、ジャワのクディリ朝と南インドのチョーラ朝が台頭した。(中略)なお、『チューラヴァンサ』では「シュリー・ヴィジャヤ」を「ジャワ」と表記している。また、当時のシュリー・ヴィジャヤ王国は大乗仏教国であった。

ウィキペディアでは、シュリー・ヴィジャヤから独立したタンブリンガ王国がスリランカ北部を占領したとあります。

タンブリンガ王国の後継国家がスコータイ王朝・アユタヤ王朝に従ったムアンナコーンシータンマラート王国で、アユタヤに反乱を起こして、山田長政が派遣された先が、このムアンナコーンシータンマラート王国です。

現在はタイのムアンナコーンシータンマラート郡で、元々インドから植民した土地であるとウィキペディアに書かれいますので、インドやスリランカと関係の深い土地なのでしょう。

コロンボの歴史

ポルトガルがなぜコロンボに拠点を築いたのかが気になっていましたが、竹内さんの記述を読むと、コッテ王国が積み出し港と使っていたとあります。
ポルトガルはコッテ王国を侵略しますが、まず、その港を抑えるためにコロンボに要塞を築いたのかもしれません。

アラブ商人は8世紀には拠点を置き、シンハラ王国と外部の交易の大半を支配下に置いた。(中略)さらに、コーッテ王国が、ここを樟脳、サファイヤ、ゾウ、アレカナッツ、シナモンなどを積み出す港として利用していた。しかし、ポルトガル人はアラブ商人を次第に追い出すとともに、香料交易を独占するために砦を築いた。

プレ・キャンディ王国

プレ・キャンディ王国について日本語で説明しているものは少ないですが、詳しく書かれています。
以下、私が加筆した文章になりますが、プレ・キャンディ王国(センカダガラ)の設立について紹介します。

ガンポラ王国の最後の王で、コッテ王国を建国したパラークラマ・バーフ6世はワンニ地方とジャフナ王国を攻略して全島を統一します。同王の晩年、ウダ・ラタ地方で反乱があり、これを鎮圧した王はウダ・ラタ地方の統治をコーッテへの遷都の際にガンポラに残った王族の1人、セナーサムマタ・ウィクラマバーフは、1474年、ウダ・ラタの自立を宣言し、コーッテ王国内での大幅な自治権を得た。それと同時に都をガンポラからキャンディに移した。ここにキャンディを王都とするプレ・キャンディ(ウダ・ラタ)王国が成立する。

ダルマパーラの仏教改革、復興運動

ダルマパーラの仏教再興運動の中から生まれたものが、仏教旗・仏教青年同盟・仏教日曜学校であり、仏教寺院がなかったコロンボに仏教寺院が作られたのもこの頃。

まとめ

本書のメインである「第3章 讃仏と巡礼の旅」は、歴史書などの文献を参照に、インド〜東南アジア〜日本などと比較しているため、広い視野でスリランカについて捉えることができます。

その上で、竹内さんが実際に旅をしたことが綴られています。

歴史や仏教に興味がある方は楽しめると思います。