フランス地理学で知るスリランカ『ベラン世界地理大系12 インド・南アジア』
フランスで発刊された『Geographie Universelle』を、朝倉書店が日本語版として全20巻に発刊した『ベラン世界地理大系』の12巻目はスリランカが取り上げられている「インド・南アジア」です。
スリランカの「標高と降水量の地図」は、いくつか見た地理学の本で、最も分かりやすいと思いました。
また、スリランカの「人・経済・文化の軸と流れ」、「スリランカの空間モデル」も秀逸です。
通読すると、北インド、南インド、インドの諸島群、パキスタン、バングラデシュ、スリランカ、ネパール、ブータン、モルディブについて理解が深まります。
本記事では、スリランカと南インドの内容を紹介します。
本書の概要
『Geographie Universelle』をタイトルとする本は、1876─1894年に全19巻、1927─1948年に全15巻で発行され、1990─1996年に全10巻で発行されいて、本書は3回目の1990─1996年を朝倉書店が全20巻で日本語版を発刊したものの12巻目です。
フランスにおける世界地理に関する出版物は、1810年にコンラッド・マルテ=ブリュンが発表した『Précis de la géographie universelle』全6巻、1820-1829年に発刊された『Precis de geographie universelle』がその前にあり、これらを嚆矢する説もあるそうです。
つまり、江戸時代後期から世界地理に関する書籍発刊の歴史がフランスにあるということです。
そして、これを日本語に翻訳した朝倉書店の日本語版翻訳チームの顔ぶれがまたすごいです。
監訳者は、地理学者でフランス地理学を日本に紹介した田辺 裕さん、フランス文学者の竹内 信夫さんという2名体制。
編訳者も、フランス文学者の星埜守之さん、地理学者で経営学者の柴田匡平さんと2名体制。
翻訳が星埜守之さんを含む5名体制。
目次
Ⅰ インド亜大陸
1. 領土の起源
2. さまざまなルーツ
3. 人 口
4. インド世界の諸空間
Ⅱ インド連邦
5. 妥協と紛争
6. インドの道
7. 農業の限界
8. 都市のネットワーク
9. 工業発展と国土整備
Ⅲ インド連邦の諸地域
10. 大都市の重み―ムンバイとコルカタ―
11. ヒンドゥスタンの中央で
12. 中央部の辺境と山岳部の辺境
13. 南インド
Ⅳ インド地域におけるイスラーム国
―パキスタンとバングラデシュ―
14. イスラームとインダス川の国,パキスタン
15. パキスタンの新しい装い
16. パンジャーブ州と他の諸州―矛盾と機能不全―
17. バングラデシュ―古い国と新しい国民―
18. デルタ地帯と人間
Ⅴ 島国と山国
19. アジアの先端,スリランカ
20. 統合と分断のはざまにあるスリランカ
21. 山頂の国々と,水面に浮かぶ花モルディブ
参考)
朝倉書店:ベラン世界地理大系12 インド・南アジア
ウィキペディア:田辺裕 (地理学者)
ウィキペディア:竹内 信夫
ウィキペディア:星埜守之
ウィキペディア:柴田匡平
Wikipedia:Géographie universelle
スリランカについて
スリランカはアジアではいち早く男女普通選挙が実施されていますが、それについて分かる一文が第V章の冒頭文にありました。
スリランカでは、海上交通路に占めるその位置と自然環境とによって、早くから独特のプランテーション経済が大発展した。1931年にはすでに、イギリスはスリランカを「内政自治」の実験場としたが、これはイギリスからの植民で成り立っている土地以外では初の試みだった。
スリランカのおける軸と流れ
スリランカのページで、最初に書かれている内容は、インド亜大陸とスリランカの南北の軸と流れ、東西海上交通による東西の軸と流れです。
図19.2「スリランカのおける軸と流れ」は、「人の流れ」「経済的流れ」「文化的流れ」の3つが、「前近代」「植民地時代」「現代」の3つの時代に分けて線が引かれています。
線は一方向に向かう矢印の場合もあれば、双方に向かう矢印で描かれているものもあります。
一番線が多いのが南インドとスリランカを結ぶ線。
次にヨーロッパとスリランカを結ぶ線。
続いて、アラビア半島とスリランカを結ぶ線。
そして、スリランカと東アジア・オーストラリアを結ぶ線。
線がスリランカにだけ向かっているのが北インドで、前近代と植民地時代の文化的影響の線が引かれています。
