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鎌倉大仏の高徳院にあるスリランカ元大統領碑

2022年7月09日

鎌倉大仏を囲む回廊側壁の外側に、ジャヤワルダナ前大統領顕彰碑が建立されています。

除幕式が行われたのは、大統領を退任した1989年1月から2年余りが過ぎた1991年4月28日。
当時は前大統領であったことから、顕彰碑には「前大統領」と刻まれています。

本記事では、ジャヤワルダナ前大統領顕彰碑と、その建立経緯について紹介します。
ジャヤワルダナ前大統領顕彰碑については、上坂元 一人 著『大仏さまと愛の顕彰碑』に詳しく記載されていますので、こちらの本を参照しました。

講和会議の前に鎌倉を訪問したジャヤワルダナ氏

サンフランシスコで日本に対する講和会議が行われた1951年9月のセイロン(現:スリランカ)の国家元首は、初代首相ドン・スティーブン・でした。
講和条約が発行した1952年4月28日の前月、3月22日にセーナーナーヤカ氏は68歳で亡くなられています。

セーナーナーヤカ氏の指名で、セイロン全権として講和会議に参加したのが、初代財務大臣を務めていたジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ氏でした。

セーナーナーヤカ氏は、ジャヤワルダナ氏に「セイロンを代表して賠償金を日本に求めず、また日本の自由のためにセイロンを代表して出席するよう」指示したと、後にジャヤワルダナ氏は述べています。

スリランカからサンフランシスコに向かう途上、ジャヤワルダナ氏一行は東京の帝国ホテルに滞在しています。

東京では、GHQ最高司令官のリッジウェイ氏(マッカーサー氏の後任)、吉田茂首相、駐日アメリカ大使、駐日イギリス大使などに会い、日本の仏教学者との会合を希望されてイギリス大使館で会合が行われたようです。

その会合で、世界的な仏教学者の権威となる中村元氏に会われたそうです。
ジャヤワルダナ氏顕彰碑の正面に刻まれたダンマパダ5(法句経五)の日本語訳は中村元氏によるものです。

ジャヤワルダナ氏は禅・仏教の世界的な権威である鈴木大拙氏との面会と、鎌倉の仏教施設の訪問を希望され、鈴木大拙氏が研究活動の拠点としていた北鎌倉の東慶寺や鎌倉大仏を訪れています。

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鈴木大拙氏とジャヤワルダナ氏の面会

鈴木大拙氏を訪ねたジャヤワルダナ氏は、日本で行われている大乗仏教とスリランカで行われている小乗仏教の違いを尋ねたと、顕彰碑の除幕式のために来日された際の池袋メトロポリタンホテルでの公園でお話されています。

鈴木大拙氏は以下のように答えたジャヤワルダナ氏は述べられています。

「なぜ、相違点を強調するのですか?どうして、共通点を考えないのですか?」

ジャヤワルダナ氏は、3回目の来日時の宮中晩餐会でのスピーチで、鈴木大拙氏との面会が、サンフランシスコでの対日講和会議でのダンマパダを引用した演説に繋がったとお話されています。

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鎌倉大仏の高徳院に顕彰碑がある由来と賛同した著名人

上坂元一人氏

顕彰碑を発案し、推進委員会事務局長を務められたのは上坂元一人氏です。

上坂元氏は飯野海運を経て、飯野川崎トラベルに勤めています。
1964年12月22日〜1965年1月9日に大正大学、立正大学、駒澤大学の先生方を中心とする仏教関係者がタイ、ネパール、インド、香港、台湾、沖縄を訪問した「アジア仏教国親善訪問とインド仏蹟、巡拝団」に参加したことが、顕彰碑につながる始まりだと、上坂元 一人 著『大仏さまと愛の顕彰碑』に書かれています。

上記の巡拝団が後に、アジア文化交流協会の創設につながったそうです。

1966年2月24日〜3月11日に行われた浅草寺主催の「聖仏舎利奉迎仏跡参拝団」に参加。この参拝団は前半9日間をインドの巡拝に、後半5日間をスリランカに訪問して、アヌラーダプラのイスルムニヤ寺院から聖仏舎利を奉戴しています。

