スリランカの歴史年表:建国から現在まで
スリランカの歴史は「建国神話」、「古代の都アヌラーダプラと南インドからの侵略」、「盛況を誇った中世の都ポロンナルワ」、「パーンディヤ朝・明の鄭和・ポルトガル・オランダ・イギリスからの侵略と抵抗」、「イギリス植民地」、「独立と共和制への移行」、「スリランカ内戦」、「終戦後から現在」という歴史的な変遷をしています。
本記事では時代を24に分けて紹介しています。
目次
- 1 タンバパニ王国ウィジャヤ朝
- 2 アヌラーダプラ王国ウィジャヤ朝
- 3 アヌラーダプラ王国ウィジャヤ朝、ルフナ公国、ケラニヤ時代
- 4 アヌラーダプラ王国第1ランバカンナ朝、ルフナ公国、マヤ公国
- 5 アヌラーダプラ王国モリヤ朝、ルフナ公国、マヤ公国
- 6 アヌラーダプラ王国第2ランバカンナ朝、ルフナ公国、マヤ公国
- 6.1 691年:パッラヴァ朝の支援でマナワンナ王が即位
- 6.2 714年:唐の高僧・不空金剛が「大日経」などの経典を求めて来島
- 6.3 742年:仏僧アモガワジュラが中国に到着
- 6.4 763年:ギリハンドゥサーヤの碑文が作られる
- 6.5 7〜8世紀:イスラーム商人が来島(スリランカ・ムーアの始まり)
- 6.6 793-814年:ラーシュトラクータ朝のゴーヴィンダ3世によるセイロン遠征
- 6.7 前期パーンディヤ朝シュリーマラ・シュリーヴァラバ王によるアヌラーダプラ占領
- 6.8 862年:セーナ2世による前期パーンディヤ朝の首都マドゥライの包囲
- 6.9 920年:前期パーンディヤ朝の王がセイロンに亡命して滅亡
- 6.10 1017年:チョーラ朝がアヌラーダプラを占領
- 7 ポロンナルワ王国ウィジャヤ朝、ルフナ公国、ダッキナデサ公国
- 8 ポロンナルワ王国カリンガ朝、ルフナ公国、ダッキナデサ公国
- 9 ポロンナルワ王国抗争時代
- 10 ジャフナ王国、ダンバデニア王国シリ・サンガ・ボ朝
- 10.1 1212年:後期パーンディヤ朝がポロンナルワを占領
- 10.2 1215年:東ガンガ朝のカリンガ・マガーがポロナルワを占領、ヤールパーナム(ジャフナ)王国を建国
- 10.3 1216年:後期パーンディヤ朝がチョーラ朝に侵略
- 10.4 1220年:ウィジャヤバーフ3世がダンバデニア王国を建国
- 10.5 1247年:タンブラリンガ国がジャフナ王国を占領
- 10.6 1258年:後期パーンディヤ朝がジャフナ王国を支配
- 10.7 1271年:ブワナイカバーフ1世がヤーパフワ王国を建国
- 10.8 1277年:後期パーンディヤ朝がジャフナ王国を直接支配
- 10.9 1284年:元のクビライの使いが来島
- 10.10 1287年:イクミッシュが仏舎利を得る
- 10.11 1279年:後期パーンディヤ朝がチョーラ朝を滅ぼす
- 10.12 1292年:マルコ・ポーロが来島
- 10.13 後期パーンディヤ朝に仏歯が奪われる
- 10.14 1302年:パラークラマバーフ3世が仏歯を取り戻し、ポロンナルワを拠点とする
- 11 ジャフナ王国、クルネーガラ王国シリ・サンガ・ボ朝
- 12 ジャフナ王国、ガンポラ王国シリ・サンガ・ボ朝、ワンニ・ナードゥ、ライガマ公国
- 13 コーッテー王国シリ・サンガ・ボ朝、ジャフナ王国、センカダガラ王国
- 13.1 1412年:パラークラマバーフ6世がガンポラ王に即位
- 13.2 1415年:パラークラマバーフ6世がコーッテー王国を建国
- 13.3 1450年:パラークラマバーフ6世が全島統一
- 13.4 1463年:山岳地帯(ウダ・ラタ)のジョティヤ・シトゥの反乱
- 13.5 1466年:パラークラマバーフ6世が死去
- 13.6 1467年:ジャフナ王国がコッテ王国から独立
- 13.7 1469年:セーナーサンマタ・ウィクラマバーフがキャンディ王国を建国
- 13.8 1475年:ペグー王朝から仏僧が来島
- 13.9 1503年:アラビア人によりコーヒーが伝えられる
- 13.10 1505年:ポルトガルがゴールに漂着
- 13.11 1509年:パラークマバーフ9世がケラニヤに遷都
- 14 ポルトガル領セイルーンとシンハラ諸国との戦国時代
- 14.1 1517年:ポルトガルが軍艦で来島
- 14.2 1518年:ポルトガルがコロンボ要塞を建設
- 14.3 1520年:ヴィジャヤバーフ7世によるコロンボ要塞の包囲
- 14.4 1521年:コーッテー王国が3つに分裂
- 14.5 1524年:ポルトガルがコロンボ砦を解体
- 14.6 1537年:コーッテー王国をシーターワカ王国に侵攻
- 14.7 1538年:シーターワカ王国がライガマ公国を併合
- 14.8 1539年:シーターワカ王国とカリカットのザモリンの提携が解消
- 14.9 1543年:フランシスコ会がスリランカに到着
- 14.10 1545年:フランスコ・ザビエルがコロンボに到着
- 14.11 1546年:センカダガラ王国がポルトガルと同盟
- 14.12 1549年:仏歯がシーターワカ王国に
- 14.13 1551年:ポルトガル兵がブーワナイカバーフ7世を射殺
- 14.14 1554年:ポルトガル、コロンボに新しい要塞を建築
- 14.15 1557年:コーッテー王国のダルマパーラ王がカトリックに改宗
- 14.16 1558年:シーターワカ王国がコーッテーを包囲
- 14.17 1559年:ムッレリヤワの戦いでシーターワカ王国がポルトガルを撃退
- 14.18 1560年:ポルトガルがコーッテー王国と同盟、センカダガラ王国がジャフナ王国と同盟
- 14.19 1564年:シーターワカ王国がスリジャヤワルダナプラを占領
- 14.20 1574年:ポルトガルがシーターワカ王国を攻撃、シーターワカ王国がセンカダガラ王国に侵攻
- 14.21 1581年:シーターワカ王国のマーヤードゥンネー王死去
- 14.22 1582年:シーターワカ王国がセンカダガラ王国を支配
- 14.23 1583年:ラージャシンハ1世がヒンドゥー教に改宗
- 14.24 1587年:シーターワカ王国がコロンボを包囲、センカダガラ王国がシーターワカ王国から独立
- 14.25 1588年:ポルトガルがゴールに砦を築く
- 14.26 1591年:ポルトガルがジャフナ王国を占領
- 14.27 1592年;ウィマラ・ダルマ・スーリヤ1世がキャンディ王国を建国
- 14.28 1593年:シーターワカ王国のラージャシンハ1世が死去
- 14.29 1594年:シーターワカ王国が滅亡
- 15 ポルトガル領セイルーンとキャンディ王国ディナジャラ朝の戦い
- 15.1 1594年:ダントゥレーの戦いでキャンディ王国がポルトガルを撃退
- 15.2 仏歯寺をキャンディに創建
- 15.3 1595年:ポルトガルがゴール砦を要塞化
- 15.4 1597年:コーッテー王国が滅亡
- 15.5 1600年:ポルトガルがニゴンボに要塞を築く
- 15.6 1602年:オランダがバッティカロアに停泊し、キャンディを訪問
- 15.7 1602年:バラナの戦いで、キャンディ王国がポルトガルを撃退
- 15.8 1604年:セナラト王が即位
- 15.9 ポルトガルがコロンボからムスリムを排除
- 15.10 1612年:オランダがトリンコマリー近くに砦を建設
- 15.11 1615年:キャンディ王国がオランダにポルトガル排除を依頼
- 15.12 1616年:セブン・コーラレズ地方の王子とウバ地方の王子の反乱
- 15.13 1617年:ジャフナ王国でクーデーター、キャンディ王国がポルトガルと条約を結ぶ
- 15.14 1618年:ジャフナ王国で再度クーデータ
- 15.15 1619年:ポルトガルがジャフナ王国を滅ぼす
- 15.16 1620年:キャンディ王国とウバ地方が停戦、デンマーク東インド会社がトリンコマリーに到着
- 15.17 1623年:ポルトガルがトリンコマリーを占領
- 15.18 1628年:ポルトガルがバッティカロアを占領
- 15.19 1630年:キャンディ王国がランデニウェラの戦いでポルトガルを撃退
- 16 ポルトガル・オランダ戦争
- 17 オランダ領ゼイラン、キャンディ王国ディナジャラ朝
- 17.1 1656年:オランダがコロンボを占領、キャンディ王国がオランダとの軍事協定を破棄
- 17.2 1658年:オランダが総督府をゴールからコロンボに移す
- 17.3 1658年:オランダがジャフナとマンナールを占領
- 17.4 キャンディ王国がトリンコマリーを奪還
- 17.5 1660年:ロバート・ノックスが来島
- 17.6 1663年:オランダがゴール要塞を拡張
- 17.7 1665年:オランダがバッティカロアの要塞を拡大し運河を建設
- 17.8 1673年:フランス東インド会社がトリンコマリーの要塞を占領
- 17.9 1674年:オランダ東インド会社がトリンコマリーの要塞を占領
- 17.10 1675年:オランダがニゴンボ要塞を拡張
- 17.11 1679年:ロバート・ノックスがセイロン島を脱出
- 17.12 1681年:ロバート・ノックスがセイロン島史を出版
- 17.13 1684年:ニューオリエンタルホテルが建設される
- 17.14 1687年:ジョセフ・ヴァズが来島
- 17.15 スイスホテルが建設される
- 18 オランダ領ゼイラン、キャンディ王国ナーヤッカル朝
- 19 イギリス領セイロン、キャンディ王国ナーヤッカル朝
- 20 イギリス領セイロン
- 20.1 1815年:クイーンズホテルがイギリス領セイロン総督の邸宅に
- 20.2 1817-1818年:第3次キャンディ-イギリス戦争(ウバの反乱)
- 20.3 1818年:スイスホテルがイギリスに渡る
- 20.4 1820年:イギリスが軍用道路の建設を開始
- 20.5 1821年:ペラデニヤに植物園が開園、クルネーガラ〜キャンディ間の道路が開通
- 20.6 1824年:イギリスのコーヒー栽培開始
- 20.7 1828年:ヌワラエリヤにグランドホテルが建設
- 20.8 1832年:シンハラ王朝最後の王が死去
- 20.9 1837年:グランドオリエンタルホテルが英軍兵舎に
- 20.10 1839年:ペラデニヤ植物園に茶の木が植えられる
- 20.11 1847年:仏歯がイギリスから返還される
- 20.12 1848年:マータレーの反乱
- 20.13 1858年:モーホッティヴァッテ・クナーナンダが仏教の協会を設立
- 20.14 1853年:ペリーが来島
- 20.15 1859年:ゴールフェイスグリーンに海岸歩道が作られる
- 20.16 1861年:ハクガラ植物園が開園
- 20.17 1862年:ヒッカドゥウェ・スマンガラが仏教のパンフレットを配布
- 20.18 1864年:ラーマンニャ派が設立、コロンボ〜アンベプッサ間の鉄道開通、ゴールフェイスホテル開業、ニューオリエンタルホテル開業
- 20.19 1865年:ニューオリエンタルホテルが開業
- 20.20 1867年:ジェームス・テイラーが紅茶栽培を始める、アンベプッサ〜キャンディ間の鉄道開通
- 20.21 1868年:スリランカが世界3位のコーヒー生産国に
- 20.22 1873年:岩倉使節団がゴールに寄港、パナドゥーラ討論が開催
- 20.23 1874年:キャンディ〜ナワラピティヤ間の鉄道開通
- 20.24 1875年:ヌワラエリヤに競馬場が完成
- 20.25 1876年:ガンパハ植物園にゴムの木が植えられる、多田元吉が来島、マドラス飢饉
- 20.26 1877年:コロンボ〜パナドゥーラ間の鉄道開通、マウントラビニアホテルがホテルとして開業
- 20.27 1878年:パナドゥーラ〜カルタラ間の鉄道開通
- 20.28 1880年:神智学協会のオルコットが来島、電信制度の開始
- 20.29 1881年:ゴムの木の種が南インド、ミャンマー、マレーシアへ送られる
- 20.30 1882年:ホセ・リセール、アフマド・オラービーがセイロンへ
- 20.31 1883年:有栖川宮熾仁親王・林董がコロンボに寄港、反キリスト教暴動
- 20.32 1884年:ウェサックポーヤが公休日化、コロンボに防波堤が完成、新島襄が来島
- 20.33 1885年:シンハラ・タミル 正月を祝日に制定、ナワラピティヤ〜ナヌオヤ間の鉄道開通
- 20.34 1886年:釈興然、谷干城、柴四朗が来島、アーナンダカレッジが設立
- 20.35 1887年:釈宗演が来島、オルコットがダルマラージャカレッジを設立
- 20.36 1888年:森鴎外がコロンボに寄港
- 20.37 1889年:ヌワラエリヤにゴルフ場が完成
- 20.38 1890年:トーマス・リプトン、アントン・チェーホフが来島、カルタラ〜アルスガマ間の鉄道開通
- 20.39 1892年:アルスガマ〜コスゴダ間の鉄道開通、オルコットがマヒンダカレッジを設立
- 20.40 1893年:コロンボに競馬場が完成、コスゴダ〜アンバランゴダ間の鉄道開通
- 20.41 1894年:アンバランゴダ〜ゴール間の鉄道開通、ナヌオヤ〜バンダラウェラ間の鉄道開通
- 20.42 1895年:ゴール〜マータラ間の鉄道開通、コロンボに電気が通る
- 20.43 1896年:コロンボにゴルフ場が完成、徳富蘇峰がコロンボに寄港
- 20.44 1897年:ヴィクトリアパークが開園
- 20.45 1898年:YMBA(青年仏教会)が創設
- 20.46 1899年:コロンボに路面電車が開通
- 20.47 1900年:夏目漱石がコロンボに寄港
- 20.48 1902年:岡倉天心が来島、ダルマパーラが来日
- 20.49 1903年:藤井宣正ら大谷探検隊が来島
- 20.50 1906年:徳冨蘆花がコロンボに寄港
- 20.51 1915年:反ムーア人暴動が発生
- 20.52 1918年:YMBA全セイロン会議が設立
- 20.53 1919年:セイロン国民会議(CNC)が設立
- 20.54 1921年:皇太子裕仁親王がコロンボ、キャンディを訪問
- 20.55 1924年:スイス人女性がスイスホテルを取得、バンダラウェラ〜バドゥッラ間の鉄道開通
- 20.56 1926年:国立保健院を設立
- 20.57 1928年:ウェサックポーヤの翌日とポソンポーヤが公休日化
- 20.58 1930年:旧国会議事堂が完成
- 20.59 1931年:ドノモア憲法が公布
- 20.60 1935年:ラトマラーナ空港が完成、土地開発令が施行
- 20.61 1936年:シンハラ・マハ・サバ党が設立
- 20.62 1939年:インド系労働者の追放、セイロン・インド人会議が設立
