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『NHK 海のシルクロード 第3巻 十字架の冒険者/インド胡椒海岸』

2022年4月07日

スリランカを紹介した同シリーズの第4巻を以前に紹介しましたが、スリランカと関係の深いインドの西海岸をボンベイからインドの南端であるコモリン岬までの取材記が掲載された『NHK 海のシルクロード 第3巻 十字架の冒険者/インド胡椒海岸』を紹介します。

巻頭に小説家の立松和平さんが、巻末に歴史学者の辛島昇さんが文章を書かれていて、秀逸な内容です。

第4巻ではインドネシアのマルク諸島(モルッカ諸島/香料諸島)も紹介されていましたが、合わせて読むと4大スパイス(インドの胡椒、インドネシアのクローブとナツメグ、セイロンのシナモン)を取り巻く歴史が見えてきます。

本書の目次と概要

目次

魅惑の大地インド 立松和平
はじめに 鈴木肇(NHK シルクロードプロジェクト チーフディレクター)
十字架の冒険者 NHK取材班(小笠原昌夫)
インド胡椒海岸 NHK取材班(原口卓也)
東西文明の十字路・南インド 辛島昇
おわりに 河本哲也(NHK シルクロードプロジェクト チーフプロデューサー)

参考)
ウィキペディア:立松和平
ウィキペディア:辛島昇

概要

NHK特集 海のシルクロードの第5回十字架の冒険者、第6回インド胡椒海岸の取材記に加えて、巻頭に小説家の立松和平さんの文章と、巻末に歴史学者の辛島昇さんの文章が掲載された本です。

この取材はボンベイ(現ムンバイ)から南端のコモリン岬まで行われていますが、「十字架の冒険者」とは、次の3人のことです。

ゴアを拠点にしたフランシスコ・ザビエル
カリカットに到達したヴァスコ・ダ・ガマ
クランガノールにやってきたと伝承されている聖トマス

後半は、胡椒の原産地と言われるケララ州の水郷地帯バックウォーターや、コモリン岬を取材しています。

NHK特集 シルクロードについては、以下のページを参照ください。

『NHK海のシルクロード第4巻 仏陀と宝石/黄金半島を越える』

魅惑の大地インド

立松和平さんのこの文章だけでも、この本を読む価値があると思います。

スリランカも関係するインドの特徴や海上貿易に関する点について、以下にピックアップしました。

インド文化の特徴

  • インドも、中国も、自己の世界内で完結する宇宙的な文化体系を持っていた。国内で生産されるものばかりで、完璧に全体の調和をとることができたのである。物資ばかりではなく、精神思想においても同じことが言えた。
  • ヨーロッパ人やアラブ人があれほど憧れた中国製陶磁器に、ヒンズー世界の人々は何ら価値をおかない。
  • 他人の使った陶磁器は不浄のもので、口をつけてはいけなかった。早い話が、食器は葉っぱで作ればよかった。現在でもインドでは、一回しか使わずに捨ててしまう葉っぱの皿や素焼きの陶器の茶碗が、日常生活の多くの部分に残っている。
  • 多くの神様は、時と所によって目まぐるしく名前と表現と役割を変えていく。創造の神と、破壊の神とが、交互に入れ替わる。神々は人間に対して、何処までも過酷で、何処までも優しい。
  • 雨は川を氾濫させるが、同時に肥沃な土砂を上流から運んでくる。熱は、生命を養い、同時に殺す。自然は常に両義的である。縁取りの鮮明なインドの自然が、ヒンズーの多様な神様になっていったと私には思われる。

海のシルクロードとは何か?

  • 絹だけを流通させている間は、馬やラクダの背で運ぶ陸のシルクロードでも事足りた。しかし、重くて壊れやすい陶磁器は、船でなければ運べなかった。
  • インド人が欲しがっていたものは何だったろうか。それは馬である。インドの歴史は、ヒンズーとイスラムとの抗争の繰り返しであった。インド在来種の馬は弱い。北から押し寄せてくるアフガン・トルコ系のイスラム騎馬隊と戦うには、優秀な馬が大量に必要だったのである。敏捷に展開する騎馬隊の前に、重量戦車のような象戦の時代は過ぎていた。押され気味のヒンズー系国家にとっては、アラブ馬やペルシャ馬は最重要の武器だったのである。だが、北部は敵の支配区域である。陸路で馬を運ぶことは不可能であったから、どうしても海路を使う必要があった。
  • 陸路では、奴隷を運ぶことは難しい。逃亡や反乱の危険もあった上、病気や怪我もある。船ならば、たとえどんな状態であっても、とにかく乗せてしまえば運べるのだ。

スパイスがもたらしたこと

胡椒(スパイス)の出現によって、保存ばかりか実に多様な味付けができるようになった。来る日も来る日も同じ肉料理が並んでいた単調なテーブルが、インドからもたらされた胡椒(スパイス)により、突然輝きを放ち始める。