当時、戦災で消失した浅草寺の五重塔の再建が決まり、その本尊として1973年に再建された五重塔の最上層に、イスルムニヤ寺院からの聖仏舎利が納められています。

この聖仏舎利の奉戴の際に、アジア文化交流協会はジャヤワルダナ氏を初めて表敬訪問し、その後、継続してスリランカに訪問団を送ったそうです。

参考)
浅草寺:五重塔

高徳院住職・佐藤密男氏

鎌倉大仏がある高徳院の住職で、京都仏教専門学校(現:佛教大学)教授、大正大学教授、大正大学学長、知恩院副門跡を務められた佐藤密雄氏が、上坂元氏がジャヤワルダナ氏顕彰碑建立の企画を相談したところ、高徳院の境内に用地提供することを了承されたそうです。

上坂元氏と佐藤密雄氏との交流は、ブッタガヤに印度山日本寺を設立した公益財団法人国際仏教興隆協会が1970年2月に行なった国際仏教会館落慶法要にそれぞれ参加されたことがきっかけと、上坂元氏の著書に書かれています。

参考)
ウィキペディア:佐藤密雄
ウィキペディア:門跡
公益財団法人国際仏教興隆協会:印度山日本寺

日本スリランカ協会の会長・野田卯一氏

佐藤密雄氏から用地提供の快諾を得た上坂元氏は、日本スリランカ協会の会長を当時務めていた野田卯一氏を訪ね、発起人になっていただくことを了承を得たそうです。

野田卯一氏は、岸田内閣の内閣府特命担当大臣である野田聖子氏の祖父で、池田勇人・福田赳夫とともに「大蔵省の3田」と呼ばれた政治家です。大蔵次官、日本専売公社副総裁、衆議院議員、建設大臣、北海道開発庁長官、行政管理庁長官、経済企画庁長官などを歴任し、日本スリランカ協会を創設して初代会長を務められました。

野田卯一氏から日本スリランカ協会の会長を引き継いだのが第91代内閣総理大臣を務められた福田康夫氏です。

顕彰碑の除幕式には、体調を崩されていた野田卯一氏に代わって、野田聖子氏が参加されています。

参考)
上毛新聞:元首相 福田 康夫さん《スリランカ協会》思い入れある団体|コラム心の譜

日本スリランカ友好議員連盟の会長・小渕恵三氏

第84代内閣総理大臣を務められた小渕恵三氏は、日本スリランカ友好議員連盟の会長を務められていましたが、顕彰碑の推進賛同者に名を連ねています。
現在、日本スリランカ友好議員連盟事務局長は娘の小渕優子氏が務められています。

日本スリランカ経済委員会委員長・瀬島龍三氏

太平洋戦争では参謀本部部員として務め、戦後に伊藤忠商事会長、中曽根康弘元首相の顧問などを務め、「昭和の参謀」と呼ばれた瀬島龍三氏が推進賛同者に名を連ねています。

瀬島龍三氏は、山崎豊子の小説『不毛地帯』の主人公・壱岐正中佐、『沈まぬ太陽』の登場人物・龍崎一清のモデルであるともいわれ、『二つの祖国』では実名の記述があります。