- 20.63 1942年:日本海軍がコロンボ、トリンコマリーを空襲
- 20.64 1945年:ソールベリー委員会がスリランカを来訪
- 20.65 1946年:ソールズベリー憲法、公用語をシンハラ語・タミル語に可決、統一国民党(UNP)が結党
- 21 イギリス連邦セイロン
- 21.1 1948年:独立、セイロン国籍法が制定、タミルFP結成、ジェフリーバワがルヌガンガを購入
- 21.2 1951年:スリランカ自由党(SLFP)が創立、サンフランシスコ講和条約締結、
- 21.3 1952年:D.S.セーナーナーヤカが死亡
- 21.4 1953年:ガルオヤ入植が始まる
- 21.5 1954年:エリザベス2世が来島
- 21.6 1956年:シンハラオンリー法、仏滅2500周年、三井物産が進出
- 21.7 1957年:バンダーラナーヤカ=セルワナーヤガム協定
- 21.8 1958年:暴動、サルボダヤ・シュラマダーナ運動始める
- 21.9 1959年:ソロモン・バンダラナイケが僧侶に暗殺
- 21.10 1960年:シリマヴォ・バンダラナイケが世界初の女性首相に就任
- 21.11 1960-1969年:バワがナンバー11を改装
- 21.12 1961-1963年:バワがザギャラリーカフェを設計
- 21.13 1964年:ネルーが死去、シリマーボー=シャーストリー協定
- 21.14 1965年:スリランカ人民解放戦線(JVP)が創設
- 21.15 1966年:ポーヤ・デイが祝日に制定、マラリア対策にDDTを導入
- 21.16 1967年:バンダラナイケ国際空港が開業、バワがベントタのプロジェクトに着手
- 21.17 1969-1970年:バワがカルタラに図書館を設計
- 21.18 1971年:JVPが武装蜂起
- 22 スリランカ共和国
- 22.1 1972年:スリランカ共和国に改称、新憲法発布、TUFが結成、TELOが結成、TNTが結成
- 22.2 1973年:Ceylon Intercontinental Hotel(現:ザ・キングスバリー)が開業、ノリタケがスリランカで生産開始、
- 22.3 1973-1976年:Neptune Hotel(現:ヘリタンスアーユルヴェーダ)が建設
- 22.4 1974年:ホリデイ・イン(現:ラマダコロンボ)が開業
- 22.5 1975年:ランカオベロイ(現:シナモングラン)開業、ジャフナ市長が暗殺、EROSが結成、プランテーション国有化
- 22.6 1976年:タミル・イーラム解放の虎(LTTE)が結成、プッタラムで暴動
- 22.7 1976-1978年:バワがSeema Malakaを設計
- 22.8 1977年:ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナがUNP(統一国民党)首相に就任
- 23 スリランカ民主社会主義共和国
- 24 スリランカ内戦
- 24.1 1983年:第1次イーラム戦争
- 24.2 1984年:ガラダリホテルが開業
- 24.3 1985年:ヴィクトリアダムが完成、キリンダ漁港が完成、リバティープラザ開業、Ramada Renaissance Hotel(現:シナモンレイクサイド)開業
- 24.4 1986年:航空機・コロンボ中央電報局・列車・鉄橋・映画館・バスの爆破
- 24.5 1987年:インド・スリランカ和平協定、インド平和維持軍が進攻、ヒルトンコロンボが開業
- 24.6 1987年〜1989年:スリランカ人民解放戦線が武装蜂起
- 24.7 1988年:SLMP委員長暗殺、UNP書記長暗殺、キャンディ・ゴール・シンハラージャが世界遺産登録
- 24.8 1989年:ラナシンハ・プレマダーサが大統領に就任
- 24.9 1990年:第2次イーラム戦争開始、バワによるアヴァニカルタラ改装が中止
- 24.10 1991年:ダンブッラが世界文化遺産登録、ラジーブ・ガンディー暗殺、マジェスティックシティー開業、国防担当大臣暗殺、司令本部爆破
- 24.11 1991-1994年:バワがヘリタンスカンダラマを設計
- 24.12 1993年:プレマダーサ大統領が暗殺、尾道造船がColombo Dockyardを買収
- 24.13 1994年:大統領候補が暗殺、チャンドリカ・クマーラトゥンガが大統領に就任
- 24.14 1995年:第3次イーラム戦争開始、生活の木がTree of Lifeを開業
- 24.15 1995-1997年:バワがジェットウィングライトハウスを設計
- 24.16 1996年:スリランカがクリケットワールドカップで優勝、ODELがコロンボ7にオープン
- 24.17 1996-1998年:バワがブルーウォーターホテルを設計
- 24.18 1997-1998年:バワがレッドクリフスを設計
- 24.19 1997-2002年:バワがザラストハウスを設計
- 24.20 1997年:NTTがスリランカテレコムに出資
- 24.21 1998年:双日がAsia Power の主要株主に、仏歯寺を爆破
- 24.22 1999年:郵船ロジスティックス、YKKが進出
- 24.23 2000年:ビンドゥヌウェワで虐殺事件、インド・タミル人による暴動
- 24.24 2001年:ラニル・ウィクラマシンハが首相に就任、停戦が成立
- 24.25 2002年:ノルウェー政府が停戦仲介
- 24.26 2003年:LTTEが暫定行政機構に関する新提案を提出、クマーラトゥンガ大統領が国会を解散
- 24.27 2004年:カルナ派が分離、マヒンダ・ラージャパクシャが首相就任、クマーラトゥンガ大統領暗殺未遂スマトラ島沖地震
- 24.28 2005年:アマンリゾートがアマンガッラとアマンウェラを開業、マヒンダ・ラージャパクシャが大統領に就任
- 24.29 2006年:第4次イーラム戦争開始
- 24.30 2007年:三井物産が撤退
- 24.31 2009年:パークストリートミューズが開業
- 25 終戦から現在
- 25.1 2009年:スリランカ内戦が終結
- 25.2 2010年:マヒンダ・ラージャパクシャ大統領再選、スリランカの中央高地が世界遺産登録、ハンバントータ港が開業
- 25.3 2011年:日本の支援でスリランカ初の高速道路が開通、コロンボにダッチホスピタル開業、ネルンポクナマヒンダラージャパクサ劇場が完成
- 25.4 2012年:アッパーコトマレ水力発電が完成、コロンボレースコース開業、ウェリカダ刑務所暴動
- 25.5 2013年:マッタラ・ラージャパクシャ国際空港が開業、コロンボ-カトゥナーヤカ高速道路が開業
- 25.6 2014年:反ムスリム暴動、SGホールディングスがExpolanka買収、ICC T2ワールドカップ優勝、アーケード・インディペンデント・スクエア開業、コロンボレースコースの店舗部分が開業、シナモンレッド開業
- 25.7 2015年:マイトリーパーラー・シリセーナ大統領就任
- 25.8 2016年:洪水・地滑り、双日がAES Kelanitissaを買収
- 25.9 2017年:ゴミ山が崩壊、洪水・土砂崩れ、デング熱の大流行、マリオットウェリガマ開業、シャングリラコロンボ開業、三井物産が再進出
- 25.10 2018年:反ムスリム暴動、マリーノモール開業、ベルーナがレ・グランド開業、コロンボシティーセンター開業
- 25.11 2019年:ベリアッタまで鉄道が延伸、スリランカ連続爆破テロ事件、外環高速道路が開業、ゴーターバヤ・ラージャパクサが大統領就任、ロータスタワー完成、One Galle Face開業
- 25.12 2020年:南部高速道路が延伸、新型コロナウイルスによるロックダウン
- 25.13 2021年:スリランカへの入国が再開、日本の支援でゴールデンゲートケラニに開通
- 25.14 2022年:中央高速道路が部分開業経済危機、デモの発生
タンバパニ王国ウィジャヤ朝
紀元前543年:ウィジャヤ王子がシンハラ王朝を建国
シンハラ王朝建国の父はウィジャヤ王子とされています。
ウィジャヤ王子の祖母スッパデビは、ヴァンガ国(現:ベンガル地方)の王と、カリンガ国(現:オリッサ州)の姫との娘でした。
スッパデビは森でライオンにさらわれます。
スッパデビはライオンとの間に二人の子(男児のシンハバーフ、女児のシンハシアヴァリ)を産みます。
シンハバーフは父を殺し、シンハプラを建国します。
サンスクリット語でシンハは「ライオン」を意味し、バーフは「殺し」、プラは「町」を意味します。
シンハプラは今のオリッサ、あるいはグジャラートにあったとされています。
シンハバーフは妹のシンハシアヴァリと32人の子どもを作り、その長男がウィジャヤです。
ウィジャヤはシンハラ語で「勝利・征服」を意味します。
ウィジャヤ王子が、グラジャートを出発して、紀元前543年にスリランカに到着。
ウィジャヤ王子が到着した場所は一説によれば、ウィルパットゥ国立公園内の「Kudiramalai Point」ではないかとされています。
到着した際に砂浜に手をついたら、手のひらに銅色の砂がついていたことから、タンバ・Tamba(銅色)パニ・panni(手のひら)、セイロン島をタンバパニと名付けとされています。
これが古代ギリシャでスリランカを意味するタップロバナ(タップロボーン)の語源になったとされています。
ウィジャヤ王子は先住民のヤッカ族(ヴェッダー族のこととされている)の女性クベニ(Kuveni)と結婚し、タンバパニ王国を建国します。
クベニの宮殿跡とされる遺跡がウィルパットゥ国立公園内に残っています。
スリランカの先住民族はヘラ族と総称され、その中にヤッカ族とナーガ族がいたとされています。
スリランカの伝承医学を、ヘラ・ウェダカマ(ヘラ医療)、パーランパリカ・ウェダカマ(受け継がれる・医療)、デーシャ・チキタサ(地元の・薬)と呼ばれるのはそのためです。
シンハラ語公用語化の前に行った、古代シンハラ語を復活さえる運動は「ヘラ運動」と呼ばれました。
紀元前505年:ウパティッサヌワラを建設
ウィジャヤ王はクベニと子どもたちを追放し、南インドのパーンディヤ朝から王妃を迎え入れますが、後継者を作る前に死期をさとります。
ウィジャヤ王は南インドにいる弟のスミッタを後継者に指名します。
ところが、スミッタは自分が年老いていたため、息子のパンドゥワスを後継者に指名します。
パンドゥワスがインドから来島するまでの間に、2代目として大臣のウパティッサが臨時の王となります。
2代目の王、ウパティッサが新しい都ウパティッサヌワラを建設します。
ヌワラは都という意味のため、ウパティッサの都という意味になります。
ウパティッサヌワラは現在のプッタラムあたりにあったとされています。
プッタラムには、タンバパニ・マハ・ヴィジャラヤ(タンバパニ大寺院)があります。
紀元前504年:パンドゥワスヌワラを建設
3代目の王パンドゥワスがスリランカに到着。
都をコラムヌ川(Kolamunu Oya)の上流に近くに置き、パンドゥワスヌワラと名付けます。
現在も遺跡が残っています。
第二の都をケラニヤ川が近くを流れるケラニヤに置きます。
アヌラーダプラ王国ウィジャヤ朝
紀元前437年:アヌラーダプラを建設し、ラジャラタを建国
4代目のアバヤ王はパンドゥワスの子でした。
5代目の王、あるいはアバヤ王の摂政を、アバヤ王の弟のティッサが担います。
このティッサをパンドゥカダーヤが排除し、ラジャラタを建国します。
ラジャは「王」、ラタは「国」という意味です。
マルワツ川(Malwathu Oya)が流れる土地に都を建設し「アヌラーダプラ」と名付けます。
アヌラーダはインドの女神のことで、蓮の華・輝く星・葉で覆われた勝利の道などのシンボルとされています。
プラとは町の意味です。
第二の都をマハウェリ川(Mahaweli Ganga)が流れるポロンナルワに定めます。
アヌラーダプラはインドとの交易に便利なマンナール島に近いのが利点である一方で、インドから侵略を受けやすく、東海岸に近いポロンナルワの2つの都を状況によって使い分けたとされています。
かつての都パンドゥワスヌワラと第二の都ケラニヤは、ダッキナデサ(南という意味)と呼ばれるようになります。
紀元前255年あるいは260年:仏教伝来、上座部仏教大寺派が設立
アヌラーダプラ3代目の王(パンドゥカダーヤの孫)デーワナンピヤ・ティッサの時に、アショーカ王の長男マヒンダが来島し、仏教を伝来。
デーワは「天の・神の」を意味し、ナンピヤは「愛された」という意味です。
この「天に愛された者」を、アショーカ王が称号として用いたとされています。
ティッサは古代の王の名前によく見られますが、ティサラ(高潔な・気品のある)あるいは、ディサラナ(仏・法・僧に帰依する三帰依)からきている名前でしょう。
デーワナンピヤ・ティッサ王とマヒンダが会った場所がミヒンタレーとされ、その名はマヒンダに由来します。
その後、マヒンダの妹のサンガミッタが菩提樹(Jaya Sri Maha Bodhi)をアヌラーダプラにもたらします。
デヴァナンピヤ・ティッサ王がマハーヴィハーラを建て、仏教のサンガができます。
これが後にマハーヴィハーラ派と呼ばれるようになります。
スリランカにおける仏教の分立については、以下の書籍を参照ください。
アヌラーダプラ王国ウィジャヤ朝、ルフナ公国、ケラニヤ時代
ルフナ国を建国
デワナンピヤ・ティッサ王の次の王位は弟たちが継承することになっていました。
ところが、ティッサ王の妻は息子に王位を継承させたいと思い、ティッサ王の弟マハナガの暗殺を計画します。
暗殺のために用意した毒入りのマンゴーは、間違って息子が食べてしまい死亡します。
この事件を受けて、マハナガはアヌラーダプラからスリランカ南部に逃れ、都ティッサマハーラーマを建設し、ルフナ国を建国します。
交易地として、港町マハナガクラ(Mananagakula)も建設されます。
マハナガクラは、ワラウェ川(Walawe Ganga)河口の町アンバラントタにありました。
紀元前205年:チョーラ朝がアヌラーダプラを占領
南インドのチョーラ王朝のエッラーラがアヌラーダプラを占領し、ラジャラタを支配します。
チョーラ朝はアヌラーダプラを「アヌラーダプラム」と呼びます。
プラムとはタミル語で町という意味です。
現在もタミル語ではアヌラーダプラムと呼びます。
ウィハーラ・マハー・デーウィがケラニヤからルフナへ
マヤラタの第二の都市ケラニヤを治めていたケラニ・ティッサが娘のヴィハーラ・マハー・デーウィを生贄に船で生み出すと、船はルフナラタのキリンダに到着し、ルフナ国王カヴァン・ティッサと結婚します。
紀元前161年:ドゥトゥギャムヌ王がチョーラ朝を打倒し全島統一