ミャンマーとスリランカも線は2本だけで、前近代の文化的流れが双方に、植民地時代にミャンマーか経済的流れの線が引かれています。
非常に整理されて分かりやすい図ですので、是非、本書を手に取ってご確認ください。
また、その図の下にはワールドトレードセンターが建設される前のコロンボ・フォートの空撮写真が掲載されていて、こちらも見ものです。
古代スリランカの都市、世界自然遺産、紅茶生産地
私がいくつかある地理書の中で、この本を手にしたのは、19.4「スリランカの自然環境」の地図がとても分かりやすかったからです。
標高の色分けが非常に見易く、そこに等降水量線が引かれています。
ラージャラタ王国第一の都アヌラーダプラは、スリランカ北部の標高100-500mの盆地の西、降水量1500mmの場所に位置しています。
ラージャラタ王国第一の都ポロンナルワは、同盆地の東、降水量2000mmの場所に位置しています。
ルフナ王国の都ティッサマハーラーマは、標高100-500mの盆地の南、降水量1500mmの場所に位置しています。
ケラニヤは標高100-500mの盆地の東、降水量2000mmの場所に位置しています。
スリランカの古代都市が栄えた場所は降水量が少ない標高の低い位置にあることが分かります。
また、世界自然遺産「スリランカの中央高地」は、中央高地の中でも特に標高が高い「ホートンプレインズ」「ナックルズ山脈」「スリーパーダ」が登録されていることも地図で分かります。
ヌワラエリヤも標高が高いですが、イギリス入植者たちによって開拓されたため、ヌワラエリヤから離れた南郊のホートンプレインズのみが世界自然遺産に登録されたのでしょう。
本書では、その理由を以下のように書いています。
最も乾燥した地域が最初に利用されたという事情は、セイロンもインドも同様であって、おそらくその方が植物の成長を制御しやすかったのであろう。定期的な降雨を期待できない以上、定常的な穀物栽培には灌漑施設の建設が欠かせない。中央北部の緩やかな浸食斜面は、この種の土地整備にうってつけだった。初期の段階では、湿潤地帯を水源とする恒常河川を堰き止め、水門と石造りの壁面を備えた人工湖に水を満す「王たちの国」はこの並外れた水利文明によって1000年以上にわたり栄えた。
また、スリランカ古代文明の衰退についても触れています。
南インドからの武力侵攻と気候変動が複合し(中略)、おそらく気候の変化によって降雨量が減少し、マラリアの流行を招いたのである。じっさい居住人口の密度は、マラリアが発生しやすいセイロン特有の環境に長い間左右されてきた。水がうまく循環しないのは水不足よりも恐ろしいことである。マラリア原虫を運ぶ蚊は、雨が乾燥地帯に降った後に残る日陰の水溜まりで繁殖する。灌漑施設が良好に管理されていれば問題は少ない。だが、いつもは定期的に雨の降る地域が例外的に旱魃に襲われると、風土病の区域が広がり、伝染病の様相を呈することもある。したがってマラリアの影響を最も受けやすい地域は、かつての灌漑施設が放置されている地域や、乾燥地帯と湿潤地帯の境界付近である。
標高差が色分けされているため、スリランカの紅茶7大産地の場所についても、その標高差によって理解ができます。
サバラムガワ州が最も多雨(4000mm)になっていて、ナックルズ山脈も一部が4000mmになっています。
ウバ州については2000mmになっていますが、オーストラリア地理学者さんの本では、ウバ州も標高が高くなっているため、飛地のように3000mmになっています。
参考)
南インドの縮図のようなスリランカ
スリランカは、タミル・ナードゥ州の半分ほどの大きさですが、南インドの縮図のような地形だと書かれています。
南西部沿岸の湿潤な平野地帯はケーララ州に似ているし、乾季が長くて島山(インゼルべルク)を備えた北部および東部の浸食斜面は、タミル・ナードゥ州のそれに近い。内陸のあまり標高の高くない山々は、気候はそちらがもっと涼しいとは言え、ニールギリ丘陵の小型版である。
マレー諸島とスリランカの違い
シンハラ人は島国の人たちですが、あまり海洋では活躍をしてきませんでした。それが分かる記述がありました。
セイロン島の海洋環境は、海が内部領域になっているようなマレー諸島とは違う。セイロン島ではインドと同様、人々の生活にとって海は外側の空間なのである。
それに関連して、漁業の位置付けについても書かれています。
南インドからやってきた漁民は長い間社会の外縁に留まり、モンスーンの高波を避けて季節ごとに操業する海岸を南インド南東海岸とセイロン島北西海岸とかえ、シンハラ人やタミル人の農耕社会にすっかりとは統合されなかった。
