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『セイロン島史』ロバートノックス 著・濱屋悦次 訳

2021年7月11日

オランダ領セイロン時代のキャンディ王国に19年半抑留生活を送った、イギリス東インド会社のロバート・ノックスによる『セイロン島史』を紹介します。

船長である父と乗務員とともに19歳でキャンディ王国に抑留されて、脱出時の38歳までの記録が克明に記されています。

ノックスは、キャンディ王国領土内各地で商売を行なって歩き、村で暮らし、王や役人とのやりとり、他の捕虜となっているヨーロッパ人や逃げ込んだオランダ領セイロンを見ています。

そのため、当時のことを知る一級資料と言える詳細な内容で、現在のスリランカを理解する上でも貴重な情報源です。

本書は以下の4章構成になっています。
・島の自然と産物
・島の政治と行政
・島の文化
・虜囚二十年のいきさつと脱出

本書の日本語訳をされたのは、農林省熱帯農業研究センターの在外研究員としてスリランカに2年間勤務していた濱屋悦次さんです。

濱屋さんが書かれた『ヤシ酒の科学』にはヌワラエリヤで研究をされていたことが書かれています。
スリランカの勤務が終わる頃の1977年に、キャンディの本屋で原著(復刻版)を見つけ、一読して感銘を受けて翻訳されたそうです。

現在の地名や植物などの和名など注意書きも丁寧で、大変読み応えがあります。

濱屋さんのあとがきによれば、小説『ロビンソン・クルーソーの冒険』は、ファン・フェルナンデス諸島の無人島に4年4ヶ月暮らしたアレキサンダー・セルカークと、セイロン島に19年半捕虜となっていたロバート・ノックスの経験を元に創作されたとも言われているそうです。

ロバート・ノックスの『セイロン島史』は出版時、ベストセラーになったそうです。

本記事では、400ページに渡るセイロン島史の一部を引用して、歴史的背景、キャンディ王国の概要、その他のセイロン島における勢力、カースト、宗教などについて、まとめました。

本書にはその他、農業や村人の生活、法律、教育、言語など多岐に渡って記述されています。
書かれている内容はかなり正確だと思われます。
スリランカを知りたい方は是非、本書をご覧ください。

目次

ラージャ・シンハ2世、ロバート・ノックスの時代年表

ロバート・ノックスはイギリス東インド会社に所属し、キャンディ王国のラージャ・シンハ2世に捕らえられて抑留生活を送っています。
この本の記述されている時代を整理するために、以下に年表をまとめました。

1600年:イギリス東インド会社が設立

1602年:オランダ東インド会社が設立

1604年:キャンディ初代王ヴィマラ・ダルマスーリヤ1世が死去、2代目セナラトが即位

1608年:ラージャ・シンハ2世が生まれる

1612年:オランダ東インド会社がコッティアル砦(トリンコマリー)を建設

1616年:デンマーク東インド会社が設立

1619年:ポルトガルがジャフナ王国を滅ぼす
オランダ東インド会社がジャワ島にバタヴィア要塞を建設

1620年:デンマーク東インド会社がトリンコマリーに到着

1623年:ポルトガルがトリンコマリーを占領
アンボイナ事件でオランダ東インド会社とイギリス東インド会社が激突

1628年:ポルトガルがバッティカロアを占領

1635年:キャンディ王国2代目セナラト王が死去、3代目ラージャ・シンハ2世が即位

1638年:キャンディ王国がポルトガル排除のため、オランダ東インド会社と協定を結ぶ
キャンディ王国がガンノルワの戦いでポルトガルに勝利

1639年:オランダ東インド会社がバッティカロア要塞、トリコマリー要塞を占領
イギリス東インド会社がチェンナイにセント・ジョージ要塞の建設を着手

1640年:オランダ東インド会社がニゴンボ要塞とゴール要塞を占領し、総督府をゴールに置く

1641年:ロバート・ノックスがロンドンで生まれる

1644年:イギリス東インド会社がセント・ジョージ要塞を完成させる

1655年:オランダ東インド会社がカルタラ要塞を占領
ロバート・ノックスは14歳で始めてインド方面への航海を経験

1656年:オランダ東インド会社がコロンボ要塞を占領

1657年:ロバート・ノックスが初航海から帰国

1658年:オランダ東インド会社が総督府をゴールからコロンボに移す
ロバート・ノックスが2回目のインド方面への航海に出る
イギリス東インド会社のペルシア・マーチャント号の乗務員がセイロン島で抑留される。