ルフナラタの4代目の王カヴァン・ティッサと、ヴィハーラ・マハー・デーウィの息子ドゥトゥギャムヌがチョーラ王朝を倒して、アヌラーダプラを奪還します。
ドゥトゥギャムヌには異名「ガーミニー・アバヤ」があり、意味は「恐れを知らないガーミニー」です。
ラジャラタ、ルフナラタ、マヤラタの3カ国を統治し、スリランカを初めて全島統一します。
ドゥトゥギャムヌはアヌラーダプラに巨大な仏塔ルワンウェリサーヤ大塔を建立します。
イスルムニヤ精舎の宝物殿の中にある王族の像はドゥトゥギャムヌ王とその妻、息子のサーリヤ王子とその妻のマーラだとされています。
紀元前103年:パーンディヤ朝の長官がアヌラーダプラを占領
チョーラ王朝を打倒したドゥトゥギャムヌの弟サッダー・ティッサの4男ワラバンガー(異名:ワッタガーミニー・アバヤ)が王の時にパーンディヤ朝に敗北します。
ワラガンバー王はアヌラーダプラからダンブッラに逃亡し、匿われます。
匿われていた場所が、現在のダンブッラの石窟寺院です。
5人のパーディヤ朝の長官が収めたため、5人のドラヴィア人時代(The Five Dravidians)とも言われます。
Pulahatta:在位 紀元前103〜100年
Bahiya:在位 紀元前100〜98年
Panya Mara:在位 紀元前98〜91年
Pilaya Mara:在位 紀元前91〜90年
Dathika:在位 紀元前90〜89年
紀元前89年:ワラバンガー王がパーンディヤ朝を打倒
ワラガンバー王がパーンディヤ朝をアヌラーダプラから駆逐します。
ワラガンバー王はパーンディヤ朝に攻められアヌラーダプラから逃亡する時に、ジャイナ教の僧侶ギリが挑発した場所に、アバヤギリヴィハーラ(恐れ知らずのギリの寺院)を建立します。
アバヤは王の異名ワッタガーミニー・アバヤ(恐れ知らずのワッタガーミニー)から。
ワラガンバー王は、パーンディヤ朝との戦いの支援への返礼として、一人の仏教僧に寄進します。
世俗(王)と関係を持ったことから、マハーヴィハーラはこの仏教僧を追放します。
この仏僧の元にアバヤギリ派が設立され、マハーヴィハーラと対立していきます。
上座部仏教のマハーヴィハーラに対して、アバヤギリ派は大乗仏教を受け入れます。
ワラガンバー王が逃亡している時に匿ってくれたダンブッラに、お礼として寺院を建立します。
これが現在の世界遺産に登録されている「ダンブッラの石窟寺院」です。
ダンブッラ第二窟の名前「マハ・ラジャ・ヴィハラ」とは偉大な王の寺という意味で、アバヤ王のことです。
紀元前47年: 女王アヌラが即位
スリランカ初の女王としてアヌラが即位します。
アジア圏で初の女性君主だとも言われます。(確実にアジア初かはまだ調べられていません)
アヌラーダプラ王国第1ランバカンナ朝、ルフナ公国、マヤ公国
紀元後67-111年:ワサバ王によって第1ランバカンナ朝が始まる
スバラージャ王から殺害して、王位に就いたワサバ王によって、第一ランバカンナ朝が始まります。
113-135年:ガジャバーフ1世の治世
ガジャバーフ1世はチョーラ朝に攻め込み、先代の王の時に捕虜にされたスリランカ兵などを連れ帰えったとされる武勇で知られる王です。
また、スリランカに戻った際に、スリランカにパティニ女神の信仰を広めたとも言われています。
スリランカ陸軍「ガジャバーフ連隊」、スリランカ海軍練習艦「SLNSガジャバーフ」は、ガジャバーフ1世から取られた名前です。
277-304年:マハーセーナ王がジャータナワ派を設立
マハーセーナ王が、マハーウィハーラを破壊し、その東側にジェータワナ・ラーマヤを建立しティッサ長老に寄進。
ジェータワナ派が誕生し、大乗仏教を受け入れます。
マハーセーナ王はミンネリヤ貯水池を作ったことでも知られている王です。
304-332年:仏歯がカリンガ国から来島
シリーメーガワンナ王の時代にカリンガ国からブッタの左の仏歯がもたらされます。
カリンガ国のバーギメイは、グシーバ国との戦いに際して、もしものことがあったら、仏歯を持ってスリランカに逃げるようにと娘のヘーママーラに伝えています。
そして、実際にバーギメイは敗北し、ヘーママーラは夫のダンタとともにスリランカにやってきたと言われています。
ヘーママーラは髪を託しあげて、その中に仏歯を隠し持ってきたと伝えられています。
411年:法顕が来島(2年間滞在)
中国の僧「法顕」はアヌラーダプラのアバヤギリに滞在します。
5世紀前半:ブッダゴーサが三蔵の研究のために来島
429年:パーンディヤ朝の長官がアヌラーダプラを占領
パーディヤ朝の長官6人がアヌラーダプラを治めたことから、6人のドラヴィタ人時代(The Six Dravidians)とも言われます。
Pandu:在位429〜434年
Parindu:在位434〜437年
Khudda Parinda:在位437〜452年
Tiritara:在位452〜452年
Dathiya:在位452〜455年
Pithiya:在位455年〜455年
アヌラーダプラ王国モリヤ朝、ルフナ公国、マヤ公国
455年:ダートゥセナ王がパーンディヤ朝を倒し、モリヤ朝が始まる
ダートゥセナ王がパーンディヤ朝の長官たちを排除して、王位に就いて、モリヤ朝を創始します。
ダートゥセナ王は貯水池「カラ・ウェワ」、「アウカナブッタ」などを作ります。
息子のカーシャパ王子がダートゥセナ王を殺害。
473年:カーシャパ王がシーギリヤに遷都
カーシャパ王がシーギリヤに宮殿を建設します。
497年:モッガラーナがアヌラーダプラに遷都
カーシャパ王の弟のモッガラーナがカーシャパ王を倒し、アヌラーダプラに遷都
560-561年:キッティシリ・メーガワンナ王がワタダーゲを建てる
キッティシリ・メーガワンナ(Kittisiri Meghavanna)王がポロンナルワにワタダーゲを建立。
659年:カッサパ2世が死亡し、内紛が起きる
王カッサパ2世が亡くなり、王位継承の内紛となります。
ダトパが王に就任しマナワンナは南インドのパッラヴァ朝に逃亡します。
アヌラーダプラ王国第2ランバカンナ朝、ルフナ公国、マヤ公国
691年:パッラヴァ朝の支援でマナワンナ王が即位
パッラヴァ朝に逃亡したマナワンナは、パッラヴァ朝の王ナラシンハヴァルマン1世の宮廷に住み、北のチャールキヤ朝のプーラケーシン2世を倒すのを助けます。その見返りとして、ナラシンハヴァルマンはマナワンナに援軍を2度派遣し、アヌラーダプラを征服する手助けをしました。2度目の遠征が成功した。マナワンナはスリランカを征服し、691年に王に就任します。
パッラヴァ朝はチェンナイの南にある世界遺産「マハーバリプラム」を交易の拠点として発展した南インドの王朝であり、遺跡が作られたのがナラシンハヴァルマンの治世でした。詳しくは以下の記事をご覧ください。
714年:唐の高僧・不空金剛が「大日経」などの経典を求めて来島
742年:仏僧アモガワジュラが中国に到着
アッガボディ6世(在位741〜781年)が使者として中国に派遣した、大乗仏教の高僧アモガワジュラが中国に到着しています。
763年:ギリハンドゥサーヤの碑文が作られる
アッガボディ6世の治世23年目(763年)に作られたとされる碑文が、トリンコマリー郊外の遺跡「ギリハンドゥサーヤ」で発見されています。
碑文はパッラヴァ文字に似ているとされ、パッラヴァ朝様式の大乗仏教の仏像も発掘されています。
7〜8世紀:イスラーム商人が来島(スリランカ・ムーアの始まり)
イスラーム商人がインド洋に進出し、宝石やシナモンの取引のために南西海岸のベールワラ、ゴール、コロンボ、ニゴンボなどにやってきます。
南西海岸にムスリムのコミュニティー、スリランカ・ムーアが形成されていきます。
793-814年:ラーシュトラクータ朝のゴーヴィンダ3世によるセイロン遠征
チャンドラ『中世インドの歴史』によれば、ラーシュトラクータ朝のゴーヴィンダ3世(在位793-814年)は、インド最南端カンニヤークマリまで勢力を拡大。
さらにセイロンに遠征し、セイロン王や宰相も捕虜にして、貢納を誓わせるほどだったと記載されています。
ラーシュトラクータ朝は、世界遺産「エローラ石窟」のカイラーサナータ寺院を建造したことでも知られています。
前期パーンディヤ朝シュリーマラ・シュリーヴァラバ王によるアヌラーダプラ占領
前期パーンディヤ朝のシュリーマラ・シュリーヴァラバ王はセイロンに侵攻し、アヌラーダプラを占領。
セイロンのセーナ1世は南のマヤ・ラタに逃亡します。
862年:セーナ2世による前期パーンディヤ朝の首都マドゥライの包囲
パッラヴァ朝とラーシュトラクータ朝の連合軍が北から、
セーナ2世率いるセイロン軍が南からマドゥライを包囲し、
シュリーマラ・シュリーヴァラバ王は戦死します。
920年:前期パーンディヤ朝の王がセイロンに亡命して滅亡
チョーラ朝のバラーンタカ=チョーラ1世が前期パーンディヤ朝の首都マドゥライを陥落させます。
前期パーンディヤ朝の最後の王マーラヴァルマン・ラージャシンハ2世はセイロンに逃亡し、前期パーンディヤ朝は滅亡します。
1017年:チョーラ朝がアヌラーダプラを占領
チョーラ朝のラージャラージャ1世がアヌラーダプラを占領、ラジャラタが支配していたセイロン島の北部を支配します。
ポロンナルワ王国ウィジャヤ朝、ルフナ公国、ダッキナデサ公国
チョーラ朝のラージャンドラ1世がポロンナルワに遷都
ラージャラージャ1世の子・ラージャンドラ1世が、セイロン島の行政府をアヌラーダプラから、ラジャラタの第二の都市ポロンナルワに遷都します。
アンダマン諸島、ニコバル諸島、マレー半島、スマトラ島を影響下に置いたチョーラ朝には西海岸に近いアヌラーダプラよりも、東海岸に近いポロンナルワの方が便利だったのでしょう。
ちなみに、ポロンナルワはイギリス領セイロン総督のジェームズ・エマーソン・テナントが名付けた町の名前です。
古代には「プラスティヤ・ナガラ」と呼ばれていたのではないかと言われています。
プラスティヤとは、インドの哲人でラーマーヤナに登場するラーワナ王の祖父にあたります。
ナガラはヒンディー語で町という意味です。
ラージャラージャ1世はプラスティヤを「ジャナナサプラム(Jananathapuram)」と改称します。
ジャナナサはインドの人名で、プラムはタミル語で町を意味します。
1055年:ウィジャヤバーフ1世がチョーラ朝を倒す
ルフナラタの5代目の王カッシャパ6世はチョーラ朝をセイロン島から排除して、ポロンナルワを都とします。
カッシャパ6世は、ウィジャヤバーフ1世と改称し、都の名前を「ヴィジャヤ・ラジャ・プラ(勝利の王の町)」に変更します。
バーフは「腕」を意味し、ウィジャヤバーフで「勝利の腕」という意味になります。
ウィジャヤバーフ1世はラジャラタ、ルフナラタ、ダッキナデサの国内3カ国を統治します。
ウィジャヤバーフ1世はインドのカリンガ国の娘と結婚します。
仏教再興のため、パガン(現在のミャンマー)の王アノーヤターに支援を依頼します。
ウィジャヤバーフ1世は、スリーパーダ(アダムスピーク)の参詣道を整備したことでも知られています。
現在のスリランカ陸軍ヴィジャヤバフ歩兵連隊の名は、ヴィジャヤバーフ1世から取られています。
1110年:ジャヤバーフ1世が即位
ウィジャヤバーフ1世の弟・ジャヤバーフ1世が即位します。
ウィジャヤバーフ1世の子・ウィクラマバーフ1世はルフナ国の王になります。
1111年:ウィクラマバーフ1世が即位
ウィジャヤバーフ1世の子・ヴィクラマバーフ1世がポロンナルワの王に即位します。
1131年:ガジャバーフ2世が即位
ダッキナデサから出たパラークラバーフ1世との戦いに敗北します。
1153年:パラークラマバーフ1世が全島統一
パラークラマバーフ1世は叔父からダッキナデサ(マヤラタ)の王位を継ぎます。
その後、マラヤラタ(山岳地帯)を制圧し、マラヤラタの軍隊を掌握します。
マラヤとは山岳のことを意味し、イギリス領マラヤの語源と同じです。
パラークラマバーフ1世は、ラジャラタのガジャバーフ2世を倒して、ラジャラタの王に即位します。
パラークラマは「勇敢・武勇・偉業」を意味します。
続いてルフナラタの王にも即位し、スリランカ全島を統一します。
そして、ポロンナルワ時代の絶盛期を迎えます。
パラークラマバーフ1世は巨大な貯水池「パラークマサムドラ(パラークマの海)」を造ります。
宮殿、アタダーゲ、その他多くの建物をポロンナルワに建造します。
ラマンナ(ミャンマー)、南インドのチョーラ朝、パーンディヤ朝とも戦い、インドのラーメーシュワラムを支配します。
ポロンナルワ王国カリンガ朝、ルフナ公国、ダッキナデサ公国
1187年:ニッサンカ・マッラによる全島統治
インドのカリンガ国出身のニッサンカ王の時代は経済的にも政治的にも安定した時代だったと言われています。
ニッサンカは、ニッサ(相応しい、適切なもの)、あるいはニッサラナ(解脱、涅槃)を意味する言葉からきた名前でしょう。
マッラは、「袋・包み・宝石袋・財布」などの意味があります。
ニッサンカ王はラマンナ(ミャンマー)、カンボジア 、ラーメーシュワラム(南インド)と友好関係を作ります。
ニッサンカ王はカリンガ国の王族でシンハプラ生まれ(初代ヴィジャヤ王の父シンハバーフが建国した国)だと言ったとされています。
熱心な仏教徒だったニッサンカ王は、ニッサンカ・マーラの沐浴場、ストーン・ブック、ハタターゲ、ニッサンカ・パレス、ニッサンカ・パビリオンなどをポロンナルワに建造します。
ダンブッラの石窟寺院に金メッキを施し、仏像70体を寄進します。
1190年:後期パーンディヤ朝が建国
ジャターヴァルマン・クラーシェカラがパーンディヤ朝を再建します。
これ以降、ポロンナルワ王国は後期パーンディヤ朝からの侵略を受けるようになります。
1196年:ニッサンカ・マッラ王死去
ニッサンカ・マッラの後、後継者争いで、ポロンナルワ建国のヴィジャヤバーフ家、ニッサンカ・マッラのカリンガ家、軍の3者で争い、王国は衰退に向かいます。
ニッサンカ・マッラの息子のヴィラ・バーフ1世が即位。
その後すぐにヴィラ・バーフ1世の弟のウィクラマバーフ1世に変わりますが、
さらにその後、ニッサンカ・マーラの甥のチョダガンガが即位します。
ポロンナルワ王国抗争時代
1197年:ウィジャヤバーフ家の女王リラヴァティが即位
パラークラマバーフ1世の王妃リラヴァティが即位します。
1200年:カリンガ家のサハッサ・マッラが即位
ニッサンカ・マッラの弟のサハッサ・マッラが即位します。
1202年にはニッサンカ・マッラの女王カルヤナヴァティが即位します。
1208年:軍によってダルマソカが即位
軍の総司令官アヤスマンタによって、ダルマソカが即位します。
翌年、ダルマソカの父アニカンガが即位します。
1209年:ウィジャヤバーフ家のリラヴァティが再即位
1210年:タミル人の軍人ロキッサラが即位
タミル人で陸軍の将官リラヴァティが即位します。