日本スリランカ経済委員会の現在の委員長は、伊藤忠商事の代表取締役副社長執行役員である小林文彦氏です。

参考)
ウィキペディア:瀬島龍三
東京商工会議所:日本・スリランカ経済委員会

雲龍寺の住職・足利正明氏

推進賛同者に、八王子にある雲龍寺の第37世・足利正明氏の名があります。

足利正明氏は、高徳院の顕彰碑の建立よりも早い、1987年にジャヤワルダナ銅像を境内に建立し、1989年にジャヤワルダナ氏が雲龍寺を訪問しています。

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顕彰碑の境内の位置

鎌倉大仏は正面以外の周囲3方が回廊に囲まれています。

顕彰碑は大仏向かって左側の回廊の外側にあります。

ここから大仏を見上げると、こんな風に見えます。

以下の高徳院の境内マップを見ると、位置が分かりやすいです。

参考)
鎌倉大仏殿高徳院:礎石・記念樹・顕彰碑

タイの国王による手植え記念樹

ジャヤワルダナ前大統領顕彰碑の近くには、タイ国王による手植えの記念樹が並んでいます。

世界最大の仏像を建設しているミャンマーからの旅行者にとって、鎌倉大仏はとても人気の観光地だと聞いたことがあります。

仏教や仏像がスリランカ、タイ、ミャンマーと仏教国と日本を繋げてくれているように思います。

一番大仏に近いのがラーマ6世が手植えされた松です。

その隣にあるのがラーマ7世が手植えされた松です。
皇太子の時に手植えされています。

さらにその隣には、現国王のラーマ10世によって手植えされた松があります。
皇太子の時に手植えされています。

ソウルの朝鮮王宮にあった観月堂

大仏の奥には、山一證券株式会社の初代社長や東京株式取引者の理事長を務めた杉野喜精氏から寄贈された観月堂があります。

観月堂はソウルの朝鮮王宮にあったものだそうです。

参考)
ウィキペディア:杉野喜精

日比谷公園のキリノ大統領顕彰碑

サンフランシスコ講和会議時のフィリピンの国家元首であったキリノ大統領の顕彰碑が日比谷公園にあります。

キリノ大統領は、太平洋戦争末期に夫人と子供3人を日本軍によって失っていますが、「自分の子供や国民に,我々の友となり,我が国に末永く恩恵をもたらすであろう日本人に対する憎悪の念を残さないために,これを行うのである。」との声明を発出して、1953年6月,フィリピンのモンテンルパ刑務所に服役していた105名の日本人戦犯に恩赦を与えたと言われています。

恩赦が与えられた翌月の1953年7月に日比谷公会堂にて、キリノ大統領に感謝する「国民感謝大会」が開催されたといいます。

奥に見える階段は日比谷公会堂の入口の階段

2016年1月に国交正常化60周年を記念して天皇、皇后(現上皇、上皇后)両陛下がフィリピンを訪問し、キリノ大統領の孫たちと言葉を交わされたそうです。

この時、同行した自民党副総裁だった高村正彦氏が、「『母を殺した日本人になぜ』と子どもから問われた大統領が『憎しみの連鎖を終わらせなければならない』と答えた」とキリノ大統領の孫から聞いて感動し、顕彰碑の設立に動かれたそうです。

ただ、ウィキペディアには以下の文章が掲載されています。

帝京大学の高山正之教授は以下のように説明している。キリノは大統領就任時にモンテンルパの収容所の日本人のB・C級戦犯3人を絞首刑にした。そしてその後、日本との戦時賠償交渉で法外な80億ドル(当時の日本の他国への賠償の相場では5億ドル)を要求し、それが拒絶されると見せしめに一晩で14人を処刑し、さらに日本政府に残りの戦犯のさらなる処刑を匂わせて要求を飲まそうとした。これをアメリカのジョン・フォスター・ダレス国務長官(当時)に咎められ、戦犯の処置に困り、やむなく残りの戦犯全員に恩赦を与えて解放したのが、後で美談に仕立て上げられたとしている。

サンフランシスコ講和会議で取りまとめ役を務めたのはジョン・フォスター・ダレス国務長官でした。

日本への賠償請求を抑えようと各国に働きかけたと言われるジョン・フォスター・ダレス国務長官の一面が見えるお話だと思います。

また、サンフランシスコ講和会議で賠償請求権を放棄する演説したジャヤワルダナ氏の演説が、日本を分割統治から救ったと美談に仕立て上げられているのと共通しているように思います。

参考)
外務省:キリノ元フィリピン大統領の顕彰碑除幕式
日本記者クラブ:憎しみ超え、日本人戦犯に恩赦/キリノ比大統領の信頼外交(伊藤 芳明)2020年1月
ウィキペディア:エルピディオ・キリノ

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