1659年:キャンディ王国がトリンコマリーを奪還
ロバート・ノックスらの船がチェンナイでイギリスに持ち帰る積荷作業中に嵐に会い、メインマストが折れる。

1660年4月:ロバート・ノックスらはセント・ジョージ砦の責任者トーマス・チャンバースからトリンコマリーで商売をして、マストを修復するように命じられ、トリンコマリーに寄港、後にキャンディ王国の捕虜になる。
9月:ロバート・ノックス親子はバンダーラ・コスワッタ(Bandara Koswatta)に移される。

1661年2月:アン号の船長であり父のロバート・ノックス(同名)がマラリヤで死去

1663年:オランダ東インド会社がゴール要塞を拡張

1664年:フランス東インド会社、ジャノヴァ東インド会社が設立される
ラージャ・シンハ2世に対する反乱が起き、王はニランベー・ヌワラからディヤティラカ・ヌワラに移る。

1665年:オランダ東インド会社がバッティカロア要塞を拡張し、運河を建設

1666年:オランダ軍がアランダラ(Arandara)砦を建設

1670年:キャンディ軍がアランダラ砦を奪取

1671年:ポルトガル王女がイギリス王と結婚し、ボンベイがイギリスに譲渡される

1672年:フランス東インド会社がポンディシェリに商館を建設

1673年:フランス東インド会社がトリンコマリー要塞を占領

1674年:オランダ東インド会社がトリンコマリー要塞を占領
フランス東インド会社がシャンデルナゴルに商館を建設

1675年:オランダがニゴンボ要塞を拡張

1979年10月:ロバート・ノックスらがオランダ領アリップ砦に到着

1680年9月:ロバート・ノックスらがイギリスに帰国

1681年3月:ロバート・ノックスが『セイロン島史』を出版
ロバート・ノックスはイギリス東インド会社に雇用され、新造船の船長に就任
ロバート・ノックスがインドネシアのイギリス領バンテンへの航海に出発

1682年:オランダ東インド会社がバンテンからイギリス勢力を排除

1684年:ニューオリエンタルホテルがゴールに建設される
ロバート・ノックスがマダガスカル島へ奴隷貿易に向かい、セント・ヘレナ島へ

1685年:ジャワ島のバンテンを追われたイギリス東インド会社は、スマトラ島のベンクーレンを拠点とする

1687年:ラージャ・シンハ2世が死去、ジョセフ・ヴァズが来島
ロバート・ノックスがボンベイへの航海に出発

1690年:ロバート・ノックスがスマトラ島のベンクーレンでの港建設のためにマダガスカル島で奴隷を調達し、ベンクーレン、カルカッタ、セント・ジョージを回る

1693年:ロバート・ノックスが帰国

1698年:ロバート・ノックスはインドに向かい、セイロン島、コチン、スラトに行く。

1700年:ロバート・ノックスは帰国して引退。

1720年:ロバート・ノックスが死去。

スリランカの歴史については、以下のページを参照ください。

スリランカの歴史年表:建国から現在まで

東インド会社

オランダ東インド会社

ジャワ島のバタヴィア(現在のジャカルタ)に総総督府がある。

ロバートノックスは、最初にオランダのアレップ砦に逃げ込んだ。
その後、オランダのジャフナ要塞の最高司令官の船で、マンナール要塞に移動。
さらにその後、コロンボ総督府に行っている。

コロンボ総督からバタヴィアの総総督のところに送られている。

イギリス東インド会社

インドのマドラス(現在のチェンナイ)に建設したセント・ジョージ要塞を拠点とする。

ロバートノックスはセント・ジョージ要塞での交易をしていて難破した。
ロバートノックスはコロンボ総督にセント・ジョージ要塞に戻る船がないか尋ねるが、船はすぐにはなく、バタヴィアに移動。
バタヴィアからジャワ島の西にあるイギリス東インドのバンテン要塞に行き、バンテンからロンドンに向かう船で帰国している。