1211年:ウィジャヤバーフ家のリラヴァティが再々即位
ジャフナ王国、ダンバデニア王国シリ・サンガ・ボ朝
1212年:後期パーンディヤ朝がポロンナルワを占領
パーンディヤ朝のパラークラマ・パーンディヤ2世がポロンナルワを占領します。
1215年:東ガンガ朝のカリンガ・マガーがポロナルワを占領、ヤールパーナム(ジャフナ)王国を建国
東ガンガ朝の都カリンガから来たカリンガ・マガーがパラクラマ・パーンディヤ2世の後を継ぎます。
その後、カリンガ・マガーは拠点をジャフナに移し、ジャフナ王国(ヤールパーナム王国)を建国します。
ジャフナは英語名で、タミル語ではヤールパーナム(Yalppanam)と言います。
カリンガ・マガーに対抗したのが以下の4人です。
-ミニペ(Minipe)にあるガンデニヤ(Gandeniya)の岩の上に要塞を建設したサンカ(Sanka)将軍
-ヤーパフワの岩山の上に要塞を建設したスブハ(Subha)将軍
-ゴヴィンダ・マラヤ(Govinda Malaya)の岩山の上に要塞を建設したアディパダ・ブワネカバーフ(Adipada Buwanekabahu)
-ヴァンニ(Vanni)の首長であったヴィジャヤバーフ3世。
カリンガ・マガーの侵攻から仏歯を守るため、仏教僧らはコトゥマレー(Kotmale)に仏歯に移します。
1216年:後期パーンディヤ朝がチョーラ朝に侵略
チョーラ朝の影響下にあった後期パーンディヤ朝がチョーラ朝を侵略。
1220年:ウィジャヤバーフ3世がダンバデニア王国を建国
ウィジャヤバーフ3世がダンバデニアに、ダンバデニア王国を建国。
スリランカは当時、ピヒティ(Pihiti)、ルフナ、マヤ(Maya)の3つの地域に分かれていましたが、ヴィジャヤバーフ3世は湿潤地帯にあたるマヤ地方を統一しました。
ダンバは「断崖・絶壁」、デニアは「谷・沼地・荒地」を意味します。
ウィジャヤバーフ3世は仏歯をコトゥマレーから、ケガーッラ県のベリンガ寺院に移します。
1247年:タンブラリンガ国がジャフナ王国を占領
現在のタイ・マレーシア・スマトラ島を拠点としたタンブラリンガ国のチャンドラバーヌ王がヤールパーナム(ジャフナ)を占領。
タンブラリンガ国の支配下になった際にマレー人やジャワ人が流入し、ヤールパーナムは「ジャワ・パッタナム(Java Pattanam)」と呼ばれるようになります。
パッタナムは、港町を意味し、インドのケララ州にもある地名です。
ジャワ・パッタナムが英語名ジャフナの語源です。
ヤールは、古代タミルの竪琴「ヤール」のことで、ヤール演奏者に王がその土地を与えたという逸話から、ヤール・パッタナム(ヤールの港)となり、これがタミル語名のヤールパーナムの語源だとされています。
1258年:後期パーンディヤ朝がジャフナ王国を支配
ダンバデニア王国のパラークラマバーフ2世は、タンブラリンガ国のチャンドラバーヌとの戦いに勝利します。
後期パーンディヤ朝がジャフナを支配するようになり、チャンドラバーヌの子・サバカンメインダンが、後期パーンディヤ朝支配の元にタンブラリンガ国及びジャフナ王国の王に即位します。
1271年:ブワナイカバーフ1世がヤーパフワ王国を建国
ブワナイカバーフ1世はヤーパフワの岩山の要塞に遷都します。ヤーパフワは要塞を建設したスブハ将軍に因みに、スブハギリ(Subhagiri)とも言われます。
ブワナイカバーフ1世と、エジプトのマムルーク朝と交易していた記録が残されています。
1277年:後期パーンディヤ朝がジャフナ王国を直接支配
後期パーンディヤ朝はジャフナ王国を攻め、サバカンメインダン王を殺害。
後期パーンディヤ朝の大臣だったクラセカラ・シンカイアリヤンがジャフナ王に即位します。
後期パーンディヤ朝のマラヴァルマン・クラセカラ・パーンディヤン1世はシンハラ王朝の都ヤーパフワを攻撃します。
1284年:元のクビライの使いが来島
『元史』巻131「亦黒迷失伝」によれば、クビライの使節イクミッシュが来島し、クビライに仏舎利・仏鉢について報告したといいます。
1287年:イクミッシュが仏舎利を得る
元のクビライが後期パーンディヤ朝に送った使節イクミッシュに、セイロン島の仏舎利・仏鉢を持ち帰るように命じ、持ち帰ったと『元史』巻131「亦黒迷失伝」に記載されているとのこと。
1279年:後期パーンディヤ朝がチョーラ朝を滅ぼす
後期パーンディヤ朝のマラヴァルマン・クラセカラ・パーンディヤン1世はチョーラ朝を滅ぼします。
1292年:マルコ・ポーロが来島
元からフレグ・ウルス(イルハン朝)に向かう途上のマルコ・ポーロがスリランカに来島。
後期パーンディヤ朝に仏歯が奪われる
後期パーンディヤ朝のチャクラヴァーティ王にヤーパフワが攻められ、仏歯が奪い去られます。
1302年:パラークラマバーフ3世が仏歯を取り戻し、ポロンナルワを拠点とする
パラークラマバーフ3世は仏歯を取り戻して、ポロンナルワの仏歯寺に仏歯を祀ります。
そして、ポロンナルワを拠点とします。
ポロンナルワのティバンカイメージハウスの壁画はパラークマバーフ3世の命によって、ポロンナルワの再興のため作られたとされています。
ポロンナルワのランカティラカもパラークラマ・バーフ3世によるものとされています。
ジャフナ王国、クルネーガラ王国シリ・サンガ・ボ朝
1310年:ブワネカバーフ2世がクルネーガラに遷都
1323年:ジャフナ王国が独立
ジャフナ王国、ガンポラ王国シリ・サンガ・ボ朝、ワンニ・ナードゥ、ライガマ公国
1344年:ブワネカバーフ4世がガンポラに遷都
ブワネカバーフ4世がガンポラに遷都し、ガンポラ王国を建国します。
ブワネカバーフ4世の治世に建設された寺院がガンポラ郊外に残されています。
1344年:イーブン・バトゥータが来島
イーブン・バトゥータは、スリランカ最南端の町ドンドラにあるテナヴァラム寺、アダムスピークを訪れ、『三大陸周遊記』に記しています。
1357-1374年頃:ガンポラに仏歯を移動、コーッテー要塞、キャンディの町を築く
ブワネカバーフ4世の息子ウィクラマバーフ3世は、クルネーガラからガンポラに仏歯を移動します。
ウィクラマバーフ3世の治世に建てられたのがエンベッカ寺院です。
ウィクラマバーフ3世は、現在のキャンディに都市「センカダガラプラ(Senkadagalapura)」を建設します。
ウィクラマバーフ3世の大臣アラケスヴァラが現在のコーッテーの地に要塞を建設します。要塞の名前を「勝利をもたらす都市」という意味を持つ「ジャヤワルダナプラ」と名付けとされています。その後、アラケスヴァラの血をひくガンポラのアラガッコナラ王は、タミル語の要塞という言葉に由来するコーッテーと名付けたとされています。これが由来して、後にスリジャヤワルダナプラコーッテーと呼ばれるようになります。
1398年:ヴィジャヤナガル王国がスリランカ北部に遠征
1409年:明の鄭和がゴールに石碑を建立
鄭和は第2次航海の帰路で、ゴールに漢文・タミル語・ペルシア語の3ヶ国語で石碑を建てています。
1411年:明の鄭和がヴィラ・アラケスヴァラ王を明に連行
鄭和の第3次航海の帰路、コロンボに停泊していた鄭和艦隊を、ガンポラのヴィラ・アラケスヴァラ王が攻撃。
鄭和は反撃してコッテの都まで攻め、ヴィラ・アラケスヴァラを明に連行し、王位を剥奪します。
この際、鄭和は仏歯も持ち出そうとしたそうですが、それは免れています。
コーッテー王国シリ・サンガ・ボ朝、ジャフナ王国、センカダガラ王国
1412年:パラークラマバーフ6世がガンポラ王に即位
明と同盟していたライガマ公国のパラクラマバーフ6世がガンポラ王国の王として認められます。パラクラマバーフ6世は、北に遠征して、ワンニ・ナードゥワを支配します。
1415年:パラークラマバーフ6世がコーッテー王国を建国
パラークラマバーフ6世は、コーッテーの要塞内に宮殿ジャヤワルダナプラコーッテーを建設し、コーッテー王国を建国。
南インドのヴィジャヤナガル王国の侵攻に対して反撃し、マンナールから南インドまで遠征し、撃退しています。
1450年:パラークラマバーフ6世が全島統一
パラークラマバーフ6世は息子のサプマル王子をジャフナに派遣し、サプマル王子がジャフナ王国を破り、征服します。これによって、コーッテー王国は全島統一を果します。
1463年:山岳地帯(ウダ・ラタ)のジョティヤ・シトゥの反乱
ウダ・ラタの統治者ジョティヤ・シトゥが反乱します。反乱を鎮めたパラークラマバーフ6世は、ガンポラに残っていた王族にウダ・ラタ地方の統治を任せます。
1466年:パラークラマバーフ6世が死去
1467年:ジャフナ王国がコッテ王国から独立
パラークラマバーフ6世の死後、王位継承戦が起こります。その内紛の間に、北部がジャフナ王国として再独立します。
1469年:セーナーサンマタ・ウィクラマバーフがキャンディ王国を建国
ウダ・ラタは自立を宣言し、ガンポラ王国のウィクラマバーフ3世が建設したセンカダカラプラを都にして独立します。
1475年:ペグー王朝から仏僧が来島
ペグー王朝の王ダンマゼーディーがセイロン島に仏僧22名を送り、ケラニ(カルヤーニ)川で具足戒を受けます。
ペグー王権はカルヤーニ碑文を作ります。
1503年:アラビア人によりコーヒーが伝えられる
1505年:ポルトガルがゴールに漂着
ロレンソ・デ・アルメイダ(ポルトガル領インドの初代総督ドン・フランシス・デ・アルメイダの息子)が、イスラム商人を航行を阻止するため8隻の船団でコーチンからモルディブに向かう途中に嵐に会い、ゴール湾に漂着、スリランカを発見します。
ゴールで水と食糧を補給したのちに、コーッテ王国の首都に一番近い港であるコロンボから上陸します。
ジャフナ王国、キャンディ王国と緊張関係にあったコーッテ王国に対して、ポルトガルが軍事的に支援することと引き換えにシナモン貿易の権益を得る提案をします。
それまでシナモンはイスラム商人によって握られていました。
1509年:パラークマバーフ9世がケラニヤに遷都
ポルトガル領セイルーンとシンハラ諸国との戦国時代
1517年:ポルトガルが軍艦で来島
ポルトガルの司令官ローポ・デ・ソアレス・アルベルガリアは、コーチンから17隻、ゴアから10隻の軍艦でコロンボに向かい、要塞建設の許可をコーッテー王国に要求します。
1518年:ポルトガルがコロンボ要塞を建設
ポルトガルは、セイロン島をセイルーン(Ceilão)と呼びます。
ヴェネチア共和国の地図製作者ジャコモ・ガスタルディが作成した1546年の世界地図には、スリランカの北西部に「Ceilam」と書かれていますが、ポルトガル語読みすると「Ceilão」になったのでしょう。
タミル語でスリランカをイーラム(Elam)と呼びますが、語源は同じでしょう。
ポルトガルはコーッテー王国の王パラークラマバーフ8世よりコロンボの港の端に要塞を建設する許可を得ます。
パラークラマバーフ8世より許可を受けてコロンボを貿易の拠点としていたイスラム商人と仏教僧侶が武装してポルトガルを襲うも、ポルトガル船団の攻撃に歯が立たなかったといいます。
1520年:ヴィジャヤバーフ7世によるコロンボ要塞の包囲
パラークラマバーフ8世の死後に王になったヴィジャヤバーフ7世は、6か月に渡ってコロンボ要塞を包囲しますが、ゴアからのポルトガル援軍がコロンボに到着し、撤退します。
1521年:コーッテー王国が3つに分裂
ヴィジャヤバーフ7世の第二王妃が、自分の子に王位を継承させようとします。第一王妃の3人の息子は、キャンディ王国の支援を受けて王であるヴィジャヤバーフ7世を暗殺します。そして、王国は3人の息子によって3つに分裂します。
長男ブワネカバーフ7世がコーッテー王国
次男パララジャシンハがライガマ公国
三男マーヤードゥンネーがシーターワカ王国を統治します。
この3つの中で、最も強力になるのがシーターワカ王国です。シーターワカ王国はインドのケーララ地方のカリカットのヒンドゥー領主ザモリンと同盟を結び、ポルトガルと敵対します。一方、コーッテー王国はポルトガルと同盟します。
1524年:ポルトガルがコロンボ砦を解体
シンハラ人に包囲され、ポルトガルはコロンボ要塞を解体します。
1537年:コーッテー王国をシーターワカ王国に侵攻
シーターワカ王国のマーヤードゥンネーは、コーッテー王国を侵攻するも、ゴアのポルトガル軍援軍を支援もあってコーッテー王国のブワネカバーフはシーターワカ王国を撃退します。
1538年:シーターワカ王国がライガマ公国を併合
ライガマ・バンダラが死亡したことを受けて、シーターワカ王国がライガマ公国を併合。
シーターワカ王国が勢力を伸ばします。
1539年:シーターワカ王国とカリカットのザモリンの提携が解消
シーターワカ王国はポルトガルを攻めますが、ポルトガルがシーターワカ王国を撃退。
ポルトガルは、シーターワカ王国を支援していたカリカットのザモリンの将軍を拘束し、ザモリンとシーターワカ王国の協力関係を解消させます。
1543年:フランシスコ会がスリランカに到着
1545年:フランスコ・ザビエルがコロンボに到着
1546年:センカダガラ王国がポルトガルと同盟
1549年:仏歯がシーターワカ王国に
仏歯を管理するディヤワダナ・ニラメ(Diyawadana Nilame)により、仏歯がコーッテー王国からシーターワカ王国に移されます。
マーヤードゥンネー王は、仏歯をデルガムワ寺(Delgamuwa Rajamaha Viharaya)に保管します。
1551年:ポルトガル兵がブーワナイカバーフ7世を射殺
ポルトガル兵がコーッテー王のブーワナイカバーフ7世を射殺します。誤射だったとされています。
そして、ポルトガルは王位継承者は、孫のダルマパーラであるとします。
1554年:ポルトガル、コロンボに新しい要塞を建築
1557年:コーッテー王国のダルマパーラ王がカトリックに改宗
コーッテー王国を支援していたポルトガルの影響で、ダルマパーラ王はカトリックに改宗。
1558年:シーターワカ王国がコーッテーを包囲
シーターワカ王国のマーヤードゥンネー王は5万人を率いて、1557年11月から1558年11月にかけた12か月間のコーッテーを包囲します。
ドン・アフォンソ・ペレイラ・デ・ラセルダ大尉率いるポルトガルとコーッテー王国の連合軍は、マンナールからのポルトガル援軍の支援を受けて、包囲者を撤退させることに成功します。
1559年:ムッレリヤワの戦いでシーターワカ王国がポルトガルを撃退
ポルトガルがシーターワカ王国を攻めたムッレリヤワの戦いは、初戦はポルトガルが優位にすすめ、シーターワカ王国は一度撤退します。
シーターワカ王国は、追ってきたポルトガル軍を迎え撃つ二戦目で勝利して、ポルトガル軍を撃退します。
1560年:ポルトガルがコーッテー王国と同盟、センカダガラ王国がジャフナ王国と同盟
シーターワカ王国を恐れて、センカダガラの王カラッリヤッデ・クマラ・バンダラ王は娘クスマサナ・デヴィを連れて、ジャフナ王国に行きます。