中央高地の変遷
スリランカ古代〜中世では中央高地は辺境の扱いですが、キャンディ王国、イギリス植民地時代にはスリランカの中心の一つとなりますが、その経緯が書かれています。
インド半島や東南アジアの湿潤な山地と同じく、山岳は長い間、狩猟採取と焼畑農業で生きる未開民族や逃亡者だけが住む隠れ家的な場所であった。だが13世紀に乾燥地帯が放棄され、16世紀にヨーロッパ人が沿岸地方を征服してからは中央高地への入植が増えた。熱帯地域の山間僻地がそうであるように、この地方も灌漑稲作に基づく人口密度の高い農村地帯となり、伝統的な農民文化の貯蔵庫となったのである。19世紀になると、西ガーツ山脈と同じくプランテーション作物(コーヒー豆、後に茶葉やパラゴム)の生育に好適な土地柄であるキャンディー地方に、イギリス資本が投下された。(中略)20世紀の中葉に、西側斜面の高低差の大きさと水量の多さに目をつけて、やはりガーツ山脈の西側斜面の場合と同様に、水力発電施設が設置された(ケラニ・ガンガーとその支流)。
プランテーションとモノカルチャー
プランテーションの衰退と、主な作物である「茶」「ゴム」「ココヤシ」について書かれています。
プランテーション農業は、厳しく統制された低賃金労働力に対する収奪と、作物の品質を確保するノウハウ、そしてイギリス本国方面へのよく整備された出荷体系を土台とする組織であった。1950年代に入るとすぐ、このシステムは逆風を受け始めた。主要輸出三品目(茶葉、パラゴム、ココヤシの実)の相場が悪化したことに加え、粗利益の推定88%に達する課税と国有化を恐れた大企業は、近代化への支援を政府が同意したにもかかわらず、東アフリカやマレーシアの新興プランテーション開発に投資する方を選んだからである。
「茶」「ゴム」「ココヤシ」については、それぞれ個別に詳細が書かれています。
◆茶について
世界の茶葉輸出量は、1970年32%から、1990年には16%に低下。
プランテーション労働者は、1980年54万2000人から1990年41万2000人と減少。
単位収量は1ha当たりケニア2トン、インド1.6トンに対して、スリランカは約1.3トン。
◆ゴムについて
天然ゴムは植林された20万haのうち、1/4は放置されている。
単位収量は1ha当たりマレーシア1400キロに対して、スリランカは780キロ。
生産量は1970年から1990年にかけて20%減少。
◆ココヤシについて
ココヤシの作付面積90haのうち、体系的な栽培が行われているのは41万6000haで、10ha超のプランテーション全体の1/3に過ぎない。
コプラ、ヤシ油、搾り粕の輸出量は1970年から1990年で半分に減少。
集約的な栽培は稀で、0.4haに一人の労働者しか雇用されていない。この比率は茶葉のプランテーションの1/10なのである。
ココヤシの三角形は、20世紀初めに首都のブルジョワ階層が財産の大部分を投資し、著しい発展を遂げた。しかしココヤシ経済は増加する住民に十分な雇用を提供できず、人々は乾燥地帯へと移住した。
国土の1/4の南西に集中する都市人口
20.6「スリランカの空間モデル」は、スリランカの主要都市と、国土の利用について分かりやすくまとめられています。
本書に記載されている主要都市の人口は以下の通りです。
コロンボ65万人
デヒワラ・マウントラビニア20万人
モラトゥワ17万人
ジャフナ13万人
コッテ11万人
キャンディ10.1万人
ゴール10万人
マータラ4万人
都市開発についての記述内容を以下、箇条書きでいくつかピックアップしました。
- 南西沿岸部の失業率は全国平均18%に対し28%に達する。(中略)雇用状況を改善するとともに、南部をシンハラ人過激派の温床にした社会的緊張を緩和しようと、政府は二つの港湾都市(ゴールとマータラ)の間にあるコッガラに経済特区を設けた。
- プランテーション経済が飛躍的に発展すると、キャンディは小さいながらも商業中心地となり、やがて島内最初の大学が設置されて、近代文明に開かれた知の発信地となった。
- ジャフナ半島は、最も集約的な農業(野菜、唐辛子、煙草、稲)が行われている場所で、ヴェララールと呼ばれる支配カーストが不可触民層の労働者の手を借りて農業を営んでいる。
- ヴェララールの企業家精神は主に良質な教育制度の発展に注がれた。かつてこの階層は、イギリス植民地世界で最優秀の才能を輩出する共同体の一つだったのである。昔からこの地域の経済的繁栄は、コロンボやマレーシア、あるいは湾岸諸国、ヨーロッパからの送金に支えられてきた。