フランス東インド会社

1672年にポンディシェリに商館を建設し、
1673年にはトリンコマリーに王の支援を受けて要塞を建設。

ところが、トリンコマリーからポンディシェリに向かった船はオランダ東インド会社の船に撃滅され、セイロン島に残された船員が抑留される。

1674年にはオランダ東インド会社にトリンコマリー要塞を占領される。

フランス東インド会社はシャンデルナゴルに商館を建設し、セイロン島ではなく、インドに注力する。

キャンディ王国(カンダ・ウダ)の概要

王国名

主要部は稔り豊かで水利に恵まれた山間地にあるため「山間高地」を意味する「カンダ・ウダ」と呼ばれている。

山間地ではない州や郡はハットコーラレー州、ハタラコーラレー州、ヌワラカラーウィヤ州、タマンカドゥワ郡、ウェッラッサ郡、パーナマ郡。

君主

キャンディ王国3代目王のラージャシンハ2世。

父は2代目王のセナラト。
キャンディ王国初代王ウィマラダルマスーリヤの従兄弟で仏教僧であったが、先代王の死に伴い、先代王の王妃ドナ・カタリーナと結婚して王に即位した。

母のドナ・カタリーナはポルトガル領に亡命した際に、キリスト教の洗礼を受けた。

初代王ウィマラダルマスーリヤの二人の王子と、セナラトの息子であるラージャシンハの3人が王国を3つに分けて統治した。
ウィマラダルマスーリヤには3人の王子がいたが、長男(第一王子)は暗殺されている。

ウバ国を統治したのがウィマラダルマスーリヤの第二王子マーラシンハ。
マータレー国を統治したのがウィマラダルマスーリヤの第三王子ダーナパーラ。
カンダ・ウダ国を統治したのがラージャシンハ2世。

ラージャシンハ2世はウバ国、マータレー国を併合した。

ラージャシンハ2世は海岸部を領土とするポルトガルを追い出すため、オランダ東インド会社と同盟して、ポルトガルをセイロン島から駆逐することに成功。

王はポルトガル語を流暢に話すことができる。

王の選出は、ヤティ・ヌワラ郡あるいはウドゥ・ヌワラ郡の農地で働く人から家柄によって行われるという。

カフィール人の護衛

王を護衛するのはアフリカ系のカフィール人。
ポルトガルがモザンビークから連れてきた人たち。

5つの主要都市

1)マハ・ヌワラ(センカダガラ・ヌワラ)
ヤティ・ヌワラ郡にある。
ヨーロッパ人はキャンディと呼んでいる。
シンハラ人は、シンハラ人の都を意味するセンカダガラ・ヌワラ、あるいは大都会・王都を意味するマハ・ヌワラと呼ぶ。
ポルトガルによって、宮殿や寺院が度々焼かれて荒廃した。

2)ニランベー・ヌワラ
ウダ・パラタ郡にある。
王は荒廃したキャンディを離れ、ここに宮廷を置いた。
現在のNilambe Buddhist Meditation Centreのあたりと思われる。

3)アルト・ヌワラ
ビンテンナ郡にある、王の誕生地。
戦争や災害に備えて、米や塩などの大きな倉庫が置かれている。
森にはヴェッダー人が住んでいる。
現在のマヒヤンガナの近く。

4)バドゥッラ
ウワ州(かつてのウワ王国)にある、王国第二の都市。
ポルトガル人は戦争の時にここを徹底的に焼き尽くした。
宮殿はあらかた破壊され、仏塔だけが良く修復されて残っている。
牛が多く飼育されている。

5)ディヤティラカ・ヌワラ
1664年の反乱で、王はニランベー・ヌワラからここに王宮を構えた。
現在のHagurankethaあたりと思われる。

6)アヌラーダプラ
キャンディ王国の領土の北端に位置する。
かつての都で多くの遺跡が残されている荒廃した都市。
菩提樹があり、シンハラ人たちの聖地となている。
アヌラーダプラより北はタミル人が支配するワンニ地方。