そして、ポルトガルの洗礼を受けて、クスマサナ・デヴィはドナ・カトリーナと改称し、夫のヤマシンハはドン・フィリップと改称します。
1564年:シーターワカ王国がスリジャヤワルダナプラを占領
シーターワカ王国はコーッテー王国とコロンボを包囲し、コーッテー王国とポルトガルは、コーッテー王国の首都スリジャヤワルダナプラを放棄します。
コーッテー王国の領土の大半がシーターワカ王国のものとなり、 シーターワカ王国はワッタラ(Wattala)、ナガラガマ( Nagalagama)、 マパネ( Mapane)に駐屯地を設置します。
1574年:ポルトガルがシーターワカ王国を攻撃、シーターワカ王国がセンカダガラ王国に侵攻
ニゴンボからゴールにかけた西海岸の制海権を有していたポルトガル軍は、シーターワカ王国のナガラガマと マパネの駐屯地を排除し、チラウ、ネゴンボ、カルタラ、ベルーワラ、ウェリガマで略奪を行います。
シーターワカ王国はセンカダガラ王国に侵攻します。
1581年:シーターワカ王国のマーヤードゥンネー王死去
1582年:シーターワカ王国がセンカダガラ王国を支配
シーターワカ王国を継いだラジャシンハ1世はセンカダガラ王国に侵攻します。
センカダガラ王国の王カラリヤッデ・バンダラは、妻、次女(クスマサナ・デヴィ)、甥(ヤマシンゲ・バンダラ)とともに逃亡しますが、王と妻は道中で死去。クスマサナ・デヴィとヤマシンゲ・バンダラはマンナールのポルトガル要塞に逃げ込みます。
ラージャシンハ1世は、ハタラ・コーラレ(現在のケーガッラあたり)の貴族であるガラゴダ・ウィーラスンダラ・バンダラをセンカダガラ王国の新しい王に即位させます。
ところが、ラージャシンハ1世はガラゴダ・ウィーラスンダラ・バンダラを不審に思うようになり、殺害してしまいます。
ガラゴダ・ウィーラスンダラ・バンダラの子コナップバンダラは、キャンディからコロンボのポルトガル要塞に逃亡します。そして、インドのゴアに送られ、洗礼を受けてドン・ジョアン・デ・オーストリアと名乗るようになります。
1583年:ラージャシンハ1世がヒンドゥー教に改宗
ラージャシンハ1世は、カリカットのヒンドゥー領主ザモリンとの同盟関係から、ザモリンの娘と結婚し、ヒンドゥー教に改宗します。
1587年:シーターワカ王国がコロンボを包囲、センカダガラ王国がシーターワカ王国から独立
1587年6月から1588年2月にかけて、シーターワカ王国のラージャシンハ1世はコロンボのマーリガーカンダに布陣し、コロンボを包囲し、何度も攻撃を仕掛けるも、ポルトガルの堅い守りと、ゴアからのポルトガル援軍を前に敗北します。
ポルトガルに敗北して、損害がでたシーターワカ王国からセンカダガラ王国が独立します。
1588年:ポルトガルがゴールに砦を築く
1591年:ポルトガルがジャフナ王国を占領
ポルトガルはジャフナ王国に侵攻し、プヴィラヤ・パンダラム王を退位させ殺害し、その息子エティリマナ・シンカムを新しい王に即位させます。
1592年;ウィマラ・ダルマ・スーリヤ1世がキャンディ王国を建国
センカダガラ王国の王が亡くなったことを機に、ポルトガルはカトリック教徒になったドン・ジョアン・デ・オーストリアをセンカダガラ王に即位させ、支配しようとします。
ところが、ドン・ジョアン・デ・オーストリアは王位に就くと、ウィマラ・ダルマ・スーリヤ1世と名乗り、仏教徒となり、ウダ・ラタ国(キャンディ王国)を建国し、ポルトガルに反旗を翻します。
1593年:シーターワカ王国のラージャシンハ1世が死去
ラージャシンハ1世はキャンディ王国に侵攻するも撃退されます。
ラージャシンハ1世は退却時に怪我を負って、その傷が元で死亡します。
1594年:シーターワカ王国が滅亡
ラージャシンハ1世の王位継承者の一人であるジャヤヴィラ・バンダラ・ムダリはコーッテー王国に亡命。
ジャヤヴィラ・バンダラ・ムダリの支援を受けて、ポルトガル軍大尉ペドロ・ホメム・ペレイラはポルトガル人950人、シンハラ人6000人の軍勢でシーターワカ王国を侵攻。
シーターワカ王国のカドゥウェラ要塞、ラクガハワッタ、マルワナ要塞、グルベウィラと侵攻し、シーターワカ王国は敗北を重ね、シーターワカ要塞が陥落し、シーターワカ王国は滅亡します。
ポルトガルはシーターワカ王国が占領していたライガマ公国の土地も支配下に治めます。
ポルトガル領セイルーンとキャンディ王国ディナジャラ朝の戦い
1594年:ダントゥレーの戦いでキャンディ王国がポルトガルを撃退
ポルトガルはドナ・カトリーナを王位に就けようとキャンディに攻め入り、ダントゥレー(Danthure)で戦闘となります。
キャンディ王国はポルトガルを撃退し、ウィマラ・ダルマ・スーリヤ1世は、ドナ・カトリーナを捕虜にした後に、王妃クスマサナ・デヴィとして迎えます
ウィマラ・ダルマ・スーリヤ1世は、センカダガラ王国の王の血統であるドナ・カトリーナを妃とすることで、王としての正当性を手にします。
仏歯寺をキャンディに創建
ウィマラ・ダルマ・スーリヤ1世は、キャンディに仏歯寺を創建し、シーターワカ王国がデルガムワ・ラジャマハ寺院で保管していた仏歯をキャンディにうつします。
また、ウィマラ・ダルマ・スーリヤ1世は仏教再興のために下ビルマに大臣を派遣しています。
1595年:ポルトガルがゴール砦を要塞化
ポルトガルのジェロニモ・デ・アゼヴェドがゴールの要塞化に着手します。
現場の責任者はカトリックに改宗したシンハラ人のドン・フェルナンド・サマラコーネ。
同年、ポルトガルはコーッテー王国と同盟し、キャンディ王国を攻撃しています。
1597年:コーッテー王国が滅亡
コーッテー王国の王ダルマパーラが死去。
ダルマパーラはコーッテー王国はポルトガルに譲渡するという遺言していたため、ポルトガルが領土を継承します。
1600年:ポルトガルがニゴンボに要塞を築く
1602年:オランダがバッティカロアに停泊し、キャンディを訪問
オランダのスピルベルゲン提督が、胡椒とシナモンの交易権を得る代わりに、ポルトガルを排除し、占領地をキャンディに返還することを約束します。
この頃に、イエズス会、アグスチノ会、ドミニコ会がセイロン島に進出しています。
1602年:バラナの戦いで、キャンディ王国がポルトガルを撃退
1603年のキャンディ王国のバラナ要塞付近でポルトガル軍とキャンディ王国軍が衝突。
キャンディ王国はポルトガルを撃退します。
1604年:セナラト王が即位
1604年にウィマラ・ダルマ・スーリヤ1世が亡くなり、従兄弟のセナラト・バンダラが即位します。
セナラト・バンダラも王家の血統ではなかったからか、クスマサナ・デヴィと結婚します。
ポルトガルがコロンボからムスリムを排除
キャンディ王国の海洋貿易を担っていたムスリムを、ポルトガルがコロンボから排除します。
ムスリムがキャンディに避難します。
キャンディの王は、王の農場であったカルムナイに8,000人、カッタンクディに4,000人を入植させます。
このため、現在もスリランカ内で最もムスリムが多い地域となっています。
1612年:オランダがトリンコマリー近くに砦を建設
オランダの使者がキャンディ王国に到着。
オランダ軍はトリンコマリー近くのコッチアールに砦を構築。
しかし、ポルトガルのシモン・コレアの軍によってオランダ軍は全滅。
1615年:キャンディ王国がオランダにポルトガル排除を依頼
セナラト王はオランダにポルトガルの排除を要請します。
オランダのボッシュホーデルはオランダ本国が応じなかったため、デンマーク王の支援を取り付けます。
ところがボッシュホーデルは航海中に死去します。
1616年:セブン・コーラレズ地方の王子とウバ地方の王子の反乱
サバラガムワの農民が、ポルトガルの税の取り立てや仏教への弾圧に対して反乱を起こします。
これに乗じて、セブン・コーラレズ地方の王子ニカピティヤ・バンダラはサバラガムワを平定します。
ウバの王子クルビタ・ララは、ポルトガルと停戦しようとするセナラト王に憤慨し、ニカピティヤ・バンダラと手を組み、キャンディ王国に反旗を翻し、スリランカ南海岸を支配します。
クルビタ・ララは、インドからデナワカのマヤドゥンネをキャンディ王にしようと試みます。
1617年:ジャフナ王国でクーデーター、キャンディ王国がポルトガルと条約を結ぶ
ジャフナ王国でカンキリ1世がクーデターによって王位を簒奪。カンキリ1世はポルトガルと友好関係を結びます。ジャフナ王国が支援していたセブン・コーラレズ地方にポルトガルは侵攻し占領。ニカピティヤ・バンダラはワンニ地方に逃亡します。
キャンディのセナラト王は、オランダからの支援を得られない上に、スリランカ南部を治めるクルビタ・ララを脅威に感じ、ポルトガルと条約を結びます。
1618年:ジャフナ王国で再度クーデータ
ジャフナ王国で、キリスト教徒のムダリヤールのドム・ペドロとドム・ルイスが反乱を起こし、カンキリ1世を王位から退かせます。
インドのタンジョールのナヤックたちから支援を得たカンキリ1世は、ドム・ペドロとドム・ルイスらの反乱を鎮めます。
1619年:ポルトガルがジャフナ王国を滅ぼす
ポルトガルは混乱するジャフナ王国に侵攻し、首都ナルールを陥落させてカンキリ1世を排除。ジャフナ王国をポルトガル王国に併合します。
ポルトガルは王国の首都をナルールから沿岸のジャフナに移転します。
1620年:キャンディ王国とウバ地方が停戦、デンマーク東インド会社がトリンコマリーに到着
キャンディ王セナラットは、ウバ地方のクルビタ・ララを後にキャンディ王にすると約束して停戦を実現します。その後、ポルトガルはスリランカ南東部を攻め、クルビタ・ララをパナマでとらえて殺害。デナワカのマヤドゥンネはインドに帰国し、ウバ地方の反乱は終わります。
デンマーク東インド会社がトリンコマリーに到着し、セナラット王はポルトガル排除のため、デンマーク東インド会社にトリンコマリー港の使用を認めます。ところが、セナラットはわずか2週間でデンマークを排除したため、デンマーク東インド会社は拠点をインドのタンジョールにあるトランケバルに変更し、要塞を建設します。
1623年:ポルトガルがトリンコマリーを占領
1628年:ポルトガルがバッティカロアを占領
1630年:キャンディ王国がランデニウェラの戦いでポルトガルを撃退
ポルトガル・オランダ戦争
1638年:キャンディ王国がガンノルワの戦いでポルトガルを撃退、オランダ東インド会社とキャンディ王国と軍事協定
3月28日の「ガンノルワの戦い」で、キャンディ王国がポルトガルを撃退します。
5月23日に、キャンディ王国のラージャ・シンハ2世はオランダ東インド会社と軍事協定を結びます。
協定の内容は以下の通りです。
・オランダがポルトガル排除のために軍を派遣する。
・キャンディ王国がオランダ軍派遣の費用を負担する。
・オランダはポルトガルの要塞を一つを残して、キャンディに返還する。
・オランダはシナモンの独占交易権を得る。
これ以降はオランダ東インド会社とポルトガルによる戦いに以降していきます。
オランダはセイロン島をゼイラン(Zeylan)と呼びます。
後に、Seylan、Seylon、Ceylonなどとも呼んだそうです。
オランダにはゼーラント州(Zeeland)があり、
オランダが発見してゼーラント州に因んだつけたニュージーランド(New Zeeland)、
オランダが台湾に建設したゼーランディア城(Fort Zeelandia)
オランダがスリナムに築いたゼーランディア要塞(Fort Zeelandia)
があることから、オランダ語ではポルトガル語の「Ceilão」が「Zeylan」になったのでしょう。
1561年の地図には「ZEILAN」、1645年の地図には「Zeylan」と書かれています。
参考)
1561年ジャコモ・ガスタルディ作成
1635年ウィリアム・ジャンスゾーン・バラエル作成
1639年:オランダがバッティカロア要塞、トリンコマリー要塞を占領
オランダ東インド会社が、キャンディ王国との軍事協定に基づき、ポルトガルが占領するバッティカロアを奪取。
さらに北上して、トリンコマリーを攻撃して、ポルトガルから奪取。
1640年:オランダがニゴンボ要塞とゴール要塞を占領、オランダとキャンディ王国の関係悪化
オランダ東インド会社が、ポルトガルからニゴンボ要塞を奪取。
オランダ東インド会社は、ポルトガル領セイロンの本拠地コロンボを通り過ぎ、ゴールを通り過ぎて、ウナワトゥナから上陸。ゴール要塞を攻撃して、ポルトガルからゴールを奪取。オランダ東インド会社は、セイロンでの拠点をゴールに置きます。
キャンディ王国は、オランダ東インド会社に当初の協定通りに要塞を明け渡しを要求するも、オランダは対ポルトガル戦が継続中であることを理由に拒否。両国の関係は急激に冷え込みます。
1641年~1645年:オランダとポルトガルが停戦
1648年:オランダ独立戦争(八十年戦争)が終結
オランダはスペインから完全に独立。海外のポルトガル領を攻める姿勢に変わっていきます。
1652年:オランダとポルトガルがコロンボ海上で衝突
オランダとポルトガルの船がコロンボ付近の海上で戦います。
1654年:オランダとポルトガルがゴア海上で衝突
オランダとポルトガルの船がゴア付近の海上で戦います。
1655年:オランダがカルタラ要塞を占領
オランダはコロンボ要塞を攻略するべく、まずバタヴィアからジェラルド・フルフト率いる16隻2,500名の兵をゴールに送ります。
9月半ば、オランダ東インドの将官ヘルフツ(Hulft)が11隻1,120名の兵とともにニゴンボに到着します。
フルフトはキャンディ王国のラージャシンハ2世と友好関係を保ちます。
オランダはカルタラの要塞を占領します。
ポルトガルはキャンディに攻め入っていた兵士700名を呼び戻ます。
ヘルフツらはマッゴナから北上します。
両軍が戦ったのがパナドゥーラ、モロトゥワ付近です。
オランダ軍が勝利し、ポルトガル軍はコロンボ要塞に撤退します。
10月、オランダ軍はコロンボ要塞を陸続きの東側から攻めます。
ポルトガル軍はポルトガル人兵500名
ポルトガルとシンハラの市民兵800名
シンハラ人の傭兵らスカリアン1,300名
で籠城します。
オランダ領ゼイラン、キャンディ王国ディナジャラ朝
1656年:オランダがコロンボを占領、キャンディ王国がオランダとの軍事協定を破棄
4月、ヘルフツがコロンボ包囲で負傷し、亡くなります。
ヘルフツの本部があった丘がコロンボ12の地区名「フルフツドープ(Hultfsdorp)」と呼ばれるようになります。
5月22日、ゴアからの救援が得られずポルトガル軍は降伏。
オランダ、ポルトガル、キャンディ王国で講和が結ばれ、キャンディ王国はオランダにコロンボ要塞の要求するものの、オランダは戦争継続中と拒否します。
ポルトガル軍はマンナール要塞、ジャフナ要塞に撤退します。
