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カレーライス産みの親はインド愛あるイギリス人ヘースティングズ?

2021年1月04日

カレーの本場といえばインドが思い浮かびますが、日本のインドカレー屋さんの多くは、ナンとともに北インドやネパールのカレーが出されます。

見た目も味も、日本の家庭で食べられているカレーライスとは大きく異なります。

北インドではカレーにチャパティー、南インドではカレーにライスが基本です。
南インドからイギリスを経由して日本に入ってきたカレーは、日本ではお米が主食なこともあり、カレーにはライスが基本です。

Curry(カリー)という言葉の由来は明確にはなっていませんが、南インドの言語であるタミル語が由来とされる英語です。タミル語と聞くと、スリランカ在住の身からすると、急に身近に思えます。

しかし、イギリスにカレーを伝えたとされるイギリス東インド会社のウォーレン・ヘースティングスが拠点としていたのはベンガル語が話されている東インドのコルカタです。カレーがタミル語由来なのか急に怪しく思えてきます。

本記事では、カレーライスの語源、イギリスにカレーを伝えたウォーレン・ヘースティングズにまつわる歴史を見ながら、カレーライスのルーツを見ていきたいと思います。

タミル語の「カリ」、ベンガル語の「ターカリ」、英語の「カリー」

日本語のカレーは、英語のCurry(カリー)が由来ですが、英語の「カリー」はタミル語の「カリ」が由来だとされています。

稲垣栄洋 著『世界史を大きく動かした植物』によれば、タミル語で「カリ」とは、野菜や肉などの具、あるいはご飯に掛けるソースを意味するそうです。

グーグル翻訳で調べるとタミル語で「கறி(カリと発音)」。
「கறி」をwiktionaryでは、カレー、濃いソース、肉という意味が出てきます。

カレーをイギリスに伝えたとされるウォーレン・ヘースティングズが滞在したベンガル語でも調べてみました。

グーグル翻訳で調べるとベンガル語で「তরকারি(ターカリと発音)」。
「তরকারি」はネットの辞書では野菜、作物、ハーブという意味が出てきます。

タミル語由来でも、ベンガル語由来でも、Curry(カリー)にはなりそうです。

カレー粉の開発

インドでは各家庭ごとにスパイスを調合して料理しますが、スパイスを使い慣れていないイギリス人には難しいことです。

そこで、あらかじめスパイスを調合した「カレー粉」が開発されます。

カレー粉を開発したのは、1706年創業のイギリスの食品メーカーの「クロス・アンド・ブラックウェル」で、元々スープの仕出しをしていた会社です。

カレー粉を契機にCurry and riceがイギリス家庭に普及します。(その後は衰退して現在はイギリス家庭ではカレーはあまり食べられていないそうです。)

日本でヱスビー食品などが国産のカレー粉を生産し始めても、日本においてもクロス・アンド・ブラックウェルのカレー粉のブランド力は高く、しばらくはカレー粉はクロス・アンド・ブラックウェルのものが使われていました。
輸入物で値段が高いクロス・アンド・ブラックウェル社の缶を使って、国産のカレー粉を販売する偽装事件を契機に、日本には国産カレー粉が普及していきます。

シチューとカレールー

カレー粉はフランスにも伝わります。

カレールーの「ルー」とは、フランス語rouxのことで、小麦粉をバターで炒めて調理したものです。

日本の一般的なカレーは小麦粉が入ったとろっとしたものですが、インドのカレーは小麦粉が入っておらず、さらっとしています。

これはイギリス東インド会社及びイギリス海軍が、船中でシチューを作る際に日持ちしない牛乳の代わりにカレー粉を使って料理し、船の揺れでこぼれないためにとろみをつけたという説があります。そして、日英同盟のイギリス海軍と日本海軍との交流で、日本海軍にカレーが伝わったというのです。

シチュー(Stew)は、フランス料理ラグー(ragout)の英語名称ですが、単にフランス料理のようにルーを加えたら、とろみが出て、船上で食べやすかったため、とろみのあるカレーが食べていたのかもしれません。

