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鎌倉五山第二位「円覚寺」とスリランカに留学した明治・大正の名僧「釈宗演」

2022年6月25日

セイロンに留学後、アメリカ大統領と会見するなど世界を歴訪して「Zen」を伝えた明治・大正時代の名僧「釈宗演」は、スリランカと日本を結ぶ代表的な偉人のひとりでしょう。

北鎌倉には、釈宗演に関係した寺院が集中しています。
その中でも円覚寺は特に深い縁があるお寺と言えます。

仏歯を祀る国宝の舎利殿もあり、スリランカの仏歯寺を想起させます。
スリランカを訪れた夏目漱石は、コロンボで食べたカレーを書き記していますが、釈宗演の元で参禅していたことから、円覚寺には夏目漱石の句碑も見られます。

サンフランシスコで開催された日本に対する講和会議に出席したジャヤワルダナ氏一行は、サンフランシスコに行く前に東京に滞在して、仏教学者の鈴木大拙との面会を希望して鎌倉を訪れていますが、円覚寺には鈴木大拙が暮らした「正伝庵」があります。鈴木大拙も釈宗演の下に参禅し、釈宗演からアメリカ行きを勧められて渡米して、著作・講演活動を行なっています。

本記事では、釈宗演が弟子入りした幕末・明治の名僧で円覚寺派管長であった「今北洪川」、その後を継いで管長になった釈宗演と、近代初期を代表する禅師を輩出した円覚寺について紹介します。

円覚寺とは?

円覚寺は、臨済宗円覚寺派の大本山で、鎌倉五山の第二位です。
鎌倉五山の第四位の浄智寺は臨済宗円覚寺派に属する寺院です。

元寇が襲来した時の鎌倉幕府第8代執権「北条時宗」が、文永の役・弘安の役で戦死した敵味方両軍の菩提を弔うために、弘安5年(1282年)に建立した寺院です。

円覚寺の寺名は、建立時に石櫃に入った大乗経典「円覚経」が発掘されたことに由来します。

山号の「瑞鹿山」は、円覚寺開堂の日に、開山である無学祖元の説法を聴こうとして、境内奥の山の中の洞穴から白鹿が群れを成して現れたという故事に由来します。

境内奥にある白鹿洞

釈宗演の師「今北洪川」とは?

拝観料を払って入場したところにある「円覚寺案内」には、以下のように記載されいています。

明治に至って今北洪川、釈宗演の二大禅師が出世され再び関東禅界の中心となった。

今北洪川は僧侶だけではなく、一般大衆にも禅指導を行ったことから、以下のような多くの著名人が参禅しています。
・山岡鉄舟:「幕末の三舟」の一人
・鳥尾小弥太:高杉晋作の奇兵隊に入隊し、最終階級は大日本帝国陸軍中将。大日本茶道学会の初代会長。
・澤柳政太郎:東北帝国大学初代総長、京都帝国大学第5代総長、成城学園創立者、大正大学初代学長。
・北条時敬:山口高等学校校長、第四高等学校校長、広島高等師範学校校長、東北帝国大学総長、学習院長。
・鈴木馬左也:第三代住友総理事。
・土屋元作:カナダ、アメリカ、フランス、オーストラリア、ニュージランド、フィリピンに渡航した幕末生まれのジャーナリスト。
・釈宗演:慶應義塾に入学、セイロン留学、円覚寺派管長、建長寺派管長、東慶寺住職。
・鈴木大拙:仏教学者、文学博士。1949年に文化勲章を受賞し、1963年にノーベル平和賞の候補に挙がる。
・釈宗活:釈宗演の元で得度してビルマ・セイロン・インド・アメリカに渡航。両忘会を復興。

釈宗演がセイロン留学を決めた際に支援した代表的な人物が、今北洪川の元に参禅していた山岡鉄舟と鳥尾小弥太です。

釈宗演は、アメリカ滞在中にルーズベルト大統領と会見していますが、その時に通訳を担当したのが今北洪川の元に参禅していた鈴木大拙です。

山岡鉄舟や高橋泥舟らが今北洪川を招いて設立した一般人への坐禅会「両忘会」の復興は、釈宗演が釈宗活に託し、現在は千葉県市川市になる人間禅に引き継がれています。

こうしてみると、今北洪川の存在はかなり大きいことが分かります。

参考)
ウィキペディア:今北洪川
コトバンク:今北洪川

多作の現円覚寺派管長「横田南嶺」

入口・出口近くにある円覚寺の売店には、現在の円覚覚寺派管長の横田南嶺さんの著作も販売されています。

横田南嶺さんはYoutubeで法話もされ、毎日ブログを書かれ、日経ビジネスに連載をもたられていました。

釈宗演は、円覚寺に来る前に建仁寺で修行をし、後に臨済宗大学(現・花園大学)の学長を務めいますが、横田南嶺さんも建仁寺と円覚寺での修行を経て、臨済宗円覚寺派管長に就任され、花園大学の総長もご経験されています。