オランダ軍はコロンボ要塞をキャンディ王国には渡さず、城門を締めて、キャンディ王国勢力を排除します。これを受けて、キャンディ王国はオランダとの軍事協定を破棄します。
1658年:オランダが総督府をゴールからコロンボに移す
1658年:オランダがジャフナとマンナールを占領
オランダ軍はジャフナ要塞、マンナール要塞を占領、ポルトガル軍をセイロン島から撤退させます。
キャンディ王国が要塞の返還を要求するものの、オランダは拒否します。
こうして、キャンディ王国とオランダに緊張関係が生まれていきます。
キャンディ王国がトリンコマリーを奪還
1660年:ロバート・ノックスが来島
イギリス東インド会社の船長ロバート・ノックスと、息子で同名のロバート・ノックスがトリンコマリーに商売のためにやってきたところを、キャンディ王国が捕らえて抑留します。
1663年:オランダがゴール要塞を拡張
現在のゴール・フォートの原型ができます。
オランダはポルトガルへの防衛という名目で、キャンディ王国との協定を守らず、要塞を引き続き占領します。
1665年:オランダがバッティカロアの要塞を拡大し運河を建設
1673年:フランス東インド会社がトリンコマリーの要塞を占領
1674年:オランダ東インド会社がトリンコマリーの要塞を占領
1675年:オランダがニゴンボ要塞を拡張
1679年:ロバート・ノックスがセイロン島を脱出
ロバート・ノックスは、オランダ東会社が統治する「アリップオランダ要塞(Arippu Dutch Fort)」に逃げ込みます。
そして、アリップオランダ要塞からオランダ領東インド(現:インドネシア)のバタヴィア(現:ジャカルタ)を経由してロンドンに帰国します。
1681年:ロバート・ノックスがセイロン島史を出版
ロバート・ノックスは19年半のキャンディ王国での抑留生活の体験をまとめ、『An Historical Relation of the Island Ceylon』として出版します。
1684年:ニューオリエンタルホテルが建設される
ニューオリエンタルホテル(現・アマンガラ)がオランダ東インド会社のオフィスとして建てられます。
1687年:ジョセフ・ヴァズが来島
ゴアのポルトガル系の家に生まれたカトリックの司祭ジョセフ・ヴァズは、スリランカでのカトリックの再興のために来島しました。
当時はカルヴァン派のオランダがカトリックの弾圧を行なっていました。
キャンディの王ウィマーラ・ダルマ・スーリヤ2世、その息子のウィラ・ナーレンドラ・シンハ王もジョセフ・ヴァズを支援します。
ジョセフ・ヴァズの活動によって、スリランカにカトリックが復活します。
この時代は宗教に寛容で、モスク、ヒンドゥー寺院もキャンディ市内に建てられます。
ムスリムがキャンディ王国の商業・物流を担います。
スイスホテルが建設される
キャンディ王朝の大臣Pilimatala Gabada Nilameの邸宅(現・スイスホテル)が建設されます。
オランダ領ゼイラン、キャンディ王国ナーヤッカル朝
1739年:キャンディ王国ナーヤッカル朝の創始
王の後継者がいなかったため、マドゥライのナーヤッカル家のシュリ・ウィジャヤ・ラージャ・シンハを王として受け入れます。
以降、王国が滅亡するまで、ナーヤッカル家からキャンディ王国の王が4代続きます。
ナーヤッカル家はヒンドゥー教ですが、キャンディ王に即位すると仏教徒になりました。
この影響もあり、仏歯寺や王宮はシヴァ・ヴィシュヌなどのヒンドゥー寺院に囲まれています。
シュリ・ウィジャヤ・ラージャ・シンハは仏教を再興するため、アユタヤ王朝から仏僧を招聘しますが、仏僧が到着する前に亡くなります。
1740年:オランダがコーヒーの栽培を開始
オランダ東インド会社は、ゴール周辺でコーヒー栽培を始めますが、あまりうまくいかなかったとされています。
1747年:キルティ・シュリ・ラージャ・シンハ王が即位
王はシャム・ニカーヤの設立、ペラヘラを仏教の祭りにするなど、仏教の再生に尽力します。
現在の仏歯寺の内側の寺院の建立、ヒンドゥー寺院のチラウのムンネスワラム寺院の再建も行います。
ダンブッラの石窟寺院にキルティ・シュリ・ラージャ・シンハ王の等身大の像が作られています。
1753年:シャム・ニカーヤが設立
キルティ・シュリ・ラージャ・シンハ王は、タイ(シャム)から13人の仏教僧を迎え入れ、シャム・ニカーヤが設立されます。
出家はゴイカマ(農民)カーストを対象としました。
1761年:オランダ要塞を破壊
マータラ、カトゥワナ(Katuwana)、タンガッラ、マラカデ(Marakade)、ウルボッケ(Urubokke)のオランダ要塞を破壊し、オランダ軍兵士を捕虜とします。
1769年:オランダがシナモンのプランテーションを開始
1775年:ペラヘラが仏教のお祭りになる
キルティ・シュリ・ラージャ・シンハ王は、キャンディ市内になる4つのヒンドゥー寺院の神が参加するペラヘラに、仏歯寺も加わるようにし、ペラヘラが仏教徒のお祭りになります。
以下がペラヘラに参加する4つのヒンドゥー寺院です。
「ナータ・デヴァラヤ」
「ヴィシュヌ・デヴァラヤ」
「カタラガマ・デヴァラヤ」
「パッティニ・デヴァラヤ(女神)」
イギリス領セイロン、キャンディ王国ナーヤッカル朝
1782年:イギリスとフランスによるトリンコマリーの戦い
1782年にイギリスがトリンコマリーを占領。
その後、イギリスとフランスとの戦い(トリンコマリーの戦い)になり、フランスが勝利してトリンコマリーを占領。
後に、イギリスが再度トリンコマリーを奪還。
1784年:パリ条約でオランダがトリンコマリーを獲得
第四次英蘭戦争のパリ条約で、オランダがナーガパッティナムをイギリスに割譲し、イギリスがオランダにトリンコマリーを返還します。
1795年:イギリスがトリンコマリー、ジャフナを占領
オランダからイギリスにキュー・レターを送ります。
1796年:イギリスがニゴンボ、コロンボを占領
1796年の初頭にニゴンボを、続いてコロンボをイギリスは占領します。
1803年:アマラプラ・ニカーヤが設立
1800年に6人の沙弥が、ビルマのコンバウン王朝の首都アマラプーラにて受戒します。
そして、スリランカに戻り、1803年に非ゴイカマ(農民)カーストでも出家を認めるアマラプラ・ニカーヤ(村住)が設立されます。
1803-1805年:第1次キャンディ-イギリス戦争
1806年:総督邸がマウントラビニアに建設
第2代目・イギリス領セイロン総督「トーマス・メイトランド」が、邸宅をガラキッサの岬に建築。
メイトランド総督が踊り子ロビニアと会っていたことから、マウントラビニアと呼ばれるようになります。
1807年:キャンディ湖を建設
キャンディ王国最後の王スリ・ウィクラマ・ラージャシンハによって、キャンディ湖が建設されます。
シンハラ語ではキリ・ムーダ(කිරි මූද)とも呼ばれ、キリは乳、ムーダは海という意味です。
1813年:イギリスがカルタラに植物園を開園
1815年:第2次キャンディ-イギリス戦争、キャンディ協定
イギリス領セイロン
1815年:クイーンズホテルがイギリス領セイロン総督の邸宅に
仏歯寺の門前に建てられたキャンディ王朝最後の王「スリ・ヴィクラマ・ラージャシンハ」の邸宅(現・クイーンズホテル)がイギリス領セイロン総督の邸宅となります。
スリ・ウィクラマ・ラージャシンハ王はタミル・ナードゥ州のベッロール要塞に送られます。
1817-1818年:第3次キャンディ-イギリス戦争(ウバの反乱)
1818年:スイスホテルがイギリスに渡る
1820年:イギリスが軍用道路の建設を開始
1821年:ペラデニヤに植物園が開園、クルネーガラ〜キャンディ間の道路が開通
元々はダンバデニア王国のパラークラマ・バーフ3世が王妃のために開設した庭園で、キャンディ王国時代には王室の庭園「ロイヤルガーデン」でした。
その庭園をイギリスが植物園にしました。
イギリスは次々にセイロン島内に植物園を開園しますが、ペラデニヤ植物園が規模では最大です。
1824年:イギリスのコーヒー栽培開始
ジョージ・バードによってガンポラでコーヒー栽培が始まる
1828年:ヌワラエリヤにグランドホテルが建設
5代目・イギリス領セイロン総督「エドワード・バーンズ」のバンガローとして建てられます。
当時はバーンズホールと呼ばれたそうです。後にグランドホテルとなっています。
1832年:シンハラ王朝最後の王が死去
スリ・ヴィクラマ・ラージャシンハはインドのベッロールに死去。
1837年:グランドオリエンタルホテルが英軍兵舎に
1839年:ペラデニヤ植物園に茶の木が植えられる
アッサムから送られた茶の木がペラデニヤ植物園に植えられます。
1847年:仏歯がイギリスから返還される
1848年:マータレーの反乱
同年、キャンディにセント・ポール教会が仏歯寺の隣接地に創建されます。
1858年:モーホッティヴァッテ・クナーナンダが仏教の協会を設立
1853年:ペリーが来島
3月10日、日本に向かうアメリカ海軍の東インド艦隊司令長官ペリーがスリランカに来島
1859年:ゴールフェイスグリーンに海岸歩道が作られる
1861年:ハクガラ植物園が開園
マラリヤの特効薬であるキニーネの研究のために、キニーネの木が植えられて開園しています。
1862年:ヒッカドゥウェ・スマンガラが仏教のパンフレットを配布
1864年:ラーマンニャ派が設立、コロンボ〜アンベプッサ間の鉄道開通、ゴールフェイスホテル開業、ニューオリエンタルホテル開業
ミャンマー南部(モン州付近)で受戒して、森林住のラーマンニャ派が設立されます。
ラーマンニャの名は、ミャンマーのモン族の旧称ラーマンが由来です。
モン族が多いモン州の州都は、イギリス領ビルマの最初の首都であったモーラミャインです。
コロンボにゴールフェイスホテル、ゴールにニューオリエンタルホテル(後のアマンガッラ)が開業します。
1865年:ニューオリエンタルホテルが開業
ゴール要塞で兵舎として使われていた建物をニューオリエンタルホテルとして開業。
1867年:ジェームス・テイラーが紅茶栽培を始める、アンベプッサ〜キャンディ間の鉄道開通
1868年:スリランカが世界3位のコーヒー生産国に
セイロンは、イギリス領で世界1位のコーヒー生産地となります。
1873年:岩倉使節団がゴールに寄港、パナドゥーラ討論が開催
1873年8月9日午後3時、岩倉使節団は帰路の途上、ポイント・デ・ゴール港に到着し、ホテル・オリエンタルに宿泊。
チャイナガーデン(中国人経営の農園があったとされる)とその周辺の寺院を訪問し、8月11日にゴールを出発。
当時の様子を久米邦武が書き残しています。
仏教僧のヒッカドゥウェ・スマンガラと、
キリスト教徒の指導者デイヴィッド・デ・シルヴァ
がパナドゥーラで討論を行います。
1874年:キャンディ〜ナワラピティヤ間の鉄道開通
1875年:ヌワラエリヤに競馬場が完成
1876年:ガンパハ植物園にゴムの木が植えられる、多田元吉が来島、マドラス飢饉
ガンパハ植物園(Henarathgoda Botanical Garden)に、南米のアマゾンからロンドンのキューガーデンを経て、スリランカで初めてゴムの木が植えられます。
徳川慶喜に従い駿河で茶園を拓いた多田元吉が紅茶栽培の視察のため、セイロン島、ダージリン、アッサムを訪問。
南インドのマドラスで大飢饉が発生。
1877年:コロンボ〜パナドゥーラ間の鉄道開通、マウントラビニアホテルがホテルとして開業
コロンボ〜パナドゥーラ間の鉄道の駅が旧総督邸の近くにできることになり、ホテルとして開業します。
1878年:パナドゥーラ〜カルタラ間の鉄道開通
1880年:神智学協会のオルコットが来島、電信制度の開始
モーホッティヴァッテ・クナーナンダやヒッカドゥウェ・スマンガラが先導した仏教復興運動は、オルコットの来島でさらに勢いが増します。
セイロン政庁が電信制度を開始します。
1881年:ゴムの木の種が南インド、ミャンマー、マレーシアへ送られる
ガンパハで育てたゴムの木の花が咲き、種が取れたため、イギリスは南インド、ミャンマー、マレーシアにゴムの木を送ります。
1882年:ホセ・リセール、アフマド・オラービーがセイロンへ
フィリピンの国民的英雄「ホセ・リセール」が国立マドリード大学に入学するためにスペインに向かう際にコロンボに寄港し、グランドオリエンタルホテルに宿泊しています。
エジプトでオラービー革命を起こしたアフマド・オラービーがイギリスの軍事介入によって革命を打倒され、セイロン島に島流しにされています。
1883年:有栖川宮熾仁親王・林董がコロンボに寄港、反キリスト教暴動
ロシア皇帝即位式参加のために有栖川宮熾仁親王、林董らがコロンボに寄港。
コロンボの聖ルシア大聖堂で、仏教徒とカトリック教徒との衝突が発生。
1884年:ウェサックポーヤが公休日化、コロンボに防波堤が完成、新島襄が来島
オルコットがウェサックポーヤの公休日化をイギリス総督に認めさせます。
コロンボ港に大規模な防波堤が完成し、インド洋における重要な給炭港となる。
新島襄が欧米を回った際に、セイロン島にいるアフマド・オラービーを訪ねた
1885年:シンハラ・タミル 正月を祝日に制定、ナワラピティヤ〜ナヌオヤ間の鉄道開通
1886年:釈興然、谷干城、柴四朗が来島、アーナンダカレッジが設立
日本人初の上座部仏教僧となる釈興然が来島します。
初代農商務大臣の谷干城と秘書官の柴四朗(ペンネーム:東海散士)がセイロン島にいるアフマド・オラービーを訪ねて来島します。
オルコットが仏教系学校のアーナンダ・カレッジをコロンボに設立します。
1887年:釈宗演が来島、オルコットがダルマラージャカレッジを設立
後にシカゴ宗教万博で禅をZenとして伝える釈宗演が来島します。
オルコットがキャンディに仏教系学校のダルマラージャ・カレッジを設立します。
1888年:森鴎外がコロンボに寄港
ドイツ留学から帰国する森鴎外がコロンボに寄港し、釈興然と面会しています。
1889年:ヌワラエリヤにゴルフ場が完成
1890年:トーマス・リプトン、アントン・チェーホフが来島、カルタラ〜アルスガマ間の鉄道開通
トーマス・リプトンが荒廃したコーヒー農園を買い取り、茶栽培を開始します。
ロシアを代表する劇作家「アントン・チェーホフ」がサハリン島に向かう際にコロンボに寄港し、グランドオリエンタルホテル、ゴールフェイスホテルに宿泊しています。
1892年:アルスガマ〜コスゴダ間の鉄道開通、オルコットがマヒンダカレッジを設立
オルコットが仏教系学校マヒンダ・カレッジをゴールに設立します。
1893年:コロンボに競馬場が完成、コスゴダ〜アンバランゴダ間の鉄道開通
1894年:アンバランゴダ〜ゴール間の鉄道開通、ナヌオヤ〜バンダラウェラ間の鉄道開通
1895年:ゴール〜マータラ間の鉄道開通、コロンボに電気が通る
1896年:コロンボにゴルフ場が完成、徳富蘇峰がコロンボに寄港
世界旅行中の徳富蘇峰がコロンボに寄航。