カレーをイギリスに伝えたウォーレン・ヘースティングズ

カレーをイギリスに伝えたのは、英領インドのベンガル初代総督ウォーレン・ヘースティングズだと言われています。

日本語のウィキペディアによれば、ヘースティングズは1772年のイギリス東インド会社の取締役会の業務報告において、「われわれが目指すべきインド統治の方針は、できる限り古代インド以来のインドの習慣と制度に従いつつ、われわれの法律をインド人の生活、社会、国家の諸問題に適用すること」と述べ、インドの文学や芸術を愛好していたとも言われている人物です。

インド愛を感じさせるヘースティングズの経歴を、英語のウィキペディアを参考に見ていきましょう。

ヘースティングズは1750年にイギリス東インド会社に入社し、書記としてカルカッタに赴任します。

ベンガルの主要港であったカシム・バザーで働きながら、ウルドゥー語(パキスタンの国語)とペルシャ語(イランとダジキスタンの公用語)を学びます。

当時のインドはムガル帝国が支配していましたが、イギリスとフランスがインド東海岸で権益を競い合い、イギリスがマドラス(現 タミル・ナードゥ州チェンナイ )とカルカッタ(現 西ベンガル州コルカタ)、フランスがポンディシュエリ(タミル・ナードゥ州隣接地域)とシャンデルナゴル(現 西ベンガル州シャンデルナゴル)に拠点を築いていました。

1756年、ムガル帝国ベンガル太守(ベンガル地方長官)シラージュ・ウッダウラは、競い合って要塞拡張を行うイギリスとフランスに工事を止めるよう要請します。

フランス東インド会社はその要請に従いますが、イギリス東インド会社は要請に反抗します。

そこで、ベンガル太守はフランス東インド会社の支援を受けて、イギリス東インド会社のカルカッタの拠点「ウィリアム要塞」を攻撃し、ヘースティングズは監禁されます。

それを受けて、マドラス(現・チェンナイ )から、ロバート・クライヴ率いるイギリス東インド軍が到着し、ヘースティングズは救出されます。

ベンガル軍総司令官のミール・ジャアファルは、前ベンガル太守のアリーヴァルディー・ハーンの妹と結婚しており、ベンガル太守の座を狙っていました。

イギリス東インドと密約し、ベンガル太守の座をイギリス東インド会社に約束させます。

イギリス東インド会社のクライヴがプラッシー村を攻撃して、イギリス東インド会社とベンガル太守との戦い(プラッシーの戦い)が始まりますが、イギリスと内通したベンガル軍総司令官ミール・ジャアファルは軍を動かさず、ベンガル太守は敗北します。

続いてイギリス東インド会社は、フランス東インド会社の拠点シャンデルナゴルを制圧し、イギリスはインドの地位を確固たるものにしていきます。

1758年、ミール・ジャアファルが新ベンガル太守に就任し、ロバート・クライヴがベンガル知事になり、ウォーレン・ヘースティングズはベンガル太守の首府マーシダバードに住み、イギリス東インド会社の仲介役として活躍します。

ミール・ジャアファルがイギリスと対立するようになると、イギリスはミール・ジャアファルを排除して、新しい太守にミール・カーシムを擁立します。

この際、ヘースティングズはミール・ジャアファルとの良好な関係から同時に排除されそうになりますが、ミール・カーシムとも関係を築き、引き続き、ベンガル太守とイギリスとの橋渡しを担います。

ヘースティングズは貿易の中間に入っているイギリス商人とインド商人が私服を肥やしており、それを放置することはイギリスの評価を下げるとカルカッタ当局に訴えます。
ところが、当局にも貿易で利益を得ているものが多く、訴えは却下され、ヘースティングズはイギリスに帰国します。

イギリスに帰国したヘースティングズですが、経済的理由から再度インドに行く必要を感じ、カルカッタに戻ろうとしますが、先の訴えのため、政敵が増えてカルカッタでは受け入れられません。

カルカッタのイギリス人役人と対立していたロバート・クライヴがヘースティングズをマドラスに呼び、ヘースティングズはイギリス東インド会社の主要3拠点のカルカッタ・マドラス・ボンベイの貿易に関与する中間業者を排除して、イギリス東インド会社とインドの労働者に利益が残るように改革していきます。

