毎年10月6日は「国際協力の日」〜日本がコロンボプランに加盟した日〜
日本で毎年10月6日は「国際協力の日」とされています。
1954年10月6日、日本政府はコロンボプランへの加盟を閣議決定し,開発途上国に対する政府開発援助(ODA)を開始しました。
1987年に外務省とJICAがコロンボプランへの加盟日である10月6日を「国際協力の日」とすることを決定しています。
それでは、コロンボプランとはどういうものなのかを紹介していきます。
目次
コロンボ・プランとは?
コロンボ・プラン(Colombo Plan)は最も歴史の長いの開発途上国援助のための地域国際機関です。
主に技術協力を通じてアジア太平洋地域諸国の経済・社会開発を促進し、その生活水準を向上させることを目的としています。
正式名称は「アジア・太平洋での共同経済社会開発のためのコロンボ・プラン」と言います。
事務局はスリランカのコロンボにあります。
コロンボプランの設立経緯
1950年1月にコロンボで開かれたイギリス連邦外相会議にて、ホスト国セイロンのセナナヤケ首相とオーストラリアのスペンダー外相の提案に端を発するそうです。
1950年5月にシドニーで第一回諮問会議が、1950年10月にロンドンで第二回諮問会議が開かれ、1951年7月1日に「南アジア・東南アジアの人々の経済的・社会的な向上を目指す共同事業」としてスタートしています。
当初の加盟国はイギリス連邦のイギリス、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、インド、パキスタン、スリランカの7カ国です。
当時の正式名称は「南・東南アジアでの共同経済社会開発のためのコロンボ・プラン」でした。
設立時に関わったのは以下の各国を代表する人たちだったそうです。
- オーストラリアのパーシー・スペンダー外相
- イギリスのアーネスト・ベヴィン外務・英連邦大臣
- カナダのレスター・B・ピアソン外相(後の首相、1957年にノーベル平和賞を受賞)
- インドのジャワハルラール・ネルー首相兼外相
- ニュージーランドのFrederick Doidge外相
- パキスタンのグラーム・ムハンマド蔵相(後の大統領)
- セイロンのドン・スティーヴン・セーナーナーヤカ首相
- セイロンのジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ蔵相(後の大統領)
- 南アフリカの政治家ポール・ザウアー
- イギリスの政治家フィリップ・ノエル=ベーカー(1920年のアントワープオリンピック男子1,500mのメダリスト、1959年にノーベル平和賞を受賞)
1951年に加盟国がイギリス連邦以外にも広げられ、アメリカ、南ベトナム、カンボジア、ラオスが加盟しています。
1977年には、正式名称が改称され「南・東南アジアでの」から「アジア・太平洋での」と支援対象が広がり、現在は27か国が加盟しています。
コロンボプランと日本との関わり
国際協力の日
日本は1954年10月6日に、コロンボ・プランへの加盟を閣議決定します。
1954年のコロンボ・プランの第6回会合に正式加盟国として参加し、翌1955年から研修員の受け入れ、専門家の派遣といった政府ベースの技術協力を開始しています。
これが日本のODAの開始とされています。
1954年に技術協力で始まった日本のODAは、1958年には円借款を開始しています。
円借款の最初の供与先はインドです。
それまで日本は戦後復興のため、ODAで援助を受ける国でしたが、コロンボ・プランへの参加をきっかけに、ODAで援助を行う国に変わっています。
1987年には、外務省と国際協力事業団(JICA)がコロンボ・プランへの加盟日である10月6日を「国際協力の日」とすることに決定しています。
サンフランシスコ講和会議
野口芳宣 著『敗戦後の日本を慈悲と勇気で支えた人ースリランカのジャヤワルダナ大統領ー (ジュニアノンフィクション)』には、1954年12月15日にジャヤワルダナ氏が行った演説が一部掲載されています。
その中に、コロンボプランに関することが書かれています。
ご覧いただくとコロンボプランがサンフランシスコ講和会議でのジャヤワルダナ氏の演説につながっていることが分かりますので、一部を以下に引用します。
日本を自由にするという問題は、コロンボ英連邦外相会議でも議題になりましたが、そうすることをためらう国もいくつかありました。しかし、我々(セイロン)は、日本を自由にしようと強く思う立場でした。
八千万人の国民が、世界の平和への危機に直面せずに従属的な状態にいるのは不可能だというのが我々の見方だったので、会議では、日本を自由にするいくつかの手段を打つべきだという結論になりました。
D・S・セナナヤケ指導下で、ロンドンでの彼の代表団は、コロンボでの英連邦外相会議に同じ考えだということでしたし、また、なんといってもアメリカが同じ見解を示して、日本との平和条約を締結するためのいくつかの手段が取られたのです。
この平和条約というのは、1951年9月にサンフランシスコ講和会議で上がったもので、また、D・S・セナナヤケ首相は、私に、セイロンを代表して賠償金を日本に求めず、また日本の自由のためにセイロンを代表して出席するよう指名しました。
つまり、1950年1月にコロンボで開かれたイギリス連邦外相会議(コロンボ会議)で、セイロン(セナナヤケ首相とジャヤワルダナ蔵相)は日本を自由にしようと強く思う立場で、1950年10月にロンドンで開かれた第二回諮問会議でもセナナヤケ首相の代表団は同じ考えただったと演説されているわけです。
コロンボプランの目的
コロンボ・プランでは4つの目的が掲げられています。
- アジア太平洋地域の経済社会開発に対する関心とサポートを促進する。
- 加盟国間の技術協力の促進と、技術移転・技術共有の支援する。
- 技術協力の関連情報を加盟国政府、多国間、共同協力を通じた開発加速の視点を持った機関と検討し続ける。