7)プッタラム

プッタラムの港から王国は塩や魚の供給を受けている。
オランダ人はその突端に砦を造った。

8)レーワヤ

現在のハンバントタ。
レーワヤはシンハラ語で塩田を意味する。

現在のハンバントタには、以下のようにレーワヤの名がつく湖や道がある。
Maha Lewaya(Salt Pan)
Koholankal Lewaya
Lewaya Road
Bundala Lewaya

病気が多い地域のため、人々はカタラガマの町に鎮座する神に捧げものをする。

キャンディ王国の州・郡

■中央部
ヤティ・ヌワラ郡(下部の町の意味:現在のキャンディ)
ウドゥ・ヌワラ郡(上部の町の意味:現在のガンポラ)
ワラパネー(50の穴 or 谷の意味:現在のWalapane)
パンシヤパットゥ(500人の兵の意味:現在のPansiyagama)
ゴダパナハイ(50の乾燥地区の意味)
ヘーワーヘタ(60人の兵士の意味:現在のHewaheta)
コトマレー
ハリスパットゥ(400人の兵士の意味:現在のHarispattuwa)
トゥンパネー(150人の意味)

■北部
ヌワラカラーウィヤ州
ハットコーラレー州(7つの郡の意味)
※北部は旱魃の問題があり、悪水による病気もある。

■東部
マータレー州(3つの郡を含む)
ウバ州(王直属の32人の隊長が兵士と共に居住)
タマンカドゥワ郡(現在のポロンナルワ県Taman Kaduwa)
ビンテンナ郡(現在のバドゥッラ県Bintenne)
ウェッラッサ郡(現在のバドゥッラ県Wellassa)
パーナマ郡(現在のアンパーラ県Panama)

■西部
ウダ・パラタ郡(現在のUdapalatha)
ドロスバーゲー郡
ハタラコーラレー州(4つの郡)
トゥンコーラレー州(3つの郡)
プッタラム

自然の要害に守られた王国

自然の要害によって強固に防衛されている。

たとえいかなる道をとって王国に入ろうとしても、大きな高い山を登らなければならない。
道はたくさんがあるがいずれも狭い。

山は森や大きな岩で覆われ、道以外には登ることはほとんど不可能である。
その全ての道、麓、峠に茨で作った関門があり、常に2〜3人の男が見張っている。

全ての郡や地域は、広大な森林によって隔てられている。
森林は要塞のために保護されていて、誰も伐採してはならないことになっている。

多くの川が流れているが、岩が多く大きな滝があるため、航行は不可能である。
橋は雨季に流れが速くなることや、往来が不便な方が好都合であると王が判断し、橋はかけられていない。

ロバートノックスが住んだ村

バンダーラ・コスワッタ(Bandara Koswatta)
ハンダパーンデニ(キャンディの西)
レグンデニヤ(Legundeniya:王が罪人を送り込む場所)
エラデッタ(ウドゥヌワラ郡)

キャンディ王国の高官と地方領主

アディカール(最高判事)

最高判事のような存在で、都市行政を担い、不公正に関して人々はアディカールに訴える。
当時、アディカールは2名。
領主がいない地域はアディカールが直轄。

ディサーワ(領主)

郡や州を支配する領主・軍司令官。
王によって任命される。
兵を抱えている。
地域の納税を宮廷に納入する。
宮廷に住み、領地に戻ることや妻と暮らすことは許されていない。

コーララ・ウィダーネー(領主代理人)

領主に代わって領地を管理するディサーワの代理人。

コーララ・アッチラ(治安官)

土地の産物を徴収し、人々を集めて宮廷に送る。

カンカーナマ(監察官)

コーララ・ウィダーネーの下で全てを監視する監察官。

モホッティ・ラーラ(書記官)

軍の兵士に関する名簿・記録簿を持っている。

リヤンナー(書記係)

届いた手紙を読み、全ての仕事、宮廷宛に発送した品物の内容を把握している。

ウンディヤー(集金係)