その後、当時最も重要な拠点だったカルカッタの総督のボジションを得て、マドラスからカルカッタに移ります。

カルカッタでヘースティングズはヒンドゥー法律を成文化し、ムスリム法律本を理解し、貨幣・税・関税の統合し、郵便システムを作ります。

この経歴を見ると、マドラスにも滞在していることと、上官はマドラスに駐在していたロバート・クライヴなので、彼がイギリスにカレーを伝える際に、タミル語の「カリ」からカリーと言ったことはありえそうです。長く滞在していたのはベンガル語のカルカッタですが、ベンガル語では「ターカリ」と少し長いので、タミル語の「カリ」を採用したのかもしれません。

インド独立運動家たちが作った日本のインドカレー専門店

日本で本格的なインドカレーを最初に出したのは、1927年に喫茶部を開業するとともに純印度式カレーを出した中村屋とされています。

中村屋に匿われていたインド独立運動家のラス・ビハリ・ボースは、故国インドと違い、美味しくない低品質のカレーが日本に普及していることを嘆き、中村屋にカレーを出すことを進言したと言われています。

このラス・ビハリ・ボースは東インドのベンガル州出身です。

そして、インド人経営による日本初のインドカレー店は、1949年に銀座で創業した印度料理専門店「ナイルレストラン」です。

開業したのは、南インドのケララ州トリヴァンドラム出身のインド独立活動家のA.M.ナイルです。

まとめ

カレーが日本に伝わった経緯は米が主食の南インドからですが、日本でインドカレーを伝えたインド人もベンガルやケララと米が主食の地域からでした。

お米を主食とする日本人にとって、これは受け入れやすいものだったのではないでしょうか。

一方で、このお米+カレーとの差別化と、日本人がインドで思い浮かべるのは首都デリーや世界遺産ダージマハールがある北インドのため、近年のインドカレー屋さんはナンと北インドカレーを出したのかもしれません。

その後、日本のカレーは多様化して、スープカレー、南インドカレー、スリランカカレー、スパイスカレーと色んなカレーブームが次々に発生していきます。

英語のカリーは、タイのスープ料理「ゲーン」を外国人が指す時にも使われタイカレーという言葉が生まれます。

そして、ゲーン・ガリーは「イエローカレー」、ゲーン・キャオワーンは「グリーンカレー」、ゲーン・ペッは「レッドカレー」と呼ばれるようになります。

つまり、カレーはスパイス(香辛料)を使った料理を外国人が総称したものですが、もはや言葉としても料理としても広く受け入れられ、各国ごとに独自のカレーがあると捉えても間違いではないと思います。

普段とはちょっと違うカレーとして、是非スリランカカレーも食べてみてください。

参照


農林水産省「カレーはどこから来たの?」
日本のカレーの歴史とは?発祥はイギリス?インドのカレーとの違いとは?
「にっぽん カレーの歴史
ウィキペディア「カレー」
ウィキペディア「カレーライス」
ウィキペディア「カレー粉」
ウィキペディア「クロス・アンド・ブラックウェル」
カレーってなぁに?
ヱスビー食品「スパイスの歴史に関するお話」
タミル語「கறி」
ベンガル語「তরকারি」
ルー (食品)
ウィキペディア「ウォーレン・ヘースティングズ」
ウィキペディア「ロバート・クライヴ」
世界史の窓「クライヴ」
ウィキペディア「イギリス東インド会社」
ウィキペディア「セント・ジョージ要塞 (マドラス)」
ウィキペディア「ウィリアム要塞」
ウィキペディア「プラッシーの戦い」
ウィキペディア「ムルシダーバード」
ウィキペディア「シラージュ・ウッダウラ」
ウィキペディア「ミール・ジャアファル」
Wikipedia「East India Company」
世界で一番お米を食べている国は…日本は50位
新宿中村屋「純印度式カリー」
印度料理専門店ナイルレストラン「歴史」
ウィキペディア「ラース・ビハーリー・ボース」
ウィキペディア「A.M.ナイル」
ヱスビー食品「カレー粉が伝わる」
ウィキペディア「ゲーン」

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