- ジャフナ人の中で湾岸諸国や欧米に移住できる者は、強い影響力をもつ圧力団体や資金・武器調達ネットワークを組織して、分離主義運動の拡大を助けた。
- 東部州はタミル人43%、ムスリム32%、シンハラ25%。
スリランカの宗教
宗教についても、以下、箇条書きでいくつかピックアップしました。
- 島内の文明の主要な特徴のうち大陸から継承しなかったものは一つもない。仏教、シヴァ神を信仰するヒンドゥー教、ケーララ州から伝来したイスラーム、カトリック信仰でさえ、御庵野インド人神父たちの活動があってこそ生き長らえた。
- ムスリム共同体はケーララ州やアラビアからの移住者の子孫で、他に少数のマレーシア出身集団がいる。
- キリスト教徒は大部分がカトリックで、大半は南インドの漁民カースト出身者であり、その2/3近くは南西部の沿岸地方に定住してシンハラ人に同化している。残りは北部や東部に定住し、タミル人としての民族的一体性を主張している。
南インドについて
書き出し文は以下のように始まります。
インドの駅名はふつう三つの言語で表記されている。ヒンドゥー語が現地語でない場合、つまり大部分の州では、英語とヒンドゥー語の二つにその州の現地語が加わるからである。1970年代、言語をめぐる紛争に参加した活動家たちは、夜になると組織的に表記の一つを黒ペンキで塗りつぶした。塗りつぶされたのは北インドでは英語だったが、半島南部の全域ではヒンドゥー語だった。
以下、最後の「南インドとスリランカの地形・気候」以外は本書から要約引用しています。
「南インドとスリランカの地形・気候」については、掲載されていた地図を元に、私が思ったことを書いています。
北インドと南インドの違い
北インドがインド・ヨーロッパ語族に対して、南インドはドラヴィダ語族。
北インドに比べて、南インドはブラフマンの数が少なく、影響力も小さい。
北インドに比べて、イスラームの影響が少ない
南インドには国民会議派の強敵がいる。
-タミル・ナードゥ州にはDMK
-ケーララ州には共産党
-アーンドラ・プラデーシュ州には地域政党。
中部南インドと南部南インド
ムスリム君主が強力な王国を創建したアーンドラ・プラデーシュ州とカルナータカ州はイスラームの影響がある程度で見られ、中部南インドと分類ができる。
ケーララ州にはアラビア商人が足繁く訪れたが、その痕跡は北インドよりも限定されている。
ハイデラバード藩王国の領土のうち、非ドラヴィダ語族の地域がマハーラシュートラ州に併合され、マドラス管区でテルグ語地域のアーンドラ州と統合してアーンドラ・プラデーシュ州ができた。
アーンドラ・プラデーシュ州のうち、ハイデラバード藩王国の領土だったテラガーナ地方がテランガーナ州として2014年に分割された。
東ガーツ山脈はインゼルベルク
半島部の東縁にある山塊は西側のガーツ山脈ほどの連続性も外観もない。いわれのない対称性に基づいて「東ガーツ山脈」と記載する地図が多いが、見当違いである。
長く連なりはしないが急峻な傾斜を備えた山々が聳えている。ゆるかやな斜面を見下ろす山の姿が、海面から顔を出す島を思わせる。あるドイツ人地理学者によって「インゼルベルク(島山)」という言葉が作られたのも、ここ南インドでのことだった。
躍進する2都市「ハイデラバード」と「バンガロール」
ともに藩王国の首府であったが、バンガロールの重要性はより最近になって高まった。
ハイデラバードは1901年時点でインド第4位の都市。
バンガロールは1901年時点ではインド第15位であった。
バンガロールは標高が高く、乾燥していることからエレクトロニクス産業にとって好立地であった。また、国境から遠いことから第二次世界大戦中にバンガロールは大型軍事拠点となり、それが終戦後に航空機製造に引き継がれた。
イギリス領インド帝国時代の南の玄関口「チェンナイ」
イギリス領インド帝国時代の3大都市は「コルカタ」「ムンバイ」「チェンナイ」。
このうち、チェンナイは北インドへのアクセスが遠かったことと、南インドには他に競合する都市が既にあったことから、そこまで大きく発展しなかった。
独立後にデリーに抜かれ、将来的に人口規模でバンガロールやハイデラバード、アフマダーバードに抜かれる可能性がある。
アーンドラ・プラデーシュ州
デルタ地帯が大農業地帯となっている。
デルタ地点の頂点にヴィジャヤワダ84万5000人、ラジャムンドリ40万人と大きな都市があり、河口に近いカキナダ33万人、マスリパタム16万人などの都市がある。
綿糸とタバコ産業があるグンドゥール47万人も大きい。
ジャフナ半島のように、パルミラヤシが多い。