1897年:ヴィクトリアパークが開園
6月にヴィクトリア女王在位60周年記念式典(ダイヤモンド・ジュビリー)が行われ、ヌワラエリヤのハクガラ植物園のリサーチフィールドだった地が「ヴィクトリアパーク」として開園します。
1898年:YMBA(青年仏教会)が創設
1899年:コロンボに路面電車が開通
1900年:夏目漱石がコロンボに寄港
1900年10月1日、イギリス留学に向かう夏目漱石がコロンボに寄港し、British India Hotelにて、ライスアンドカリーを食べたことを書き残しています。
1902年:岡倉天心が来島、ダルマパーラが来日
岡倉天心がインドを訪れた際にセイロンにも来島しています。
岡倉天心はインドで、タゴール、ヴィヴェーカーナンダと交流しています。
ダルマパーラが渡米の際に、日本に立ち寄っています。
1903年:藤井宣正ら大谷探検隊が来島
第一次大谷探検隊の実質的なリーダー・藤井宣正が調査のために来島。
藤井宣正はエローラ石窟寺院やアジャンダー石窟を日本人として初めて本格的に調査した人です。
北伝仏教・南伝仏教という呼称を日本で最初に用いられたのも、藤井宣正が1896年に出した『仏教小史』と言われています。
1906年:徳冨蘆花がコロンボに寄港
ロシアのトルストイに会うために世界旅行に出た徳冨蘆花がコロンボに寄港。
1915年:反ムーア人暴動が発生
ムーア人の中でも、インド・ムーア人が主な標的となった暴動が発生。
F. R. セーナーナーヤカ、D. S. セーナーナーヤカ、アナガリーカ・ダルマパーラ、C. A. へーワーウィターラナ、エドムンド・ へーワーウィターラナらが逮捕されます。
エドムンド・ へーワーウィターラナが抑留中に死亡。
アナガリーカ・ダルマパーラは国外追放となります。
1918年:YMBA全セイロン会議が設立
F. R. セーナーナーヤカ(D. S. セーナーナーヤカの兄)と
C. A. へーワーウィターラナ(ダルマパーラの弟)によって、各地のYMBAを統合する組織「YMBA全セイロン会議」が設立されます。
1919年:セイロン国民会議(CNC)が設立
インド国民会議(INC:Indian National Congress)にならって、セイロン国民会議(CNC:Ceylon National Congress)が設立。
1921年:皇太子裕仁親王がコロンボ、キャンディを訪問
皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が欧州訪問の往路で、沖縄、香港、シンガポールに寄港した後に、初めて公式に上陸したのがコロンボです。
3月28日にコロンボに到着し、皇太子裕仁親王はゴールフェイスホテルのゴールフェイスグリーンが見渡せる部屋「King Emperor Suite」に宿泊されています。
29日には特別列車でキャンディに向かい、寺院や博物館を訪問されています。
31日は海岸でのドライブやゴルフを楽しまれています。
4月1日午前9時にコロンボを出発し、スエズ運河の北端・エジプトのポートサイドに向かっています。
1924年:スイス人女性がスイスホテルを取得、バンダラウェラ〜バドゥッラ間の鉄道開通
スイス人女性「Jeanne Louisa Burdayron」がスイスホテルを取得し、ゲストハウスとして利用を始めます。
これが現在のスイスホテルの名称の由来となります。
1926年:国立保健院を設立
アジア地域で初めての国立保健院を設立
1928年:ウェサックポーヤの翌日とポソンポーヤが公休日化
1930年:旧国会議事堂が完成
1931年:ドノモア憲法が公布
21歳以上の男女に普通選挙権が与えられ、第一回選挙が行われます。
1935年:ラトマラーナ空港が完成、土地開発令が施行
1932年に農業・土地相となったD.S.セーナナーヤカのもとで1935年に土地開発令が施行され、入職を促進。
1939年〜1953年の間に27の入植地が建設された。
最大のものはガル川(分譲者数3565人)、パラクラマ湖(分譲者数2780人)。
1936年:シンハラ・マハ・サバ党が設立
ソロモン・バンダーラナーヤカがシンハラ・マハ・サバ党を設立します。
1939年:インド系労働者の追放、セイロン・インド人会議が設立
政府職の1,425人のインド系労働者が解雇され、インドに送還される。
ジャワハルラール・ネルーの支援を受けて、セイロン・インド人会議が設立。
1942年:日本海軍がコロンボ、トリンコマリーを空襲
1945年:ソールベリー委員会がスリランカを来訪
1946年:ソールズベリー憲法、公用語をシンハラ語・タミル語に可決、統一国民党(UNP)が結党
D. S. セーナーナーヤカは、当時最大の議席数を持っていたシンハラ・マハ・サバ党を誘い、ソロモン・バンダーラナーヤカに統合を持ちかけ、統一国民党(UNP)が結党されます。
イギリス連邦セイロン
1948年:独立、セイロン国籍法が制定、タミルFP結成、ジェフリーバワがルヌガンガを購入
ドン・スティーヴン・セーナーナーヤカが初代首相に就任。
S.J.V.チェルヴァナーヤカムがタミルFPをけっせ値。
セイロン市民権法が成立
ジェフリーバワがベントタ郊外のデッドゥワ湖畔のシナモン農園跡地を購入し、ルヌガンガと名付けます。
1951年:スリランカ自由党(SLFP)が創立、サンフランシスコ講和条約締結、
ソロモン・バンダラナイケがスリランカ自由党(SLFP)を創立します。
ジャヤワルダナ氏(当時大蔵大臣)がサンフランシスコで行われた対日講和条約に出席。
1952年:D.S.セーナーナーヤカが死亡
D.S.セーナーナーヤカが落馬して死亡。
1953年:ガルオヤ入植が始まる
1954年:エリザベス2世が来島
エリザベス2世がヌワラエリヤのグランドホテルに宿泊し、ヒルクラブなどを訪れています。
1956年:シンハラオンリー法、仏滅2500周年、三井物産が進出
ソロモン・バンダラナイケがシンハラ人優遇政策を掲げて選挙に勝ち、首相に就任。
シンハラオンリー法が採択。
ブッタ入滅2500年祝賀行事が行われました。
1957年:バンダーラナーヤカ=セルワナーヤガム協定
バンダーラナーヤカは政権獲得後に政治姿勢を変更し、タミル人指導者のセルワナーヤガムとタミル語使用を認めるなどの協定を結びます。
1958年:暴動、サルボダヤ・シュラマダーナ運動始める
3月:シンハラ文字のナンバープレートをつけた国営バスのジャフナ地域への導入が強行。
4月:バンダーラナーヤカ=セルワナーヤガム協定に反対する仏僧と群衆がバンダーラナーヤカ私邸に押し寄せ、協定が破棄。
5月、ポロンナルワでシンハラ人暴徒が列車を襲撃。翌日、エラウールでタミル人暴徒が列車を襲撃。その後、ポロンナルワ〜コロンボ間の各地で暴動が発生し、大暴動に発展。
1959年:ソロモン・バンダラナイケが僧侶に暗殺
1960年:シリマヴォ・バンダラナイケが世界初の女性首相に就任
1960-1969年:バワがナンバー11を改装
ジェフリーバワがコロンボの自宅として、Town House(現・ナンバー11)を購入し、改装を行います。
1961-1963年:バワがザギャラリーカフェを設計
Bartholomeuszがジェフリーバワに家として設計を依頼するもBartholomeuszがオーストラリアに出国。
バワの建築設計事務所になります。これが現在のパラダイス・ロード・ザ・ギャラリー・カフェです。
https://spiceup.lk/thegallerycafe/
1964年:ネルーが死去、シリマーボー=シャーストリー協定
インド・タミル人の意に反するインド国籍の付与と強制送還に同意しなかったネルーが死去すると、第二代首相に就任したシャーストリーとシリマーボーは協定(シリマーボー=シャーストリー協定)を結びます。
この協定により、インド・タミル人97万5000人のうち、52万5000人にインド国籍が、30万人にスリランカ国籍を与え、残り15万人には後に、7万5000人ずつインドとスリランカで国籍を与えることが決まります。
1965年:スリランカ人民解放戦線(JVP)が創設
共産主義とシンハラ民族主義を掲げるスリランカ人民解放戦線が創設。
1966年:ポーヤ・デイが祝日に制定、マラリア対策にDDTを導入
マラリアを媒介するハマダラカに対する殺虫剤として導入されたDDTの効果が人工学的に確認されたのは、おそらくスリランカが世界で最初と言われています。
バワがグランドオリエンタルホテル4階のハーバールームを改装しています。
1967年:バンダラナイケ国際空港が開業、バワがベントタのプロジェクトに着手
ラトマラーナ空港に代わる新空港として、カナダの支援でバンダラナイケ国際空港が開業。
計画は1964年からスタート。
スリランカ政府がベントタをナショナルホリデーと定め、バワが設計を手掛けます。
1967-1969年:ベントタ・リゾート(ベントタ駅、ツーリストビレッジ)
1967-1973年:ベントタ・ビーチ・ホテル(現在のCinnamon Bentota Beach)
1967-1974年:セレンディブ・ホテル(現在のAvani Bentota)
1969-1970年:バワがカルタラに図書館を設計
バワがカルタラに図書館を建設。カルタラのAnantara Kalutara Resortが「Geoffrey Bawa Library」の名でライブラリーを開設しています。
1971年:JVPが武装蜂起
JVPのヴィジェヴィーラが逮捕。
スリランカ共和国
1972年:スリランカ共和国に改称、新憲法発布、TUFが結成、TELOが結成、TNTが結成
シンハラ語を公用語とし、仏教に準国教的地位を与える新憲法が発布。
タミル人政党の連邦党やタミル人会議、その他のタミル人組織が合同し、タミル統一戦線(TUF)が結成。
後に一部が武装集団タミル・イーラム解放機構(TELO)となるタミル青年連盟が結成。
後のタミル・イーラム解放の虎(LTTE)となるタミルの新しい虎(TNT)が結成。
1973年:Ceylon Intercontinental Hotel(現:ザ・キングスバリー)が開業、ノリタケがスリランカで生産開始、
コロンボ初の5つ星ホテルとして、Ceylon Intercontinental Hotel(現:ザ・キングスバリー)が開業。
建築を手掛けたのはU. N. Gunasekera。
1973-1976年:Neptune Hotel(現:ヘリタンスアーユルヴェーダ)が建設
Aitken Spenceの依頼で、ジェフリーバワがベールワラにNeptune Hotel(現:ヘリタンスアーユルヴェーダ)を建設。
1974年:ホリデイ・イン(現:ラマダコロンボ)が開業
コロンボにホリデイ・イン(現・ラマダコロンボ)が開業。
1975年:ランカオベロイ(現:シナモングラン)開業、ジャフナ市長が暗殺、EROSが結成、プランテーション国有化
ジャフナ市長(SLFP党員)がTNTメンバーによって暗殺される。
ロンドンでイーラム革命機構(EROS)が結成される。
土地改革修正法に基づき、プランテーションが国有化されます。
1976年:タミル・イーラム解放の虎(LTTE)が結成、プッタラムで暴動
TNTを母体にタミル・イーラム解放の虎(LTTE)が結成される。
タミル統一戦線(TUF)がタミル統一解放戦線(TULF)に改名。
1976-1978年:バワがSeema Malakaを設計
1977年:ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナがUNP(統一国民党)首相に就任
同年・伊藤忠がコロンボ駐在員事務所を設立。
スリランカ民主社会主義共和国
1978年:大統領制へ移行、国名をスリランカ民主社会主義共和国に改称、議員の狙撃、警察の殺害
ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナが大統領に就任。
TULFからUNPに転じたカナガラトナム議員がタミル人青年に狙撃される。
LTM(タミル・イーラム解放の虎運動)がジャフナで警察4名を殺害。
1978-1980年:バワがブティック 87を改装
イタリア人彫刻家のLidiaGunasekeraの家としてバワが改装を担当(現在のブティック87) 。
1978-1981年:バワがヘリタンスアフンガッラを設計
バワがTriton Hotel(現在のヘリタンス・アフガッラ)を建設。
1979年:PLOTEが結成
LTTEから分離したタミル・イーラム人民解放機構(PLOTE)が創設
1979-1982年:バワ・三井建設が国会議事堂が建設
設計はジェフリーバワ、建設は三井建設。
1980-1988年:バワがルフナ大学のキャンパスを設計
1981年:全土で暴動、狙撃事件
アンパーラのスポーツ大会を発端に全土で暴動が発生。
ジャフナ図書館が放火される。
ジャフナのUNO支部長が狙撃される。
バブニヤ県大臣が狙撃される。
1982年:シーギリヤ・アヌラーダプラ・ポロンナルが世界文化遺産に登録、警官射殺
ジャフナで警官2名が射殺される。
スリランカ内戦
1983年:第1次イーラム戦争
TULF議員が射殺される。
暗黒の7月が発生、第1次イーラム戦争に突入。
1984年:ガラダリホテルが開業
1985年:ヴィクトリアダムが完成、キリンダ漁港が完成、リバティープラザ開業、Ramada Renaissance Hotel(現:シナモンレイクサイド)開業
日本の無償援助でキリンダ漁港が完成。
コロンボのコッルピティヤにリバティープラザが開業。
1986年:航空機・コロンボ中央電報局・列車・鉄橋・映画館・バスの爆破
1987年:インド・スリランカ和平協定、インド平和維持軍が進攻、ヒルトンコロンボが開業
5月:スリランカ政府はジャフナを統治下に置くために「解放作戦」と名付けた軍事活動を開始。
6月:これに対してタミル・ナードゥ州首相ラーマチャンドランは、ラジーヴ・ガンディーに対し、スリランカ政府による攻撃を止めさせるよう訴えた。こうしてインドは明らかにスリランカ政府軍のジャフナ進攻を阻止するために、封鎖状態にあったジャフナに食料と石油製品を送ろうと試みた。しかしこれはスリランカ海軍によって拒否されたために、その翌日インド空軍がスリランカ領空を侵犯し、食糧と医薬品をジャフナに投下した。
7月:ラジーヴ・ガンディーとジャヤワルダナがインド・スリランカ和平協定を調印。
10月:インド・スリランカ和平協定に基づき、インド平和維持軍がジャフナでLTTEと戦闘開始。
1987年〜1989年:スリランカ人民解放戦線が武装蜂起
インド・スリランカ和平協定を、JVPはインドによるスリランカ北部植民地化の一段階であると主張し、その後15ヶ月以上に渡って暴力的な活動を続け、統一国民党幹部1,000人以上を暗殺。