以下、横田南嶺さんの著書です。

多数ある著作と並んで、横田南嶺さんが監修された釈宗演のセイロン留学を漫画化した『ZEN 釈宗演 上・下』も置かれていました。

この漫画には釈宗演はもちろん、今北洪川、山岡鉄舟、福沢諭吉なども登場します。

参考)
円覚寺:管長のページ
日経ビジネス:横田南嶺

釈宗演の主な年表

釈宗演は、円覚寺、建長寺、東慶寺で役職に就かれていますが、以下の年表を見ると、円覚寺とのつながり一番深いように思います。(円覚寺派管長が就任期間として長く、かつ、2回就任されています)

1859年(安政6年)12月18日、福井県若狭高浜に誕生。

親戚の越渓守謙に付き出家し、名古屋市の泰雲寺、京都市の建仁寺 、大津市の三井寺、岡山市の曹源寺などで修行。

17歳、鎌倉の円覚寺僧堂に入流。

23歳、今北洪川から印可証明を受ける。

24歳、円覚寺内にある開基・北条時宗を祀る塔頭寺院「仏日庵」の住職となる。

25歳、慶應義塾に入学し、英語や洋学を学び、1887年(明治20年)に卒業。

27歳、セイロンへ渡航する。

30歳、帰国し、横浜の宝林寺で指導に当たる。

32歳、今北洪川の遷化に伴い、異例の若さで円覚寺派管長に就任。

33歳、シカゴ万国宗教大会に、日本の代表団の4名のうちの1人として参加。

35歳、夏目漱石が2週間参禅し、その体験を元に小説「門」を発表。

42歳、外国人で初となる日本での参禅をサンフランシスコの大家具商アレクサンダー・ラッセルの妻アイダらに対して行う。

43歳、建長寺より建長寺派の管長就任要請を受け、円覚寺派と兼務で建長寺派の第2代管長に就任。両寺派の管長を兼務したのは後にも先にも釈宗演のみ。

44歳、日露戦争に従軍して布教

45歳、円覚寺派管長職と建長寺派管長職を辞任して、鎌倉の円覚寺派の東慶寺の住職となる。
サンフランシスコのラッセル邸に約9ヶ月滞在して禅の指導をした後、ワシントンDCでセオドア・ルーズベルト大統領に面会。続いて、ヨーロッパ、アジアを歴訪して帰国。

51歳、朝鮮、満州、台湾、支那へ布教。

54歳、妙心寺派の懇請により臨済宗大学 (現在の花園大学)の第2代学長に就任。

56歳、円覚寺派管長に再び選ばれる。
夏目漱石の遺言により戒名を付け、青山斎場での葬儀の導師を務める。

59歳、肺炎のため遷化。

参考)
若狭高浜が誇る偉人 釈宗演:生涯
ウィキペディア:釈宗演

北条時宗・貞時・高時を祀る開基廟と仏日庵

釈宗演は、今北洪川から印可証明を受けた翌年に、円覚寺内にある北条時宗・貞時・高時を祀る開基廟がある仏日庵の住職になています。

仏日庵は円覚寺の拝観料500円とは別に、拝観料が100円かかります。

入場料を支払うと、線香をいただきます。
入場したら、まずは開基廟の前にある香炉に線香を立てて、開基廟にお参りします。
香炉に北条家の家紋が描かれています。

円覚寺の開基である鎌倉幕府第8代執権北条時宗を祀っています。
廟所とは石碑を建てその上にお木造を祀るお堂を建てたもので、国に特に業績のあった人にのみ許されたものです。

北条時宗の嫡男で鎌倉幕府第9代執権の北条貞時、貞時の事実上の嫡男で鎌倉幕府第14代執権の北条高時も祀られています。

北条時宗・貞時・高時はそれぞれ円覚寺の大檀那でした。

大檀那とは、勢力のある檀家、布施をたくさん出す檀家のことを言います。
檀那とは、布施、転じて布施をする人、檀家を意味します。

この檀那は、スリランカで聞くシンハラ語のダーナと語源が同じです。
英語のドネーション、ドナーも語源は同じだと言われています。

開基廟の手前には席が用意されていて、入場料・お茶・お菓子代を含んだ500円を支払うと、お茶とお菓子をいただくことができます。

開基廟に向かって右手にある観音様は、紫陽花に囲まれています。

観音様の脇の小さな石階段を登っていくと茶室があり、大佛次郎の夫人が寄贈した垂れ桜もあります。

茶室の周辺には作品が展示されています。

開基廟に向かって左手側にも作品が展示されています。

参考)
ウィキペディア:北条時宗
ウィキペディア:北条貞時
ウィキペディア:北条高時
ウィキペディア:檀那
大佛次郎記念館公式サイト

坐禅を行う選佛場と居士林

今北洪川の元に山岡鉄舟や鈴木大拙らが参禅し、釈宗演の元に夏目漱石やアイダ・ラッセルらが参禅していますが、円覚寺には坐禅道場が2つあります。

選佛場

仏殿の横にあるのが出家した修行僧のための坐禅道場として建てられた選佛場です。

創建時の坐禅道場は室町時代(元禄12年)に焼失し、江戸時代(元禄12年)に伊勢長島城主・松平忠充が大蔵経を寄付した際に、経典を収蔵する蔵殿と坐禅道場を兼ねて建てられたのが、現在の選佛場です。