王の金を集まる。
ウンディヤーとは塊の意味で、金を集めて一塊にすることから。

マナンナー(計量係)

王の土地へ行って、栽培されているイネの量を調べる。

寺院勢力

寺院や僧侶に属する村は、王が貴族や臣下に与えた村と同様に、高官や領主の管轄外の地域。
領地は王によって与えらたが、王よりも寺院に属する村の方が多くんあり、各寺院には莫大な歳入がある。
宮廷と同様にゾウがいて、権威を高めるのに一役買っている。

ウィハーラ(仏教寺院)

最高位の僧侶をテルナーンセと呼び、仏陀に仕えている。
テルナーンセは地主でもある。
労働はしない。

王とテルナーンセのみが持つ栄誉がある。
・頭の上にタリポットヤシの葉をかざす時に葉の広い方を前方に向けること
・どこへ行っても座る椅子にはマットと白い布が敷かれる。

デーワレー(シンハラ化したヒンドゥー寺院)

僧侶はカプワーと呼ばれる。
デワターワーと呼ばれる霊魂を祀る。
自ら家を建て、その建物はヤカー(夜叉)と呼ばれる。
農業に従事する。

コヴィル(ヒンドゥー寺院)

僧侶はヤクデッサーと呼ばれる。

他の寺院よりも格が下で付属の土地歳入はない。

キャンディ王国のカースト

違うカースト同士は婚姻はおろか、一緒に食事することもタブー。
以下、地位の高い順に紹介する。

貴族階級

ハンドゥルーと呼ばれる。
王の敬称ハンドゥルーワネに由来すると思われる。
王が側近や領主に指名するのがこの階級。
この階級の女性は上半身に衣服を身につけることができる。
下半身は女性は踵まで、男性は脛の半分ぐらいまでの衣服を身につけることができる。
シンハラ人の大部分がハンドゥルー(現在のゴイガマに相当すると思われる)
婚姻に関して幾分地位が高いハンドゥルーがいる(現在のラダラに相当すると思われる)

技工職

金細工師、鍛冶屋、大工、塗装職人など。
以前はハンドゥルーの低い方の階級で一緒の地位であったが格下げされた。
鍛冶屋は威張っている傾向がある。

ゾウ捕り・ゾウ使い

技工職よりは低いが、ハンドゥルーと同様の服装をして、椅子に座ることができる。

床屋

胴着を着ることができるが、椅子には座れない。

焼物師

胴着を着ることはできず、膝より長い衣服はダメ。

洗濯屋

ルッドーと呼ばれる。
焼物師以上のカーストの衣服を洗う

ジャグリ作り

ハンガランムと呼ばれる。

パドゥウォ

特別な職業、技能があるわけではなく、農夫や兵士として働く。

機織り

機織りに加えて占いも行い、ホロスコープを作成する。
太鼓、笛などを用いて、寺院で踊る。

籠作り

キディヨーと呼ばれる。
扇、籐の籠、籐を組み合わせて編んだ寝台や椅子を作る。

敷物作り

キンネラーと呼ばれる。

乞食

ロディヤーと呼ばれる。
猟師であるドッダ・ウェッダに由来する。

カーストには以下のページを参照ください。

『スリランカ政治とカースト – N. Q. ダヤスとその時代 1956〜1965』 川島耕司

主な果樹

この国の人は果物が熟れる前にとって、ポルトガル語でいうカレーあるいはシチューにしてしまう。

ビンロウ(アレカナッツ)

島の南と西にだけ生育し、野生のものはなく、全部が村の中に生えている。
葉鞘は米飯を食べる際の器になり、旅に行く時は食糧を包める。

アレカナッツは貨幣の役割も果たす。

ジャックフルーツ

若い実をポロス、
完全に熟す前のものをコス
完全に熟したものをワラカあるいはウェラと呼ぶ。

重要な食糧である。

その他の果樹

ジャンプー(ミズレンブ)
モラ(リュウガン)
ダン(ムラサキフトモモ)
カラワーラ・カベラ(ブニノキ)
カバラ・プク(トウダイクサ科)
パル(セイロンテツボク)
ぺーラ・ゲディ(グアバ)
ココナッツ
バナナ
オレンジ
ライム
マンゴー
パイナップル
サトウキビ
スイカ
ザクロ
ブドウ
ミラバラン類(モモタナマ)
カシュー