1988年:SLMP委員長暗殺、UNP書記長暗殺、キャンディ・ゴール・シンハラージャが世界遺産登録
SLMP委員長のヴィジャヤ・クマーラトゥンガ(後の大統領チャンドリカ・クマーラトゥンガの夫)が暗殺される。
UNP書記長のN.フェルナンドが暗殺される。
1989年:ラナシンハ・プレマダーサが大統領に就任
1990年:第2次イーラム戦争開始、バワによるアヴァニカルタラ改装が中止
6月:停戦が破綻し、第2次イーラム戦争が開始。
これにより、バワが取り組んでいたSinbad Hotel(現・アヴァニカルタラ)の改装プロジェクトが中止されます。
1991年:ダンブッラが世界文化遺産登録、ラジーブ・ガンディー暗殺、マジェスティックシティー開業、国防担当大臣暗殺、司令本部爆破
3月:ランジャン・ヴィジェーラトナ国防担当大臣の暗殺
4月:ショッピングモール「マジェスティック・シティー」が開業。
5月:ラジーヴ・ガンディー元インド首相が暗殺される。
6月:政府軍統合作戦司令本部の爆破事件
1991-1994年:バワがヘリタンスカンダラマを設計
1993年:プレマダーサ大統領が暗殺、尾道造船がColombo Dockyardを買収
5月にラナシンハ・プレマダーサ大統領がLTTEに暗殺されます。
尾道造船がColombo Dockyardを買収して、スリランカに進出。
1994年:大統領候補が暗殺、チャンドリカ・クマーラトゥンガが大統領に就任
UNPの政治集会でガミニ・ディサナヤケ大統領候補が暗殺
11月:チャンドリカ・クマーラトゥンガが大統領選挙に圧勝。
1995年:第3次イーラム戦争開始、生活の木がTree of Lifeを開業
4月:停戦が破綻し、第3次イーラム戦争が開始。
生活の木が、キャンディ郊外にホテル「Tree of Life」を開業。
1995-1997年:バワがジェットウィングライトハウスを設計
Jetwingの依頼で、バワがライトハウスホテル(現・ジェットウイングライトハウス)を設計
1996年:スリランカがクリケットワールドカップで優勝、ODELがコロンボ7にオープン
ODELがコロンボ7に旗艦店をオープン。
1996-1998年:バワがブルーウォーターホテルを設計
1997-1998年:バワがレッドクリフスを設計
レッドクリフスの設計を始めますが、1997年にバワは2回目の脳卒中に倒れます。
1997-2002年:バワがザラストハウスを設計
バワが最後に設計をしたのは、Jacobsonから依頼されたザラストハウス(The Last House)。
1998年にバワは3回目の脳卒中に倒れ、現場監督をすることなく、仕事の前線から退きます。
1997年:NTTがスリランカテレコムに出資
1998年:双日がAsia Power の主要株主に、仏歯寺を爆破
LTTEがキャンディの仏歯寺を爆破。
1999年:郵船ロジスティックス、YKKが進出
郵船ロジスティックスとスリランカのヘイレイズが合弁会社を設立
YKKが12月に現地法人を設立
2000年:ビンドゥヌウェワで虐殺事件、インド・タミル人による暴動
LTTE元幹部を収容していたビンドゥヌウェワ刑務所をシンハラ人暴徒が襲撃し、26名が殺害されました。
現場に警察官が襲撃者を止め、収容者を守ろうとしなかったことからインド・タミル人が大規模な抗議運動を展開。
その後、一部が暴動に発展します。
2001年:ラニル・ウィクラマシンハが首相に就任、停戦が成立
7月:LTTEがバンダーラナーヤカ国際空港を襲撃。
12月:5日の総選挙で統一国民党が政権を獲得し、ラニル・ウィクラマシンハが首相に就任
24日にLTTEが停戦を宣言
2002年:ノルウェー政府が停戦仲介
2月:22日にノルウェー政府の仲介で、停戦合意文書が調印。
9月:タイで第一回目の和平交渉が開催。
2003年:LTTEが暫定行政機構に関する新提案を提出、クマーラトゥンガ大統領が国会を解散
11月:LTTEが暫定行政機構に関する新提案を提出、これを受けてクマーラトゥンガ大統領は非常事態宣言を発令し、国家を解散。
2004年:カルナ派が分離、マヒンダ・ラージャパクシャが首相就任、クマーラトゥンガ大統領暗殺未遂スマトラ島沖地震
3月:LTTEの東部方面司令官(通称カルナ)が分離してカルナ派を組織し、スリランカ政府側につく。
4月:2日に行われた総選挙でSLFPが勝利。
6日、首相にマヒンダ・ラージャパクシャが就任。
12月:18日、LTTEによるクマーラトゥンガ大統領暗殺未遂で、クマーラトゥンガ大統領は右目を失明。
26日にスマトラ島沖地震に伴う津波がスリランカを襲う。
2005年:アマンリゾートがアマンガッラとアマンウェラを開業、マヒンダ・ラージャパクシャが大統領に就任
11月:マヒンダ・ラージャパクシャが第6代大統領に就任。
2006年:第4次イーラム戦争開始
7月:停戦が破綻し、第4次イーラム戦争が勃発。
2007年:三井物産が撤退
2009年:パークストリートミューズが開業
1月:パークストリートミューズが開業
終戦から現在
2009年:スリランカ内戦が終結
5月:スリランカ内戦が終結
2010年:マヒンダ・ラージャパクシャ大統領再選、スリランカの中央高地が世界遺産登録、ハンバントータ港が開業
1月:マヒンダ・ラージャパクシャが第6代大統領に再選
7月:スリランカの中央高地が世界自然遺産に登録。
11月:ハンバントタ港が開業。
2011年:日本の支援でスリランカ初の高速道路が開通、コロンボにダッチホスピタル開業、ネルンポクナマヒンダラージャパクサ劇場が完成
2012年:アッパーコトマレ水力発電が完成、コロンボレースコース開業、ウェリカダ刑務所暴動
日本のODA(円借款)でアッパーコトマレに水力発電所が完成。
コロンボのレースコースがスポーツコンプレックスとして改装オープン。
コロンボのウェリカダ刑務所で銃撃戦が発生し、27名が死亡。
2013年:マッタラ・ラージャパクシャ国際空港が開業、コロンボ-カトゥナーヤカ高速道路が開業
10月:コロンボとバンダーラナーヤカ国際空港・ニゴンボを結ぶ「コロンボ-カトゥナーヤカ高速道路」が開業。
2014年:反ムスリム暴動、SGホールディングスがExpolanka買収、ICC T2ワールドカップ優勝、アーケード・インディペンデント・スクエア開業、コロンボレースコースの店舗部分が開業、シナモンレッド開業
6月:ポソンポーヤの6月12日に、ダーガタウンで仏教僧とドライバーがムスリムから暴行を受けたと、仏教ナショナリズム組織ボドゥ・バラ・セナ(BBS:Bodu Bala Sena)が喧伝し、暴動に発展。
アルトゥガマ、ベールワラ、ダーガタウンに外出禁止令が発令され、ムスリム約8千人、シンハラ約2千人の合計約1万人が避難。
コロンボにアーケード・インディペンデント・スクエアが開業。
コロンボレースコースのショッピング・フードエリアが開業。
9月:シナモンレッドが開業。
2015年:マイトリーパーラー・シリセーナ大統領就任
1月:マイトリーパーラー・シリセーナが第7代大統領に就任
2016年:洪水・地滑り、双日がAES Kelanitissaを買収
5月:コロンボなどを含む22地域で発生した洪水と地滑りにより、およそ34万人が被災、死者・行方不明者を合わせて200人以上の被害。
2017年:ゴミ山が崩壊、洪水・土砂崩れ、デング熱の大流行、マリオットウェリガマ開業、シャングリラコロンボ開業、三井物産が再進出
4月:コロンボ郊外コロンナーワのゴミ山が崩壊し、31名が死亡。
5月:南西部で発生した洪水・土砂崩れにより、92人が死亡、110人が行方不明、6万人以上が避難。
1月〜7月のデング熱罹患者数が11万5千人に。
10月:ウェリガマにマリオットが開業。
11月:シャングリラ・コロンボが開業。
2018年:反ムスリム暴動、マリーノモール開業、ベルーナがレ・グランド開業、コロンボシティーセンター開業
2月:26日にアンパーラで反ムスリム暴動が発生し、3月2日はキャンディでも発生。
警察はシンハラ仏教ナショナリストをはじめ81名を逮捕し、3月10日に暴動は沈静化。
7月:ショッピングモール「マリーノモール」が開業。
8月:ベルーナがゴールにホテル「レ・グランド」を開業。
9月:ショッピングモール「コロンボシティーセンター」が開業。
2019年:ベリアッタまで鉄道が延伸、スリランカ連続爆破テロ事件、外環高速道路が開業、ゴーターバヤ・ラージャパクサが大統領就任、ロータスタワー完成、One Galle Face開業
2月:10日にスリランカ鉄道のマータラ-ベリアッタ間が開業。
4月:21日にスリランカ連続爆破テロ事件が発生
6月:コロンボ外環高速道路が開業。
9月:ロータスタワーが完成し、式典が行われるも開業せず。
11月:ゴーターバヤ・ラージャパクサが大統領(第8代)就任、ショッピングモール「ワン・ゴール・フェイス」が開業
2020年:南部高速道路が延伸、新型コロナウイルスによるロックダウン
2月:23日に南部高速道路がハンバントタまで延伸開業。
3月:20日に新型コロナウイルスに伴うスリランカ全土に対する外出禁止令が発令
8月:マヒンダ・ラージャパクサ 率いるSLPPが政権与党に
12月:試験的に入国を再開
2021年:スリランカへの入国が再開、日本の支援でゴールデンゲートケラニに開通
1月:21日にバブル方式による観光客の入国を再開
12月:日本の支援で、ゴールデンゲートケラニが開通。
2022年:中央高速道路が部分開業経済危機、デモの発生
1月:中央高速道路のミリガマ-クルネーガラ間が開業。
3月:31日深夜、経済危機に伴う燃料不足、停電、物価上昇に対して、政権に対するデモが発生。
参照)
マハーヴィハーラ
マハーセーナ
Abhayagiri Vihara
List of Sri Lankan monarchs
Prince Vijaya
Pandukabhaya of Anuradhapura
Devanampiya Tissa of Anuradhapura
Mahanaga, Prince of Ruhuna
Kelani Tissa
Viharamahadevi
Ellalan
Dutugamunu
Valagamba of Anuradhapura
Dhatusena of Anuradhapura
Kashyapa I of Anuradhapura
Vijayabahu I of Polonnaruwa
Parakramabahu I
Nissanka Malla of Polonnaruwa
Kalinga Magha
Vijayabahu III of Dambadeniya
Chandrabhanu
Tambralinga
ムアンナコーンシータンマラート郡
Savakamaindan
Kulasekara Cinkaiariyan
Maravarman Kulasekara Pandyan I
Bhuvanaikabahu IV of Gampola
Parakramabahu VI of Kotte
Kingdom of Kotte
Kingdom of Sitawaka
Raigama Bandara
Alagakkonara
Vijayabā Kollaya
Mayadunne of Sitawaka
Rajasinha I of Sitawaka
Battle of Mulleriyawa
16世紀のオデュッセイア「第6章 海の巡礼路(東洋編)フランシスコ・サビエル 炎の十字架 1545年セイロン島へ
16世紀のオデュッセイア「第6章 海の巡礼路(東洋編)フランシスコ・ザビエル 緑の島で待つこと 1545年セイロン島へ
Sinhalese–Portuguese War
Vimaladharmasuriya I of Kandy
Senarat of Kandy
Rajasinha II of Kandy
Sri Vikrama Rajasinha of Kandy
Galle Fort
Portuguese Ceylon
Campaign of Danture
Dharmapala of Kotte
Dutch Ceylon
Dutch–Portuguese War
British Ceylon
Kandyan Wars
Matale rebellion
久米邦武の仏教観
コロンボ日本人学校「第1章 人の交流」
ウィキペディア「皇太子裕仁親王の欧州訪問」
ウィキペディア「藤井 宣正」
excite.辞書「北伝仏教」
かしゃぐら通信「漱石とコロンボのB・I・ホテル」
徳富蘇峰宛て「外国人名士書翰」 : 書翰にみる徳富蘇峰の欧米漫遊 : 同志社社史資料センター所蔵
日刊工業新聞「三井物産、スリランカに再進出 インフラ需要高まる」
新たな所管国「スリランカ」市場の魅力を調査
JETRO「スリランカを地域営業拠点としたノリタケの挑戦」
JETRO「スリランカ BOP層実態調査レポート」
NTT「スリランカ・テレコム社への経営参画」
1980年代以降のミャンマーにおける モン派僧伽の展開
ウィキペディア:ペグー王朝
ウィキペディア:モン族 (Mon)
アジア経済研究所:紛争関係年表
Wikipedia:List of massacres in Sri Lanka
Wikipedia:List of attacks on civilians attributed to Sri Lankan government forces
「旅と町歩き」を仕事にするためスリランカへ。
地図・語源・歴史・建築・旅が好き。
1982年7月、東京都世田谷区生まれ。
2005年3月、法政大学社会学部社会学科を卒業。
2005年4月、就活支援会社に入社。
2015年6月、新卒採用支援事業部長、国際事業開発部長などを経験して就職支援会社を退社。
2015年7月、公益財団法人にて東南アジア研修を担当。
2016年7月、初めてスリランカに渡航し、会社の登記を開始。
2016年12月、スリランカでの研修受け入れを開始。
2017年2月、スリランカ情報誌「スパイスアップ・スリランカ」創刊。
2018年1月、スリランカ情報サイト「スパイスアップ」開設。
2019年11月、日本人宿「スパイスアップ・ゲストハウス」開始。
2020年8月、不定期配信の「スパイスアップ・ニュースレター」創刊。
2023年11月、サービスアパートメント「スパイスアップ・レジデンス」開始。
2024年7月、スリランカ商品のネットショップ「スパイスアップ・ランカ」開設。
渡航国:台湾、韓国、中国、ベトナム、フィリピン、ブルネイ、インドネシア、シンガポール、マレーシア、カンボジア、タイ、ミャンマー、インド、スリランカ、モルディブ、アラブ首長国連邦、エジプト、ケニア、タンザニア、ウガンダ、フランス、イギリス、アメリカ
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