以下の文章は取材記に書かれていたことですが、ローマ帝国時代にもインドの胡椒が重宝されていたことが想像できます。

帝政時代、東方とを結ぶ地中海の拠点であったアレキサンドリアからローマに運び込まれる船の積み荷の3/4は胡椒であったという。また、ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスは次の言葉を残している。「我が帝国になきものは一つ。それはインドの胡椒である。」

要塞(フォート)の建設地

以下の2点からポルトガル、オランダ、イギリスが防衛のために島や半島の先端を要塞化して港にしたこと、後背地の物流に便利な河口を選んだことが分かります。

スリランカで要塞が作れた場所も、河口近くの半島や島です。

  • ゴアは島である。北と南をマンドビ川とスワリ川に囲まれている。
  • 港から港へ、また背後の陸地へと、ネットワークを持っていなければならない。

繁栄したゴア

最盛期には30万人で、ロンドンに匹敵し、ポルトガルの首都リスボンを凌いだと言われるゴアの人口も、1780年には三千人になっていたという。

と書いてありました。

ポルトガルの東洋貿易の中心はゴアで、スリランカはその補完的な役割だったのでしょう。

オランダの東洋貿易の中心は当初は「テルテナ島」、その後にバタヴィアに移っていますが、いずれもインドネシアです。
オランダ東インド会社にとってのスリランカは、オランダ領東インドとケープ植民地の中継地だったということでしょう。

そして、イギリス東インド会社の中心はコルカタ、チェンナイ、ムンバイであり、いずれの支配においても、スリランカは中心ではなかったことを気付かされます。

取材記

ヴァスコ・ダ・ガマが訪れたカリカット(コジコード)

  • かつてはカリカットがマラバールの胡椒取引の中心であったが、今は大型商業港を持つ南のコーチンにその地位を譲っている。それでもケララ州北部で栽培された胡椒の多くはこの町に集められ、問屋街は活気を失っていない。

聖トマスが訪れたクランガノール

  • ケララ州には、人口の20%のカトリック教徒がいるが、その3/4は「シリア派」あるいは「トマス派」と言われる独自の典礼を持った教会に属しているという。シリア派は、4世紀半ばにマラバールに移住したシリア人のキリスト教徒と、地元のトマの教えを守る人々とが混じり合ってできた。

参考)
Wikipedia:Kodungallur
ウィキペディア:コーチン・ユダヤ人

胡椒の港コーチン

  • ケララ州のケラとはこの地方の言葉、マラヤラム語で「ヤシ」、ラは「国」を意味する言葉である。
  • ココヤシの繊維は海水につかると強度を増してひきしまり、大変丈夫であることが昔から知られている。
  • 果肉であるコプラを絞るとコプラ油が取れる。このコプラ油は料理やランプ、髪につける油としてインドでは欠かせないものとなっている。
  • ケララ州にはインドで一番と言われるものがいくつかある。インドで一番のスパイスの産地である。インドで一番共産党が多い。インドで一番教育に熱心であり、読み書きできる水準が最も高い。しかしインドで一番貧しいと。
  • インド西海岸、マラバール海岸はこの胡椒の原産地であり、当時世界でここしか胡椒はないとされていた。
  • コーチンの町は、アラビア海に注ぐいくつもの川が作ったデルタ地帯にできた町である。
  • 天然の運河の存在は、胡椒をはじめとするこの地方の産物を集めるのを容易にした。
  • コーチンのスパイスの中心、インド最大のスパイス街ジュータウンである。今日、インドで生産される胡椒は年間約五千トンほどが海外に輸出されているが、その99%を握る町である。
  • ジュータウンのジューとはユダヤ人のことであり、ジュータウンは彼らの町であった。
  • 地元の人もこの網を「チャイニーズ・フィッシング・ネット」と呼び、この網で生計を立てている漁師も少なくない。この網がいつ頃伝わったものなのかははっきりしない。一説には14世紀の明代に数万の大軍を持ってインドからアラビア半島まで遠征した鄭和、彼の大艦隊が伝えたと言われている。
  • ユダヤ人がコーチンの町を去った後、ボンベイの北、パキスタンとの国境に接するグジャラート州から渡ってきた。インド商人といえばグジャラート商人を指すほどグジャラートの商人は有名である。他の州の商人がインドの産物を求めて渡ってくる外国人を相手に商売していたのに対して、グジャラートの商人は、自ら海を越えアラビア半島から東南アジアまで幅広い商業活動を古くから行っていた。