タミル・ナードゥ州
主な都市は以下の通り。
チェンナイ530万人
マドゥライ120万人
コインバトール110万人
ティルチラパリ70万人
セーラム57万人
ポンディシェリー40万人
エロード40万人
タンジャーブール20万人
アヌラーダプラのように、数千の貯水池がある。
巡礼観光地としてカンチプラム、マドゥライ、ナーガルコイルがある。
ケーララ州
コーチンは人口110万人で西海岸ではムンバイに次ぐ規模がある。
チルヴァナンタプラムは82万5000人
カリカットは80万人
アレッピーは30万人
ケーララ州は識字率が高く、女性の平均寿命が長く、キリスト教と共産主義を受容したという点で特異な地域である。
また、海路を通じてアラビアやヨーロッパと関係があるあったことも特徴的である。
ラクシャドウィープ諸島
諸島の人口は合計5万1000人。
ラクシャドウィープの名は、「10万の島」の意味で、もちろん誇張である。
北側の諸島の言語はマラヤーラム語から派生したものだが、ミニコイ島にはスリランカ起源の住民もいて、近隣のモルディブと同様、スリランカと言語的な類縁関係がある。
アンダマン諸島・ニコバル諸島
アンダマン諸島24万人
ニゴバル諸島3万9000人
アンダマン・ニコバル諸島が作る線は、インドシナ半島とアラカン山脈の高山系に連なって南北に走る海底山脈の海上部分に対応する。
インドから遠く離れているが、スマトラ島に近く、インド世界よりも東南アジアに属している。
スリランカのタミル人の一部が、アンダマン諸島に再移住している。
南インドとスリランカの地形・気候
13.3 図「南インド」を簡略化し、スリランカを付け足したのが以下の図です。
チョーラ朝が栄えた地域と、パーンディヤ朝の河口がデルタ地帯になっていて、この地域に王朝ができたことが想像できます。
その間の地域には、アヌラーダプラやルフナのように貯水池が無数にある地域があります。
アヌラーダプラを都としたラージャラタはパーンディヤ朝と同盟を結んでいますが、パーンディヤ朝の都マドゥライはアダムスブリッジに流れるヴァイガル川沿いに建設され、アヌラーダプラはアダムスブリッジに流れるマルワトゥ川沿いに建設されたことが分かります。
真珠の採集と交易はパーンディヤ朝が行い、マンナールなどスリランカ北西部はパーンディヤ朝が勢力を持っていました。マドゥライの北の貯水池が多いところにいた人たちが、アヌラーダプラに移り住んだのかもしれません。
まとめ
本記事では、スリランカと南インドの部分のみをピックアップしましたが、南アジアについて、特にインドの各地域、パキスタン、バングラディシュ、ネパールについては、それなりのボリュームで書かれていますので、非常に参考になります。
地理書は地図や図のクオリティーが高く、手に取ってじっくり見ると、色々な気づきがあることと思います。
南インドとスリランカの関係性を考える上でもとても参考になりますので、是非ご一読ください。
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「旅と町歩き」を仕事にするためスリランカへ。
地図・語源・歴史・建築・旅が好き。
1982年7月、東京都世田谷区生まれ。
2005年3月、法政大学社会学部社会学科を卒業。
2005年4月、就活支援会社に入社。
2015年6月、新卒採用支援事業部長、国際事業開発部長などを経験して就職支援会社を退社。
2015年7月、公益財団法人にて東南アジア研修を担当。
2016年7月、初めてスリランカに渡航し、会社の登記を開始。
2016年12月、スリランカでの研修受け入れを開始。
2017年2月、スリランカ情報誌「スパイスアップ・スリランカ」創刊。
2018年1月、スリランカ情報サイト「スパイスアップ」開設。
2019年11月、日本人宿「スパイスアップ・ゲストハウス」開始。
2020年8月、不定期配信の「スパイスアップ・ニュースレター」創刊。
2023年11月、サービスアパートメント「スパイスアップ・レジデンス」開始。
2024年7月、スリランカ商品のネットショップ「スパイスアップ・ランカ」開設。
渡航国:台湾、韓国、中国、ベトナム、フィリピン、ブルネイ、インドネシア、シンガポール、マレーシア、カンボジア、タイ、ミャンマー、インド、スリランカ、モルディブ、アラブ首長国連邦、エジプト、ケニア、タンザニア、ウガンダ、フランス、イギリス、アメリカ
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