ココナッツをはじめ、ヤシ類については、翻訳者の濱屋さんが書いた本『ヤシ酒の科学』が参考になります。

ココヤシ・キトゥルヤシ・アラックについて理解が深まる『ヤシ酒の科学』濱屋悦次 著

重要な樹木

タリポットヤシ

葉が非常に大きくて軽く、折り畳んで運ぶことができ、旅にとても有用。
尖った方を先に頭上にかざすと、小枝の多い所や薮を通るのに好都合。
日除け・雨除けにもなり、テントとしても使える。

キトゥルヤシ

汁液はテリジャーと呼ばれ、煮詰めるとジャグリと呼ばれる黒砂糖が作れる。

シナモン

煮沸すると油が水面に浮かび、これを冷やすと白く固まり、非常に良い香りがする。
これを痛み止めの膏薬にしたり、家の中の灯火とする。

ウェラール(セイロンオリーブ)

下剤や黒の染料に使われる。

ドゥヌケイヤ・ガハ(タコノキ属あるいはパンダナス)

葉を裂いたもので敷物を編む。

ケピティヤ・ガハ(ハズ属)

中国でも薬用で使われるが毒があり、日本では毒薬あるいは劇薬に指定されている。

ラタン、ケーン(籐)

細いものをラタン、太いものをケーンと呼ぶ。
実を集めて茹で、酸味のあるポタージュを作る。

ベーテル(キンマ)

非常に好んで食べられている。

ボー・ガハ(菩提樹)

神の木。

お菓子

ケウン

米粉とジャグリで作られる揚げ菓子

アッガラー

煎った米粉、ジャグリ、胡椒、カルダモン、少量のシナモンを団子状に丸めたもの。
袋に詰めて旅行に持っていき、空腹時に食べる。

アルワ

ケウンやアッガラーと似たように作る、平な菱形のお菓子。

ヤクパティ

米粉、おろしたココナッツの果肉、ジャグリで小さな団子を作り、1個ずつ1枚の葉に置き、沸騰している湯の壺に布をかけ、その上に乗せて、壺の蒸気で団子を熱して蒸しあげる。

ピットゥ

クラッカンの粉を大きな器に入れ、水を少し振りかけて手でかき回す顆粒状になる。
沸騰している湯の壺に布を被せて縛り、その上に顆粒状に練ったクラッカン粉を、もう一つの壺が適当に被せられるように積み上げる。
布を通った蒸気がクラッカンを蒸しあげ、プディングに似たものができる。

スリランカのお菓子については、以下の記事を参照ください。

紅茶のお供に!甘い伝統的スリランカスイーツとおすすめの店を紹介

オランダ領セイロン

セイロン島の海岸部すべてを支配。

首都

コロンボ。
総督が居を構えている。
コロンボの名は、コラ(葉)ばかり茂らせ、実を着けなかった1本のマンゴー(アンバ)の木に由来する。

コロンボ総督の上には、バタヴィアの総総督がいる。

主要地域

要塞・砦を築き、それぞれに守備隊長と兵士がいて、領土を有している。

西部:コロンボ、ニゴンボ、カルピティヤ
北部:ジャフナ、マンナール島
南部:ゴール
東部:トリンコマリー、バッティカロア

ムーア人、混血人

ムーア人はヨーロッパ人と同様に土地を持たず、港に商品を運んで生計を立てている。
港にはムーア人とタミル人の混血人もいる。

タミル人の国「ワンニ」

君主:キラック・ワンニヤナル(東部の首領の意味)

オランダに貢物をし、キャンディ王国と友好関係を保ち、独立している。
オランダは軍事的に征服しようとしてきたが実現せず、キャンディ王国がオランダ領を攻撃した際はキャンディ王国に協力している。