参考)
Wikipedia:Kochi

胡椒の産地ペリヤール

  • 胡椒を摘んでいるのは、隣のタミル・ナードゥ州から来た貧しい出稼ぎの女たちである。
  • 彼女たちは、12月から3月までは胡椒を摘み、残りは紅茶畑で働く。

スリランカはイギリス統治時代に、より良い労働条件を求めてタミル・ナードゥ州から多くのタミル人がスリランカの紅茶農園に渡っていますが、それを彷彿とさせる記述です。

バッティカロアと似た水郷地帯「バックウォーター」

ケララ州とバッティカロア・タミル人はともに母系制の文化があると報告されていますが、水郷地帯という共通点があります。

似た環境を求めて、バックウォーターからバッティカロアへ移住した人たちがいたのでしょう。

参考)
コトバンク:アレッピー
Wikipedia:Kerala backwaters
Wikipedia:Alappuzha
Wikipedia:Kottayam

胡椒で栄えたコッラム(クイロン)

  • 14世紀、この町を訪れた修道僧マリニョリーは次のような報告を行っている。「我々はインド海を航行してコロンブム(クィロン)という名のいとも上品な都市に到着した。この地では全世界の胡椒が生産される。(以下、省略)

参考)
ウィキペディア:コッラム

聖なる蛇の町「トラヴァンドラム」

  • トリヴァンドラムとは「聖なる蛇の町」の意味で、トラヴァンコール藩王国の首都であった町である。

スリランカの漁港で見られるカタマランの写真が掲載されています。

ウィキペディアのカタマラン(双胴船)のページには、以下のように記載されています。

南太平洋ポリネシアの原住民が、古来より用いていたカタマランは、双胴船の一種であり、英語などのヨーロッパの言語では、双胴船の意味でそのままこのカタマランの語を用いることが多い。英語のカタマランはタミル語でシングル・アウトリガーカヌーを意味するKattumaramに由来する。このタイプの舟はオーストロネシア人の移住によってスリランカに定着したと考えられている。

スリランカの原住民は「ナーガ」と「ヤカー」だと言われています。

ナーガ(蛇)が入植したとされる土地が南インドとスリランカにはいくつかあります。
ナーガはココヤシの原産地である南太平洋からココヤシの船で渡ってきたオーストロネシア語族の人々だったのでしょう。

ヤカーは、インド亜大陸にドラヴィタ人が侵入する前から住んでいたオーストロアジア語族の人々だったのでしょう。

ヤシの国を意味するケララ州の州都は「聖なる蛇の町」という意味であることから、ケララ州はオーストロネシアの人たち移り住んだ地域なのでしょう。

◆ジャフナの沖合に浮かぶ「ナーガディーパ(ナイナーティブ)」

◆ケララ州の州都「ティルバナンタプーラム(トラヴァントラム)」

◆タミル・ナードゥ州カンニヤークマリ県の県庁所在地「ナガルコイル」

◆タミル・ナードゥ州「ナーガ・パッティナム」

参考)
ウィキペディア:双胴船
ウィキペディア:オーストロネシア語族
ウィキペディア:オーストロアジア語族
ウィキペディア:ティルヴァナンタプラム
ウィキペディア:ナーガパッティナム

インド最南端の聖地「コモリン岬」

スリランカの最南端はシンハラ語で「デウィ・ヌワラ」といい、南部には聖地カタラガマがありますが、これはインドの最南端が聖地になっているからだと思います。

  • 広いインドで唯一、海から昇る朝日と、海に沈む夕日の両方を拝めるヒンドゥー教徒の聖地であり、この岬でインドを取り囲む海は3つに分かれている。
  • コモリン岬はカニヤクマリの町にある。カニヤクマリとは「女神クマリ」の意味である。コモリン岬が聖地になったのもヒンドゥーの女神である処女クマリがこの地で沐浴したことに由来する。
  • 岬の先端に見えるのは19世紀のヒンドゥー教の宗教改革者ビィヴェーカーナンダが瞑想にふけったことで知られるビィヴェーカーナンダ・ロックである。

東西文明の十字路・南インド

黒胡椒と長胡椒

  • インドの大きなホテルのメニューには必ずあるこのスープ(中略)、南インドの東南海岸で話されるタミル語で「胡椒の水」を意味するミラフ・タンニールが、訛ってムリガトーニとなったスープなのである。

南インドの胡椒とは「黒胡椒」のことで、タミル語で「ミラフ」というそうです。これがシンハラ語のミリスの語源でしょう。

北インドから陸路で運ばれたのは長胡椒(ヒハツ)で、アーリヤ系の古典語で「ピッパリー」といい、これが英語のペッパーの語源なのだそうです。

ウィキペディアのヒハツ(長胡椒)のページには、ヒハツはインド原産であり、サンスクリットのpippaliが英語のpepperの由来だと書かれています。

丹野冨雄さんの『南の島のカレーライス スリランカ民族文化論』には、夏目漱石が初めて食べたカレーはコロンボ・フォートのMudalige Mawathaにあった食堂のマリガトーニだと書かれいますが、まさにこの胡椒のスープのことでしょう。