こちらは内部を拝見することができ、14:30-16:00で開催されている選仏土曜坐禅会と選仏日曜坐禅会の会場にもなっています。

内部と外観の写真を撮り忘れてしまいました。。。

居士林

選佛場の奥にあるのが居士林です。

居士とは、出家をせずに家庭で修行を行う在家信者のことを意味します。
著名な居士として挙げられるのが千利休、山岡鉄舟、鈴木大拙、西田幾多郎などです。

円覚寺に参禅した山岡鉄舟
円覚寺に暮らした鈴木大拙
鈴木大拙の影響で禅に打ち込み、円覚寺の近くにある円覚寺派の東慶寺で葬儀が行われた西田幾多郎

代表的な居士として挙げられる人物のうち3人が円覚寺で参禅していたわけです。

居士のための坐禅道場として現在の居士林の地に「済蔭庵」が大正12年に建てられています。
済蔭庵は大正15年に焼失してしまいますが、早稲田大学済蔭庵団が中心になって復興運動を行います。
その結果、新宿区牛込にあった柳生家の剣道場が柳生徹心居士から寄進されて昭和3年に現在地に移築されています。

参考)
早稲田大学済蔭団:居士林について

仏歯が祀られた国宝「舎利殿」

源実朝が宋の能仁寺から請来した仏歯(佛牙舎利と呼ばれるお釈迦様の歯牙)を祀っている国宝「舎利殿」。

この舎利殿は、鎌倉にあった太平寺(廃寺)の佛殿を移築したもので、南宋時代の建築様式に学んだ禅宗様建築の代表的な遺構だそうです。

正月の三が日、5月の連休、11月の宝物風入などの特別期間のみ拝観ができます。

参考)
ウィキペディア:能仁寺 (九江市)

夏目漱石が参禅した帰源院

夏目漱石は、明治27年年末から翌年にかけた2週間、円覚寺内の帰源院で釈宗演に参禅し、その体験を元に小説「門」を書いています。

境内には夏目漱石の句碑「佛性は白き桔梗にこそあらめ」があるそうですが、一般公開はされていないため、拝観には事前申し込みが必要です。

島崎藤村も帰源院に通ったそうです。

参考)
かまふち:逢瀬は60年に一度 ~円覚寺国宝洪鐘と弁天茶屋
鎌倉手帳:帰源院

今北洪川が整備した百観音霊場

百観音霊場の由来は、以下の総称だとされています。
・奈良の長谷寺の開祖である徳道が開設した西国三十三観音霊場
・源頼朝が開いた坂東三十三観音霊場
・秩父三十四観音霊場

円覚寺の方丈の石仏は、江戸時代に拙叟宗益が岩窟を掘って、百体の観音石像を祀ったことがそのはじまりだそうです。
明治時代に今北洪川が西国三十三体の観音像を新たに刻み、昭和58年に現在地に移されたそうです。

参考)
鎌倉五山の第二位 ~円覚寺(えんがくじ)~
しょうりん第62号
コトバンク:徳道

黄梅院

境内の一番奥にあるのが黄梅院です。

スリランカの国花は青い蓮の花ですが、こちらでは黄色の蓮の花が見られました。

三門・仏殿・方丈・妙香池・洪鐘・弁天堂

スリランカや釈宗演関連のものは上記に書いた通りですが、円覚寺で拝観を楽しめるものは他にもあります。

三門(山門)

三門とは、三解脱門の略だそうです。
三解脱とは、空・無相・無作のこと。
この三門をくぐることによてって、あらゆる執着から解き放たれることを意味するそうです。

この日は園児たちが三門の絵を描いていました。

夏目漱石の小説「門」のタイトルは、この山門が由来しているようです。

参考)
鎌倉手帳:北鎌倉 円覚寺の山門(三門)

仏殿

円覚寺のご本尊が祀られています。

方丈

本来は住職が居住する建物を方丈と呼ぶそうです。
現在は各種法要の他、坐禅会や説教会、夏期講座等の講演会や秋の宝物風入など多目的に使われています。

妙香池と正伝庵

妙香池は、創建時からあった放生池(捕獲した魚介を生かし放つ池)を、江戸時代初期の絵図に基づいて2000年に復元したものです。

妙香池の奥に、鈴木大拙が暮らした正伝庵があります。

洪鐘

関東で最大の洪鐘で国宝。
北条貞時が国家安泰を祈願して、物部国光に造らせ寄進したもの。

弁天堂

江ノ島弁財天の加護によって洪鐘の鋳造が完成したことから、洪鐘とあわせて建立されたそうです。
弁財天にある茶屋は訪れた時は閉まっていました。

弁天堂と洪鐘は石階段を登った高台の上にありますが、そこから東慶寺が見えます。

東慶寺は、釈宗演が円覚寺派管長職と建長寺派管長職を辞任して後に住職になった円覚寺派の寺院です。

参考)

円覚寺公式サイト

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