住民はタミル人で、土地を持ち、王に租税を払っている。

本書には「ワンニ」とは明記されていませんが、ワンニ地方のことと思われる。

ヴェッダー人の居住地

主な居住地

ビンテンナ郡(現在のバドゥッラ県Bintenne)
フルル地方(現在のHurulu Wewa、Hurulu Forest Reserveの辺り)

ランバ・ウェッダ(未開のヴェッダー人)

森の中で暮らし、鹿狩りをし、鹿肉を主食とする。
弓矢の技術に熟達している。
木の洞から斧で蜂蜜をとる。
シンハラ語を話す。

開化したヴェッダー人

王との従属関係を持っていたり、シンハラ人の村と交易を行う開化したヴェッダー人もいる。

セイロン島のヨーロッパ人

キャンディ王国内

キャンディ王はヨーロッパ人たちを丁重に扱い、宮廷から、あるいは村人たちに日々の食事を用意させたり、召使いや奴隷をつけてやることも行っていた。
村人がヨーロッパ人たちの食糧を用意できない欠乏状態になった場合は、女房や子供を売ってでもヨーロッパ人への給付を用意せよ!というのが王の命令。

シンハラ人に許されていない家を白く石灰で塗ること、金・銀・絹を身につけることや、靴下・靴を履くこと、剣帯を肩から吊るすことも許されている。
シンハラ兵と違い、ヨーロッパ兵が怠惰でも、王は大目に見る。

ヨーロッパ人の中から近侍や軍隊に登用されるものもいて、キャンディ王国軍の隊長にオランダ人とポルトガル人がいる。

■ポルトガル人
50〜60人(そのうち6人か7人は現地人女性との間に生まれた人)
ポルトガル最後の砦となったコロンボをオランダ軍とキャンディ軍が包囲した際に、降伏したポルトガル人。

■オランダ人
50〜60人ほど。
オランダ大使、戦争捕虜、脱走者、オランダ本国を逃れてきた犯罪人などがいる。

■イギリス人
1658年にモルディブで難破して抑留されたペルシア・マーチャント号の乗務員13名
1660年にトリンコマリーで抑留されたアン号の乗務員16名(ロバート・ノックス親子を含む)

■フランス人
1673年、トリンコマリーに到着したフランス東インド会社はキャンディ王の支援を受けてトリンコマリーに砦を建設。
守備に何人かが残り、船隊は補給のため、フランス領東インドに向かうが、オランダ船隊に撃滅されたため、残された人が王国に住んだ。

■ジョノヴァ人
イエズス会の神父パードレ・ヴェルゴンセはジェノヴァ出身。
ヨーロッパからきた神父はパードレを含めて3人いた。

オランダ領セイロンのヨーロッパ人、シンハラ人

オランダのアレップ砦にはスコットランド人、アイルランド人がいた。

王に敵対し、ポルトガル人やオランダ人に加担したシンハラ人も多くいた。
ポルトガル領セイロン時代の軍隊や隊長にはシンハラ人がいた。

リングワ・フランカとしてのポルトガル語

オランダ総総督とイギリス人のロバートノックスの会話がポルトガル語で行われ、セイロン島の海岸部にいるシンハラ人やキャンディ王もポルトガル語を話していることから、当時、ポルトガル語がリングワ・フランカとして使われていたことが分かる。

参照)

Wikipedia:An Historical Relation of the Island Ceylon
Wikipedia:Robert Know(sailor)
ウィキペディア:ロビンソン・クルーソー
ウィキペディア:アレキサンダー・セルカーク
ウィキペディア:イギリス東インド会社
ウィキペディア:オランダ東インド会社
ウィキペディア:フランス東インド会社
Wikipedia:Rajasinha II of Kandy
ウィキペディア:アレカヤシ
ウィキペディア:ビンロウ
オリーブオイルひとまわし:ミズレンブ
ウィキペディア:リュウガン
Wikipedia:Syzygium cumini
ブニの木
ウィキペディア:トウダイグサ
ウィキペディア:モモタマナ
ウィキペディア:タコノキ属
ウィキペディア:ハズ
ウィキペディア:トウ
ウィキペディア:キンマ

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