- 加盟国間、特に域内での南南協力で、開発経験の移転・共有を促進する。
※南南協力とは、開発途上国の中である分野において開発の進んだ国が、別の途上国の開発を支援すること。
コロンボプランの組織体制
2年に一度、諮問会議を開催しています。
本部があるコロンボに、加盟国は外交使節を置いています。
評議会長は加盟国間でアルファベット順に一年ごとに交代しています。
日本人で評議会長を務めたのは以下の3名です。
大塚 清一郎 氏(2001年7月〜2002年7月)
粗 信仁 氏(2014年11月〜2015年6月)
菅沼 健一 氏(2015年6月〜2015年12月)
コロンボプランの4大プログラム
コロンボ・プランには4つのパーマネントプログラムがあります。
- 薬物アドバイザリープログラム
- 能力構築プログラム
- ジェンダーアフェアーズプログラム
- 環境プログラム
コロンボプランの加盟国
7カ国でスタートし、現在は27カ国が加盟。
発足時に加盟していたイギリス、カナダが脱退し、カンボジアも脱退しています。
各国の加盟年は以下の通りです。
スリランカ:1950年〜現在
インド:1950年〜現在
パキスタン:1950年〜現在
オーストラリア:1950年〜現在
ニュージーランド:1950年〜現在
イギリス:1950年〜1991年
カナダ:1950年〜1992年
アメリカ:1951年〜現在
南ベトナム:1951年〜1975年
カンボジア:1951年〜2004年
ラオス:1951年〜現在
ネパール:1952年〜現在
ミャンマー:1952年〜現在
インドネシア:1953年〜現在
日本:1954年〜現在
フィリピン:1954年〜現在
タイ:1954年〜現在
マレーシア:1957年〜現在
ブータン:1962年〜現在
韓国:1962年〜現在
モルディブ:1963年〜現在
アフガニスタン:1963年〜現在
イラン:1966年〜現在
シンガポール:1966年〜現在
バングラディシュ:1972年〜現在
フィジー:1972年〜現在
パプアニューギニア:1973年〜現在
モンゴル:2004年〜現在
ベトナム:2004年〜現在
ブルネイ:2008年〜現在
サウジアラビア:2012年〜現在
コロンボプランの諮問委員会議
1978年まで諮問委員会議は概ね年1回開催されていますが、それ以降は概ね2年に一度開催され、最後に開催されたのは2016年のフィジーでの会議です。
第1回:1950年(オーストラリア)
第2回:1950年(イギリス)
第3回:1951年(スリランカ)
第4回:1952年(パキスタン)
第5回:1953年(インド)
第6回:1954年(カナダ)
第7回:1955年(シンガポール)
第8回:1956年(ニュージーランド)
第9回:1957年(ベトナム)
第10回:1958年(アメリカ)
第11回:1959年(インドネシア)
第12回:1960年(日本)
第13回:1961年(マレーシア)
第14回:1962年(オーストラリア)
第15回:1963年(タイ)
第16回:1964年(イギリス)
第17回:1966年(パキスタン)
第18回:1967年(ミャンマー)
第19回:1968年(韓国)
第20回:1969年(カナダ)
第21回:1971年(フィリピン)
第22回:1972年(インド)
第23回:1973年(ニュージーランド)
第24回:1974年(シンガポール)
第25回:1975年(スリランカ)
第26回:1977年(ネパール)
第27回:1978年(アメリカ)
第28回:1980年(インドネシア)
第29回:1982年(日本)
第30回:1984年(マレーシア)
第31回:1986年(オーストラリア)
第32回:1988年(バングラディシュ)
第33回:1990年(タイ)
第34回:1992年(ミャンマー)
第35回:1994年(韓国)
第36回:1996年(スリランカ)
第37回:1998年(フィリピン)
第38回:2001年(スリランカ)
第39回:2004年(イラン)
第40回:2006年(ブータン)
第41回:2008年(マレーシア)
第42回:2010年(インド)
第43回:2012年(インドネシア)
第44回:2014年(ネパール)
第45回:2016年(フィジー)
まとめ
関連記事
参照
コロンボ・プラン オフィシャル・ホームページ
外務省「コロンボ・プラン創立50周年」
<論文> 戦後アジア国際秩序再編とコロンボ・プランの指針
ウィキペディア「コロンボ・プラン」
Wikipedia「Colombo Plan」
「旅と町歩き」を仕事にするためスリランカへ。
地図・語源・歴史・建築・旅が好き。
1982年7月、東京都世田谷区生まれ。
2005年3月、法政大学社会学部社会学科を卒業。
2005年4月、就活支援会社に入社。
2015年6月、新卒採用支援事業部長、国際事業開発部長などを経験して就職支援会社を退社。
2015年7月、公益財団法人にて東南アジア研修を担当。
2016年7月、初めてスリランカに渡航し、会社の登記を開始。
2016年12月、スリランカでの研修受け入れを開始。
2017年2月、スリランカ情報誌「スパイスアップ・スリランカ」創刊。
2018年1月、スリランカ情報サイト「スパイスアップ」開設。
2019年11月、日本人宿「スパイスアップ・ゲストハウス」開始。
2020年8月、不定期配信の「スパイスアップ・ニュースレター」創刊。
2023年11月、サービスアパートメント「スパイスアップ・レジデンス」開始。
2024年7月、スリランカ商品のネットショップ「スパイスアップ・ランカ」開設。
渡航国:台湾、韓国、中国、ベトナム、フィリピン、ブルネイ、インドネシア、シンガポール、マレーシア、カンボジア、タイ、ミャンマー、インド、スリランカ、モルディブ、アラブ首長国連邦、エジプト、ケニア、タンザニア、ウガンダ、フランス、イギリス、アメリカ
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