参考)

料理・言語・文化を探求する丹野さんの『南の島のカレーライス スリラン…

ウィキペディア:ヒハツ

真珠の王国=パーンディヤ朝

辛島さんは『エリュトラー海案内記』の記述を紹介して、以下のように書かれています。

マンナール湾が真珠の産地で、その採取はパーンディヤ王国の国営とされていることが判ろう。

マルコポーロの東方見聞録にもパーンディヤ朝が真珠を扱っていることが書かれています。

参考)

マルコポーロの東方見聞録にみる「日本」「スリランカ」「インド」

パッティナム=港町

パッティナムはタミル語で港町を意味する接尾語なのである。南インドは***パッティナムという地名が多い

と書かれています。

英語のウィキペディアのジャフナのページには、ジャフナの語源は、ジャワ島・スマトラ島・マレー半島を領土としたシューヴィジャヤ王国から独立したタンブラリンガ王国がスリランカ北部を治めたことから「ジャワ・パッティナム」と呼んだのが由来だと書かれています。

以下の地図は「パッティナム」と名前にある町をプロットしたものですが、ジャフナから近いインドの南東に集中しています。

ジャフナはジャフナ半島の先端部分を中心に栄えた港町であることが分かります。

ペリヤ(大きい)と付く地名

辛島さんは、タミル語で「大きい」という意味の「ペリヤ」がつく「ペリヤ・パッティナム(大きい港町)」と、「古い」という意味の「パラヤ」がつく「パラヤ・カーヤル(古いカーヤル)」を調査して、中国の陶磁器を多く発見したことを書かれています。

この「ペリヤ」も、スリランカのマンナールに近いところで地名としていくつか見られます。

参考)
ウィキペディア:ペリヤパッティナム

セイロンとセレンディップ

辛島さんが所蔵されていた、ヴェネチア共和国の地図製作者ジャコモ・ガスタルディが1564年に製作したインドの地図が掲載されています。

参考)
ジャコモ・ガスタルディによる1548年作成の地図
Wikipedia:Giacomo Gastaldi

スリランカ北部に「Ceilam」と書かれ、東部に「Tricalamale」、西部に「chilam」と書かれています。

タミル語でスリランカのことを「Eelam(イーラム)」と言いますが、これをラテン語で書いた際に「Ceilam(シーラム)」となったようです。

ちなみに、東のトリンコマリーも、西のチラウもタミル人が多い地域です。

サンスクリット語で島をディープと言いますが、Ceilam島というと「シーラム・ディープ」となります。

Ceilamをヘボン式に読むと「セイラム」ですので、「セイラム・ディープ」とペルシャ人に呼ばれ、ペルシャの物語「セレンディップ」になったのでしょう。

ポルトガルはCeilamではなく、「Ceilão」と呼んでいます。

オランダは、オランダのゼーランド州を由来とする城・砦「ゼーランディア」を台湾やスリナムに築き、オーストラリアの南東に見つけた島をニューゼーランディア(ニュージーランド)と名づけていますが、Eelam・Ceilam・Ceilãoなどと呼ばれた島をオランダは「Zeylan」と呼びました。

オランダの地図製作者ウィレム・ブラウが1635年に作成した地図に「Zeylan」の名が見られます。

参考)
ウィレム・ブラウによる1635年の地図
Wikipedia:Willem Blaeu

オランダに代わって統治したイギリスは、Eelam・Ceilam・Ceilão・Zeylanと呼ばれた島をCeylon(セイロン)と呼びます。

ちなみに、ケララ州にはベネティア共和国の商人マルコポーロが立ち寄ったKollam(コッラム)あるいはQuilon(クイロン)と呼ばれる町があります。

KollamはCeilamと語尾が一緒で、QuilonはCeylonと語尾が一緒です。

この町は、ポルトガルによって砦が築かれ、その後にオランダがポルトガルに代わって支配し、その後にイギリスの影響下となります。

また、タミル・ナードゥ州には「セーラム」という町もあります。

こうしてみると、セイロンがタミル語由来の地名であるため、シリマーボ・バンダーラナーヤカ政権はスリランカに国名を変更したのかもしれません。

参考)
ウィキペディア:コッラム
ウィキペディア:セーラム(インド)
東京工業高等専門学校研究報告書:スリランカのヘレニズム・ローマ文化に関する考古学的研究

まとめ

本記事では、スリランカと関係する情報を中心にピックアップしましたが、本書にはゴアで見られるキリシタン大名の大友宗麟の絵や、ゴアでイースターに作られるカシューアップルのお酒など、興味深いことが色々と書いてあります。

また、この当時だからこそ見られる写真も多数掲載されいますので、インドやスリランカに興味がある方にはとてもお勧めの一冊です。

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